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古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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伎楽の歴史

伎楽の歴史

WIKI その他の記事を参考にして書きました。

伎楽は「呉楽(くれがく)」「伎楽儛(くれのうたまい)」ともいわれるように、中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞であった。そのルーツについては中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。

伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇で西域をへて中国に伝わり、散楽といわれたものである。 我が国には「神楽」があったがこの時以来、宮廷に伎楽が加わって日本の芸能は幅広い豊かなものとなった。
ところが、宮廷が衰えた武家時代に、これらの音楽家は天王寺や住吉、春日等大社寺に保護されて、民間でも演技を行うようになっていった。

「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、『日本書紀』欽明天皇(在位 西暦540年~572年)の項においてである。
呉国の国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述がある。
ただしこのとき、実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明。


『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
この年に百済人味摩之(みまし)が帰化してきた。その人の言うことに「呉の国に勉強に行き伎楽舞(くれのまい)を学んできました。」と。
そこで桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。
そこで、真野首(まののおびと)弟子、新漢(今木の綾)斎文(さいもん)の二人がこれを習って伝えた、これが今の「大市(おおいち)の首(おびと)、辟田(へきた)の首らの祖先である。
この記事が、実際に日本で伎楽が行われた記録としては最古である。 


聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めた。伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあった。

『延喜式』によると法隆寺をはじめ、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていた。
4月8日の仏生会、7月15日の伎楽会と、少なくとも年2回の上演があった。

●えんぎ-しき 【延喜式】
(1)平安中期の律令の施行細則。五〇巻。905年(延喜5)藤原時平らが醍醐天皇の命により編纂を始め、時平の死後藤原忠平らにより927年完成。施行は967年

◎ということは平安中期にも法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていたということですね。

また天武天皇14年(西暦685年)には、筑紫で外国の賓客を供応するため伎楽が行われた。このように伎楽は仏教行事以外の場でも上演されている。

東大寺の大仏開眼供養(西暦752年/天平勝宝4年)の時には他の諸芸能とともに大規模に上演された。

奈良時代にさかんに行われていた伎楽も平安時代を経て鎌倉時代になると次第に上演されなくなった。しかし現在でも「獅子舞」や、各地の寺院で行われる「お練供養」にその痕跡をとどめている。

◎「獅子舞」「お練供養」が伎楽の痕跡をとどめてるって?
そうなんですか、、、
以前訪れた「当麻寺」(奈良県御所市)では毎年お練供養がある。
聖徳太子と縁のあるお寺だ。
伎楽の歴史 _f0215268_22445355.jpg


『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
の記事に
百済人味摩之を桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。

と書いてある。
さてここに出てくる桜井の地名がどこかということで二つの説がある。

●一つは奈良県桜井市にある「土舞台」説
■ 伎楽は奈良時代に栄えたが平安時代末期以後は途絶えてしまう。
戦後、桜井市出身の評論家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)(1910 - 1981)は、味摩之が伎楽を若者たちに教習させた場所を考証した。
そして、江戸時代の『大和名所図絵』に土舞台が描かれているのを知り、そこが伎楽教習所だったとし、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと、有志を募って「土舞台」と刻した標石を昭和47年11月3日に建てた。
翌日にはその標石の前で市が後援する盛大な顕彰式典が挙行された。それ以来、土舞台顕彰会主催の顕彰式典が毎年行なわれ、土舞台が我が国演劇史上の大切な史蹟地であることを喧伝している。

●もう一つは「明日香村豊浦」説

現在の向原寺(明日香村)の南に、難波池(なんばいけ)と呼ばれている小さな池がある。
H22年7月15日付けの奈良新聞の報道によると、ここに碑を建てることを思い立ったのは、韓国の世宗大学校日語日文学科教授の李応寿(イウンス)教授(56)だそうだ。
聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所ついて、教授はその所在地は現在の明日香村豊浦であるとする新説を2年前に発表された。
そして百済人・味摩之(みまし)が伎楽を伝えた場所に、そのことを顕彰する記念碑を建てるなら、現在の向原寺の境内に立ててみたいと思われたそうだ。
そうした願いを実現されたことになる。
この説に興味がある方はこちらをご覧ください。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0723.htm
さてどちらの説が正しいのでしょうか?
by jumgon | 2011-07-04 22:57 | ★言語、歴史