古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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一須賀古墳群の被葬者は百済昆支王一族の奥津城か?

一須賀古墳群(傍に近つ飛鳥歴史資料館がある)について、次のような記述がある。

この古墳群は周囲の古墳と異なり、渡来系のものと考えられる副葬品が発見される。
特にミニチュア炊飯具と呼ばれるものが出てくることで知られる。
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現在ここからは20例近く発見されているが、これは、滋賀県湖西地方などごく限られた範囲でしか発見されていない。また、古墳の近くから発見される須恵器、須恵器窯は朝鮮半島から技術が入ってきたごく初期の頃のものであることが分かっている。

 何という氏族がこの群集墳を形成したかは、非常に興味がある。上記のように、ミニチュアの炊飯具が多数出土することから、百済系渡来氏族の奥津城だったとの推測がなされている。その推測を補強するような史実がある。
雄略天皇の時代、百済の王族の昆支王(こんきおう)とその一族郎党が渡来して住み着いた場所は、後に「飛鳥戸郡」と呼ばれる土地であったという。
大和朝廷が百済王族に対して無人の原野を与える訳はない。昆支王が来朝した頃には、飛鳥戸郡やその周辺には、半島からの渡来人がすでに多数住んでいたはずである。百済王族とその郎党にはその中の一等地が下賜されたにちがいない。


確か飛鳥には、飛鳥戸神社があった!【前回のブログで紹介】

羽曳野市のHPより
飛鳥戸神社の周辺は、「飛鳥千塚(あすかせんづか)」と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられています。
発掘調査で出土した副葬品(ふくそうひん)などから、当時の飛鳥戸氏の地位、文化の高さを知ることができます。また 大宝律令(たいほうりつりょう)が施行された後には、安宿郡(あすかべぐん)という地名が付けられており、飛鳥戸氏と深い地域であったことがわかります。

と書いてあります。

ここから先は私の想像だけど~
●一須賀古墳群には大小様々のお墓がある。
●大きな石棺もある。どうやってこんな急坂の山の中に運んだのだろう?
 しかも高砂の石だという。族長級のお墓だとしか考えられない。
 たいていは木棺に入れられ、オジイサン、お父さん、子ども、孫と同じ横穴にほうむられれている場合が多いと言う、解説員の話しです。)

◎兄弟ガ多い場合は分家して新しい横穴を掘ったのかな? 

●あと王族のと思われるのは豪華な副葬品、特に金銅製沓がある。復元模造品が近つ飛鳥歴史資料館にある。このレプリカの煌びやかさには目を瞠るものがある。同じような沓が藤の木古墳の副葬品にもある。
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そして、子孫の飛鳥戸氏は、居住地近くの飛鳥千塚のほうに群集墓を築いたのではないか?

わたしの想像が正しいかどうか、そのうち学者さんが研究して結論を出してくれることでしょう。


  
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by jumgon | 2011-02-09 15:29

飛鳥戸神社・飛鳥千塚

飛鳥戸神社(大阪府羽曳野市飛鳥1023)
百済系飛鳥戸造一族の祖神「昆岐王」を祀る神社

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Wikiを見てみよう
祭神現在は素盞嗚命が祭神となっている。これは、江戸時代に牛頭天王が祭神となっていたため、神仏分離の際に素盞嗚命に改めたものである。
当地は5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であり、本来は飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたものと考えられている。『三国史記』百済本紀には昆伎王は熊津時代の始めに百済で没したとあり、昆伎自身は帰国したとしても、その子孫が日本に残留したものと考えられる。なお、付近にある新宮古墳群(横穴式石室)は飛鳥造氏族の墓域とされる。
『河内国式神私考』では「安宿王」、『河内国式内社目録稿本』では「百濟氏祖神 俗称少名彦命」、『神社要録』では「百済氏祖神 名詳ならず」と記している。

◎もともとは、飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたようですね。
 時代とともに、祭神が変化したのですね。

歴史
創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。
国史の初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)8月13日条、正四位下の神階を授けるという記述である。
延喜式神名帳では「河内国安宿郡 飛鳥戸神社」と記載され、名神大社に列している。江戸時代までは神宮寺として行基が開基した常林寺があり、聖武天皇の勅願所とされた。
明治初年に村社に列格したが、明治41年(1908年)に近隣の八幡神社(現 壺井八幡宮)に合祀された。昭和27年(1952年)に分祀され、旧社地の近くに再建された。

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雄略天皇(479年4月)、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
という記録がある。
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この地域は丘陵地でブドウの栽培が盛んである。 ワインの会社もある。この神社のあるふきんはぶどう畑だらけだから、とうぜんか~。
ちなみに
仲村ワイン工房、㈱河内ワインなど数社あるようである。
写真は仲村ワイン工房の自社農場

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梅酒で有名な「チョーヤ」はこのあたりが発祥で今も本社はこの地域にある。
また、このあたりの人の名字は、金銅や真銅がおおい。「チョーヤ」の社長・㈱河内ワインの代表取締役専務の名字も金銅である。。
武士や貴族以外は名字がなくて、明治になって自分で自由に付けたらしいが、なんとなく金属関係の技術者の末裔の様な気がする。
 
