古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カテゴリ:★歴史散歩、講演会( 8 )

奈良県橿原市の今井町に残る古い町並みは、中世の環濠集落を発祥とする、称念寺を中心とした寺内町で、江戸時代も自治が行われてきた日本でも極めて珍しい歴史を持つ町です。
いつも橿原神宮や飛鳥へいく途中、今井町の表示のある道路を通るのだが、そのうち又訪ねようと思いつつ、いままで訪れたことがなかった。駐車場はあるかしら?道は狭くないかしら?とか考えて今まで行き渋っていた。
高速南阪奈道路の高架下が駐車場になっているのを見つけて安心して行く事にした。

車を高架下において(駐車無料)今井町の標識をめあてに10分もあるかないうちに
何と、レトロな建物が目についてきた。
f0215268_13233431.jpg

正面から
f0215268_149546.jpg

これはいったいなんだろう?
入り口には「今井まちなみ交流センター」とあり説明板があった。
f0215268_13431261.jpg


今井まちなみ交流センター(華甍)
【旧高市郡教育博物館】(橿原市)◎県指定文化財
明治建築和洋折衷の美
 明治36年、大正天皇のご成婚に際し畝傍御陵を参拝されたときの御下賜金により建てられた。設計者は現在の大和郡山市民会館(旧県立図書館)などを設計した橋本卯兵衛氏。県内初の教育博物館として開館。昭和4年から同31年に合併により、橿原市が誕生するまで今井町役場として使われた。
 その後は、老人憩いの家や高齢者職業紹介所、市社会教育課、町並み保存準備室などに利用された。平成2年には県指定文化財に指定。建物の傷みも増えたため同3年度から3年間、県と国の補助を受け修理を行い同7年に「華甍(はないらか)」としてオープンした。修理でに際しトイレなどの水周りや内装などを当初の姿に復元した。

入り口近くにもう一つ説明板があった。
f0215268_14273322.jpg

橿原市の生んだ一大儒学者、谷三山の説明板である。

建物の中は、今井町の建築の模型や、古い生活用具や、説明のビデオ等がある。
二階への階段
f0215268_1533899.jpg

お手洗いも建築当時のままに修復されており、まるで明治時代の映画のセットみたいだった。
家屋模型
f0215268_14171322.jpg

箱階段
f0215268_157858.jpg

重さを計るはかり
f0215268_1574924.jpg


今井町の概略を知るため橿原市のパンフレットをみてみよう。

◆今井町の歴史・環濠に囲まれた町並み
今井町は戦国の世の天文年間(1532~55)、一向宗の今井兵部が称念寺をひらいたことに始まります。戦国時代末期一向宗門徒は近畿北陸に独自の自治組織を持つ寺内町を建設しました。

戦乱のため、町の周囲に濠や土塁をめぐらせた環濠集落が発展して行きました。織田信長に降伏後は商業の町として発展し、江戸時代は「海の堺、陸の今井」と呼ばれたほど、両替商、肥料商、酒造業さらには、木綿業などにより経済的に栄えたのです。
現在では濠は一部を残すだけですが町割りは昔のままで、道はどれも細く、ところどころにもうけた「食い違いの道」により侵入者をかく乱し、一方、味方が自由に動けるよう住民しか知らない露地を縦横に走らせています。

町は丸ごと重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、現在旧環濠内にある古い様式をもつ民家は全体の8割近くをしめ、このうち重要文化財に指定された民家が8軒にものぼります。

今井の建物は、防火構造として、2階の外壁や軒裏を、漆喰で塗り固めています。1階の格子は、今井格子と呼ばれる力強い太い格子で、今西家などでみられ、建物のデザインの特徴となっています。

奈良県橿原市の今井町に残る古い町並みは、中世の環濠集落を発祥とする、称念寺を中心とした寺内町で、江戸時代も自治が行われてきた日本でも極めて珍しい歴史を持つ町です。

