遣唐使が持ち帰ったもの
2011年 01月 13日
について述べた。
今回は、
遣唐使と共に東から来た物について
書きたいと思う。
Wikiと東野治之「遣唐使」をおもに参考にして書いています。
東野氏は、遣唐使全体を通して中国の文化受容に関して、次のように述べられています。
初期の頃は仏教の受容に重きが置かれ、次に文化全体、次第に貿易の手段として、中国側から見れば朝貢、日本側の意識としては物々交換による交易として遣唐使を考えていた。
だが、何でも取り入れたのではなく、その受容には取捨選択があった。
仏典や注釈書などは重複するものはさけ、新しいものを探して持って帰ったとみられる。
又中国で盛んだった道教は取り入れなかった。わずかに道教関係の書もあるが、それを広めようとした形跡はないそうだ。
また宦官・科挙の制度も取り入れられなかった。
遣唐使たちは書籍だけでなく、美術工芸品その他のものも持ち帰った。
それらはあちこちの寺院や正倉院に保管されている物もある。
奈良時代から平安時代にかけて、遣隋使と遣唐使が持ち帰ったものを列挙しよう。
◆中国原産ではなく、シルクロードから伝わったもの、
すなわち、白菜、ピーマン、西の瓜と書くスイカなどを、 長安で種を得て日本に持ち帰り、日本に根づかせました。
◆楽器のルーツも、たくさんもたらされました。
●横笛・宮中でも使われている笙(しょう)
●正倉院にもある五弦の琵琶
螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)
正倉院にある五絃琵琶は、聖武天皇(しょうむてんのう)の遺品(いひん)で、現在(げんざい)では世界でたったひとつしかないとても貴重(きちょう)なものです
*五弦の琵琶は、中国では滅んだ楽器で、シルクロートの天山山脈の 南の街「庫車(クチャ)」にある古代の「亀茲国(きじこく)」 の壁画からも、正倉院の琵琶と同じものが描かれていて注目されました。
◆サイコロ、双六、囲碁、壺の形をした陶器に
投げる輪投げなども伝わりました
◆経典以外の書
●奈良時代には、古代中国のよい文を集めた「文選(もんぜん)」が読まれ、 仏教文化が根づいた平安時代には、中国の仏教詩人である 白楽天が愛好されました。それらも遣唐使が持ち帰ったものです。
◆貨幣
◆野菜発酵(はっこう)技術〈蘇(そ)・味噌(みそ)・しょうゆ
野菜をくさらせて、長持ちする食べ物を作る技術も、唐から日本に伝わりました。蘇はそのひとつです。
●蘇というのは、平城京(へいじょうきょう)の時代のチーズのことです。
●また、現在(げんざい)私たちが、毎日のように食べている味噌やしょうゆも、同じ時代に、唐から伝わりました。味噌もしょうゆも、大豆(だいず)をくさらせた食べ物です。
これは遣唐使(けんとうし)ではなく、唐から日本に移住(いじゅう)してきたり、日本の貴族(きぞく)に政治(せいじ)のアドバイスをするためにやってきた人が、故郷(こきょう)の味をなつかしんで作ったものではないかと考えられています。
◆スパイス・薬草(やくそう)〈胡椒(こしょう)・シナモンなど〉
◆占(うらな)い・天文学(てんもんがく)・暦法(れきほう)
また変わったところでは
◆小国鶏(しょうこくどり)があります。(京都検定に出題されたそうです。)
遣唐使が中国寧波府の昌国(しょうこく)より持ち帰ったとされています。
平安時代に鳥羽僧正が描いた『鳥獣人物戯画』(高山寺)にも
小国鶏が描かれています。
天然記念物の小国鶏(しょうこく)です。
この写真は「白藤」という羽色のもので、天然記念物に指定されている貴重な日本鶏などを飼育保存している「日本鶏飼育場」からお借りしました。
小国鶏は平安時代(?)に中国から持ち込まれた鶏で、◎縄文時代から鶏はいますが、小国鶏という品種はなかったのですね。
姿が美しいことから、観賞用品種を作出するため
の交配に多く用いられた鶏種です。
さて、うららさんの「質店オザサのブログ」⇒参考リンク<古代史ミステリー>
ではじめて読み、教えられたのが「武術と遣唐使」についてだ。
これについてはアカデミックな書物では読んだことはない。(わたしの勉強不足?)
