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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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遺伝子組み換え食品

遺伝子組み換え食品

遺伝子組み換え食品って聞くとよくわからないながら,,反射的に拒否反応をおこす人が多いと思う。
私なんか何も知らないから、そんな一人だ。

◎遺伝子組み換え食品は悪いことばかりなんだろうか?

メリット
現在多く作られている組み換え食品は大豆やトウモロコシなどの作物です。除草剤耐性 や害虫抵抗性を持たせて農薬をまく回数を減らし、農作業の負担を軽くし、生産コストを 下げることを狙いとしています。
◎ナルホド~ ...

人の体に害をもたらさないか 
作物に導入されている異種の遺伝子やその生産物は安全なものといえるのでしょうか。新しい遺伝子が生まれたり、これまで働いていなかった遺伝子が働き初め、毒となったりアレルギーを引き起こすことはないのでしょうか?
他にデメリットとして、
●遺伝子組み換え技術の特許をもった企業による、経済支配。
●遺伝子組み換え食品が多くなると、生物の多様性が失われる。
といった社会的問題も出てくる。

難しいものですね。
私には判断が付かないけど、考えていかなければ~
# by jumgon | 2011-08-30 15:21 | ★健康
前回の「天平写経」を書いているときに思い出したのが経典の版木だ。

高校時代に訪れた京都のお寺で見たことがある。
「こんなのがあるんだ。」と感動したのを覚えている。
高尾の神護寺だったように思えるが何しろ半世紀近く前の話だ。
ネットで調べたけれどどうやら神護寺ではないようだ。

ネットで調べると、宇治の黄檗山萬福寺の宝蔵院に版木が収蔵されているとある。

私が行ったときはお寺の一部屋にあったと記憶しているが、現在の宝蔵院収蔵庫は立派な鉄筋建ての建物だ。


宝蔵院と鉄眼一切経
   (重要文化財)
 
黄檗山宝蔵院は、1669年一切経の開版を志した鉄眼禅師が、隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立したものです。
 全6,956巻、現在仏教各宗派で使われているお経は、いずれもこの一切経のうちに含まれています。
 6万枚の版木は、縦26cm、横82cm、厚さ1.8cmで、3cmの縁がついています。版木材料はすべて吉野桜。版木の書体は明朝体であり、現在広く使われている書体としての明朝体はこれから発したものです。
桜材 26.3cm×86.2cm 延宝6年(1678)完成  国重要文化財
黄檗山萬福寺の宝蔵院・経典の版木_f0215268_22532141.jpg

黄檗山萬福寺の宝蔵院・経典の版木_f0215268_22505957.jpg


鉄眼一切経
原稿用紙の元になったのもこの一切経といわれております。
明朝体と合わせて今日の「図書・印刷」鉄眼禅師が
文化のルーツとされる所以です・・・


一切経とは・・・ 
仏教思想は三蔵に収まります。即ち釈尊が説かれた「経」と戒められた「律」及び釈尊とその弟子が「経・律」を解説した「諭」の3つで、つまり一切経6,956巻をいい、精神面はもとより、天文・人文・医術・薬学・人道など社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科事典とも言うべきものです。
 古来インドで出来た経文は梵文であり、これをまとめて中国語に訳した高僧が玄奘三蔵法師達であり、日本に広めたのが鉄眼禅師です。

版木の現在・・・ 
黄一切経の版木は、現在も完全な形で保存されていて、国の重要文化財にも指定されています。
 宝蔵院内では、この版木を用いて現在も経本の印刷(木版印刷)・出版が行われています。
 一切経は、初刷より現在まで約2,000部余りが印刷され。国内はもちろん明治時代にはアメリカ、イギリス、ドイツ、タイ、昭和には満州、中国にも搬出され、中華民国中央研究所(台湾)にも納められました。

一度に刷れる数も限られ、湿度と温度をみながら一枚ごと丁寧に刷り上げられています。
黄檗山萬福寺の宝蔵院・経典の版木_f0215268_231058.jpg


◎現在も印刷されてるなんて、大きな遺産ですね!
# by jumgon | 2011-08-01 23:03 | ★言語、歴史

天平写経について

前回読んだ「穢土荘厳」の中に写経のアルバイトをしている中国からきた老人が登場してきた。
架空の人物と思われるが、多分そういう人はいたであろうと思われる。

昔?写経の練習をしようと思って買った本がある。確か光明皇后の「楽毅論」とか聖武天皇の書跡かと言われている「大聖武」なるものを見た覚えがある。
引っ張り出して読み始めた。

