古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

役小角って?

古い寺社を訪ねていると、その由来や歴史に頻繁に出てくるのが、この4名だ。
聖徳太子、役小角、行基、弘法大師

今回は役小角について調べてみよう。

わたしの知識、としては役小角って、修験道者で実在したかどうかわからないけど、修験道の行者の代名詞になってる者。宗教者というより異能の呪術者であり超能力?を持った人の代名詞だ。

ともかく自分が、思い込みで描いているだけなので調べてみよう。

役小角が出てくる記事(このブログ内)
http://jumgon.exblog.jp/15069811

金峯山寺のHPの説明から(一部改変)
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。
これが金峯山寺の開創と伝えられています。  


◎修験道ってそんなに古くはないのですね。飛鳥時代以前には遡らないとわかりました。
●葛城一言主神社には役小角の伝承がある。
一言主神社の亀石
「亀石」といえば、飛鳥の「亀石」を思い浮かべます、ここにも「亀石」が~
 その昔、役の行者が災いをもたらす黒蛇を封じるために乗せた石がこの亀石だという伝えがあるそうです。

●奈良県當麻市の当麻寺にも
當麻寺のそもそも 
612年、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。
その後、親王の夢に従って、681年、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が、役の行者(えんのぎょうじゃ)開山の地へ移したのが當麻寺(当麻寺・たいまでら)です。
 金堂(こんどう)に本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。
次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍(がらん)が整えられました。
中之坊(なかのぼう)は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。

大阪葛井寺にある役の行者像
f0215268_10433119.jpg


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見てみよう。

役小角
舒明天皇6年(634年)伝 ~ 大宝元年(701年)伝
幼名小角、金杵麿
諡号神変大菩薩
尊称役行者、役優婆塞
生地大和国葛城上郡茅原村(現奈良県御所市)
宗派修験道

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年(701年)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。

•出自
役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる。役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという。
また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる。

o役民とは?
律令制下の租税の一種として、無償労働にかり出された者のこと。

•続日本紀にみる役小角
『続日本紀』は、文武天皇3年(699年)5月24日に、役君小角が伊豆島に流されたことを伝える。同書によれば、小角ははじめ葛木山(金剛山・葛城山)に住み、呪術によって有名になった。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になった。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。
『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した史書で、基本的には創作された話が入る性質のものではない。 同書はまた、2年後の大宝元年(701年)11月に大赦があったことも伝えるが、役小角個人には言及しない。

•日本霊異記にみる役小角
役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。
後世に広まった役小角像の原型である。
荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。
霊異記で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。
若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。
役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。
大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。

•その後の役小角像
634年に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。17歳の時に元興寺で学ぶ。
このとき、孔雀明王の呪法を学んだと言われる。
その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
二十代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。
699年に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となり、701年に疑いが晴れて茅原に帰る。
701年6月7日に68歳で箕面の天上ヶ岳にて入寂したと言われる。
後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。
天河神社や大峯山龍泉寺など殆どの修験道の霊場は、役行者を開祖としていたり、修行の地としていたりするなど、必ずと言っていいほど、結び付けられている。

•信仰
役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。

•肖像
修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。
•伝説
葛飾北斎『北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角
f0215268_10324685.jpg

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。
しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。
そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。
すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。
また、役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。

また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。


ネットで調べていると役行者についてはいっぱいかかれている。

そのなかで興味深いのは
天武天皇の年齢研究だ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-e.htm/#_top
すっかり読みふけってしまった。天武天皇と役行者の関わりについて述べられている。

ここではwikiと重複するが、役行者の実像を引用する。

•役行者の実像(一部省略)
行者の素性ははっきりしています。日本霊異記によると、

役優婆寒者、賀茂役公。今、高賀茂朝臣者也。大和国葛木上郡芧原村人也。

役行者こと役小角(えんのおづの)は賀茂氏の一族で役公(えんのきみ)であることから名づけられたようです。延暦の頃には賀茂氏の本宗家といえる高賀茂朝臣(たかかものあそん)を名乗ることになる由緒正しい家柄です。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の出身です。続日本紀でも葛木山に住んでいたというから矛盾はありません。
優婆寒(うばそく)であるといいます。僧侶ではないのです。在家のものですが帰依三宝(仏、法、僧)を重んじた僧の一歩手前のような立場といえます。
かなりのインテリで、中国の書物に深く傾倒し、舶来の儒教、道教、仏教に精通していました。
ここで三教を論じるつもりはありませんが、この頃の教えはそれぞれがいい意味で影響しあい、混然としたものでした。
儒教は孔子によってまとめられた、すぐれた中国思想です。
道教は中国独自に古くからある多神教です。
仏教はインドから伝わる一神教です。

ひとつになることはありませんでしたが、それぞれに影響を与え、独自な発展を遂げたものなのです。
日本霊異記の作者は僧侶ですから、役行者が仏教を深く信仰したという書き方になっていますが、彼の知識は仏典だけに留まらなかったと思われます。
しかも彼の行動から察するに、彼の興味はむしろ道教にあり、とくに自然とともに生きる仙道に共感しながら、「抱朴子」などに描かれた仙人に自らなることを本気で目指していたと思われます。
「初老を過ぎた四十余歳」といいますから673天武2年頃でしょうか。彼の生年は諸説ありますが、たぶん天武天皇の壬申の乱前後と思われます。
この歳になってもまだ、岩屋に籠っていたと書かれます。
ところが後に、讒言にあって、伊豆の島に699文武3年5月24日に流されたのです。天武天皇崩御から13年後のことでした。

[PR]
by jumgon | 2011-05-26 10:44 | ★言語、歴史