古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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鑑真和上

鑑真和上についての私の知識は教科書レベルのもので、唐からやってきて唐招提寺をたてた僧、という位のものだった。
鑑真上陸の地(鹿児島県・秋目浦)
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以前、永井路子氏の「氷輪」を読んで、鑑真を取り巻く人々や社会状況について少しは理解、想像することができた。
しかしこれは永井路子氏の目を通しての理解になるので、井上靖氏の「天平の甍」も読んでみた。

「氷輪」の方は主に鑑真和上が来日してからのことを書いている。現在の唐招提寺みたいな立派なお寺が、最初から日本朝廷によって用意されていたわけではない。
日本朝廷が戒律の師を求めてから、鑑真来日まで12年の歳月が経っている。その間に日本の社会事情も変わってしまっている。
来日当初こそ朝廷あげての大歓迎だったが、その後は5年間の東大寺での仕事の後、西京の地に土地を賜ったが、寺院を建立する十分な資金もなく苦労されたように書いてあった。
苦難の末やってきた日本での自分達の運命について、鑑真以下弟子たちはどんな思いだったろう。
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「天平の甍」は日本からの遣唐僧、普照を中心に話が進んでいく。
主に日本からの遣唐僧や留学生の唐に渡ってからの運命を描きだしている。

長い留学の間に病を得、なくなった者。
いつの間にか日本へ帰る意思をなくして、みずから留学僧としての保護をすてて托鉢僧となって大陸のいたるところを歩く僧。
また唐土に着くやいなや「日本へ帰りたい。日本でしか本当に生きるといった生き方はできない」といっていた僧が皮肉にも還俗して唐の女性と結婚し、子供を得、唐土に落ち着くという結果になるもの、といった様々な運命を描いている。

中国中央テレビで放映された連続ドラマ「鑑真東渡」より
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私にとって特に印象的なのは、数十年の唐留学生活、いわば人生の大半をひたすら日本へ持ち帰る経文を写すことに費やし、帰路経文と共に海に消えた僧業行だ。
あまりの虚しさに心をえぐられる。
当時の遣唐使船は難破がよくあり、無事唐に行きつく保障もなければ、日本に帰れる保障もない。
そして唐での生活の全てといえる膨大な経典の写経と「業行」本人は、何十年ぶりに復路の遣唐使船に乗船したが、その船は難破したのか行方知れず。
難破する鑑真の絵
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その消息が日本で分かるのも数年後になる。
小説ではハッキリと亡くなったとは書いてないが、同じ船に乗り合わせたほとんどが、漂着した土地の土人に殺害され、無事保護されて、唐にたどり着いたのは数名だったという。

全ての人間は生まれたときから死に向かって歩いている。
だからそれも又運命とはとはいえ、その虚しさはあまりに悲しい。

吉備真備のように二度も渡唐して無事帰国して、日本でそれなりの地位を築いた者もいるというのに、、、。

唐招提寺の概略を唐招提寺のHPより
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。

現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。

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by jumgon | 2010-12-27 19:34 | ★読書・放送・講演会