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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳

吉野山は
大海人皇子(天武天皇)が近江から吉野に入り、持統天皇が何度も訪れた吉野山。
私のイメージの中ではまさに「深山幽邃の地」だ。

以前一度だけ訪れたことがある。
だがその時は桜には少し早過ぎたらしく、下界では桜は八分咲きだったのに、肝心の吉野山ではちらほら。おまけに土産物屋と人がイッパイで、こんな俗っぽいところかと、ハッキリ言ってガッカリだった。

金峯山寺の秘仏・金剛蔵王権現のご開帳が12月9日までという情報に気付き、行ってきた。
吉野は期待以上の紅葉で「来てよかった!」と嬉しくなった。

まず、後醍醐天皇を祀る吉野神社に着いたが、ここは今日の目的ではない。
車を金峯山寺の駐車場にいれる。混んではいたが、駐車待ちしなくてすんなり停められた。
多分奈良公園だったら、駐車できずにウロウロするはめになっていただろう。やはり吉野は遠い。

しばらく歩くと黒門があった。金峯山寺の総門。木造の門で、黒く塗られていることからこの名が。
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_174406.jpg

次ぎは銅の鳥居(重文)
 黒門からの急坂を登りつめたところにあります。高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、すべて銅製。1348(正平3)年に高師直の兵火で焼失したあと、室町時代に再建されたものです。正しくは発心門。

次ぎは仁王門(国宝)
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_17114021.jpg

そしてやっと蔵王堂
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_17131489.jpg



吉野全体のイラストマップ
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_16115667.jpg

先ず
金峯山寺のHPの説明から(一部改変)
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。
これが金峯山寺の開創と伝えられています。  

◎修験道ってそんなに古くはないのですね。飛鳥時代以前には遡らない。

明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。


蔵王堂は、金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。
  重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という高い評価を得ています。
  金峯山寺内では古くから、白鳳年間に、役行者(えんのぎょうじゃ)が創建されたと伝えており、また、奈良時代に、行基菩薩が改修されたとも、伝えています。
その後、蔵王堂は過去6回の焼失記録があり、現在の建物は天正20年(1592年)頃の再建。重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートルという巨大な木造の建物であり、檜皮葺の建物としては世界一の大きさを誇る第一級の国宝建造物に指定されています。

大正5年から13年にかけて、解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、屋根の桧皮の葺き替えを主として大修理を行ないました。


金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)
堂内は撮影禁止。
さすが秘仏ですね。ポスターの写真をのせます。
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_16225428.jpg

    左尊(弥勒菩薩) 中尊(釈迦如来)右尊(千手観音菩薩)
スゴイ迫力です。不思議な力強さがあります。
◎現在の蔵王権現の作者はどこにも書いてないけど、いつ造られたかはパンフレットに書いてありました。

パンフより
秘仏・金剛蔵王権現は、天正20年(1592)の蔵王堂再建以来、蔵王堂(国宝)のご本尊として四百数十年にわたり鎮座されている日本最大の秘仏です。


金剛蔵王権現の説明
これまで、4年1回の密教儀式「伝法潅頂会(でんぽうかんじょうえ)」以外に、私たちの目に触れることはほとんどありません。
造立開眼以来大地を高く蹴り上げ、逆立ち乱れる頭髪。口の両端から刃のように突き出す牙。3尊の全身は、ことごとく悪魔を払う忿怒の形相を現されていますが、それは、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩を本来のお姿とする変化身です。
三尊は、それぞれ過去、現在、未来を表し、三世にわたって私たちを守ってくださる守護仏でもあります。役行者が汚濁に満ちた世の中に救済を求める苦行の中で、強い祈念によって祈り出された権現様を心静に拝めば、すべてを認め、一切をゆるす「恕(じょ)の心」を感じ取ることができます。
 金剛蔵王権現の右手にある三鈷は天魔を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿を現されています。
さらに、背後の火炎は偉大なる智慧、御身の青黒色は深い慈悲を現しています。
まさに、大自然の霊威そのものの発現とも思われる金剛蔵王権現は、神であり、仏として、神仏混淆を旨とする修験道のご本尊として祀られています。3体の総高は、釈迦如来(中央)7.3メートル、弥勒菩薩(向かって左)5.9メートル、千手観音(右)6.1メートル。重要文化財に指定されている日本最大秘仏です。

