唐招提寺・千手観音の謎
杉山二郎著
「天平のペルシア人」より
左京条二坊にあった
大安寺が長安の西明寺を模倣した、天平中期の東アジア圏いや西アジアの商人や技術者の蝟集した国際ホテルを擁して活気のあったところだったのですが、どうやら
鑑真和尚がこの唐招提寺を造立した天平末期には、この地に東アジア・西アジア出身の人たちが集まってきていたのではないか、とわたしは推定しているのです。
~中略
金堂は天平建築物の代表のように考えられておりますが、実は鑑真和尚が遷化されてから、約四十余年たってからの 大同年間の造立徒建築史の方々の意見があります。
鑑真和尚の遷化した天平宝字7年(763)にはこの金堂はまだなかったのです。
当時既に造立されていた仏像も、本尊毘盧遮那仏と、小さな木造梵天、帝釈天、それに四天王像の7体と考えてよいでしょう。
となりますと
両脇侍の丈六の千手観音立像と薬師如来立像は、何時どのように造られたかが問題となりましょう。
これは私の個人的な見解なのですが、千手観音立像は寺の言い伝えによりますと
、「天人一夜の御作」と呼ばれています。
鑑真和上の徳力によって、天人たちが舞い降りてきて、一晩のうちにこの千本の手を持つ観音像を造り上げたとする伝承なのです。しかし天人が虚空からやって来たと考えるよりも、唐招提寺の近くにあった国家管理の手を放れた氏寺にあった尊像を、金堂に持ってきて一晩のうちに解体した像を組み立てたとする方が、理解納得がゆくのではないでしょうか。
わたくしはすぐ近くにあった藤原仲麻呂(光謙女帝から恵美押勝と愛称された寵臣)の邸宅にあった、千手堂の本尊だったのではないかと推測しています。
ご存知のように橘奈良麿が孝謙帝の廃立を計画して反乱を企てたおり、藤原仲麻呂がその反乱の鎮圧勝利を祈念して、私宅に造立したのが木身乾漆造りの千本の手のある観音像だったと思われるのです。
私寺の千手堂の本尊ながら、国家鎮護のための造立ですから、光明子と光謙天皇の寵愛を一身に享けた彼仲麻呂は、東大寺の諸仏を造立していた官営造仏所の工匠・工人らを自由に利用できたはずです。ですから文字通り千本の手を差し込んで合理的に造るやり方を用いたのでした。~
光謙帝の寵愛が道鏡に移り、光明子の庇護を失った恵美押勝は,遂に天平奉宝字8年(764)に道鏡を除こうと兵を挙げ、そして結局殺されてしまい、彼の邸宅も官に没収、多くガ破却される運命となりました。
千手堂の本尊であった千手観音丈六像は、廃邸の余計物ですから、至近距離にあった唐招提寺に解体して運搬し、そして一昼夜くらいのスピードで再び組み立てることも可能かとおもわれます。
ですから「天人一夜の御作」の伝承がここから生まれたのでしょう。
もちろん、唐招提寺の建築も仏像も、年号銘文ではっきりした造立年次がわかっておりませんので、やはり推測の域を出ません。