古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

日本に初めてやってきた、ペルシア人

5月13日の朝日新聞の夕刊で気になる記事を見つけた。

【ナカニシ先生の万葉こども塾】

言問(ことと)はぬ 木すら紫陽花(あじさい)
諸弟(もろと)らが 練(ねり)の腎臓(むらと)に あざむかえけり
巻四の七七三番、大伴家持(おおとものやかもち)の歌

ことばを口にしない木だってアジサイは花の色を変える。ことば巧(たく)みなモロト奴(め)の占いにだまされてしまった
◎そういう意味ですか?想像もつきませんでした。  
 
● 作者は、諸弟という男に恋占いをしてもらったところ、成功するといわれたのに失敗したと、怒っています。 アジサイだって花の色をかえて人をだますのですから、口上手な諸弟には、かないません。では諸弟はどんな占いをしたのでしょう。
 「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にあります。当時肝臓占い(羊の肝臓で神様の祟(たた)りを占うこと)が広く行われていますから、その一つでしょう。
 そうなると、モロトという日本離れした人名は、中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません。
イスラム教の祈りのことばでもあります。ムラードとはミスター祈り。彼はペルシャからやって来た肝臓占師だったでしょうか。
 時の朝廷にいた李密翳(りみつえい)はペルシャ人らしい。
シルクロードがペルシャ文明を運んでいました。家持も、ペルシャかぶれで、失敗したのかもしれません。
(奈良県立万葉文化館長・中西進)

◇この記事の中で疑問に思ったこと

疑問 ①「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にありますという記述。
疑い深い私は先生の記事まで疑うという身の程知らず。
調べてみると、なるほどちゃんと出ている。

むらと 【▼腎】
腎臓(じんぞう)の古名。[和名抄]
[ 大辞林 提供: 三省堂 ]

疑問 ②「諸弟、もろと」は中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません、という記述
 じゃあ、「橘諸兄、たちばなもろえ」も中近東人?なんて思っちゃった。
 でも、これは「もろと」という音からムラードに結びつくので、漢字の「兄」「弟」の意味とは関係ないと自分に言い聞かせました。

疑問 ③李密翳【り・みつえい】
◎こんな人が時の朝廷にいたなんて、もうビックリ!本当かしら?
ついでに李密翳【について検索したら、こんなのが見つかりました。

李密翳【り・みつえい】
•朝日日本歴史人物事典の解説
•生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月,遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師,楽人,幻術師,商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが,正倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して,官営工房などに属し,技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)

◎なるほど「諸弟」なる人物がはるばる日本へ来ていたのか~。
異国の地へやってきてどう感じたのだろうか?
家持とは何語で話したのかしら?
十分に意思疎通できなかったから、自分の都合の良いように占いを解釈したのだろうか?
漢字で筆談?
ずっと日本に住んだのだろうか?
いつ頃まで滞在したのだろうか?


もっと何か情報はないかと検索したら、面白いサイトに出会いました。

橿原日記
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_05_02.htm
この方の記事はよく調べられていて信頼性が高く、よくお世話になっています。
(以下、上記の「橿原日記」より引用・省略改変あり)

昭和57年(1982)5月8日付けの東京朝日新聞の夕刊記事

以下記事のタイトルは、”イラン系医者は6世紀に来ていた”となっている。
読んでみると、当時は弘前大学医学部麻酔科の助教授だった松木明知氏と中世ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏の共同研究によって、イラン系の医師が初めて来朝したのは、これまでの通説である8世紀ではなく、6世紀の半ばであることを解明したというものである。通説では、天平8年(736)に遣唐使に従って来朝した李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人医師とされていた。
松木明知氏は、麻酔術が日本に伝わった時期を研究するため『日本書紀』をひもといて、見慣れない二人の人名に気づかれた。
欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。