確かに「大自然の霊威」を感じさせる姿だ。
蔵王権現の彫刻的価値はどうかわたしにはわかりませんが、写真でみるより、はるかに迫力があります。

映画をテレビで見るより、映画館の大画面で見る方が迫力があるのとおなじかな?
こんなこと言ったらお叱りを受けるかもしれないですね。

この蔵王権現で私が一番気になったこと。
それは、権現様の胸飾りに鈴が使われていたことです。

瓔珞というものでしょうか。今まで見た仏像では透かし彫りの平たい金具のアクセサリーだった。
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_17301046.jpg

古代鉄のスズ鉄を表現したものではないかと思ってしまう!
戦国時代の末期、真田昌幸や幸村が徳川軍を迎え撃って2度も戦った信州上田城。、この上田の銘菓に【みすず飴】がある。
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_17411844.jpg

この飴の名前は、信濃の枕詞『みすずかる信濃』から命名されている。
ここでいう『みすず』とは何かであるが、
すずとは褐鉄鉱が葦や茅の根元に付着している様子を示しているのです。
吉野は中央構造線上にある。
多分鉱物がよく採れるところだと思う。

蔵王堂内の柱がとても特徴がある。
きれいに削った柱でなく、伐採した木を樹肌そのまま、ゆがみそのまま使っているのだ。
勿論枝は払ってある。径40~50センチの大きな柱。ゆがんだり、でこぼこそのままの柱は森の中の原始的な生命を感じさせる。
つつじの木で出来た柱もあったが、つつじって、こんなに大きくなるんだろうか?
大抵は庭園で見るから、柱に出来るほどの大木に育つとは思わなかった。
梨の木の柱もあった。

蔵王堂を出て如意輪寺までミニハイキング。
途中の道では植物より、石を観察しながら歩く。でも鉱石の知識などゼロだから、大して意味はない。
だけど、石とか磐とかにも色々な表情があるのが分かった。

それにしても吉野山の紅葉はすばらしい。
携帯の写真なのでぼんやりしています。スミマセン。
吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_1610458.jpg


吉野山・金峯山寺 金剛蔵王権現のご開帳_f0215268_1651671.jpg

向こうに見えるのは、金輪王寺・吉野朝皇居跡
後醍醐天皇が蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改めた。後醍醐天皇は悲運の生涯をここで閉じられましたが、その後、南朝3代の歴史が続きます。

吉野の歴史
興味のあるとこだけWIKIより抜粋
先史 吉野地方における先史を述べる。
吉野川流域からは、縄文時代から弥生時代にかけての土器や遺跡が発掘されており、この時代から人々が居住していた。現在のところ一番上流で発見されている遺跡は川上村の宮の平遺跡である。
五條市:南阿田大塚山古墳
下市町:岡峰古墳

古代
吉野という地名が、最初に史書に現れるのは、「古事記」「日本書紀」の神武東征の記事で、熊野国から大和国に入る通過地として記載されている。元より半神話の世界なので、正確な比定は困難であるが、少なくとも吉野川流域が想定される。 古事記では「吉野河の河尻」「吉野の首等(おびとら)の祖(おや)」「吉野の国巣(くづ)の祖(おや)」が登場する。

また日本書紀などの史書によれば、歴代の天皇や貴族が吉野を訪れており、この当時の吉野は、遊興の地となっていた。
以下に吉野を訪れた天皇・貴族を列記する。

応神天皇 -
吉野の宮へ行幸。この時、国巣の人々が酒を天皇に贈り、歌舞を見せた。また応神天皇の行幸は日本書紀における「吉野の宮」の初見になる。(日本書紀巻第十〇 応神天皇一九年冬十月)
雄略天皇
吉野の宮へ行幸し狩りを楽しんだ。(日本書紀巻第十四 雄略天皇二年冬十月)
斉明天皇
斉明天皇2年(656年)に離宮として吉野の宮を作った。
古人大兄皇子
大化の改新後に吉野へ隠棲するが、吉備笠垂の密告により殺害された。
大海人皇子(後の天武天皇)
吉野の宮へ隠棲する。天智天皇が崩御ののちに、この地から挙兵する(壬申の乱)。(日本書紀巻第廿八)
また天武天皇となったあとの天武天皇8年(679年)にも吉野へ行幸し、皇后の鸕野讚良皇女との間にもうけた草壁皇子が次期天皇であると宣言し後継者で争わないことを誓わせた(吉野の盟約)。(日本書紀巻第廿九)
持統天皇(鸕野讚良皇女)
頻繁に吉野の宮へ行幸している。その数は禅位後の1回を含めて32回に及ぶ。(日本書紀巻第卅〇)
文武天皇 -
吉野へ行幸した時の歌を詠んでいる。
「み吉野の 山の嵐の 寒けくに はたや今夜も 我が独り寝む」(万葉集1-74)

by jumgon | 2010-11-29 18:08 | ★寺院・神社