◆今井町の町並み(パンフレットより)
称念寺を中心とした寺内町今井は完全な城塞都市で、江戸時代初期の概略を考えると、東西600m、南北300m、周囲には環濠土居を築いた戸数1100軒、人口4000数百人を擁する財力豊かな町であった。町割りは西、南、東、北、新、今の六町に分かれ、9つの門からは木橋を通って濠を渡り、外部の道路と連絡している。内部の道路で見通しのきくものはなく、ほとんどが一度屈折させてある。これは、敵の進入に備えて、その遠見、見通し、弓矢、鉄砲の射通しを不可能にしたものであった。これらは当初、軍事目的のためにつくられたものであるが、江戸時代中頃は富裕な商人の生命、財産などを外部から守るというものに変貌した。
現在も今井町の大半の民家が江戸時代以来の伝統様式を保っており、しかも慶安3年(1650)の今西家をはじめ、すぐれた民家が数多く建ち並び、今なお町全体が戦国時代にできた寺内町の歴史の重さをずっしりと感じさせている。

 戦国時代に高い軍事力を誇った今井町は、環濠で囲まれており、あたかも城塞都市の雰囲気。織田信長に対しては、本願寺とともに抗戦の構えも見せましたが、降伏。今井町ゆかりの茶人、今井宗久らのとりなしもあって町はそのまま残され、現在もその広大な領域に戦国時代、江戸時代からの町並みと道路がそのまま残っています(基本的には16世紀と変わっていないとか)。1993年に重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
 なんと約500棟が昔からの建築であり、重要文化財8棟、県文化財2棟、市文化財4棟があります。
 現在も一般の方々が生活する、生きた町であるのも魅力の1つです。


さて実際の町並みを散策してみよう。

環濠はもう無くなっているが、それを偲ぶことができるように交流センターの横に一部環濠を復元している。
f0215268_1437555.jpg

さらに歩いていくとさ今井小学校
小学校の塀もこんな感じ。随分お金がかかっているだろうな~と感心してしまう。
f0215268_14405852.jpg

河合家住宅
f0215268_1448574.jpg

称念寺
f0215268_14492062.jpg

食い違いの道
f0215268_14511925.jpg

豊田家住宅・屋根の上にけむり出しが見えますね。壁の装飾模様も目をひきます。
f0215268_14535682.jpg

屋根のうえに大黒さん?
f0215268_15112353.jpg

こんな竹細工のお店もありました。交流センターのビデオでこの店の先代さんが竹細工を作っているのを映していました。でも今は百均なんかでも手ごろなのが売ってたりしてもう商売としてはなりたたない、なんておっしゃっていました。
f0215268_16142360.jpg



暖かく天気のよい日で町並み散歩している方に何組もお会いしました。
[PR]
by jumgon | 2011-04-25 15:14 | ★歴史散歩、講演会
私が山田寺の名前を知ったのはもう何十年も前の話だ。

高校生の頃、興福寺の宝物展か何かを見に行った時に、若々しい、りりしい顔の大きな仏頭に出会った。ほんとうに印象的な仏頭だった。
解説にこれは興福寺のものではなく山田寺のもの、と書いてあった。どこにそのお寺があるかも知らなかったが、名前だけはしっかり覚えていた。

今では、山田寺が、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに飛鳥の地で建て始められた寺であることは知っていたが、山田寺跡をなかなか訪れる機会がなかった。

先ず、だいたいの位置を確認しよう。

f0215268_2342485.jpg


2011年の桜の季節にやっと気になっていた山田寺跡を訪れた!!
多分、ただの野原だけで、山田寺跡という標識が建っているだけだろう。
でも山田寺があった場所を一度は訪れたいとおもっていた。
車を停めるところはあるかしら?と心配しながら行った。

飛鳥資料館を過ぎると山田寺跡という標識が見える。
「右山田寺跡150メートル」の標識があったので、車を道端において歩いた。
f0215268_23345338.jpg


なんと、山田寺跡には駐車スペースがあった。
6,7台は駐車できそうだ。(無料)

入り口?の近くには珍しい白花タンポポが咲いている。
f0215268_23354659.jpg


すぐ目に付いたのは山田寺跡の立派な説明石碑
f0215268_2338775.jpg


下は金堂跡
f0215268_2339773.jpg


下は東面回廊のあった場所。説明板がある。
f0215268_23395158.jpg


下は東面回廊礎石(復元)
f0215268_23401827.jpg


こんなかわいいスミレも咲いていた。早春の宝石!
f0215268_23404250.jpg


宝蔵跡
ただの野原に見えるけど、四角く段が高くなってますね。
f0215268_2344158.jpg


下は回廊の礎石跡復元
f0215268_23453378.jpg


少しはなれたところには2,3人の人がよもぎ摘みをしていた。
人も少ない早春ののどかな田園。

山田寺の解説をwikiから

山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。
蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂(そがのくら(の)やまだのいしかわ(の)まろ)の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。


