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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)と応神天皇陵 ①

誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)は有名で、詳しく説明されているサイトもイッパイあるので今更の感があるが訪問記を書きます。
9月の15日は秋祭りで舞楽の奉納とか神輿のお渡りもあるので、境内は人が多くてゆっくり写真も撮れないだろうと思って、下見がてら訪れた。
南大門のまえの広場に自転車を置く。祭日当日は置けないだろうな~
近くで若い衆がだんじりの用意かしら?たむろしていた。町内には提灯もつるされ、お祭りが近いってムードが漂う。

南大門
立派な門である。
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南大門から塀を写す。敷地はかなり広い。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)と応神天皇陵 ①_f0215268_20215941.jpg


それから本殿をお参りしようと思ったら印象的な狛犬があった。
見た目にも新しいものだと分かるけど(誰かが平成5年の作だと言ってた)、角の生えたのが気になって写真に撮った。
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)と応神天皇陵 ①_f0215268_17165057.jpg

この新しい狛犬以前に狛犬はあったんだろうか?古いのが壊れたからか、それともっまったく新しく作ったんだろうか?放生池というのもある。
池には苔むした埴輪が3点ほど置いてある。勿論レプリカだとは思うけど、かなり古そうでいわくありげだ。
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やっと本殿
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本殿の前には 右近の橘、左近の桜 もある。
次に誉田八幡宮の説明です。といってもあちこちから引っ張ってきたものだけど、、、、、。

誉田八幡宮は、応神天皇を主祭神とし、古くから応神陵の近くにあって、御陵祭祀を司ってきました。毎年9月の大祭には神輿が、境内にある太鼓橋を渡って御陵の後円部頂上にあった御堂までお渡りして、盛大な祭礼が続けられてきました。
神輿渡御神輿渡御
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応神天皇陵と誉田宮のゆかりの深さを物語る神事として知られています。応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。

 天皇が幼少の頃に居住されていたところであり、この地の誉田真若王の娘、仲津姫を皇后にされたと古記に伝えています。

 応神天皇の諱(いみな)は、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と呼ばれ、現在の羽曳野市誉田にゆかりがあるとされています。
応神天皇は、皇室系図である「帝記」や宮廷物語である「旧辞」あるいは「古事記」・「百済記」などによって4世紀後半に実在した人であると考えられています。
 
大和川、石川の流れる河内地方は、4世紀後半には日本と朝鮮半島と関係の緊張が高まるにつれて、瀬戸内交通の重要性が加わり、一層開発が進んだと考えられます。この機に有力氏族らに支えられた応神天皇は、河内地方を支配して、ここに新王朝を築かれたと思われます。

 秦の始皇帝陵などと共に世界でも屈指の大帝王墓-応神陵・仁徳陵-をはじめ、倭の五王時代の天皇陵はほとんどが、この河内、和泉地方につくられています。
 応神天皇の崩御に際して御陵がこの誉田の地に築かれたのは、このように天皇ゆかりの地であったことと、4・5世紀代におけるこの地方が、重要な位置を占めていた地理的環境によるものであると考えられます。

 また、応神天皇の頃は、大陸、半島からいろいろな文物が導入されて来ました。
中でも当宮に伝わる、応神天皇陵陪塚丸山古墳出土の馬具(金銅製透彫鞍金具)に象徴されるように、当時の金工、木工、革工などの秀れた工芸技術は、後世日本文化の基礎を築くものであったと云えるでしょう。

 
さて、応神天皇陵と誉田八幡宮のゆかりについては、「誉田宗廟縁起」によると、欽明天皇の勅願によって社殿が建立されたと記すように、かなり古くからのことであったと考えられます。
とくに、この誉田宮をはじめとして、月の岡、日の岡古墳のある若宮八幡宮(福岡県)、各地の大型前方後円墳と神社の縁起や、その関係はさらに古くからのことのようで、今後解明されねばならない問題を秘めているようです。
社伝では、欽明天皇の命により、応神天皇陵の前に社殿を建立したのに始まるとしており、そこから「日本最古の八幡宮」を称している。実際には、もっと後の八幡信仰が盛んになった時代に建立されたものとみられる。永承6年(1051年)、元の鎮座地から1丁(約100m)ほど南の現在地に遷座した。