その記事はうららさんが
http://www.sportsclick.jp/combat/01/index10.html
を参考にされて書かれたという。
初耳のことばかりで、ビックリ、ここまで気がつかなかったなあ、と感心しました。
鑑真とともに来日した僧侶は21人にのぼるが鑑真とともに最初から行動し最も信頼されていたのが弟子の思託(722~809)である。
思託鑑禎は743年台州・開元寺に入り鑑真の弟子となる。741年天台山修禅寺に留学、天台学、禅学、拳法などを修業。
澄水流の始祖・大伴古麻呂は古代の名族としてもちろん家伝の武術をもっており、武人の家系であるから、日本へ向かう航海中も鑑真や思託らと武術談義をし、若い思託らと拳法を教えあったことであろう。
日本の歴史を格闘技から書いている。
上記の格闘技のサイトには、行基の師、道昭についても言及している。
法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術
●遣唐使とともに中国へ行き、仏教修行をして日本に帰国した僧侶で、武術を伝えたと思われる僧に道昭がいる。
653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。この法相宗第一伝の道昭師、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。拳法と杖術が強かったという伝説がある。
●その後、唐で学び法相宗を伝えた僧には、智通、智達が第二伝
●興福寺を中心に普及した智鳳が第三伝、
●玄ボウが第四伝だが、みな玄奘かその高弟の窺基、智周に学んでおり、その法系は達磨禅、拳法の崇山少林寺に連なっている。
●法相宗第三伝の智鳳の高弟に岡寺の開基者である義淵(~728)がいる。
中世、槍で有名になる宝蔵院は興福寺の義淵の私坊がその始まりである。
◎「宮本武蔵とのたちあいで有名な宝蔵院です。
●僧兵で名を知られるのは奈良の興福寺、比叡山延暦寺だが、僧兵とは寺院が自衛のためにおいた武器をもつ僧。平安時代中期、寺院がその荘園を貴族や武士の侵入から守るためにおいたのが始まり。
特に興福寺、延暦寺の僧兵は強力で、しばしば朝廷に押し掛けて強訴(ごうそ)を行い,寺院の要求を認めさせようとした。これらを見ても法相宗の僧侶と武術は強い関連があったことが知られる。
●さて奈良・興福寺は藤原氏の氏寺として知られるが、日本最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。
◎初耳ですけど、平心流ではそのように伝えられているのでしょうか?というより、平心流なるものの存在も知らなかった。
●奈良の岡寺には、暴れ龍を退治した義淵の伝説があるし、他には義淵が、強い法力の持ち主であったこと、人々の危機を救い、盗賊を捕らえた話なども伝えられている。
●同じ法相宗の京都・清水寺は征夷大将軍・坂上田村麿(758~811)と深い関係があると伝える。
◎杉本苑子「檀林皇后私譜」と言う小説では、当初清水は「坂上田村麿の私寺」だと書いてある。
田村麿は人生の多くを蝦夷地平定のため武人として働いてきた人である。古伝柔術の流派・観世流は流祖を坂上田村麿としている。
◎これもホントですかって、気持ちがある。私が知らないだけかな~
わたしにとって、遣唐使の留学僧が武術もならっていた、というのは、はじめて知った事柄でこれが信憑性のあるものかどうかはわからない。
文献がなく、武道流派の家伝書のたぐいから記事を書いているようだ。だがまったく可能性がないと思えないのは、興福寺や比叡山の僧兵の存在があるからだ。
僧というからには、ただの無頼の徒ではないだろう。
お経や書物、美術工芸品、医薬、音楽、物産、娯楽と幅広い東の文化を吸収、伝来したのだから武術があってもおかしくないと思うので記しておいた。
行基について
◎道昭の弟子に行基がいる。
当時の仏教は国家安泰を祈念するもので、個人の救済や魂の救いを目指したものではない。唐でも同じである。
これを考えると、道昭や行基が
「各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。」
というのは革命的な行動だと思う