創建の経緯
山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく書かれており、山田寺について語る際には必ずと言ってよいほどこの史料が引用される。同裏書によれば、舒明天皇13年(641年)「始平地」とあり、この年に整地工事を始めて、2年後の皇極天皇2年(643年)には金堂の建立が始まる。
◎ということは大化の改新の二年前
大化4年(648年)には「始僧住」(僧が住み始める)とあることから、この頃には伽藍全体の整備は未完成であったが、一応寺院としての体裁は整っていたと見られる。大化5年(649年)には上述の石川麻呂自害事件があり、山田寺の造営は一時中断する。
その後、天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められ、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。
天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)にはその丈六仏像が開眼されている(「丈六」は仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分)。なお、この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている。

発掘調査の結果や、出土した古瓦の編年から、以上の創建経緯はおおむね事実と信じられている。なお、『日本書紀』には上述の丈六仏開眼の年である天武天皇14年(685年)、同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したとの記事がある。石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫にあたる持統天皇とその夫の天武天皇の後援があったのではないかと推定されている。

f0215268_0194563.gif

◎蘇我倉山田石川麻呂って持統天皇のおじいさんなんですね!
蘇我倉山田石川麻呂
皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子が中臣鎌足と共謀して入鹿の誅殺をはかった際に(乙巳の変)、その暗殺の合図となる朝鮮使の上表文を大極殿で読み上げた。その時、暗殺がなかなか実行されなかったため、文を読み上げながら震えて冷や汗をかいたと言われる。そのことを不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。
その後、改新政府において右大臣に任命される。大化5年(649年)、異母弟の日向に石川麻呂が謀反を起こそうとしていると密告されて孝徳天皇により兵が派遣されたため、長男の興志ら妻子と共に山田寺で自害した。なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。

興福寺仏頭
f0215268_0174619.jpg

奈良市・興福寺に所蔵される銅造仏頭(国宝)は、もと山田寺講堂本尊薬師如来像の頭部であった。
『玉葉』(九条兼実の日記)によれば、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。
当時の興福寺は平重衡の兵火(治承4年・1180年)で炎上後、再興の途上であった。この薬師如来像は応永18年(1411年)の東金堂の火災の際に焼け落ち、かろうじて焼け残った頭部だけが、その後新しく造られた本尊像の台座内に格納されていた。この仏頭は昭和12年(1937年)に再発見されるまでその存在が知られていなかった。


◎興福寺の僧が山田寺の本尊を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えたのですって!!
そして東金堂の火災の際に焼け落ち、頭部だけがかろうじて焼け残ったのですって!
それで新しく本尊を造りその台座に頭部だけになった本尊を押し込めたのですか。
記録に残さなかったのですから、邪魔になったから台座の下に押し込めたということですね。

ほんとにあきれた話ですね!


東回廊の出土
f0215268_0333783.gif

山田寺跡は昭和50年(1975年)に国有地化され、以後本格的な発掘調査が実施されている。
発掘調査の成果のうち特筆すべきは、昭和57年(1982年)、東回廊の建物そのものが出土したことである。土砂崩れにより倒壊、埋没した回廊の一部がそのまま土中に遺存していたもので、柱、連子窓などがそのままの形で出土した。腐朽しやすい木造建築の実物がこのような形で土中から検出されるのはきわめてまれなケースであり、日本建築史研究上、貴重な資料である。
出土した回廊はポリエチレングリコールによる科学的保存処置を施し、うち3間分が復原された形で奈良文化財研究所飛鳥資料館に展示されている。


◎山田寺東回廊に使われた木材はくすの木、まきの木だそうです
 
[PR]
by jumgon | 2011-04-12 00:21 | ★歴史散歩、講演会
源氏三代の墓と壷井八幡宮

下の写真は「上ノ太子」という普通電車しか止まらない小さな駅の看板です。
スゴイでしょう。こんな田舎の(失礼!)小さな駅の近くに色々な歴史遺産が眠っているのです。
f0215268_14384193.jpg

前々回紹介した飛鳥戸神社や飛鳥千塚もこの駅を下車してまわりました。
「ふるさと歴史ウオーク」について行ったので、迷わずまわれたようですが、かなり歩いた覚えがあります。
壷井八幡宮の大楠
f0215268_14425156.jpg

