古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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渡来人西文(かわちのふみ)氏創建の「西琳寺」

渡来人西文(かわちのふみ)氏創建の「西琳寺」
(所在地:羽曳野市古市2丁目)

30年近く前「ふるさと歴史散歩」で古市(大阪府羽曳野市)周辺を訪れたことがある。
少し遠いけれどチャリンコで行けないこともない近さだ。
そのとき「西琳寺」へ行ったことは覚えている。
渡来人が創建したと解説を聞いた筈だけど、その「渡来人が」が西文(かわちのふみ)氏らしいことまでは覚えていなかった。
調べてみるとやはり西文(かわちのふみ)氏の創建らしい。
久しぶりに訪れてみよう。

近鉄南大阪線の古市駅から東へ5,6分も歩くとつく。近くには白鳥神社もある。
近いけど見つからないので通行してる方に教えてもらった。

西琳寺西門全景
f0215268_2291252.jpg


境内は広くない。でも古い大きな銀杏の木があり、歴史を感じさせる。
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門を入ると左手に大きな塔心礎がデーンとすえられている。
「これ、本当に塔心礎なの?」というくらい大きい。
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●塔心礎(3.2×2.3×1.5m・約27t)
メチャクチャ大きい!というのが第一印象です。それに27tって重い
wikiには27トンと書いてあるが、2トンとか2,6トンと書いてあるサイトもある。重すぎてピンとこないけどどっちが本当なんだろう?
この前訪問した野中寺の塔心礎と比べると大きさの違いに驚き!

今は、その巨大さを誇るのみになってしまった心礎が、境内西に戻されています。(以前は、大和川堤で碑の台座として使用されていたそうです。)
心礎には、心柱を支える為の添柱穴も見られ(4個か5個か判別不能)、舎利埋納孔は添柱孔の横に穿たれていたそうです。雨水の為に見ることのできない心礎孔の底辺には、「刹」という文字が刻まれているそうですが、創建時のものではないという説もあります。
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塔心礎を上から写した写真です。
http://www.geocities.jp/stupacaitya/touato/27osaka/sairin/sairin.html
からお借りしてきました。
こんな大きな石の上面をどうやって撮ったのかしら?今の状態だったらよじ登ってまで撮せませんよね。
心礎の窪み、変わった形ですね。

そういえば、野中寺の心礎の穴は花びらみたいな形でしたね。
f0215268_2224744.jpg

野中寺
http://jumgon.exblog.jp/16100144/

この奥に石造五輪塔がある。
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●西琳寺石造五輪塔
昭和32年(1957)、工事中に高屋城跡の土塁の下からばらばらに埋められた状態で出土した。
文安3年(1446)の「西琳寺流記」に見える「高屋宝生院」の叡尊、総持、道明寺開山の超運尼、浄意、空忍ら西琳寺に関係した高僧の供養塔とされる。
いずれも花崗岩製で最も大きな叡尊塔とされるものは高さ3.1mあり、鎌倉時代の特色を備えた重厚なつくりである。


さて、wikiより概略を見てみましょう。

Wikiより
沿革
欽明天皇の勅願寺として建立された向原寺が起源とされ、8世紀後半に百済系渡来人の王仁博士の後裔である西文(かわちのふみ)氏が開基とされる。

創建時は現在よりも一回り大きい寺域(東西109m、南北218m)を有し、難波宮と飛鳥を結ぶ日本最古の街道である竹内街道に面していた。
出土品の瓦などから飛鳥時代創建は確実であり、境内の庭に置かれた高さ2m近い塔礎石は重量は27tを超え、塔礎としては飛鳥時代最大のものである。
●これまでの発掘調査によって、創建は飛鳥時代(7世紀前半)であり、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置の寺であったと推定されている。
679年には七堂伽藍が完成しており、流記資材帳によると743年まで七堂伽藍を揃えていたことを確認できるが、安土桃山時代の兵火と明治時代の廃仏毀釈により中世以前の堂塔ほぼ全てを喪失した。
◎743年ということは聖武天皇の時代です。

●鎌倉時代には、奈良西大寺の僧・叡尊(えいそん)が、寺を中興し、広い寺領を所有し隆盛をきわめた。
東西一町(約109m)、南北二町(約218m)の寺域を持ち、金堂・講堂・五重塔・回廊・鐘堂・食堂。僧坊などを備えた堂々たる大寺院だったという。
それが、天正年間の兵火や明治の廃仏で、建物の殆どを失ってしまった。


羽曳野市HPを見ましょう

西琳寺は、7世紀前半(約1,350 年前)に有力な渡来系氏族の西文氏(かわちのふみうじ)によって建立された寺院です。
西文氏は当時の政府内では文筆、記録や外交の職務を担当していました。
現在でも法灯を掲げる古刹ですが、かつては広大な敷地を有し、古代幹線道路の 丹比道(竹内街道)や東高野街道に面した寺域が復元されています。
当時の建物は現存していませんが、西に金堂、東に塔を配する法起寺式伽藍配置をとるものと考えられています。
現境内には、塔の心柱を支えた巨大な礎石が保存されています。また、主要建物の屋根を飾っていた鴟尾が発掘調査で出土しています。
この鴟尾には、蓮華の模様など他に例を見ない見事な装飾が施されています。

 現在鴟尾は、羽曳野市有形文化財に指定され、市役所1階ロビーに展示されています。
ガラスケースに入っていて光ってうまく撮れないのでHPからお借りしました。
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次の二枚の写真左側は裏側(腹側)から撮したものです。
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●鴟尾の全体がうかがえる稀少な例である。胴部と側面と鰭部には段違いの羽根状の模様を削り出し、腹部には火焔宝珠(かえんほうじゅ)と蓮華文(れんげもん)が浮彫りされており、仏教芸術の 新たな史料として注目される。

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by jumgon | 2011-06-19 22:30 | ○西琳寺(羽曳野市)