この墨跡は、744年光明皇后44歳の時の書で、王羲之の楽毅論を臨書したものといわれている。
天平写経について_f0215268_17373494.jpg

◎光明皇后の性格を意思が強いように「穢土荘厳」の中で造形されているがこの王羲之の臨書から想像したものではないかと私には思える。

さて、天平時代は仏教の隆盛に従って造寺もその数を増し、それに伴って経典の需要も多くなり写経事業も個人的なものから写経司、写経所へと発展して、質量ともに天平写経は黄金時代を迎えました。この時代の写経は現存するものが多く、正倉院などに多く納められています。

写経所・写後経所・写疏所

天平6年(724)には官立写経所が設けられていたことが分かっています。

天平13年(741)には「金字写経所」が設けられました。これはこの年の勅令によって日本全国に国分寺と国分尼寺が建立され、国分寺の搭ごとに紫紙金字の金光明最勝王経を納めることになったので、その金字経を書写するための写経所です。

写後経所
写後経所は法華経と金光明王経以外の書写を担当した。
写疏所
写疏所は注や経典の注釈書を書写したところです。


天平写経生の生活
正倉院文書にみえる写経生の名前は700名を優に超えます。写経生となるためには試字の試験を受けて合格しなければなりません。
写経生は下級の役人から多く選ばれましたが、その名前から判断すると帰化人かその子孫が大多数です。
写経生となると写経所に出勤して、官給の浄衣をまとい、配給の紙・筆・墨を受け、礼仏師が誦する経を聞き、仏前にたく香を嗅ぎながら筆を執りました。

◎お香を嗅ぎながらなんてよい雰囲気ですね!伽羅の香りだったら素敵です!

日照時間の長短によって一日の勤務時間は違いますが、平均して一日に七紙を書きました。
一紙の字数は17字詰め、24行くらいですから、一日およそ3千字になります。
一枚の書写料は4文(金字、銀字は七文)ですが、誤字や脱字があると罰金が課せられ、一行の脱字があると紙四枚分、20字の誤字があると紙一枚分が差し引かれました。

また、30枚につき調布一端という報酬もありました。

◎一日中、字を書いてるとかなり疲れると思うけど、試験に通らないとできない仕事なので、ほかの仕事よりはましな収入だったのでしょうね。
# by jumgon | 2011-07-30 17:48 |  ○天平写経
杉本苑子 穢土荘厳

この本は多分10年以上前に読んだことがある。
私の記憶力はいい加減なもので、大まかな時代設定は覚えていたが内容はすっかり忘れていて、全く初めての本を読むのと同じ感覚だった。
丁度、飛鳥・天平の歴史を調べていて少しは知識ができたせいでこの小説をかなり消化することができた。
時代の前後がバラバラの知識がこの小説のおかげで流れの中におけるようになった。

杉本氏の著作は登場人物の性格設定は作者の推察・想像だと思うが、登場する実在人物や年代は正確だ。

おおまかなあらすじを記しておく。

藤原京から平城京に移り、橘美千代・藤原4兄弟・長屋王家滅亡(陰謀?)を経て、光明子を聖武天皇の夫人から皇后へとおしあげた。
さまざまな良心の呵責からか、聖武天皇は恭仁京、紫香楽の宮、難波宮など各地を転々した。
その時期に僧行基に出会い帰依する。
やがて遣唐使の吉備真備・玄昉らの帰国。
藤原四兄弟の疫病死。

世間の反発にやむなく平城京に戻った聖武天皇は世の疲弊を顧みることなく、己の魂の救済求め、大仏造立、国分寺建立を思いつく。
官寺以外にも私の寺院造りを奨励する。
◎多分この頃に葛井寺(藤井寺市)が建立されたと思われる。