この「歴史ウオーク」があったのは丁度大河ドラマ「炎立つ」を放送していた頃でした。
壷井八幡宮からは見晴らしがよく小高い丘の上に位置しているのが分かります。
壷井八幡宮の宮司さんはとても歴史好きのお話上手な方で、「炎立つ」関係のある壷井八幡宮の歴史をドラマの話を引きながら楽しくお話ししてくださいました。

f0215268_1521145.jpg

壷井八幡宮って何?という方のために羽曳野市のHPを見てみましょう。
http://www.city.habikino.osaka.jp/es/takam-s/04_6nen/genjisandaino-haka/yoritomo.htm
より

壷井八幡宮
羽曳野市壷井605番地2 


壷井八幡宮 と  源氏三代の墓
壷井八幡宮康平七年(1064)源頼義が、石清水八幡宮の神を祭った
ことが始まり。
義家が愛用したと伝わる「黒韋縅胴丸」「天光丸の太刀」がある。

f0215268_1453591.jpg

源氏三代の墓
通法寺跡河内源氏の祖源頼信が、子の頼義と共に氏寺として建立し、
頼義により浄土宗の寺として整備された。
しかし、南北朝の争乱と戦国の兵火とで消失、その後何度か
再建されたが、明治に廃寺となる。

   
壷井八幡宮             
●壷井」の地名の起源。
平安時代、前九年の役の時、源頼義の軍が飲料水に苦しんだ折、
弓の矢で崖をつき崩して得た冷泉により将士の意気があがったといわれている。
平定完了して凱旋する際、冷泉の水を壷に入れて持ち帰り、香城峯の南麓に
井戸を掘り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念とした。

●前九年の役
平安後期、奥州の安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)親子が
起こした反乱。{永承六(1051)~康平五年(1062)の12年間}
源頼義(よりよし)・義家が平定。
後三年の役とともに源氏が東国に勢力を張る契機となった。

源氏三代の墓は、源頼信、子の頼義、孫の義家の墓である。
源頼信は、1020年河内国司に命じられ、羽曳野市壺井に住んだ。源頼義・義家親子は、東北の前九年の役、後三年の役で活躍した人達だ。
 今、頼義の墓は通法寺跡にひっそりと残っており、ほかの二人の墓は、頼義の墓よりもう少し山のほうに入った所にある。

●清和源氏
清和天皇―貞純親王―経基―満仲―頼信―頼義―義家 ―為義―義朝―頼朝・義経

◎それにしても、この系図。よく似た名前が続きますよね!
 本当にゴッチャニなって分かりにくい。

鎌倉幕府を開いた頼朝につながる清和源氏が羽曳野市壺井に住んだ所なのです。
源氏三代の墓の案内板
f0215268_1552746.jpg

●源 頼信968~1048
河内国石川地方に勢力を蓄え、河内源氏の祖。
●源 頼義988~1075
前九年の役
●源 義家1039~1106
京都の石清水八幡宮で元服したので八幡太郎といわれた。
前九年の役・後三年の役
源義家は頼義の長男、長暦3年(1039)~嘉承元年(1106)

 八幡太郎と号し
 前九年の役では父とともに安陪貞任を討ち、出羽守に任ぜられた
 後に陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定

◎実は私、この歴史ウオークに参加するまでここが「河内源氏」発祥の地だであるとか源氏三代のお墓があることすらなんて知りませんでした!
[PR]
by jumgon | 2011-02-17 15:07 | ★歴史散歩、講演会
先日「中国の世界遺産」についての講座があるというのでいってきた。
講師は神戸山手大学教授の河上邦彦氏。

世界遺産について
そもそも世界遺産誕生のきっかけは、1959年に持ち上がった、エジプトナイル川でのアスワン・ハイ・ダムの建設計画だった。アブ・シンベル大神殿など、貴重な文化財であるヌビアの遺跡群がダムの湖底に水没する危機にさらされたのだ。
事態を憂慮したユネスコは世界各国に呼びかけ、遺跡を移すという大事業を敢行。人々の生活に不可欠なダム建設と、人類の至宝の保護を両立させたのである。
その後1972年に「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約がユネスコ総会で採択された。
その条約締結国はアメリカをかわぎりにヨーロッパを中心に世界各国に広がっているのが現状である。

