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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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なぜ古代日本の都は大和地方におかれたのか?

なぜ古代日本の王権発祥の地は大和なのか?

日本の(文献上の)歴史が奈良盆地から始まったことはいうまでもないが、今の奈良県をみていると「どうしてこの地が重要であったのか?」の疑問がわく。さほど魅力的な土地であったようには思えない。
大和地方で一番古い古墳があるとされる三輪山麓周辺はそんなに広い土地ではない。
明日香も狭い。甘樫の丘から明日香村を見下ろすと、細い飛鳥川を挟んで、狭い平坦な地がある。この地でさえ天武天皇が湿地を埋め立てて平地にし、都を作ったというが、なんでこんな狭い場所を都にしたのか不思議に思うほどである。

飛鳥寺を訪れた時、「この長閑な水田がひろがる土地が本当にかっては日本の首都だったのか?」と思わずにいられなかった。

なぜ王権発祥の地が大和地方なのか?

そもそも西暦後の文明を日本列島に育てた功労者は渡来人である。

(それ以前の渡来者も海からやってきて、縄文文化を華咲かせていたが、、、)


渡来者はまず海岸や港に生活を根付かせたから、新文明の弥生文化の到来は北九州や瀬戸内海や山陰が大和より優位だったのは当然でなことだ。
弥生時代後期の頃の大和は、九州、吉備、や山陰と比べると、紛れもなく後進地だったはずだ。

先進地をおしのけ、後進地の内陸が幾百、幾千あるなかで、大和が選ばれて新国家創建の地になった理由はなにか?

なぜ、筑紫や出雲、吉備でなく大和まで人々はやってきたのか?

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」ではいろいろ細かく語られているが次の二つが大きな理由だ。
① 宇陀に辰砂が産出し大陸から買い付けられた。(買い手があった。)
(えっ、そんな昔から?そういえば、不老不死の薬を求めにやってきた徐福伝説がありますね。中国では「神武天皇は徐福だ」という説があるそうです。
亀の瀬渓谷の地すべりが天然の要塞となり大和を防衛した。

(亀の瀬渓谷ってどこにあるの?たぶん、亀の瀬渓谷なんてたいていの人はご存知ないと思う。これについては、「大和川・河内平野から大和への道)の項でかきます。)
地図で青い星マークが亀の瀬です。


さて、これを詳しく見ていこう。

 辰砂採掘は先住民も行っていたが、後にやってきた王権予備軍は辰砂採掘のみでなく冶金による水銀生産を始めようとした。水銀鉱脈を探す為には地元先住民の協力は無くてはならないものだったし、採掘、冶金の労働者は先住民だったから、それを采配する大国主の力は王権予備軍より大きいものだった。
やがて冶金の技術を知っている王権予備族が次第に力を大きくしていった。(採掘と冶金の権益をめぐって、先住民と王権予備軍との間で軋轢があったことは、大神神社で述べた。)

王権予備軍は 鉄の農工具使用によって古墳を築く為の土を採り出し、あとに出来た大きな平地を水耕稲作地とした。
(巻向時代に先立つ唐古・鍵の弥生時代にも水田生産は実践され、他地方に先行した農法だったが、大規模の実施は箸墓建設にともなった。)古墳建設と水田農耕はセットで推進された。

水田農耕も古墳建設も全て労務者は先住民で、労務の指揮監督者は王権予備軍だった。先住民たちは古墳建設や新農業の合理的な生産と利益の産出に驚き参加しながら、富のおこぼれを得た。(箸墓労務者は単純計算で少なく見積もって年間3400人プラス家族人数、それに加えて管理者、治安要員の人口があり、その食料の必要性が水田稲作を推進させた。)
こうして、だんだん王権派の力が強くなっていった。

 古墳築造・水耕稲作地の開発の為、不特定群集を管理するための組織つくりと不満分子を監督する為の武力(戦闘集団)を作った。これでますます力をつけていった。

○ 決定的な力の差を生んだは、馬の出現だった。運搬力と鉄鉱技術。これによって先住民は分裂して、とうとう王権派が永く続いた拮抗を崩し主導権を握った。


以上が田中八郎氏の「大和誕生と水銀」にかかれた、大和に古代日本の首都が出来た理由です。

ナルホド、地に足がついたお話だ。
先住民と王権予備軍の「せめぎあい」があったとは思うけれど具体的にどういうことだったのか全く分かっていなかった。田中氏によると三輪山麓・巻向時代の特徴は、大王を含む諸豪族と先住民勢力=オオクニヌシ派とが共同統治をおこなっていた、という。物資の輸送人足や労務者の統率には先住民の指導者の協力は必須だった。
双方互角で均衡した有様を映しているのが、ツバ市の域内にあった崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に、オオクニヌシとアマテラスを崇神自身が祭祀していたことにある。
  

奈良の重要な場所は、以下のように移っていったらしい。
1.弥生時代(磯城郡田原本町。唐古・鍵遺跡がある)
2.ヒミコ時代(桜井市・巻向の古墳群)
3.初期大和朝廷時代(桜井市・橿原市)
4.飛鳥時代(明日香村の飛鳥浄御原京)
5.藤原京時代(橿原市)
6.平城京時代(奈良市)

わたしが考えたこと
王権予備軍の人口は先住民より少なかったと田中氏は書いているが王権予備軍はいったい何人ぐらいの集団だったのか?
◎最盛期人口1,600万人もいたインカ帝国を滅ぼしたのはピサロ率いる、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力だった。

わたしの想像では、神武をふくむ幾組かの親族集団でやって来たのではないかとおもう。
神武一族、久米一族、安曇一族、隼人一族、その他。
各親族集団30名位とすると約100~200人位ではなかったか?
先住地元民と戦うときは協力しつつ、それぞれ力を蓄えた各族のうち、神武一族が最終的に王権を握ることになった、、、、てストーリーはどうかしら?
記紀では最初から、他の一族を部下みたいに書いてるけど、、、、。

by jumgon | 2010-11-04 15:35 |  ○三輪神社・大神神社