売太神社
2010年 08月 16日
勿論ご存知ですよね!
「稗田阿礼」って!
稗田阿礼の暗誦したものを、太安万侶が筆録したのが「古事記」なんです。
でも、よく知らない人も結構いるみたいだから紹介します。古事記の序文に書かれています。
古事記の上巻には序文が付加されており、標題として「古事記上巻并序」と記されている。「并序」の読み方は「序(じょ)を并(なら)ぶ」「并(なら)びに序(じょ)」「序(じょ)を并(あは)せたり」等様々であるが、意味はどれも同じである。
序文は編者の太安萬侶(おほのやすまろ)から第43代元明(げんめい)天皇への上奏文(じょうそうぶん)という体裁(ていさい)をとっており、本文とは異なりすべて漢文体で書かれている。そのため古代中国の典籍(てんせき)(文献)に拠(よ)る難しい語句等が多用されているが、解説すると餘計に難しくなるため、ここでは現代語訳においてなるべく簡単に読めるように配慮(はいりょ)した。
この序文には、古事記本文の大まかな流れや古事記編纂の経緯(けいい)が記されているが、それによると、
第40代天武(てんむ)天皇が古事記編纂を企画し、舎人(とねり)(雑用係)であった稗田阿禮(ひえだのあれ)が『帝紀(ていき)』『旧辞(きゅうじ)』といった古伝承を暗誦(あんしょう)し、それを太安萬侶(おほのやすまろ)が筆録して、元明(げんめい)天皇の御世(みよ)(712年)に完成・献上されたものであるという。
稗田の地は太古より天宇受売命を太祖とする猿女君(さるめのきみ)(稗田氏)が居住していた。この稗田は環濠集落として有名であり、古の大族であった稗田の猿女の君の邸宅の跡と言われる。売太神社はその祖先の廟祠とおもわれる。
社名も「三社明神」→「十三社明神」(明治7)→「売田神社」(明治24)→「売大神社」(昭和17=田を売るを嫌ったため)と変遷しており、中世は祭神不詳であった。
阿礼祭(8月16日)は、昭和5年8月16日に、奈良県童話連盟が発起し、巌谷小波・久留島武彦・岸邊福雄をはじめ全国の董話家が参集し、お話の神としておまつりをしたのに始まる。
わたしはあちこち歴史の道を散歩して「環濠集落」と記されたところをいくつか行ったが、「環濠ってなあに?」と言いたくなるほど、、、堀なんて残ってなかった。(私が気づかなかっただけ?)
稗田は環濠がしっかり残っていて、貴重な歴史遺産だと思った。
稗田環濠及び集落
大和郡山市指定史跡 稗田環濠及び集落
稗田環濠は、環濠集落の代表的なものとして貴重な存在であり、且つ原型に最も近い姿で現存している点、全国的にもその例を見ないものである。築造された年代等については、判然としないが、大和平野に散在する200近い環濠が鎌倉末期から室町期にかけての中世の戦乱時に多く築造されていることから、同環濠もこの時代に外的からの防御や、農業用水の確保を目的に築造されたものと考えられている。
周囲2414.5m 幅最長ヶ所14m 最短ヶ所4m
昭和51年3月 大和郡山市教育委員会
社頭掲示板