天平写経について
2011年 07月 30日
架空の人物と思われるが、多分そういう人はいたであろうと思われる。
昔?写経の練習をしようと思って買った本がある。確か光明皇后の「楽毅論」とか聖武天皇の書跡かと言われている「大聖武」なるものを見た覚えがある。
引っ張り出して読み始めた。
この墨跡は、744年光明皇后44歳の時の書で、王羲之の楽毅論を臨書したものといわれている。
◎光明皇后の性格を意思が強いように「穢土荘厳」の中で造形されているがこの王羲之の臨書から想像したものではないかと私には思える。
さて、天平時代は仏教の隆盛に従って造寺もその数を増し、それに伴って経典の需要も多くなり写経事業も個人的なものから写経司、写経所へと発展して、質量ともに天平写経は黄金時代を迎えました。この時代の写経は現存するものが多く、正倉院などに多く納められています。
写経所・写後経所・写疏所
天平6年(724)には官立写経所が設けられていたことが分かっています。
天平13年(741)には「金字写経所」が設けられました。これはこの年の勅令によって日本全国に国分寺と国分尼寺が建立され、国分寺の搭ごとに紫紙金字の金光明最勝王経を納めることになったので、その金字経を書写するための写経所です。
写後経所
写後経所は法華経と金光明王経以外の書写を担当した。
写疏所
写疏所は注や経典の注釈書を書写したところです。
天平写経生の生活
正倉院文書にみえる写経生の名前は700名を優に超えます。写経生となるためには試字の試験を受けて合格しなければなりません。
写経生は下級の役人から多く選ばれましたが、その名前から判断すると帰化人かその子孫が大多数です。
写経生となると写経所に出勤して、官給の浄衣をまとい、配給の紙・筆・墨を受け、礼仏師が誦する経を聞き、仏前にたく香を嗅ぎながら筆を執りました。
◎お香を嗅ぎながらなんてよい雰囲気ですね!伽羅の香りだったら素敵です!
日照時間の長短によって一日の勤務時間は違いますが、平均して一日に七紙を書きました。
一紙の字数は17字詰め、24行くらいですから、一日およそ3千字になります。
一枚の書写料は4文(金字、銀字は七文)ですが、誤字や脱字があると罰金が課せられ、一行の脱字があると紙四枚分、20字の誤字があると紙一枚分が差し引かれました。
また、30枚につき調布一端という報酬もありました。
◎一日中、字を書いてるとかなり疲れると思うけど、試験に通らないとできない仕事なので、ほかの仕事よりはましな収入だったのでしょうね。