古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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遣唐使・回数

今回は遣唐使の回数についてです。

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
•12回説:藤家禮之助
•20回説:東野治之、王勇
他に14回、15回、16回、18回説がある。

遣唐使派遣一覧
次数出発帰国使節その他の派遣者船数備考などについて書く。
備考には中国文献に見られる記事をいれた。

 舒明2年(630年)出発
    舒明4年(632年)帰国
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日

備考:唐使高表仁来日、僧旻帰国
備考:貞観五年(631年)、遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、勅旨で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史の高表仁を遣わして、節を持して行かせこれを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。
 貞観二十二年(648年)、また新羅に付いて表を奉し、以て日常の音信を通じた。(旧唐書)

白雉4年(653年)出発
    白雉5年(654年)帰国
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)・留学僧・道昭・定恵
◎定恵とは  
  
定恵(じょうえ、(643年~666年2月2日))は、飛鳥時代の学僧。定慧、貞恵とも書かれる。
  父は中臣鎌足(藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。
  出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」、弟に藤原不比等がいる。
  653年(白雉4年)5月遣唐使とともに唐へ渡る。(10歳?11歳)
  長安懐徳坊にある慧日道場に住し、
  神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。
  665年(天暦年)9月、(22,23歳頃)朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、
  同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった。
  (帰国後わずか3ヶ月)
  高句麗の僧道賢が誄(しのびごと)をつくっている。


備考:
永徽初(650年)、その王の孝德が即位、改元して白雉という。一斗升(ます)のような大きさの琥珀(こはく)、五升升のような瑪瑙(めのう)を献上した。
時に新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。幾ばくもせず孝德が死に、その子の天豊財が立った。死に、子の天智が立った。(新唐書)

翌年(651)、使者が蝦夷人とともに来朝。蝦夷もまた島の中で暮らしており、その使者は鬚の長さ四尺ばかり、箭を首の耳輪の辺りに構え、人に瓠を載せて数十歩先に立たせ、射って的中せざるはない。天智が死に、子の天武が立った。死に、子の総持が立った。(新唐書)

第2船が往途で遭難

白雉5年(654年)出発
    斉明元年(655年)帰国
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没

斉明5年(659年)出発
    斉明7年(661年)帰国
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)
伊吉博徳
第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される。

天智4年(665年)出発
    天智6年(667年)帰国
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 
唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日

天智6年(667年)出発
    天智7年(668年)帰国
(送唐客使)伊吉博徳
 唐使法聡を送る。唐には行かず?

天智8年(669年)出発
不明河内鯨(大使)  *第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
備考:
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。
(新唐書)

大宝2年出発(702年)
    慶雲元年(704年)帰国
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)山上憶良・道慈

備考: 
長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して太宝という。朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。朝臣の真人は唐の尚書のようである。進德冠を冠り、頂に華蘤四披があり、紫の袍に白絹の帯
備考:長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。
朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らす。身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていた。
真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だった。則天武后は、これを麟德殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させた。(旧唐書)

養老元年(717年)出発
    養老2年帰国(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使)
留学生:阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
井真成については藤井寺市出身の藤井氏だという説があり、藤井寺市のシュラホールには墓誌のレプリカがおいてある。
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井真成の墓誌本文の日本語訳です。

【日本語訳】
尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 <序と并せる>

公は姓は井、通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせ訪れた。

中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬとは。

開元二十二年(七三四)正月■日に官舎で亡くなった。年齢は三十六歳だった。
皇帝(玄宗)はこれを傷み、しきたりに則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせた。

その年二月四日に万年県の河の東の原に葬った。礼に基づいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。
真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、荒れはてた郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
その言葉にいうには、「死ぬことは天の常道だが、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

備考:
開元初(713年)、粟田が再び来朝、諸儒に沿った経典を拝受したいと請うた。
詔を以て四門学の助教「趙玄默」を鴻臚寺での師と為した。大きな幅広の布を謝恩の礼として献じ、あらゆる賞・物・貿・書を持って帰る。
その副の朝臣仲満は中華を慕い、帰らず、姓名を変えて朝衡という、左補闕、儀王友などを歴任して多くの知識を備え、久しく経って帰還した。聖武が死に、娘の孝明が立ち、天平勝宝と改元した。(新唐書) 
備考:
開元初(713年)、また遣使が来朝し、儒士に授経を請うた。詔を以て四門学の助教の趙玄默が鴻臚寺に就いて、これを教授した。
玄默に修学の謝礼として大きな幅布を贈り、題して「白亀元年の調布」という。人はまたその真偽を疑った。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。その偏使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)、中国の風を慕い、因って留まって去らず、姓名を朝衡と改め、左補闕、儀王友を歴任。朝衡は京師に留まること五十年、書籍を好くし、帰郷させたが、逗留して去らなかった。

天平5年(733年)出発
    天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず

   天平18年746年)
span style="color:rgb(0,0,255);">◆石上乙麻呂(大使)
 -備考:停止

天平勝宝4年(752年)出発
    天平勝宝6年(754年)帰国
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 
◎この時の遣唐使の帰国船に乗って、鑑真一行は来日を果たした。
備考:
天宝十二年(753年)、また遣使が貢献。(旧唐書)
備考:
鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
備考:
上元中(760-761年)、朝衡を抜擢して左散騎常侍、鎮南(安南)都護とした。(旧唐書)

 天平宝字3年(759年)出発
    天平宝字5年(761年)帰国
(迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成
*渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国

天平宝字5年(761年)
仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使)  
*船破損のため停止

天平宝字6年(762年)出発
-(送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山 
*唐使沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止

宝亀8年(777年)出発
    宝亀9年(778年)帰国
小野石根(持節副使)・大神末足(副使)
/佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使) 
大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。
 *第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡

宝亀10年(779年)天応元年出発
    (781年)帰国
(送唐客使)布施清直・多治比広成
備考:
建中元年(780年)、使者の真人興能が方物を献じた。真人とは、官に因って氏とする者である。興能は書を善くするが、その紙は繭に似て光沢があり、人には知られていない。(新唐書)
唐使孫興進を送る

延暦23年(804年)出発
    大同元年(806年)10月帰国
藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使)
その他派遣者:最澄・空海・橘逸勢・霊仙
備考:
貞元二十年(804年)、遣使が来朝、留学生には橘逸勢、学問僧には空海(旧唐書)
*石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
備考:
元和元年(806年)、日本国使の判官「高階」真人が上奏「前件の学生、芸業がやや成り、願わくは本国に帰らせ、すなわち臣と同じに帰ることを請う」。これに従った。(旧唐書)
備考:
貞元末(805年)、その王は桓武といい、遣使が来朝。その学子の橘免勢、仏教の空海は留学を願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来朝し、免勢らを伴って帰還することを請う、詔を以て勅許す。次に諾楽が立ち、次は嵯峨、次は浮和、次は仁明。次は文德、次は清和、次は陽成。次は光孝、光啟元年にあたる。(新唐書)

承和5年(838年)出発
    承和6年(839年)帰国
藤原常嗣(大使)/小野篁(副使)円仁

*承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
備考:
開成四年(839年)、また遣使が朝貢した(旧唐書)
備考:
仁明は開成四年(839年)にあたり、再び入朝して貢献。(新唐書)

寛平6年(894年)
菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)停止。ただし大使の任は解かれず。

•次数は20回説を採用。
•送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。
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by jumgon | 2011-01-08 19:49 | ★言語、歴史