古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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白浜①奈良時代の天皇がよく訪れた温泉

悲劇の皇子・有馬の皇子と白浜

和歌山県白浜を訪れた。

子供がお正月に旅行をプレゼントしてくれました。

どこが良いかと聞かれたから「海の見える所!」ということで「白浜」へ行くことにしました。
奈良や飛鳥に行くことが多いので海がみたいなぁ、と思っていました。
それに白浜は奈良時代の天皇がよく訪れた温泉があるので、ぜひ訪れたいと思っていました。

関西の人にとって南紀白浜は近いが、土地勘のない遠くの人のために地図をあげておきます。


白浜観光協会のHPより
白浜温泉は日本三古湯(白浜、有馬、道後)に、また三大温泉地に数えられるお湯処です。
また、飛鳥、奈良朝の時代から「牟婁の温湯」「紀の温湯」の名で知られ、斉明、天智、持統、文武天皇をはじめ多くの宮人たちが来泉された1350年余りの歴史を持つ由緒ある温泉観光地です。 湯崎七湯に数えられる崎の湯(露天風呂)、砿湯(牟婁の湯)は、白浜温泉の最も古い歴史を残しています。

◎この「崎の湯(露天風呂)」をぜひおとずれたいと思っていました。

白浜に到着した当日は子供につきあって「エネルギーランド」へ行ったが、若い人むき。
目のトリックを使った設備があったが、これはお付き合い。でも一つだけ写真をみてください。
目のトリックだけどカメラも錯覚するのかしら?覗き窓からみるとこんな風に見えるのです。右の人がやけに大きく見えるのです。
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宿泊のつぎの朝から白良浜を散策して、崎の湯、など露天風呂をまわって千畳敷、三段壁へ行くことにした。
温泉は宿でイヤというほど入ったのでどんなところか見て周るだけにしよう。

白良浜はさすがに名前どおりきめ細かく白く美しい砂浜だった!
伊勢志摩や日本海側の砂はこんなに白くなかったと思う。
海もペールグリーンで、全体が明るい雰囲気だ。
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白良浜からゆっくり歩いて10分ぐらいで有馬の皇子の碑がある。
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有馬の皇子について  
「有間皇子の変」を書きましょう。
有間皇子の生い立ち
 父は孝徳天皇、母は小足媛(おたらしひめ)である。父が有馬温泉で療養していたときに生まれたので、有間(有馬)と言う名になったとか???。父の孝徳天皇と斉明天皇(舒明天皇の皇后で、後に斉明天皇となる)とは姉弟の関係であった。斉明天皇の子供が中大兄皇子で、後に天皇になった天智天皇である。

父の即位
 大化の改新(645(大化1)年)があるなど政権抗争が激しいときであった。大化の改新の後、有間皇子が6歳のとき、父が即位(孝徳天皇)した。父の即位で、そのただ一人の皇子として、有間皇子に皇位継承の可能性が生まれた。

有間皇子の父・孝徳の死
 649(大化5)年3月、外祖父の死で、有力な後ろ盾を失う。その後、15歳のとき、父・孝徳が654(白雉5)年10月難波宮で崩御した。当時の皇太子は中大兄皇子であったが、孝徳の同母姉宝皇女(もと舒明天皇の皇后で中大兄らの母)が飛鳥板蓋宮で即位した(斉明天皇として)。
中大兄は皇太子に留まるが、この時ほぼ独裁的な実権を握ったと考えられている。

斉明天皇について
◎昨年牽午子塚が発掘され、斉明天皇の陵墓ではないかと騒がれました。
 斉明天皇といえば、女帝であり、飛鳥の石の文化を築いた人として今日では知られているが、当時は土木工事を次々としたため、人々は「狂(たぶ)れ心の渠(みぞ)」と反発した。孝徳天皇の死後、再び即位した斉明天皇は、次々と土木工事に励む。
「飛鳥時代といえば法隆寺を代表とする“木の文化”が主流だったが、斉明天皇の時期だけは例外的に“石の文化”だった」と言ってよい。
 その斉明天皇にとって、自分の弟の子供である有間皇子より、わが子である中大兄皇子を次の天皇にと強く思っていた。

有間皇子と白浜温泉
 父の孝徳天皇の死後、身の危険を悟った有間皇子は、精神病を装い、療養と称して牟婁の湯(和歌山県白浜温泉)へ行った。
療養から帰った有間皇子は、斉明天皇に土地を讃め病の完治を報告した。天皇はこれを聞いて喜び、紀伊国への行幸を欲した。
翌658(斉明4)年10月、天皇は牟婁の湯に行幸した。白浜では、白浜温泉を有名にした人として、有間皇子と斉明天皇の二人を白浜温泉では称えている。

