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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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大安寺(平城京)訪問記

東大寺大仏の開眼供養で勅命により大導師を務めた菩提僊那(ぼだいせんな)が大安寺に住んでいたと、いう記事を読んだことがあり、大安寺というお寺のことを知りたくなった。今まで訪れたことはない。

大安寺は平城京にある寺院である。
大安寺(平城京)訪問記_f0215268_20475424.gif


無料駐車場がある。

駐車場のすぐ傍に「推古天皇社」なるものがあった。
なぜこんな処に?
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『大安寺伽藍絵図』に南大門から中門の間に、東に推古天皇・西に聖徳太子を祀る社殿が描かれています。
 大安寺の守護神とされていたようですが、松永久秀の兵火によって焼失したそうです
 現在の社殿は明治9年の再建
 祭神;豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)(推古天皇)

 
大安寺(平城京)訪問記_f0215268_20524292.jpg

あじさいの花が咲いていました。
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◎そうか、創建当時にも推古天皇を祀る社があったのでここに有志の人たちが推古天皇社を復興したのだ。

さて、現在の大安寺へ~
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大きな門です!
復元されていました!!
中を覗きます。
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境内は広そうです。

●中門跡の石碑・奥に見えるのはドイツからの記念樹の楠
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大安寺前貫主・河野清晃師は荒れ果てた大安寺の復興に尽力しますが、大戦で応召。帰山後も苦労を重ねます。
そういった中、若い人たちを国際的に目覚めさせようと、奈良日独文化友の会を創って、活動を始めました。昭和三十八年(1963年)には会を「奈良日独協会」と改称し大安寺を本部としました。
きっかけとなったのは清晃師が高野山大学時代に発表した論文「高野山根本大塔の研究」をベルリン大学教授で京都日独文化研究所主事であったF・M・トラウツ博士がドイツ語に翻訳、広く世界に紹介したことにありました。

記念樹の下にあるプレート
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後でネットで読んだのですが大安寺は秀吉時代の地震で堂塔全て壊滅したそうです。
今見る南門も何もなく、訪れても「ここにあったのか」と確認するだけでその痕跡を想像することもできません。
それをここまで復興するのは大変なことだったと思います。
大安寺の歴史については、改めて書く予定です。
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大きな楠、横に竹、ビワの実が成ってるのが見えます。

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12輪?搭・いつからあるか分からない。
特に説明はない。
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塔の台座です。

●いよいよ本堂です。明治時代に復元されたそうです。

正面じゃなくて横から撮っています。
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屋根のてっぺんにあるのは何と呼ぶのかな?
本堂の中を覗かせてもらいました
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◎この照明ペンダントのデザイン素敵ですね
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暑いので蔀戸を半分上げています。
○蔀戸(しとみど)
上下2枚に分かれ、下1枚を柱間(はしらま)に建て込み、上1枚だけを跳ねあげる半蔀(はじとみ)と上下に分かれず開口部いっぱいの大きさになる一枚蔀戸もあります。

●大安寺歴代住侶供養の五輪塔と石碑
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供養碑
当山は聖徳太子の熊凝精舎に発するわが国最初の官大寺である。
奈良朝の盛時には887名もの内外学侶が止宿居住し あたかも迎賓館兼仏教総合大学の観を呈した
わが国の文化はこれら学侶の学恩によること多大である
茲に供養の五輪塔一基を建立しその鴻恩に報い奉らんとするものである
                                    現住 良文

◎大安寺に住した主な僧侶については別に記事を書く予定です。
名前のわからない大きな木がありました。
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古くなると幹に縦の筋目が入る木・どこかで読んだおぼえがあるのですが、名前を思い出せません。葉は少し細長い。
◎クヌギかあべまき、のようだ。
クヌギとあべまきの区別はむつかしい。おまけにどんぐりまで似ている。

さて南門の横に大安寺旧境内の説明板がありました。

平城京の左京六条、七条の四坊に十五町(約8万坪)もの寺地を有していました。
伽藍中心部には金堂を中心に講堂や僧坊がならび、搭院には東西に二基の七重の塔がそびえていました。
塔が伽藍中心部の南に「搭院」として独立し、回廊壁画にまで仏画が描かれるなど、それまでの寺院にはない特徴がみられます。
現在も残る東西両搭跡の土壇が往時の壮大な伽藍を彷彿させます。

大安寺の南門をでる。大安寺の敷地はいまとは違ってもっと広かったと書いてあった。
ちょっと周りを歩いてみよう。
推古天皇社を右手に見ながら歩いていくと、御霊神社という鳥居がある。
境内地図に書いてある「竜王社」のようだ。
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御霊神社由緒記(神社看板)より
本神社は元石清水八幡宮と称す。(八幡神社)
大同2年8月17日、大安寺の僧、行教和尚が大安寺の鎮守社として筑紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請せしとき、お供えする御手水閼伽井の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の宣託により獨鈷を用いて掘らしめたところ、清湛な法水湧き出る。
而して遥に男山八幡岩清水に通じて、この水の保護を受けんがため、御井戸の守神として、高オカミ、善女竜王命ニ柱の紙を祀られた。~

H12年12月吉日   大安寺町評議委員会

やっぱり水の神様だ。

さてもっと歩いていくと、
畑があったり民家が建ってたりする。
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あっ、何か遺跡っぽいものが、、、
道の左側は小学校。
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奥の突き当り,、、、、近づいてみると
「経楼跡」と書いてある。
そうか、勿論ここも境内だったのだ。
唐から持ち帰った多くの経典があったはずだ。

もうこの辺で引き返そう。
学校や民家が建っていては発掘調査もできないだろうし~

大安寺のこと何も知らなかった私は、奈良時代の壮大な寺院を発見しただけでもワクワクしています。
by jumgon | 2011-06-29 21:24 | ○大安寺(奈良)