古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

呉からやってきた、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)

弟媛はどこに行った?

日本書紀に
応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。
という記述がある。

阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。
道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王はクレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。
呉の王は工女、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。

応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。

この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。

◎応神天皇37年の春2月1日から応神天皇41年春2月、ということはまる4年かかったということですね
この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。

筑紫国に残った「兄媛」に関しては
ブログ<ひもろぎ逍遙>
http://lunabura.exblog.jp/
で詳しく述べられています。

残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。
三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。

この続きを
ブログ<ちょっと歴史っぽい西宮>
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402344.html?1307885430#comment-form
よりお借りして書いていきましょう。(一部省略・改変)

ここまでは正史(日本書紀)に記載があります。そしてここからは伝承です。

女性技術者三人を含む阿知使主一行は西宮につきます。阿知使主らは往復で4年。呉を出発してからも長い日々だったでしょう。
一行は武庫の港に上陸、そしてしばしの休憩をとります。そこは、松原が広がる風光明媚な場所であったようです。彼女らは松に身を寄せ、故郷を偲んだとされています。 

その場所には現在、喜多向稲荷神社があります。北に向かっておられるのでそう呼ぶのだと思いますが、御祭神は「織姫大明神」です。

「史蹟 漢織呉織松 染殿池」と石碑にあります。この石碑は大正時代に建てられたもので、そのときはまだ松があったのですね。
日本書紀では「穴織(あなはとり)」でしたがここでは「漢織(あやはとり)」となっています。「綾織」とも書いたりします。
その漢織呉織松はもう枯れてありませんが、染殿池は神社裏にあります。

彼女らはこの池の水を使って糸を染め、布を織ったとされています。今見ればこの池は「水溜り」でしかありませんが、かつては清らかな水がこんこんと湧いていたのでしょうか。
 あれ、武庫の港に着いたのは兄媛を除く3人だったはず。弟媛はどこ行ったんかいな?と思いますけど、これはあくまで伝承。

ところで、この伝承とほとんど同じ話が、大阪の池田市にも残っているのです。
しかも、あっちのほうが充実している(笑)。

その池田の名を冠した「伊居太(いけだ)神社」も正式名は穴織宮伊居太神社で式内社、さらに「呉服(くれは)神社」もあり、その両社の神主は阿知使主の末裔。

この呉服神社から、和装衣服のことを「ごふく」と呼ぶようになったという、実に完璧な伝承です。
染殿井もあります。染殿池ならこっちにもありますが、池田には織殿も「星の宮」として伝えられ、穴織、呉織の没年も伝承として残り、阿知使主らとともに相当に顕彰されています。

池田で歴史散策をやれば、穴織・呉織ゆかりの地が中心になってしまうかも。うーむ。
 しかし、日本書紀には「武庫」に着いたことはちゃんと書かれてあることです。
矛盾無く説明するとすれば、まず一行は西宮に着き、そして仁徳天皇に謁見、そしてその後池田に居を構え、日本の紡績業の元祖としてその発展に力を尽くし、池田に没した。池田には伝承として墓もあるそうです。
 猪名川河畔に「唐船ヶ淵」という史跡があって、彼女らはそこから上陸した、との伝承だけはちょっと納得がいきませんが。着いたのは「武庫」だろう?(笑)。

ところでさっきも書きましたが、日本書紀には「既而率其三婦女」とはっきり書かれています。ところが池田においても「呉織・穴織」の二人です。
 弟媛の足跡が全然たどれません。もしかしたら、彼女は長命できなかったのかも、とそんな想像もしてしまいます。
だとすれば、遠い日本に連れてこられて、織物をこの異国の地に根付かせようという青雲の志もあったやもしれませんが、姉と強引に別れさせられ、そして足跡も残らなかった「おとひめさま」のことに、僕は思いを馳せてしまったりもするのです。

◎「池田には伝承として墓もあるそうです」って!!
 確かあとの三人は飛鳥の栗原に居住したのではなかったかしら?
 一体何が本当のことなのかしら?



●栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 栗原の集落は、呉(くれ)の国(当時の南宋?)から連れてこられた渡来人が住み着いたのが、その始まりと考えられている。
雄略天皇は倭の五王の一人で、当時の南朝政権・宋に遣使して上表文を奉ったことは有名だ。
『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛した。
いずれも朝鮮系の渡来人である。以下に示すように、二人は何回も呉の国に派遣されている。

•雄略8年2月、身狭村主青、檜隈民使博徳を呉の国に派遣。
•雄略10年9月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の国から鵞鳥(がちょう)を持って帰る。
•雄略12年4月、身狭村主青、檜隈民使博徳、再び呉の国へ使い。
•雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国。呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まる。
呉人を檜隈野に住まわせた。それで呉原と名付けた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖である。
 

◎日本書紀の応神記と雄略記を比較してみましょう。
応神記では
使いは、『阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)』・『宗像に兄媛を留めた』・『武庫の津につく』・『武庫に着いたのは遣いのものと3人の工女』

雄略記では
使いは、『身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)』・『宗像での話は無し』・『住吉に着く』・『住吉に着いたのは遣いのものと4人の工女』

だいぶ整理されてきた。
ナルホド、二つの話がごっちゃになっていたのだ。

阿知使主の時は多分「西宮」にも「池田」辺りにも滞在して足跡を残したのだろう。

◎ちなみに、前回の記事で僧、道照が火葬されたのは 「明日香村栗原」だって覚えてられますか?
[PR]
by jumgon | 2011-06-14 20:20 | ★言語、歴史