天皇の牟婁の湯へ行幸と謀反
 斉明天皇は牟婁の湯に行幸のとき、有間皇子は留守官・蘇我赤兄らと共に飛鳥に留まった。
赤兄は皇子に天皇の失政を指摘し、皇子は赤兄の態度に喜んで「吾が年(19歳)始めて兵を用いるべき時なり」と言ったという。皇子は赤兄の家に行き、樓閣に登って謀議したが、その時夾膝が自然に折れ、これを不吉な前兆として謀反の中止を誓い合った。

罠にはまった有間皇子
皇子は自宅に帰ったが、夜半になって赤兄は人夫を率い、皇子の家を囲ませ、駅使を天皇のもとに派遣した。
9日、皇子は守君大石・坂合部連薬らと共に捉えられ、牟婁の湯に連行された。
皇太子中大兄は皇子に対し謀反をはかった理由を訊問し、皇子は「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず」と答えた。
11日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられた。 
赤兄は処罰されないで、天智天皇時代(662~671)の左大臣となった。
『日本書紀』では、この事件を赤兄の謀略として描いている。
『万葉集』では、皇子の歌をはじめとして、王位継承の渦に巻き込まれた悲劇の皇子として紹介されている。


有間皇子、自ら傷みて松が枝を結べる歌二首 
牟婁への護送の旅で詠まれたといわれています。

   磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び  真幸くあらば  また還り見む
◎海岸の松の枝に願い事を書いた紙を結び、運が良ければ帰りに見ることができよう
真幸くあらば  また還り見む、、、この歌を読んだとき皇子は19歳でした。

 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る
◎我が家にいれば器に食べ物を盛るのに,今は旅に出ているので椎の葉に盛っている
単に器を使って食べていないから詠んだ歌ではないだろう。生か死かの不安な気持ちの中で,椎の葉に飯をのせているのであろう。

有馬の皇子の碑からは露天風呂・外湯、足湯などが続く。
道の途中は温泉らしい匂いとけむりがいっぱい。
途中で海の中に露天風呂が、、、!
お湯のところだけ暖かそうな湯煙がでている。
これは崎の湯か?崎の湯なら解説板と石碑があるはずだ。

とりあえず写真を一枚。
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もう少し歩くと崎の湯に到着。

今日は水曜日で定休日だとパンフレットに書いてあった。(残念!)
でも近くまで行って、温泉を覗けないかと期待した。
「入湯受付」のところはロープが張ってあってそこから中に入れない。
仕方ない。せめて案内板の写真と、観光HPからの写真を見よう。
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下は男湯、海水が入ってくるそうです!
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日本最古の湯壷と白い湯の花
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ほかにもここへ来ている人がいる。
◎今日は定休日だと書いてあるのに強引に中に入っていった。もしかして、温泉に浸かる気?

ここから千畳敷きまで歩いて15分、と書いてあるので歩くことにした。

途中赤い実がなっている木があった。
多分おがたまの木ではないかと思う。もしかしたらカラタネオガタマ(唐種招霊)かもしれない。自信がありません。
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かなりオレンジっぽい色の実がなっていました。
大木になるらしいがこの道端のは高さ2,3メートルだ。

◎どなたかこの木の名前知ってる方がいらっしゃれば教えてください。
◎追加報告  この木の名前は「トベラと判明しました。
以下のサイトで質問したら応えてくださったのです。ありがたや!!http://bbs8.as.wakwak.ne.jp/bbs.cgi?id=10170&pid=

◎せっかく「おがたまの木」のこと調べたから、このままにしときますね。<(_ _)>
おがたまの木
『宮崎あっち、こっち』というHPにおがたまの木のことが書いてありました。
http://www.kumaya.jp/atikoti44.html

西本宮境内拝殿前には招霊(おがたま)の木の大木が生えています。
芸能の神として崇められるアマノウズメは、古事記によると天香具山のヒカゲカ
ズラをたすきにして肩にかけ、天香具山のマサキカズラを丸くたばねて冠とし、
これまた天香具山の笹(ささ)の葉を手に持って、天岩戸の前で踊ったとされてい
ます。
また、他の一説によるとこのオガタマの木の実を振りながら踊ったともされ
ていて、この実の形から「神楽鈴」が作られたといいます。


◎神楽鈴はおがたまの木の実が由来?
 私はスズ鉄が由来だと想像していた。
 どちらかは当時の人に聞かないと分かりませんね。
 想像力過剰に注意!!

神楽鈴・巫女さんがもって舞ってるのを見たことがあります。
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オガタマの木は「招魂(おぎたま)」が訛ったものと言われ、神社に多く植えられお
り古来から日本民族の神木とされてきました。古くは玉串奉納にオガタマノキを
使うのが正式とされましたが、現在はサカキを使うようになっています。


さて、歩いているうちに千畳敷に着きました。

白浜 ②につづく
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by jumgon | 2011-01-06 15:45 | ★言語、歴史