天平の僧 行基
2011年 06月 21日
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gyouki.html
千田 稔著 「天平の僧 行基」
などを参照しました。
行基 ぎょうき
•生没年 668(天智7)~749(天平21)
•系譜 父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。
•[略伝]
668年 河内国大鳥郡(現堺市)に生まれる。
683年 15歳で出家。
(出家得度したお寺は、飛鳥寺、大官大寺など諸説ある。飛鳥寺にはこの時道照がいた筈だが~)
692年 24歳の年、受戒。
(持統5年・行基菩薩伝によれば戒師は高宮寺徳光禅師であると記している。)
◎高宮寺というのは、奈良県御所市(ごせし)にある「高鴨神社」の南西、標高550メートルの所に金堂跡と搭跡の礎石と基壇が残り瓦も出土しています。)
高宮という地名がでてくる、日本書紀・神功皇后摂政5年の記述
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。
皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。
http://jumgon.exblog.jp/i42/に書いています。
◎この高宮という土地は、高宮寺や高鴨神社のある辺りである。襲津彦の娘・仁徳天皇の皇后、磐之媛の実家があったところです。
◎この地図に蘇我氏勢力圏がのってますね。
呉からやってきた、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり) の記事に
•雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国身狭・檜隈はこの辺ののことだったのです。 ⇔http://jumgon.exblog.jp/page/2/
ちょっと脱線しました。行基に戻りましょう。
•初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。(このあたりが役小角と共通点を感じる。)
•705年頃、(37歳頃)山を出て民間布教を始めたという。
●710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。
•717(霊亀3)年(49才)、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。
この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。
また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続けた。
●722年(養老6)年(54才)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。
•723(養老7)年の三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。行基の影響力を無視し得なくなった。
三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは
●奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。
●法の主な内容
灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。
◇思うように効果があがらなかったようで,20年後には墾田永年私財法が出された。
年代暗記:三世一身の法(ほう)…なにさ(723)3代ばっかしで
●731(天平3)年 朝廷は、、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許した。
●740(天平12年(行基72才)頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。
同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。
•聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17・行基77才)年正月には、異例の大僧正に任じている。
また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。
●749(天平21・行基82?才)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。
◎ 道昭と行基は師弟関係については、師弟関係はなかったとする意見もある。
師弟関係ではなかったとしても、行基が出家してまもなく飛鳥寺にとどまり、そこに唐より帰った道昭がいて「天下行業の徒、和尚に従ひて禅を学べり」(續日本記)とあることから察して、行基が道照の影響を受けたと見るべきだろう。行基の後年の社会事業、つまり利他業は、道照のもとで学んだことによる見たほうが自然だろう。
道照と行基の関連
629年 道照(0才)
668年 行基(0才)、道照(40才)
669年 道照(41才)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679年 道照(51歳)10月の勅により、京にもどる。
683年 行基(15才)出家 道照(54才)
692年 行基(24才)受戒・道照(64才)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。
693年 行基(25才)薬師寺 道照(64才)
698年 道照(70歳)大僧都に任命される。 (疑問とする説も多い)
700年 道照(72歳)3月10日没