渡来人について
2011年 06月 16日
いろいろな時期にやって来た渡来人がいるようなので、整理してみよう。
渡来時期を4つに区分すると・・・
Ⅰ 紀元前2~3世紀 弥生時代に日本に定住した。
Ⅱ 5世紀前後 倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
Ⅲ 5世紀後半~6世紀 今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
Ⅳ 7世紀 百済・高句麗などから亡命してきた。
4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。
[Ⅱ 5世紀前後 倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人]
秦氏
秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。
弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。
土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。
大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。
東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。
東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。
平安時代になると,東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではない。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので,互いに対抗意識をもっていたのかもしれない。
西文氏(かわちのふみうじ)
西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で,古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え,日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていた。
[Ⅲ 5世紀後半~6世紀 今来漢人(いまきのあやひと)]
5世紀後半頃,今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述がある。
東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)鞍作(くらつくり)金作(かなつくり)の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。
蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていった。
◎http://jumgon.exblog.jp/16100144/野中寺(羽曳野市)でお話した船氏は今来漢人である「王辰爾」を祖としています。
[6世紀頃、来日した渡来人]
彼らは大王家や蘇我氏に仕え、活躍しました。
(1)513年、段楊爾ら五経博士が百済から渡来しました。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えました。
(2)522年、司馬達等が渡来しました。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝しました(『扶桑略記』)。司馬達等の孫が鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏です。
(3)554年、医博士・易博士・暦博士が渡来しました。
(4)602年、百済僧の勧勒が渡来しまし、暦法・天文地理の書を伝えました。
(5)604年、初めて暦を使用しました。
(6)610年、高句麗僧の曇徴が渡来し、紙・墨・絵の具を伝えました。
(7)612年、百済人の味摩之が渡来し、伎楽舞を伝えました。
[Ⅳ 7世紀 百済・高句麗などから亡命してきた。]
7~9世紀にも多くの渡来人が日本に来ている。
白村江の戦いのあと,百済から多くの渡来人が亡命してきた。
その中には百済・新羅の役職をもって渡来した氏族もおり,子孫らは奈良や琵琶湖周辺に多く居住した。さらに,唐から遣唐使とともに来た渡来人たちもいて,朝廷の政治に大きく関わる者もいた。
日本書紀に「余自信・鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」(天智8年(669年))という記述がある。
鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いで活躍した百済の将軍鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭にまでなっている。彼らをこの地に移住させ,荒れ地の開墾をさせたのではないかと考えられている。