現在大阪府堺市・羽曳野市・藤井寺市3市合同で「百舌鳥・古市古墳群」を世界遺産に登録しようという運動が起こっているが、河上先生は反対だそうだ。

だいたい「世界の文化遺産」の選定委員自体がヨーロッパ中心だし、日本も条約を締結しているのだから、候補に手を上げろと言われて、文化庁辺りが動き出しているらしいのだ。世界遺産に認定されても何もいいことはないとおっしゃる。
選定委員の接待や緒費用でお金を使うだけです。
観光資源になるって?無理無理。
先生いわく、「世界遺産に認定してもらおうと思ったら、皆さんの家、全部立ち退いてもらって、まわりをキレイに整備しないと無理でしょう。」

オリンピックの招致と一緒でとにかく選定にこぎつけるまで相当お金がかかるそうだ。
オリンピックなら経済効果があるかもしれないけど「百舌鳥・古市古墳群」じゃ観光資源にならない。


◎そうだね。だいたい古墳なんて観光資源にはならない。なにも華やかなものはないし、ただの木のはえた山なのだ。出土品だって日本人の足跡をたどる貴重な資料だけど、観光にはいまいち。
興味のある人にとっては、あるいは国の遺産として大事に保存すべきと思うけれど、出土作業、出土品の学術的研究、保存管理にはお金がかかる。それにお金をかけるのは良いけれど、選定してもらう為にお金をかけても無駄かもしれない。そうでなくても自治体は予算がきびしい。

昨日の新聞で「グルメの権威」ミシュランが神戸のお店を選定したとでていたけど、なにもフランス人の基準で決めてもらう必要はないと思う。(審査委員はフランス人だけではないらしいが)
日本人の価値観で選定するならまだ納得するけど、、、。京都のある料亭は審査を断ったらしい。それ位の気概がなくちゃね!

それにしても結局「中国の世界遺産」についてはほとんど話はなかった。
あとで少しスライドを見ただけ、、、、。
「三星堆遺跡」の話でもでてこないかと期待してたんだけど、、、、、。
[PR]
by jumgon | 2010-10-21 09:34 | ★歴史散歩、講演会

古事記にでてくる鳥

古事記の神武天皇のところに出てくる鳥が、いったいどんな鳥か知りたくて、、「生駒の庭の野鳥たち」のサイトに、ぶしつけにも質問のメールを出してしまった。
無視されるどころか丁重なお返事を頂き感激!!
生駒の庭の野鳥たちのホームページはこちら
http://homepage3.nifty.com/naratori1/index.htm

以下、受信したメールを載せさせていただきます。

<古事記の鳥をおさがしとのこと、私の所属致しますオルニスという鳥の写真クラブの発表会が10月に奈良市の文化会館の二階で実施の予定なのですが、今年はいつもの鳥の写真にプラスして万葉の鳥たちという、写真と万葉集の短歌等のコーナーを設けようということになっていてこれにも取り組んでいるところでした。
従いまして「万葉の鳥、万葉の歌人」などという本を買い込んで勉強中なのですがそのなかで
神武天皇が東征を終えたとき、はからずも、やがて皇后となられる伊須気余理比売(いすけよりひめ)出会うがその姫は使いの大久米命に 胡燕子鶺鴒(あめつつ)千鳥ましとど などさけるとめ」と歌ってみせた。という記述があります。
その意味は「あめ鳥、つつ鳥、千鳥やホオジロの目みたい、(あなたはなぜ)入れ墨をしてそんなに鋭い目をしているの」ということで、あめ鳥はアマツバメ、つつ鳥はつつなはせどりで鶺鴒(セキレイ)のこと、ましとどの「ま」は美称(意味なし)で「しとど」はホオジロのことです。
なお、シトド、シトトというよびかたは、私が昔赴任したころの山口ではほおじろで通じなくてもシトト、シトドならわかってもらえました。ホオジロの地鳴きはほんとうに「シトト、シトト」と聞こえます。
また標準和名のなかにも珍鳥に属するほおじろ類のミヤマシトド、キガシラシトド、サバンナシトドに残っているからおもしろいですね。>

以下の写真は、「生駒の庭の野鳥たち」 のものではありません
これは白鶺鴒、ほかにくろせきれいもある
f0215268_21474844.jpg

あまつばめ
f0215268_21482999.jpg

ほおじろ
f0215268_2149177.jpg

有難うございます!
本当に分からないことは、遠慮なく(あつかましく?)尋ねるものだ!!
山口県では今も「シトド、シトト}で通じるなんて新知識をゲット。
確かに「ほおじろ」「せきれい」は特にアイラインみたいな雰囲気がありますね!!
[PR]
by jumgon | 2010-09-06 21:53 | ★歴史散歩、講演会