聖武天皇は自分の命あるうちにと大仏開眼供養を執り行う。(金が足りないので顔だけ鍍金した状態だった)
聖武天皇後は光明子、孝謙天皇、藤原仲麻呂を中心に政務は進められ、吉備真備は追い払われる形で再度遣唐使として唐に渡ることになる。
大体のあらすじは以上である。

この本の中に登場する、大伴旅人、大伴家持、山上憶良、長屋王など名前だけ知っていた人たちの人生・生活を垣間見れて面白かった。

私にとって新しい知識は「三世一身の法」である。
これは官位の上下で開墾できる面積が決まっており、開墾する財力があるものほど私有地を増やせる。
大仏造立への布施の多寡により官位も与えられた。そして官位が上がればたくさんの私有地を持つことができるというシステムで、末端の民衆にはほとんど恩恵はなかったようだ。

国が大仏造立の資金捻出のため思いついた法のようだ。
# by jumgon | 2011-07-25 12:02 | ★読書・放送・講演会

唐招提寺・千手観音の謎

唐招提寺・千手観音の謎

杉山二郎著
「天平のペルシア人」より

左京条二坊にあった大安寺が長安の西明寺を模倣した、天平中期の東アジア圏いや西アジアの商人や技術者の蝟集した国際ホテルを擁して活気のあったところだったのですが、どうやら鑑真和尚がこの唐招提寺を造立した天平末期には、この地に東アジア・西アジア出身の人たちが集まってきていたのではないか、とわたしは推定しているのです。
~中略

金堂は天平建築物の代表のように考えられておりますが、実は鑑真和尚が遷化されてから、約四十余年たってからの 大同年間の造立徒建築史の方々の意見があります。
鑑真和尚の遷化した天平宝字7年(763)にはこの金堂はまだなかったのです。

当時既に造立されていた仏像も、本尊毘盧遮那仏と、小さな木造梵天、帝釈天、それに四天王像の7体と考えてよいでしょう。

となりますと両脇侍の丈六の千手観音立像と薬師如来立像は、何時どのように造られたかが問題となりましょう。
これは私の個人的な見解なのですが、千手観音立像は寺の言い伝えによりますと、「天人一夜の御作」と呼ばれています。
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鑑真和上の徳力によって、天人たちが舞い降りてきて、一晩のうちにこの千本の手を持つ観音像を造り上げたとする伝承なのです。しかし天人が虚空からやって来たと考えるよりも、唐招提寺の近くにあった国家管理の手を放れた氏寺にあった尊像を、金堂に持ってきて一晩のうちに解体した像を組み立てたとする方が、理解納得がゆくのではないでしょうか。
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わたくしはすぐ近くにあった藤原仲麻呂(光謙女帝から恵美押勝と愛称された寵臣)の邸宅にあった、千手堂の本尊だったのではないかと推測しています。

ご存知のように橘奈良麿が孝謙帝の廃立を計画して反乱を企てたおり、藤原仲麻呂がその反乱の鎮圧勝利を祈念して、私宅に造立したのが木身乾漆造りの千本の手のある観音像だったと思われるのです。
私寺の千手堂の本尊ながら、国家鎮護のための造立ですから、光明子と光謙天皇の寵愛を一身に享けた彼仲麻呂は、東大寺の諸仏を造立していた官営造仏所の工匠・工人らを自由に利用できたはずです。ですから文字通り千本の手を差し込んで合理的に造るやり方を用いたのでした。~

光謙帝の寵愛が道鏡に移り、光明子の庇護を失った恵美押勝は,遂に天平奉宝字8年(764)に道鏡を除こうと兵を挙げ、そして結局殺されてしまい、彼の邸宅も官に没収、多くガ破却される運命となりました。
千手堂の本尊であった千手観音丈六像は、廃邸の余計物ですから、至近距離にあった唐招提寺に解体して運搬し、そして一昼夜くらいのスピードで再び組み立てることも可能かとおもわれます。
ですから「天人一夜の御作」の伝承がここから生まれたのでしょう。
もちろん、唐招提寺の建築も仏像も、年号銘文ではっきりした造立年次がわかっておりませんので、やはり推測の域を出ません。
# by jumgon | 2011-07-08 15:28 | ★言語、歴史