古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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白浜②三段壁と熊野水軍

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崎の湯から千畳敷まで歩いた。10分?とか書いてあったが結構疲れた。

千畳敷の駐車場には観光バスが3台ほど止まっていた。中国人観光客らしき人達もいる。
磐の段が高いところもあるので滑ったり、こけたりしないよう気をつけないと~。
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波で模様が描かれた岩
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岩場を登ったり下りたり。
寒さと足の疲れで、展望休憩所で海をみながらいっぷく。

今回は海を満喫できたなぁ~
さてそろそろ、出発しようかな。

道に出ると「三段壁まで950m」と書いてある。

歩いていけるね、ということで散策を続ける。

途中、○○公社保養施設、とか△△公団?保養施設とかが売却中の看板が出ている。
ハコ物いっぱい作ってもう使われなくなったようだ。
昔の無駄遣いの痕跡!!
別荘なのかペンションなのかもう使ってない空き家みたいなのがある。ここも夏以外は経営が苦しいのかな、、、。

やがて、アロエの花がいっぱい咲いているところに着く。
「アロエ公園」の看板。
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公園というほどではないけど、、、。もう少し暖かいと花の色ももっと冴えていただろうな~。

そしてすぐに三段壁につく。
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三段壁は屏風のように海に直立する高さ30~60メートルの絶壁である。かっては熊野水軍の船隠し場であった海蝕洞窟がその岩層深くに眠るところである。

そのように聞いていたので是非訪れたいと思っていた。

三段壁洞窟館内では荷物を預かってくれてたすかった。
エレベーターで地下36メートルまでおりる。8秒ぐらい。早いね!
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そこから順路にしたがって巡る。
洞窟内には歩道があり、神秘的な雰囲気である。足元が濡れているので滑らないように気をつけないといけない。
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ところどころに明かりがついている。

牟婁大辯財天(むろだいべんざいてん)
いつから祀られているのかわからないけど、洞窟内ということで神秘的な雰囲気がある。
お顔は飛鳥佛的である。
水の神様ともいわれ、また神社仏閣の守護神としても知られる。
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やがて熊野水軍の説明版がある。
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熊野水軍と源平
熊野水軍の統率者であり、熊野別当(熊野三山の統括者)の湛増(たんぞう)は、源頼朝と外戚関係にあたり、武蔵坊弁慶の父であると伝えられている。
おりしも、源平の戦いは屋島檀ノ浦での海上決戦へと展開し、湛増率いる熊野水軍の動向が勝敗の決め手を担うこととなり、源平両軍ともに因縁浅からぬ湛増は、双方から助力を乞われた。
湛増は年来、平家安穏の祈祷をしていたが、国中悉く源氏に傾いており、義経より命を受けた息子弁慶の説得もあって、悩んだ末に “所詮神力に及ぶべきにあらず。神明の冥鑑に任すべし”として、 田辺の宮(現在の闘鶏(とうけい)神社)において“赤きは平家、白きは源氏”と告げ、白い鶏七羽、赤い鶏七羽を戦わせて神意を伺うことにした。
すると、赤い鶏は一羽も勝つことなく、“この上は神慮に任せ奉らん”と、ついに湛増は源氏方につくことを決意した。
かくして、湛増は熊野三山吉野十津川、死生不知(ししょうしらず)の兵を集め、総勢二千余人、兵船二百余艘をととのえて、紀伊国田辺の湊より出陣し、湛増の指揮する熊野水軍は、若王子の御正体を捧げ持ち、金剛童子の旗を靡かせて、堂々、檀ノ浦に姿を現し、源氏を勝利へと導いた。これらの経緯は『源平盛衰記』、ならび『平家物語』に詳しい。
なお、弁慶が湛増の子であるとすることは『御伽草紙』の「橋弁慶」でも同様に伝えられているが、『熊野別当代々記』に弁慶の名は見られない。ちなみに、『義経記』巻第三では、弁慶を「熊野別当弁せうが嫡子」とし、『弁慶物語』では「弁しん」の子としている。


◎本当に運命の分かれ道で迷って自分で決することができない時は神意に頼るほか無いのですね。
  この決断で一族郎党のその後の運命が変わるのですから、、、。


洞窟内には熊野水軍番所小屋がある。資料によって、再現されたそうだ。

囲炉裏があって休憩できるようになっている。
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◎ここで出陣までの間、交代要員の海族が仮眠したり、武者震いしたりしてたのだろうか~。
進むうちに「瀬戸鉛山鉱山の跡」というのがある。
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瀬戸鉛山鉱山
この洞窟には、瀬戸鉛山鉱山の跡が残っています。
この鉱山は正親町天皇の頃と言いますから、織田信長が桶狭間で戦った頃(1560年)に鉛鉱山として開発されたようです。時は鉄砲の時代を迎えようとしていましたので、鉛の需要は急増したのでかなり活況を呈し、数10もの竪抗が掘られたといわれています。
ただ、慶長年間といいますから、1600年のはじめ頃(大阪冬の陣の頃)には、坑道が海中に達するようになり急激に衰退したと言われています。

鉱(まぶ)  穴(あな) 
当時の採掘は人力のみの時代ゆえ井戸堀式の竪穴で縄梯子を投げ込み採掘に降りて行っては葛篭(つづら)に入れて背負って登ってくるという方法であったようである。
 こうした竪穴坑が三段から平草原を経て湯崎にかけての山中に300箇所以上あったらしい。現在に至っても200数箇所は残っており土地の人々は一般に鉱穴(まぶあな)と呼んでいる。
 尚当時の古文書によると、その時々の為政者たちは採掘を督励するために鉱山関係者に種々の恩典を与えたと言う。

                      免 税 書 
一、公用の鉛一人頭250目であるが山の目方として200目に定めてつかわす。
一、田辺から山へ入る者が分を過ぎた高値を言っても一割高に申し付けることを許す。
一、この外仕事の上でことごとく相許すから堀り子達を集めて怠りなきよう精を出すこと。

                                 元和5年8月27日


16世紀末から17世紀前半にかけて浅野氏や南紀徳川氏が鉛山に注目ししばしば租税を免じて躍起となって採鉱を奨励していた。
町には租税書が今も残り温泉神社の秋の祭礼(11月2日)には(御書祭り)と云って租税書を先頭に羽織袴の長老に続き稚児行列が賑やかに進むのは、当時を偲ばれます。


洞窟内は荒々しく露出した岩肌に熊野灘から押し寄せた怒涛がぶつかり、四方に砕け散る。その音と光景は荒々しく、ダイナミックである。
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わたしはなぜか洞窟が好きなんです。
笛の音色と洞窟というのが、私にとって原始信仰の雰囲気なのです。
でもここも良い!
もうそろそろ、外の光がさして来ました。
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by jumgon | 2011-01-07 14:02 | ★言語、歴史