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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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嵯峨本の謎

3月10日(木曜日の)日経新聞のアートレビューを今日みた。
びっくりするほど美しい嵯峨本の紹介があった。


「嵯峨本」の謎

活字を芸術にするおよそ400年前、乱世から太平へと向かい始めた江戸時代初期。「嵯峨本」と総称される書籍群が刊行された。

日本の印刷史上、有数の美しさといわれる書物は、オリジナルにこだわる芸術家たちの飽くなき情熱の結晶である。

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近畿大学中央図書館所蔵の「伊勢物語」1608年(慶長13年)発行の書物は一見すると写本のようだ。しかしこれは手書きではない。手書きの味わいを最大限に引き出した、活版印刷なのだ。
活版印刷とは、文字を彫った活字を組み合わせて印刷する方法。。一つの活字にⅠ文字ずつ彫るのが一般的なやり方だ。
この「伊勢物語」は違う。縦12,6ミリ、横14,2ミリの木製の活字をベースに、2文字なら縦に二倍、3文字なら3倍の大きさの木枠に文字を彫っていく。ひらがなの続け字を生かす方法だ。
「数理的な美しさと古筆の美しさをカネソナエテイル。」グラフィックデザイナーの永原康史氏は慶長版「伊勢物語」についてこう指摘する。活字の大きさが一定の大きさに収まることで「ひらがなのくずしに独特のリズムが生まれている」。

◆芸術作品のような本
「伊勢物語」「方丈記」「徒然草」、、、、。17世紀初頭の京都で生まれた一連の豪華本を「嵯峨本」と呼ぶ。
京都嵯峨野に拠点があった豪商、角倉素庵が版元となり、本阿弥光悦、、俵屋宗達らがかかわったといわれている。
多くは活版印刷で作られ、雲母の粉を紙にすり込む「雲母(きら)刷り」を多用した。
活字のもととなった文字は本阿弥光悦が書いたとされるが、角倉素庵との説もある。能楽の教則本「謡本(うたいぼん)」では、俵屋宗達が表紙の下絵を描いたといわれる。紙、文字、装丁にこだわり抜き、当時の文化人の間で絶大な人気を博した。

嵯峨本はなぜ「美しい」のか。
奈良女子大学文学部の鈴木広光教授はその謎を解明すべく、近代所蔵の「伊勢物語」の文字をすべて解析した。使われた活字の数はH合計で1万5千超。繰り返し登場した活字をコンピューター上で除いていくと、実に2100個の活字が使われたとことが分かった。
単に組むだけならここまで必要ない。そこには角倉素庵らの造本にかけるすさまじいまでの情熱が潜んでいた。

「一度しか使っていない活字が344個、実に16%もある」。鈴木教授は舌を巻く。伊勢物語は上下2巻あるが、下巻の後半に至ってもなおも新しい活字を追加している。

「同じ漢字を何度も使うことで生じる版画の単調さを、字形の異なる活字を加えることで避けようとしたのではないか」
おなじ「か」でも、大きさや字形を変えることで版面に余白が生まれたり、勢いが出たりする。
流れるような字形の「し」をページの真ん中に置くなど、視覚的な効果を狙った配列も目に付く。

デザイナーの永原氏は「光悦や素庵の書にみられる美意識が色濃く投影されている」と感嘆する

驚かされるのはそれだけではない。1608年刊行の「伊勢物語」(初刊本)11冊を確認したところ「全く同じ本は一つもなく、どこかの文字がそれぞれ違っていた。」(鈴木教授)。
一冊刷るごとに、わざわざ一部の活字を違う字形のものと差し替えているのだ。印刷物でありながら、1点物の芸術作品のようなこだわり。素庵らの強烈な思いが伝わってくる。

◆個性競う変革期
嵯峨本を生んだ慶長年間(1596~1615年)とはどんな時代か。
静岡文化芸術大学の熊倉功夫教授は「下剋上に象徴されるように、旧来の秩序が大きく転換した時代」と評する。

「かぶきものと呼ばれた個性的な糸人が各層に現れ、様々な文化を生んだ。嵯峨本もその一つで、今でいえばiphoneのような斬新さがあった。」
折しも豊臣秀吉の朝鮮出兵で銅活字がもたらされ、ほぼ同時期に西洋からグーテンベルク式の金属活字が伝来。
「後陽成天皇、後水尾天皇らが推進した平安期の王朝文化復興の潮流の中で、古典文学への需要が高まっていたことも、嵯峨本の背景にある。」と熊倉氏は解説する。