◎この地図を南にずらしてください。聖徳太子陵・用明天皇陵などがあり、王陵の谷と呼ばれていますす。さらに南へ行くと、近つ飛鳥資料館のある、一須賀古墳群があります。
神社はフドウ畑の一角に鎮座、狭い社域であるが、鳥居は南300m程の場所にあり、かっての規模を思わせる。
25年くらい前に(ふるさと歴史散)で一度行ったきりだが、結構分かりにくい場所にある。
駅から、坂をのぼっていく。一人だとみつけられたかどうか~。

この丘陵地帯には、古墳時代の後期に小型の円墳が群集して築かれた。その数が多いことから「飛鳥千塚」と呼ばれている。ブドウ畑の奧の斜面には、新池西古墳群やオーコー古墳群、蛍の谷古墳群などの群集墳もある。

羽曳野市のHPより
神社の周辺は、「飛鳥千塚(あすかせんづか)」と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられています。
発掘調査で出土した副葬品(ふくそうひん)などから、当時の飛鳥戸氏の地位、文化の高さを知ることができます。また 大宝律令(たいほうりつりょう)が施行された後には、安宿郡(あすかべぐん)という地名が付けられており、飛鳥戸氏と深い地域であったことがわかります。


◎副葬品がどんなものだったか記されていないが、どんなものだったのだろう?

飛鳥千塚 
古墳時代の後期(6世紀)に造られたこのあたりの古墳は、「横穴式石室」と呼ばれる埋葬施設を持つ。
すなわち古墳の埋葬部分が、自然石を加工して積み上げた玄室(げんしつ)と呼ばれる死者を安置する大きな部屋と、その玄室への通路となる羨道(せんどう)で構成されている。

ところが7世紀になると、横穴式石室とは違ったタイプが出現する。「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」と呼ばれるもので、石室より狭い石槨に、横から木棺を納めるようになっている。
それが観音塚古墳である。

観音塚古墳かんのんづか:大阪府南河内郡太子町

鉢伏山から派生する尾根に築かれた直径12m、高さ3mの円墳です。埋葬施設は前室と羨道を有す切石造りの全長7mの横口式石槨で南に開口しています。
前室の奥に横口式石棺を取り付けた珍しい形式です。石槨内法は長さ1.93m・幅0.92m・高さ0.78mで床面の4周には溝が巡ります。
前室は長さ2.45m・幅1.44m・高さ1.66mで両壁とも切石で垂直に築かれており、天井部の前面には切石が斜めに渡してあります。
また前室入口には切り込みがあり扉の存在が予想されています。
石材の隙間には漆喰が塗られています。羨道部は長さ2.28m、幅1.44mで、西側壁の方が少し長く、幅はほぼ前室と同じ大きさです。
古墳の被葬者として飛鳥戸造一族の中で7世紀前半に死去した族長と考えられています。築造年代は7世紀前期。
(日本古墳大辞典:東京堂出版)

 古墳の案内板によれば、この古墳は新しい埋葬施設である横口式石槨を代表する古墳とされている。石槨(193×92cm、高さ78cm)は、付近で採れる安山岩を丁寧に加工して切石とし、これを精巧に組み合わせて造られている。さらに石槨の前には前室(245×144cm、高さ112cm)と羨道(長さ227cm)が付くという特異な埋葬構造になっている。案内板には、前室で死者と別れをする様子が描かれている。


横口式石槨とは
古墳時代の最後に登場した埋葬施設です。横穴式石室では羨道の奥に「部屋」があるのに対し横口式石槨では、お棺を納める「石槨」が取り付けてあります。おそらく前者が多葬を目的としたのに対し、後者は基本的に特定個人の単葬を目的とした物であったのでしょう。

この横口式石槨は7世紀後期、横穴式石室の小型化に合わせる様に出現し、主に近畿の支配者層の古墳に採用された埋葬施設です。
その構造は、石棺様施設の短辺側の一方に横口を設け、さらにその前に羨道などを取り付けたものになっています。九州や山陰地方の石棺式石室と共通の要素を持ちますが、石棺様の施設の中にさらに木棺や乾漆棺を納めるもので、内部には棺を納めるとほとんど余分な空間がなくなるものが多いところから、石棺式石室とは明らかに系譜を異なる物として区別されています。
 
こうした前室や羨道をもつ古いタイプの横口式石槨の分布中心が百済系渡来人の多い大阪府の河内南部、旧安宿郡内にあること、百済末期の古墳のなかに石槨様の玄室の前面に玄門を設け、羨道をつけた石室がみられることなどから、百済古墳の影響を受けて成立したものとの考えが有力です。しかし一方では高句麗古墳にも同様の形態を持つ古墳も確認されていますので、朝鮮半島の墓制の影響下で成立したにせよ、その起源については未だ明らかではないようです。

他に横口式石槨の例

手光波切不動堂古墳
福岡県・ 築造時期は7世紀中期。(続日本古墳大辞典:東京堂出版)
この古墳について「ひもろぎ逍遥」さんの詳しいレポートがあります。
http://lunabura.exblog.jp/14574444

牽牛子塚古墳
奈良県明日香村 築造年代は7世紀中期から後期。(日本古代史大辞典:大和書房)

越塚御門(こしつかごもん)古墳
  明日香村越で新たに見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳の構造は、6世紀末~7世紀末に造られた終末期古墳の形式の一つで「刳り貫(くりぬき)き式横口式石槨(せっかく)」と呼ばれるタイプ。
◎横口式石槨って、あっちこっちにあるのですね!
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by jumgon | 2011-02-07 15:34