古代人は海流にのって

先日、市の講座「古事記を読む」で講師の先生が述べておられた。
韓国から対馬海流にのれば自然と博多あたりに流れ着く。そこで降りずにもたもたしてると出雲まで行ってしまうし、また降りそこなったら、福井県敦賀あたりまで行ってしまう。
ウーム!なるほど!!縄文や弥生時代の人々が移動するのは現在よりかなり難しいと思い込んでいたけど、現在の我々が想像してる以上に行動範囲は広かったのだ!!

小学校で習った海流の復習をしよう。
●日本近海の海流
日本近海には大きく分けて4つの海流が流れています。
フィリピンあたりから流れてくる暖かい海流「黒潮(日本海流)」、沖縄あたりで黒潮から北へ分かれて対馬海峡、日本海へ向かう「対馬海流」、北太平洋やオホーツク海から流れてくる冷たい「親潮(千島海流)」、間宮海峡付近から南下してくる「リマン海流」があります。
●「黒潮」は流れが速く比較的プランクトンの量も少ないため透明度が高く、深い紺色をしているので黒潮と呼ばれています。南の暖かい海で育った魚が潮にのってやってきます。
●「対馬海流」は対馬海峡を経て日本海沿岸を流れていきます。そのため古代から朝鮮や大陸との交易に利用されてきました。太古の神話の国「出雲」が繁栄したのは対馬海流のおかげだと言われています
黒潮は世界でも最大級の強い流れの海流として知られ、北大西洋の湾流とともに世界2大潮流のひとつです。海水表面の速さは毎秒2mをこえるほどで、時速になおせば7.2km、小走りするぐらいの速さになります。
 もうひとつの暖流に、対馬海流があります。対馬海流は沖縄の近くで黒潮からわかれ、対馬海峡をとおって日本海へ入ります。山陰沖、能登沖で大きくうねりながら、一部は津軽海峡をぬけて太平洋へ出ていきます。
f0215268_18123737.gif

この図を見れば、かなり納得!
そう言えば縄文時代から「翡翠(ヒスイ)の道」もあったんだもの~ね
糸魚川市のパンフレットより
縄文時代 「翡翠(ヒスイ)の道」
 平成6年の青森県三内丸山遺跡の発掘にて信州「和田峠」産出の黒曜石、ヒスイが出土した。ヒスイは糸魚川が日本唯一の産出地である。これらは陸路姫川沿いを日本海へ運ばれ 舟にて対馬海流にのり津軽に到着できたといわれる。日本各地からもヒスイが出土する、これらもまた姫川沿いを往来したのではないか

 
[PR]
by jumgon | 2010-08-23 18:14 | ★歴史散歩、講演会

平城旧跡 ①

昨日、平城遷都1300年祭「光と灯りノフェア」へ行ってきた。
7~10年位前だと記憶するが一度行ったことがある。その当時は朱雀門だけがポツンとたっており、だだっ広い広場だった。その時にはすでに(遺構展示館)はあり、掘った土地のうえに建物を覆いかぶせたように建っていた。
f0215268_18154678.jpg

初めて奈良の観光に来た人が近鉄電車に乗ると、西大寺から新大宮駅までのすっぽりと空いたこの空間に驚かされることでしょう。ここが1300年前に都の中心があった場所です。
 平城京は唐の長安にならって作られた都で10万人の人が住んでいました。朱雀門より北側の区画は天皇の住まいとして儀式や政治行事が行われていた平城宮でいわゆる御所です。

