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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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道照と役小角

役小角や行基に興味をもちだした私が今注目しているのは道照という僧です。

道照は役小角や行基と接点のある僧なのです。

今回は「道照と役小角」の関係を探っていきましょう。

道照(道昭)  629年生れ~700年没
役小角     634年生れ~701年没
ほぼ同時代の人物です。

●まず道照の履歴を見ていきましょう。
629舒明1年( 1歳)河内国丹比郡に生まれる。若くして飛鳥寺(元興寺)に住む。
653白雉4年(25歳)5月、遣唐使、貞慧もこのとき参加。玄奘三蔵に師事。

◎貞慧(貞慧・定恵とも書かれる)は藤原鎌足の長男、不比等の兄です。満10歳?

661斉明7年(33歳)この頃帰国。元興寺の東南隅に禅院を建立。弟子に行基など。

669天智8年(41歳)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679天武8年(51歳)10月の勅により、京にもどる。
680天武9年(52歳)天武天皇の勅願により、往生院(大阪府泉南市牧野)を開基。
692持統6年(64歳)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。

698文武2年(70歳)大僧都に任命される。(疑問とする説も多い)
700文武4年(72歳)3月10日没。座禅のまま没した。「記録上火葬された最初の人物」

◎653白雉4年(25歳)5月、遣唐使として、中臣鎌足の長男貞慧らとともに参加します。中国ではあの孫悟空で有名な玄奘三蔵に師事したとあります。玄奘三蔵について気になる記事があるので引用いたします。
http://www.sportsclick.jp/combat/01/index10.htmlより
●玄奘三蔵について
インドへ取経の大旅行を敢行したあの玄奘三蔵は少林寺で修行したことがあると思われる。。

●嵩山少林寺
拳法の寺として知られる嵩山少林寺の開基者・仏陀禅師はインドの人で諸国をへめぐった後、北魏の孝文帝の庇護により嵩山少林寺を開創(496年)する。
仏陀禅師の高弟・慧光、僧稠も武術をよくしたといわれ、その法系には仏陀禅師が没し、その10年あまり後にダルマさんの愛称で親しまれているインド僧・達磨が中国にやって来た。

◎この記事を見ると、道照や貞慧も玄奘三蔵から拳法(武術)の修業を受けたと思われる。

さて道照は660斉明6年(32歳)頃帰国したようです。もといた元興寺の東南隅に禅院を建立し、ここを基点に修行したようです。

そこでこの役小角と道照の接点です。
日本霊異記に紹介された役小角を「聖」すぐれた能力者であると認めた人物に道照がいます。
道照について、続日本紀はまれにみる長文をもって彼の小史を載せています。

日本霊異記22にも載せられた讃辞より長いのです。朝廷からの信頼の大きさがわかる一文です。

その道照が若い頃から修行に励む役小角を褒め称えたようです。山に籠り厳しい修行を自分に課す仙人、役小角行者を知るものだからこその讃辞です。

黒岩重吾氏は「役小角仙道剣」で役小角にこうした舶来の学問を授けたのは、道照あたりではなかったと卓越した視点で書いておられます。

伝承でも650白雉1年 役小角17歳のとき、飛鳥寺(元興寺)で、孔雀明王の呪法を学ぶとあります。このとき、道照も飛鳥寺にいたはずです。唐に留学する前ですね。少なくとも、この頃から道照と役小角は知り合いであるわけです。


○孔雀明王とは
元々は梵名は孔雀を意味するマカマユリ。
孔雀は毒蛇を食すので一切の害毒を除き浄化する功徳を神格化した女性の明王。仏母大孔雀明王菩薩ともいいます。
 インドではコブラなどの毒蛇を食べる孔雀を益鳥として大切にしていました。
毒蛇は人の世の煩悩や汚れにたとえられるので、毒蛇を退治する孔雀は神格化されました。また、雨期の到来をいち早く告げてくれるので慈雨をもたらす有り難い鳥としてインドの国鳥にもなっています。

経典と信仰
「仏母大孔雀明王経・不空訳」。「「孔雀王呪経」に孔雀明王が前生で僧であったとき毒蛇にかまれ死んだので蛇毒を除く誓願を立てたとされる。
修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)はこの孔雀明王を信仰して超人的仙術を得、飛行自在になったという。
◎飛行自在だなんて、ちょっと信じられない!!
 高度な肉体能力があったので、誇大に神秘化されたのだと思う。
 でも役小角は道照や行基とは違ってその力を社会事業には発揮しなかったのですね。
 ただの超能力者におわったみたい。(これはわたしの単なる印象です。)


また、天台密教の伝教大師最澄、真言密教の弘法大師空海など密教でもこの仏を重要視し雨乞いや息災を祈願する孔雀明王法が修された。平安後期から鎌倉時代にかけ信仰を集めた。


もう少し、道照を追います。

続日本紀 700文武4年

「3月10日 道照和尚が物化(死去)した。天皇はそれを大変惜しんで、使いを遣わして弔い、物を賜った。和尚は河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連、父は少錦下(従五位下相当)の恵釈である。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。~」宇治谷孟 訳

日本で記録上、火葬すなわち荼毘に付された最初の人物と言われています。

そして、2年後、702大宝2年12月22日、持統太上天皇も火葬されました。

皇室でも初めてのことと言われます。明らかに、道照を見習ったものです。道照の教えに大きな影響をうけ仏教に帰依したものです。

これはとんでもないことだったはずです。一般の古い風習に従わず、愛し尊敬し続けた夫、天武天皇の持つ死後の道教の概念を踏襲することなく、自分の肉体を1年後の12月17日とはいえ火葬させたのです。
この一年におよぶ殯(もがり)の儀式は行われ、復活への思いは残したようです。

◎持統天皇が自分を火葬させたなんて知らなかった。
私の持統天皇へのイメージはこれで変わりました。

by jumgon | 2011-06-08 00:25 | ○道照・行基・役小角