古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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日本人はどこからやって来たか?②

日本人~はるかな旅展 より

黒潮の民・・・スンダランドからの旅立ち
およそ6万年前にアフリカを出発し東南アジアにやってきた新人(ホモ・サピエンス)たちは、海水面の低下によって生じた広大なスンダランド(インドネシアとその周辺を含む亜大陸)を発見しました。
彼らは、気候がよく豊かな食物資源に恵まれていたスンダランドで人口をふやし、次への発展に備えていました。
ある人々は、海を越え、東隣のサフールランド(オーストラリアとニューギニアを含む大陸)へと旅立っていきました。
また、陸を踏破し海を越え、何世代もかかって、中国や日本列島にやってきた人々もいたことでしょう。

○スンダランドは海洋民の故郷
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約7万年前頃からはじまる最終氷期には、海水面が低下したり上昇したりをくりかえしました。
海水面が低下したときには、現在のインドネシア付近の島々は、ひと続きとなってスンダランドと呼ばれる陸地になっていました。
海水面が上昇したときには、今と同じような島々に分かれました。
アフリカからきた新人(ホモ・サピエンス)は、陸上の食物だけでなく、丸木舟やイカダを使って海洋の食物を利用し、徐々に人口をふやしていきました。
東南アジア海洋民の誕生といえるでしょう。
やがて、彼らは、ここスンダランドを新しい故郷として、アジア各地に移住・拡散していきました。
丸木舟で黒潮に乗って北上し、琉球列島にまで到達した人々がいたことでしょう。彼らの子孫が、港川人や縄文人になったと考えられます。

◎日本神話や昔話にオセアニアなどの地域と共通のもの(ハイヌエレ神話)がありますね。
 もう何十年も昔に初めてこれに関した本を読んだとき、短絡的に「源日本人はオセアニアからやって来た」なんて思いました。そのうちそんな単純なものではないと知ったのですが~


ハイヌウェレ型神話について
ひもろぎ逍遙でも言及されています。
http://lunabura.exblog.jp/15336975

ハイヌウェレ型神話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハイヌウェレ型神話(ハイヌウェレがたしんわ、ハイヌヴェレとも)とは、世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。ヴェマーレ族のハイヌウェレの神話は次のようなものである。
ココヤシの花から生まれたハイヌウェレという少女は、様々な宝物を大便として排出することができた。
あるとき、踊りを舞いながらその宝物を村人に配ったところ、村人たちは気味悪がって彼女を生き埋めにして殺してしまった。
ハイヌウェレの父親は、掘り出した死体を切り刻んであちこちに埋めた。すると、彼女の死体からは様々な種類の芋が発生し、人々の主食となった。

この形の神話は、東南アジア、オセアニア、南北アメリカ大陸に広く分布している。それらはみな、芋類を栽培して主食としていた民族である。
イェンゼンは、このような民族は原始的な作物栽培文化を持つ「古栽培民」と分類した。彼らの儀礼には、生贄の人間や家畜など動物を屠った後で肉の一部を皆で食べ、残りを畑に撒く習慣があり、これは神話と儀礼と密接に結びつける例とされた。
日本神話のオオゲツヒメや保食神(ウケモチ)・ワクムスビにもハイヌウェレ型の説話が見られ、東南アジアやオセアニアから伝わったものと考えられる。
しかし、日本神話においては、発生したのは宝物や芋類ではなく五穀である。よって、日本神話に挿入されたのは、東南アジアから一旦中国南方部を経由して日本に伝わった話ではないかと考えられている。

○黒潮圈文化
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黒潮は日本海流とも呼ばれる暖流であり、世界で最大最強の海流です。
黒潮は、フィリピンの東海上で誕生し、太平洋岸を流れ、日本列島の中央部以北まで到達します。
氷期には、海水面が下降していたために、黒潮は日本海には入り込んでいませんでした。
約8000年前頃になると、黒潮本流は東シナ海のトカラ海峡あたりで二分し、分流(対馬海流)が北上し日本海側に流入しました。
こうして日本列島の広い範囲が黒潮の影響を受けることになり、現在と同じ温帯モンスーン気候になりました。日本列島の文化は、温かい黒潮の恵みを多く受けており、黒潮圏文化と呼ぶことも可能です。
鹿児島の栫ノ原(かこいのはら)遺跡から、身が円筒形で刃部が丸ノミ状であり、頭部が亀頭状にふくらんだ珍しい形態の磨製石斧が発見され、「栫ノ原型石斧」と命名されました。栫ノ原型石斧はチョーナ型(横斧)で、その用途は木材伐採や一般加工ですが、特に「丸木舟」の製作に使われたと考えられます。


○栫ノ原(かこいのはら)遺跡(鹿児島)栫ノ原遺跡出土 丸ノミ形石斧(レプリカ)NHKスペシャル制作班蔵
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浦入遺跡の丸木舟・・・縄文時代の外洋船
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日本でも縄文時代には、人々が海と深くかかわっていたことを示す証拠があります。
京都府舞鶴市浦入遺跡は、日本海に面した舞鶴湾の外海との出入口に位置しています。
この丸木舟は舳先(前の方)を南の海側に向けて約50cmの深さに埋まっていました。
丸木舟をよく観察してみると、材料は直径2m前後のスギ材を半割りしたものであり、焼いた石を表面に置いて木材を焦がしながら、磨製石斧でくりぬいたものであることがわかりました。
遺跡周辺からは、桟橋の杭の跡、錨として使った大石なども発見され、当時の船着場と考えられます。遺跡の位置からして外洋漁業の基地だったのでしょう。

○黒潮の道ー南方旧石器文化の流れ
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東南アジアの島々から南中国、台湾にかけて、不定形の剥片を使用した旧石器文化が分布しています。
同様な石器群が、琉球列島の徳之島、奄美大島、さらに東京・武蔵野台地の旧石器遺跡にも確認されており、南方からの石器文化の流れがあったと考えられています。

私たちの祖先港川人
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港川人というのは、沖縄県具志頭村港川石灰岩採石場で1970年に大山盛保によって発見された化石人骨に付けられた名前です。
彼らの年代は、放射性炭素法によって、1万8000~1万6000年ほど前と推定されています。港川人の骨は4体分の骨格が残っていて、これらの人骨によって後期更新世時代の日本人の祖先がどのような姿形をしていたかが初めて明らかになりました。
港川人の骨は、日本人の祖先の骨格として重要なだけでなく、東アジアの新人化石の中で最も保存が良く、アジアにおける新人の進化を解明する上で貴重な資料です。

○港川人から縄文人へ 
港川人は、顔は縄文人と似ていますが、前頭骨が小さく後頭骨の上半分が突出する点や四肢骨の筋肉付着部が発達していない点では、縄文人とは似ていません。
上部港川人や浜北人は、時代も新しく、大腿骨の筋肉付着部が発達しているところは縄文人とそっくりです。

おそらく、港川人と同じような人々が、生活技術の発展あるいは環境の変化によって上部港川人や浜北人のような人々に進化し、さらに縄文人になったのでしょう。やがて、縄文人は、日本列島各地で人口をふやし、独自の豊かな文化を築いていきます。


                                  つづく



                                     
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by jumgon | 2011-06-01 12:01 | ○日本人はどこからやって来たか