平城旧跡 ①
2010年 08月 22日
7~10年位前だと記憶するが一度行ったことがある。その当時は朱雀門だけがポツンとたっており、だだっ広い広場だった。その時にはすでに(遺構展示館)はあり、掘った土地のうえに建物を覆いかぶせたように建っていた。
初めて奈良の観光に来た人が近鉄電車に乗ると、西大寺から新大宮駅までのすっぽりと空いたこの空間に驚かされることでしょう。ここが1300年前に都の中心があった場所です。
平城京は唐の長安にならって作られた都で10万人の人が住んでいました。朱雀門より北側の区画は天皇の住まいとして儀式や政治行事が行われていた平城宮でいわゆる御所です。
平城宮跡の保護に尽力を注いだのは、「棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)」です。奈良公園の植木職人であった嘉十郎は場所がわからなくなるほど荒れ果てた平城宮跡を保存する為、上京し多くの著名人の署名を集め地元の有志に援助を求めます。
その努力が実り1910年(明治43年)には平城遷都1200年祭を成功させ、(遷都1200年祭もあったんだ!!)
1913年(大正2年)には「奈良大極殿趾保存会」が設立され念願がかないます。
その後1921年(大正10年)に私財を使い果たし心労で嘉十郎は自害してしまうのですが、翌年には支持者の努力により国の史跡として保護されることになります。銅像の右手には平城宮跡から出土した瓦、左手は大極殿跡を指差しています。
国の史跡となってから実際に発掘作業が開始されるのはずいぶん時間が経って昭和の戦後から開始されました。
今まで復元された建物に、平成10年に完成した朱雀門があります。朱雀とは鳳凰(ほうおう)の事です。高さ22m、間口約25m、奥行き10mありなかなか立派です。
朱雀門とお月様
この朱雀門から南に伸びる道が平城京のメインストリートの朱雀大路です。幅74mあり大和郡山市にある羅城門跡まで約4kmまっすぐ伸びていました。(先日訪問した大和郡山市のメタ神社からは近い。) 大和郡山市観音寺町が羅城門のあった辺りです。少し南の方にさがるとメタ神社があります。
現在はすぐ南の国道までしかないのですが、全体を公園として復元する計画があるようです。
平城京の入口であり羅城門をくぐると、75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に向かってのびていました。そして、その4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っていました。
朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、時には大勢の人達が集まって歌垣なども行われました。正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、130haの広さの宮城をとりかこんでいました。朱雀門は衛士によって守られ、常時開いていたわけではありませんが、宮の正門としての権威とともにその雄姿を内外に誇示していたと思われます。ライトアップの時間帯には、すべて施設は入場できないけれど、この猛暑に、昼間は外出する気にならない。
雰囲気を味わいに行った。すごい人で簡単に周っただけだ。又涼しくなったら、再訪しなければ、、、、、、。
この不思議なバルーン、私は撮影失敗したので公式サイトから
ライトアップされた大極殿