長持山古墳の石棺 ①
2010年 10月 04日
今は墳丘が消失した長持山古墳
藤井寺市のHPより
この古墳を最初に見つけたのはイギリス人のウイリアム・ゴーランドという人物です。
ゴーランドさんは、明治初期の日本政府が西欧の最新技術を積極的に取り入れるために招へいした専門家の一人だったのです。彼は明治5年に来日し、大阪の造幣局に冶金学の技術指導者として16年間日本に滞在しました。
彼は公務のかたわら、日本の今でいう古墳時代の遺跡に大きな興味をいだいたようで、全国各地の古墳めぐりをしています。
道明寺近くの墳丘で石棺らしきものを発見しました。
戦後になって、大阪府教育委員会と京都大学が長持山古墳を発掘調査しています。そしてゴーランドさんが見つけた以外にもう一つの石棺が発掘されました。
*計二つの石棺
向かって左が一号石棺、右が二号石棺です。
一号石棺・・・・長さ 205cm、幅 75cm、高さ 100cm現在道明寺小学校の入り口に展示されています。
二号石棺・・・・長さ 220cm、幅 85cm、高さ 85cm
石棺が刳りぬかれる様子のイラスト
また藤井寺市のHPから(一部改変)
1号棺とすでに露出していた2号棺とは刳抜き(くりぬき)式であることは共通するのですが、形に違いがあります。一番違っている点は縄掛け突起のつく位置と個数です。2号棺は屋根形をした蓋石の屋根部分に二対計4個が造り出されていたのですが、新しく見つかった1号棺は、蓋と身の両方の小口に大きな突起が一対造られていたのです。
また、両方の石棺とも身と蓋の合わせ目は、印籠(いんろう)型式のていねいな仕上げが施されています。身の上面には凸面を造り出し、蓋の底面には逆に凹面を造り、両者がぴったりと組み合うようになっているのです。とくに1号棺の身と蓋の組み合わせは、ほとんどすき間なく造られており、熟練した石工(いしく)の作品であることが分かります。
石の材質について
最近、熊本大学の渡辺一徳さんと宇土市教育委員会の高木恭二さんによって石材に含まれるガラス成分の分析が進められ、新しい研究成果が発表されたのです。これによると、1号棺、2号棺とも阿蘇溶結凝灰岩を石材としていることが確実になったのです。2基とも遠く九州からはるばる大阪に運ばれてきたのです ただ、両石棺は、同時期に造られたものではなく、まず1号棺から造られ、少し後に2号棺が造られた可能性が高いと考えます。。
長持山古墳は、すぐ東側にある大型前方後円墳市野山古墳の「陪塚(ばいづか)」と考えられています。
長持山古墳には、中国から輸入した鏡、最新式のよろい、挂甲(けいこう)、豪華な金メッキを施した馬具などが納められています。
阿蘇溶結凝灰岩 ってどんな石?
熊本市立熊本博物館のHPより
あそようけつぎょうかいがん 堆積岩石棺はくりぬき加工をしてから、なにわまで船で運ばれました。
阿蘇溶結凝灰岩 火山砕屑岩
溶結凝灰岩は、火砕流(かさいりゅう)によってできます。阿蘇は、過去に大きな火砕流を伴う噴火(ふんか)が4回発生しています。特にAso-4火砕流堆積物は、九州の広い範囲に分布しています。火砕流は、土地の低い部分や谷にたまり、自らの熱と重さによって圧縮され、火山ガラス、軽石、火山灰などがくっつきあって溶結し一つの岩石になります。ガラス(黒曜石(こくようせき))は、拍子木状(ひょうしぎじょう)に伸びます。また、溶結の度合いは、火山からの距離により異なり、不純物が少なく加工しやすい溶結凝灰岩は、石材としても利用されています。
*阿蘇溶結凝灰岩は灰色石、ピンク石とよばれています。そういえば少し赤っぽい色をしてる!
興味のある人は、ライフログの「大王のひつぎ海をゆく」を参照してください。
国府遺跡、志貴県主神社、市野山古墳(允恭陵古墳)はすぐ近所です。