欽明天皇はその前の年に隣国の百済(くだら)に対して、軍事支援の見返りとして「医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」と要求した。
要求に応えて百済から派遣されてきた交代要員の博士たちの中に、二人の医師が含まれていた。
松木氏は親交のあった伊藤教授に解読を依頼したところ、王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」の写音文字で「ワイ(神)によって助けられるもの」という人名であることが判明した。
潘量豊丁有陀についても、「ボリヤワーデン・アヤード」の写音文字で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」という意味であり、イラン系の医師であると判断したという。
その他に、天平8年(736)に来朝した李密翳(りみつえい)は医師とされているが、翳(えい)は中世ペルシャ語では楽人を表し、医師ではないこともほぼ確実になったという。

◎医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」とあるから、何年か日本に滞在したのでしょうね。

松木助教授は、昭和57年(1982)6月5日と6日の両日、京都市の京都医師会館で開催された日本医史学会でこの共同研究を発表されたようだが、どのような評価を受けたかは聞いていない。
◎この研究は学会で今認められているのでしょうか?
ペルシャ人の渡来に関しては、上に述べたように天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人とされている。その後、鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)もペルシャ人だったとされている。

だが、松本清張氏によれば、それ以前にペルシャ人の渡来を記した記述が存在する。例えば、斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、朝廷が召したという記録や、斉明天皇5年(659)に吐火羅(とから)人が妻の舎衛婦人とともに来たとする記録が『日本書紀』にある。

◎覩貨邏(とから)国については諸説あるようです。

ゾロアスター教の寺院は拝火の殿堂であり、そこで光の象徴としての純粋な聖火が焚かれ、祭官がこれを護持している。そのため拝火教とも呼ばれている。西暦226年にパルティアを滅ぼして西アジアを統一したササン朝ペルシア(222~651年)は、ゾロアスター教を国教と定めた。
そのため、ゾロアスター教はイラン人の宗教として、7世紀以降のイスラムの侵入までイランの人々の信仰のよりどころとなっていた。だが、イスラムがイラン国内に入り、各地で大発展を遂げると次第にゾロアスター教は少数派となり消滅していった。
古代イランのゾロアスター教は、後漢末から三国時代にかけて中国に伝えられ、5世紀頃には東西に分裂していた華北の北周や北斉で広まっていたという。
唐代には「けん教」と呼ばれ、都の長安や洛陽、敦煌や涼州などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。
景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。
◎「国際都市・唐」のイメージが少し想像できるようになりました。
中国にゾロアスター教を伝えたのは、中央アジアのソグド地方に居住していたイラン・アーリア族の住人である。ソグド地方は古代の東西交易路の三叉路にあたり、この地域の住民は商売がうまくその商業的活動は他の民族の追随を許さなかった。ソグド人は中国で「胡賈(こか、外国商人)」と呼ばれた。「胡」は中央アジア以西のイラン族を指す。
『後漢書』によれば、後漢の霊帝(168-188)は「胡服、胡帳、胡牀、胡座、胡飯、胡クゴ、胡笛、胡舞を好んだので、都の貴族たちは皆これにならった」と伝えている。

◎後漢の桓帝・霊帝の頃(紀元147~189年)といえば「倭は大いに乱れ、国どうしの勢力争いが続き、統一者が出なかった。卑弥呼共立(魏志倭人伝)」

胡の習俗は、後漢以来、中国では一種の先進文化として受け取られていた。ハイカラ趣味のように3世紀以来中国の貴族にもてはやされたのである。
ソグド人の商人はゾロアスター教徒だった。中国に商売のため逗留したり、居住したりする内に、その信奉する宗教が貴族の間で西域趣味としてもてはやされたこともあったろう。


これに関連したうららさんのブログを思いだしました。
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/c/df0eb88e365eff56a0bc9c32919440dd/3
うららさんのブログで
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木について言及されたものがあります。