八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領を全て奪われた。
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その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。

南大門現在、誉田八幡宮の正門は、旧高野街道(京街道ともいう)に面している東門であるが、南の出入口にある切妻造で大葺の立派な四脚門はこの神社の門ではなく江戸時代に八幡宮の神宮寺であった長野山護国寺の門である。
 この門も拝殿と同じく豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものであるが、大阪の役(冬の陣、夏の陣)で豊臣氏が滅亡した後、徳川家によって寛永年間初期に最後の仕上げを行ったものである。切妻の部分に徳川家の三ツ葉葵の定紋が付けられている。
 神宮寺であった長野山護国寺の本堂はこの南大門の西方正面に位置していたらしく誉田八幡宮古図(天保九年)から知ることができる。
神宮寺として長野山護国寺があったが、明治初年の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。


当宗神社当宗神社の祭神は、現在素戔嗚命 (すさのおのみこと)であるが、当初は中部朝鮮の楽浪郡から渡来した「当宗忌寸」の祖神である山陽公を祭っていたようである。
 当宗忌寸の子孫には、宇多天皇の祖母(仲野親王の正室)が歴史上現れている。
 その旧地は、方生川(碓井川)と東高野街道(京街道)との交差点の北東に八平方メートルほど残存している。
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神馬
誉田八幡宮には、『日本書紀』雄略天皇の条に記された赤馬伝説の「おうまやの跡」があり、馬形埴輪庁も見つかっています。また、応神天皇陪塚丸山古墳から出土した国宝金銅透彫鞍金具や源頼朝寄進の重文鳶松皮菱螺鈿鞍など多くの宝物が社宝として伝えられています。
神馬の写真は失敗。本当の馬がいたわけじゃないから、まあいいか。
 この神馬の像は篤志家により寄進されたものです。

国 宝 (古墳時代) 金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ) 2具
 嘉永元年(1848)8月、応神天皇陵陪塚丸山古墳から発掘されたもので、2具の鞍金具と、金銅轡鏡板、金銅花形辻金具、鹿角装刀残闕、鉄鏃、鎧等残闕などの一括品がある。金銅透彫鞍金具は竜の文様が唐草ふうに透彫りされており、それぞれの竜が中央に向かう形で連続して配列されて鞍橋の表面全体をおおっている。
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 製法手法の精巧さ意匠の壮麗な点で古代美術工芸の面からも欠くことのできない貴重な資料である。四世紀頃から盛んになった日鮮交流によって大陸の進んだ文物技術が移入されたという歴史的背景を如実に物語っている。


国 宝 (鎌倉時代) 
塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ) 1基 建久年中、源頼朝寄進と伝える。屋上に鳳凰を頂く木製の方輿。漆塗り、梨子地に螺鈿をほどこし、屋蓋ほかの要所を金銅製金具で補強する。
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 軒先からは宝相華文透かし彫りのある幡を垂れ、軒下には同文の帽額並びに八花形の鏡をはめこんだ透かし彫りの花鬘12枚を垂れる。輿の四周に下げた布地も当代の錦織で遺例の極めて少ないものである。
 建築・漆工・金工・染織と鎌倉期美術工芸の粋を集めて作られた神輿でまことに貴重な資料である。

誉田宗廟縁起(こんだそうびょうえんぎ) 3巻
この絵巻は誉田宮を応神天皇の御陵前に造営した由来と八幡大菩薩の霊験を描くもので、八幡宮縁起ともいう。
 誉田宮は古来武家の崇敬が厚く、このことから永享5年(1433)、将軍足利義教がこの縁起を奉納した。

 きぬがさ形木製品 応神天皇陵周濠出土 古墳時代
他にも舞楽面などがある。
舞楽の写真が展示してあったので掲載する。
当日いっても写真を撮れる状況ではなさそうだから、、、、
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それから最後に放生橋(ある人のブログによると「昔はこの太鼓橋を神輿を担いで天皇陵まで渡ったそうだが、今は横の平たい道を通った」とある。)
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by jumgon | 2010-09-03 18:14 |  ○誉田八幡宮と応神天皇陵