白鳥神社は何時からあったのか?
2011年 06月 26日
(大阪府羽曳野市古市1-1 )
ネットで検索して、びっくりした!
なんと白鳥神社は全国にどっさりあるのだ!
東北から九州まで~。
ヤマトタケルは全国を平定して回ったと、記紀に記されているからあちこちにヤマトタケルを祀る神社があってもおかしくないかも、、、、。
さてともかく白鳥神社を訪ねてみよう。
古市駅から2,3分もいくと商店街の左手に鳥居がある。(行きしなには気付かなかった。)
西琳寺を探すためにその道を通り過ぎ次の角で左に曲がる。
道の左手奥に鳥居が見える。
一の鳥居です。
入っていくと右手は小学校になっていて、学校の前にしめ縄をまいた木があった。
(御神木につき周囲をきれいにしましょう)と書いてある。昔はここも境内だったのかしら?
二の鳥居から階段をあがると本殿です。
本殿の前には大きな灯籠が一対ありますね。
上の灯籠の裏側に
〈文政5年壬年8月〉
(石工 山田村 武兵衛)
と刻印がある。
文政5年(1822)に村の人たちが寄進したのかしら?
本殿左手にある灯籠には(油働中)の刻印
油関係の商人の組合・講?が寄進?
境内をお掃除していたおじさまに聞いたけど「油働中の意味はわからないけど寄進者の名前です」とのこと。
本殿のなかを覗かせてもらいました。
鏡があります。「伊岐宮」の額も、、、
それと壁には奉納額絵がありました。
●奉納額絵
菊水法憲会
「楠勢 渡邉橋畔に敵の病兵を救う」とある。
楠正成と白鳥神社は何の関係があるのかしら?
菊水法憲会って河内の英雄、楠正成を顕彰する会?
この額絵、何時からあるのかしら?
かなり新しそうです。
境内左には白長大明神(はくちょうだいみょうじん)と書かれた稲荷っぽい鳥居
昭和50年3月の寄進者名碑がありました。
村社として生きている神社なのですね。
本殿の屋根の飾り?が不思議な感じがしたので写真をパチリ。意味があるのかないのか~
さて、神社にある説明版を読んでみましょう。
歴史街道 白鳥神社
白鳥神社の社伝によると
寛永年間(1624~43)末期、軽墓(軽里)の伊岐谷にあった「伊岐宮」を古市村の産土神として現在の地に移築したとあります。
伊岐宮には日本武尊が祀られていましたが南北朝や戦国時代の兵火によって焼失し、峯ケ塚古墳にある小さな祠として存在していました。
しかし、慶長の大地震(1596)で倒壊するとそのまま放置されたといわれていました。
享和元年(1801)の河内名所図絵には「伊岐宮、誉田の南、5町、古市村にあり、日本武尊の霊を祀って、白鳥神社と称す。
さて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によると
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。
南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。
天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。
明治41年(1908年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている
この二つの解説をあわせると
次のようにわたしは解釈しました。
何時から軽里の西方の伊岐谷に「伊岐宮」があったかはわからない。それが白鳥陵とよばれていたかどうかもわからない。(いつから白鳥陵と呼ばれていたのだろうか?)
あれっ、現在地に移されたのが、「寛永年間(1624~43)末期」と「天明4年(1784年)」の二つになってますね。
享和元年(1801)の河内名所図絵には載っている。
ということだろうか?
いくつかのサイトにこんな記事がある。
その出典は書いていないが、伝承があるものと解釈している。
現在白鳥神社のあるところは、欽明天皇の賓陵(仮の墓)と伝えられている前方後円墳の後円部にあたるといわれていますが、前方部は近鉄古市駅や国道の造設のため、削られてなくなっているのだそうです。
古代の当地は河内文氏(王仁の子孫)の本拠であり、また百済系の古市村主の居住地であった。
祭神 日本武尊、素盞嗚命、稻田姫命
合 饒速日命、廣國押武金日命(欽明天皇)
明治四十一年高屋神社「饒速日命」を合祀、昭和二十九年高屋神社は再度独立したが、合祀した饒速日命、廣國押武金日命を合祭神としている。