ユーラシアの東の端・日本の法隆寺の香木。
その香木に不思議な不思議な文字がありました。
不思議な文字は、研究の結果、ソグド人のものであることがわかりました。

香木いずれも長さ約60cmで20cmほどにわたる刻銘があり、その端近くに焼印。
刻銘、焼印ともに漢字以外の文字であり、長い間その意味は謎とされてきました。

現在では、刻銘の文字はサーサン朝ペルシャ時代に使われた中期ペルシャ語のパフラヴィー文字で、銘の内容は「ボーフトーイ」(bwtwdy)という人名か香木のメーカー名。
焼印の文字はソグド文字の「ニームnym」と「スィールsyr」で、「2分の1シール(重さおよび貨幣の単位)」のことだった。
またその焼印には大きな十字架のマークがあるらしい。
ちなみにパフラビー文字とソグド文字の焼印はともにヘブル語から変化したアラム語です。

輸送の際、木材に荷主を判別するため押印をすることは古今東西広く行われていて、法隆寺の白檀二点の焼印・刻印がソグド語とパフラヴィー語であったことは、その流通・輸送にイラン(ペルシャ)系商人が深く介在したことを示しています。

白檀の原産地である東南アジアから積み出され、中国の広州や揚州などの市場を経て、最終的に法隆寺に納められたと考えられます。


東京国立博物館「法隆寺宝物館」の白檀について、言及されているブログが他にもありました。

http://blogs.yahoo.co.jp/cosmorama7272/53843534.html
(一部省略)
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木の実物は撮影禁止で、週刊朝日別冊に掲載された写真しかアップできません。

 10数年前、塔頭の屋根裏から香木が発見されたという記事には驚きました。 
白檀、栴檀、沈水香の3点の香木でしたが、これらのうち2つにはパフラビー文字(中世ペルシャ語)とソグド語の文字が刻印されているということでした。

 新聞や雑誌にはサイズが書いて無く、ただ写真だけでした。
 その形状から、ゾロアスター教徒が家庭で使用している香木と思いました。せいぜい直径1センチ、長さ10~12センチくらいのものと思いこんでいました。

 ところが実物は直径9センチと11センチで長さは80センチと90センチもあった。
 これは今でもゾロアスター寺院の一番大きなカップで使用している拝火のために使用している木のサイズだ。

 直径1センチ、長さ10センチ程度の香木はインドのゾロアスター教徒専用の仏具店で購入しているが、百段の場合、値段は日本円で200~300円もする。直径10センチ、長さ90センチなら数万、いや数十万はするだろう。

 通常、ゾロアスター寺院では、香木ではなく松か樫の木で火種を絶やさないようにしている。
 香木を使用するのは、よほどの祭事のときだけだ。

 沈水香は複雑な形の根っこだったが、ほかの2本は木の幹だった。
 栴檀のほうも白檀材となっていたから、2本とも白檀の木であろう。

 この香木に刻印されている文字を大阪大の東野教授は、「ボーイトーフ」と読みメーカーの名前か人名と断された。他方、大阪外大の井本教授は、「サオシュヤント」の方言形と言われた。 
◎学者によって解釈が異なるようです。
サオシュヤントは、ゾロアスター教でいう救世主である。仏教なら弥勒ということになろう。
 法隆寺夢殿に安置されている救世観音像と対応する。


以上の記述を事実だとすると
ペルシア人の渡来は

①欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。
②斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着した。
③天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)
④諸弟(大伴家持・718~785)の間のある期間、在日。
⑤天平勝宝6年(754)鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)
となります。

他にもいるかもしれないけど、それほど多くはないので日本文化に大きな影響を与えなかったような気はします。
大伴家持の歌にうたわれているので、それなりの交流があったように想像できます。

◎日本にやって来たらしいペルシア人?について調べているうち、だんだん古代の人間の交流について未知の世界へ運ばれてきました。
[PR]
by jumgon | 2011-05-16 17:39 | ★言語、歴史