古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

大阪湾と大和川

古代大阪の姿・大和川
3枚の写真をみると、大阪湾がだんだん陸地になっていく様子が分かりますね。
f0215268_20531562.gif
f0215268_20545245.gif
f0215268_20551823.gif


かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、
大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。

縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行く.

古代河内は今は陸地のところが海で、小さな川が、何本もながれ河内地方は、じきに洪水に襲われ、ジュクジュクの湿地だった。(水耕稲作には湿地帯は洪水さえなければ良いのだが、、)

仁徳天皇による堀江掘削
『日本書紀』巻十一の仁徳天皇十一年十月の条に、『宮(高津宮)北の郊原を掘りて、南の水(大和川)引きて西の海(大阪湾)に入る。困りて其の水を号けて堀江という。
大阪湾内が泥水で腐り困って、海へ繋がる道を開削したそうです。
f0215268_2101824.gif

又、将に北の河のこみを防がんとして、以て茨田堤を築く』とあり、上町台地の北端、現在の大阪城の北側の大川から中之島方面へ通じる水路を掘ったとされ、大和川の排水を促す工事としては最初のものであり、淀川左岸の築堤とともに日本で初めての大規模治水工事と考えられている。


■和気清麻呂の工事
律令制制定以降もたびたび大和川流域一帯で護岸工事が行われ、『続日本書紀』の記述によると、弓削道鏡による西京建設と前後して河内国志紀郡・渋川郡付近の護岸工事がのべ3万人余りの労力で行われたとある。
その後、延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂により河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更が試みられた。のべ23万人の労力で現在の四天王寺の南付近を掘削する工事が行われたが、上町台地の高さの前に挫折した。現在の天王寺区・阿倍野区の地名である「堀越」「北河掘町」「南河堀町」「堀越神社」などの名はこの工事が由来していると言われている。

◎和気清麻呂って、宇佐神宮に神托の確認にいった人よね。
  神託と土木工事というのがどうも結びつかない。


■平安時代以降も大和川流域の洪水被害は頻発していた。堤防補修費用捻出のために弘仁3年(812年)には「出挙」とよばれる利子付貸し付けを行い、その利子を工事費に充てるとことも行われた。さらに、『日本三代実録』の記述によると、貞観12年(870年)には河内国の水害や堤を調査する役人や築堤を担当する役人が任命されるなど、国家事業として大和川治水が行われていた。

■江戸時代初期
豊臣秀吉が日本全土を平定し、大坂に城下町を整備するのに合わせて淀川・大和川水系の治水工事も大がかりに行われ、断続的だった堤防はこの頃には連続のものになっていく。江戸時代には「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれ、堤防の管理・保全が行われた。
このころには大和川の流路は人為的に固定されてしまったため、上流からの土砂は逃げ場を失い、川底に堆積し、天井川となっていった。堤防決壊による洪水被害も起こりやすくなり、被害の復旧、堤防のかさ上げや川浚えなどに多額の費用と労力が費やされた。


■江戸時代の川違え(付け替え)工事
度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。
f0215268_2213444.jpg

安堂駅近くに「大和川治水公園」があり、中甚兵衛の銅像がたっている。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のように堺に向け西流するようになった。
安堂付近の大和川からみる二上山(手前にプールのらせん滑り台がみえる。)
f0215268_22352243.jpg

f0215268_2237118.jpg

大和川の築留

[PR]
by jumgon | 2010-11-15 21:18 | ○ナニワからヤマトへの交通路