時代の変革期に生まれた美しい活版印刷はしかし、江戸初期を最後にいったん途絶えた。
太平の世は印刷物への高い需要をもたらし、より大量生産に適した製版(一枚版の木版)での印刷に取って代わられる。宗達はその後、「風神雷神図屏風」を描き、光悦は芸術村を築く。

嵯峨本に結実した芸術家の情熱は、形を変え、琳派へとつながっていく。
「川尻定」


嵯峨本の存在を知らなかったので調べてみた。


国立国会図書館所蔵
「伊勢物語(いせものがたり)」 2巻 慶長15(1610)刊 1冊 27.2×19.0cm
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 古活字版。嵯峨本。嵯峨本は本阿弥光悦が嵯峨の豪商角倉素庵の協力を得て慶長から元和年間にかけて出版したもので、装訂に意匠を凝らしているのが特徴である。古活字版『伊勢物語』には多くの異版があるが最初の刊行は慶長13年(1608)。展示本は慶長15年(1610)の刊記がある具引き素紙刷。
慶長13年版をもとにして刊行した旨の刊語がある。挿絵と刊語は整版。ところどころにみえる書き入れは、歌人で若狭小浜城主であった木下長嘯子(1569-1649)によるといわれている。当館では本書の異植字版も所蔵する。


http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/isemonogatari/keityou/kaisetsu/index.html
より

川舟による水運開発で知られた角倉了意の子、角倉素庵によって、慶長13年(1608)以降、「嵯峨本」と呼ばれる一連の豪華な版本が出版されました。
「嵯峨本」は「角倉本」とも呼ばれ、また本阿弥光悦が協力したとされることから「光悦本」とも呼ばれますが、謡本や『徒然草』、『古今集』など、その種類は多岐にわたっています。その「嵯峨本」の中でも、最初に刊行されたのが、この『伊勢物語』でした。
 「嵯峨本伊勢物語」の本文は木活字を用いて印刷されましたが、木製の活字は欠けやすく、一度に少量の部数しか印刷できませんでした。
また、印刷後は活字をばらばらにして再利用するため、増刷する時はもう一度最初から活字を組み直す必要がありました。木の活字は形がまちまちだったので、同じ版をもう一度作ることは不可能でした。そのような事情から、「嵯峨本伊勢物語」には、たくさんの種類の版があることが知られています。 
「嵯峨本」の料紙は、一枚ずつ色を変えたり、全面に雲母(きら)を引いたり、下絵を描いたりした豪華なものですが、これらの「嵯峨本」は、売られたのではなく、身分の高い人たちに贈呈されたと考えられています。
「嵯峨本」の出版は、すぐれた文化人でもあった実業家、角倉素案によっておこなわれた、文化的な社会貢献の事業だったのです。
 「嵯峨本伊勢物語」には、上下2巻あわせて49枚の挿絵が含まれています。
その図柄は、室町時代以来の絵巻物や絵入り本の系統を引いていますが、大変すぐれたできばえで、江戸時代になって次々と刊行され続けた『伊勢物語』絵入り版本に、長い間、大きな影響を与え続けました。
 今回展示するのは「嵯峨本伊勢物語」そのものではなく、「嵯峨本」の刊行が終わってまもなく、その「嵯峨本伊勢物語」の各ページを、そのまま、古活字ではなく版木に彫って再現した覆刻版です。
「嵯峨本」の人気が高かったので、その需要に答えるために作られた一種の海賊版ですが、この本は、さらに付加価値を付けるために、手書きで彩色が加えられています。


関西大学電子展示室から解説、写真をお借りしてきました。
(初段・春日の里)…元服したばかりの主人公が、奈良の春日に鷹狩りにでかけ、思いがけず美しい姉妹を見つけて早速歌を贈る。室内に姉妹と女房(侍女)。塀の外では主人公が侍女に歌を手渡している。
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(二十段・楓のもみじ)…主人公が遣わした童が、女に楓のもみじを手渡している場面。
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(六十七段・生駒山)…和泉の国へ行く途中、雪景色の生駒山を見て歌を詠む主人公。
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by jumgon | 2011-03-15 15:04 | ★新聞きりぬき