f0215268_18393058.jpg
 そう考えるとよくこんな場所に電車が走っているなと思うのですが、近鉄電車の前身である大阪電気軌道が1914年(大正3年)に開通時はまだ史跡として保護されていませんでした。
平城宮跡の保護に尽力を注いだのは、「棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)」です。奈良公園の植木職人であった嘉十郎は場所がわからなくなるほど荒れ果てた平城宮跡を保存する為、上京し多くの著名人の署名を集め地元の有志に援助を求めます。 
その努力が実り1910年(明治43年)には平城遷都1200年祭を成功させ、(遷都1200年祭もあったんだ!!)
1913年(大正2年)には「奈良大極殿趾保存会」が設立され念願がかないます。
その後1921年(大正10年)に私財を使い果たし心労で嘉十郎は自害してしまうのですが、翌年には支持者の努力により国の史跡として保護されることになります。銅像の右手には平城宮跡から出土した瓦、左手は大極殿跡を指差しています。
 国の史跡となってから実際に発掘作業が開始されるのはずいぶん時間が経って昭和の戦後から開始されました。
 今まで復元された建物に、平成10年に完成した朱雀門があります。朱雀とは鳳凰(ほうおう)の事です。高さ22m、間口約25m、奥行き10mありなかなか立派です。
朱雀門とお月様
f0215268_18142787.jpg

 この朱雀門から南に伸びる道が平城京のメインストリートの朱雀大路です。幅74mあり大和郡山市にある羅城門跡まで約4kmまっすぐ伸びていました。先日訪問した大和郡山市のメタ神社からは近い。) 大和郡山市観音寺町が羅城門のあった辺りです。少し南の方にさがるとメタ神社があります。

現在はすぐ南の国道までしかないのですが、全体を公園として復元する計画があるようです。

平城京の入口であり羅城門をくぐると、75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に向かってのびていました。そして、その4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っていました。
朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、時には大勢の人達が集まって歌垣なども行われました。正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、130haの広さの宮城をとりかこんでいました。朱雀門は衛士によって守られ、常時開いていたわけではありませんが、宮の正門としての権威とともにその雄姿を内外に誇示していたと思われます。ライトアップの時間帯には、すべて施設は入場できないけれど、この猛暑に、昼間は外出する気にならない。
雰囲気を味わいに行った。すごい人で簡単に周っただけだ。又涼しくなったら、再訪しなければ、、、、、、。
f0215268_17193821.jpg

この不思議なバルーン、私は撮影失敗したので公式サイトから
f0215268_17371736.jpg

ライトアップされた大極殿
f0215268_17283069.jpg

[PR]
by jumgon | 2010-08-22 17:29 | ★歴史散歩、講演会
8月7日、8日近くの公民館講座があった。
「大王たち・巨大古墳の時代」と言う内容で講師は<裏 紫都子氏>である。話が上手で、話題が豊富。退屈せず楽しくお話しを聞くことが出来た。
今回は、「仲哀と神功皇后」、「仁徳天皇」について古事記を解説していただいた。
その記述の背景、地名などのエピソードなど本当に話題豊富だ。
いままで土地柄いろいろ古代史の舞台を訪れた事があるが、これからは地味だがマニアックな場所をおとずれる予定を考えている。(今は暑いから、秋になったら、、、、)

*太安万侶の墓(墓誌が出て、実在の人物と確認された。橿原考古学博物館に展示されている。)
*稗田阿礼をまつった売太神社(めたじんじゃ)
*小野妹子の墓
*磐之媛陵
等~

観光地でもないし、特に景色がよいところばかりではナイが、ただの田舎道も歴史を知って訪れたら興味深いものだ。


ちなみに、昔「市民歴史ウオーク」で「源氏三代の墓」「壺井八幡宮」「西淋寺」「鍵屋」などを訪れた事がある。記録しておこう。

通法寺 (つうほうじ)
あの鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にあたる「(河内)源氏」の発祥の地、壺井。
寛仁4年(1020年)、河内国司に任ぜられた源頼信は、壺井に本邸を構えました。その子の頼義と孫の義家(八幡太郎義家)は前九年の役や後三年の役で活躍し、武将としての地位を確立しました。頼義の墓は通法寺跡に、頼信と義家の墓は、東方の丘の上にあります。

百済から渡来した王仁の子孫、西文氏が住んでいたという西淋寺がある。寺伝では百済から渡来した王仁(わに)の子孫である西文氏(かわちのふみ氏)が、欽明天皇の頃(6世紀中ごろ)に建てた寺とされている

両替商鍵屋跡
f0215268_22564962.jpg
かつて羽曳野市の古市に江戸時代に両替商だった「銀屋」があった。その壁には廃船された剣先船の舟板が使用され、地域の観光スポットにもなっていた。


それが2001年に宅地開発で取り壊されてしまいました。(保存の為の市民運動まで起きたようですが・・・)
私が行ったときにはまだあった!
[PR]
by jumgon | 2010-08-08 23:03 | ★歴史散歩、講演会