古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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平城山(北見志保子 作詞)

2010,8月7日 asahi be 「うたの旅人」より

平城山(北見志保子 作詞)<2首の短歌よりなる>

ひと恋ふかなしきものと平城山に
もとほり来つつ堪へがたかりき


いにしへも夫(つま)にこひつつ越えしとふ
平城山のみちに涙おとしぬ


「もとほる」は古語で「回る、巡る」の意。

「人を恋することは悲しいことだと、平城山を巡ってきながら耐え難かった」
「古代の人もいとしい人を想いながら越えたという平城山路で、私は涙を落とした。」



万葉の言葉でつづられた恋の悲しみを、純日本的な旋律に乗せる歌「平城山(ならやま)」。歌が生まれた舞台は、日本の古代史の古里です。

 奈良時代の日本の都、平城京。その中心部で国政をつかさどった平城宮の跡地は今、平城遷都1300年祭が行われ、大勢の人出でにぎわっています。大極殿の北に連なる低い丘が、万葉の昔から「平城山」と呼ばれたところ。大小の前方後円墳がひしめく、うっそうとした森です。歌姫街道から石畳の「歴史の道」を歩くと、全長219メートルもある前方後円墳に出ました。「磐之媛命平城坂上陵」。これが仁徳天皇の皇后、磐之媛の墓とされています。

 磐之媛は「万葉集」巻2の冒頭を飾る歌人です。自分の留守中に天皇が浮気したのを知って足をバタバタさせて嫉妬し、家出して平城山を越え知人宅にこもりました。仁徳天皇が謝りに来たが会おうともせず、その地で亡くなった、と日本書紀は記しています。

 磐之媛だけではありません。平城山には多くの万葉歌人の思いが秘められています。大伴家持を慕い松の下で泣いた笠郎女や、かつての愛人大海人皇子のもとを去って天智天皇の下に走った額田王、恋人を殺され髪を振り乱し素足のままで葬列を追いかけた影媛……。

 その中で磐之媛はひと味違います。

 ありつつも君をば待たむ打靡(なび)くわが黒髪に霜の置くまでに

 黒髪が白くなるまで、あなたを待ちますという磐之媛の歌は、嫉妬深い半面、しおらしさ、切なさに満ちています。

 昭和の初め、この道を歩いて磐之媛の故事と仁徳天皇をしのび、自分の境遇と思い合わせた女性がいました。歌人の北見志保子です。1925年に創刊した歌誌「草の実」の34年4月号に「磐之媛皇后御陵」と題した連作の短歌を載せました。うち2首が「平城山」の歌詞になったのです。

 北見がのちに大阪市の弟子にあてた手紙には、こうあります。「あのうたは すぎし日 とほくゐる人を恋ひやまず たまたま平城山の陵ニあそび 仁徳帝のみ心を しのびまつり(中略)作りました」

 北見志保子とはどんな女性だったのでしょう。そして、「とほくゐる人を恋ひやまず」と詠んだ恋とは? 
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by jumgon | 2010-08-09 09:01 | ★新聞きりぬき