古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:★新聞きりぬき( 5 )

弥生のコウノトリ

2011,5月19日の朝日新聞に
池島・福万寺遺跡で15年前に見つかった鳥類の足跡が弥生時代前期(2400~2500年前)のコウノトリのものと確認された
国内最古とされてきた前橋市の水田跡(6世紀)で見つかったものより、約900年さかのぼる、という記事が出ていた。
参考のためサンケイニュースの記事もみてみた。

2011年5月19日・サンケイ


池島・福万寺遺跡の位置
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2400年前のコウノトリが舞う池島・福万寺遺跡のイメージ図(奈良文化財研究所提供)
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銅鐸「第3の鳥」浮かぶ 最古 コウノトリ足跡 弥生期、信仰対象の可能性
同時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥は長年、サギやツルと考えられ、近年はサギ説が有力視されていたが、
今回の発見で奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長が「銅鐸の鳥の足は指を大きく広げている。サギではありえない表現」と主張。コウノトリ説が銅鐸の鳥論争に名乗りを上げた。


下写真(18日午後、奈良市、諫山卓弥撮影)
(左)現代のコウノトリの足型
(中央)池島・福万寺遺跡から見つかったコウノトリの足型
(右)現代のアオサギの足型
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◎確かに右端のアオサギの足跡は指の開きが小さい。

同研究所によると、コウノトリの骨は縄文時代の遺跡で出土例があるが、足跡としては最古という(時事通信)

池島・福万寺遺跡(大阪府の東大阪、八尾両市)の弥生時代の水田跡で18日、コウノトリと確認された鳥の足跡。
1996年(大阪府文化財センター提供)
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 今回の発見は、最初に大阪府文化財センターなどによる平成8年の発掘調査で、人や鳥の足跡をそれぞれ約100個確認。兵庫県立コウノトリの郷公園の職員らが昨年2月に偶然、足跡の石膏(せっこう)型を見たことで調査が進展した。

 同公園のコウノトリとアオサギの足跡の型を照合した結果、特徴が酷似。さらに山階鳥類研究所(千葉県)にも分析を依頼し、コウノトリの可能性が高いことが確認された。
 この発見を機に、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥もコウノトリだった可能性が浮上した。 

神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(国宝)などには、首や足が長い鳥が描かれており、これまでサギやツルとされてきた。コウノトリ説が明確に浮上しなかったのは、すでに絶滅に瀕(ひん)し研究者らにとって身近な鳥ではなかったことが影響しているという。
 
大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は「農耕生活を営む人間のすぐそばにコウノトリがいたと考えられる」と主張。
松井センター長は「コウノトリはサギより大きく目の周りや足が赤い。神々しいと考えて当然だ」として信仰の対象だった可能性も指摘する。

 一方、国立歴史民俗博物館(千葉県)の春成秀爾名誉教授(考古学)は「当時はサギもツルもいただろう。コウノトリだけ信仰の対象というのは考えにくい」と主張。

青銅器に詳しい寺沢薫・元奈良県立橿原考古学研究所研究員も、銅鐸の鳥は稲の魂を運んでくる象徴として描かれたとした上で、「稲の魂を運ぶ真っ白な鳥はサギ。サギが有力だろう」と反論している。span>

◎なるほど同じ鳥の足跡からも色々違う意見があるということが分かった。

池島・福万寺遺跡で出土したコウノトリと人の足跡
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足跡の石膏(せっこう)型は、21日から府立弥生文化博物館(和泉市)で公開される。
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by jumgon | 2011-05-19 10:59 | ★新聞きりぬき

嵯峨本の謎

3月10日(木曜日の)日経新聞のアートレビューを今日みた。
びっくりするほど美しい嵯峨本の紹介があった。


「嵯峨本」の謎

活字を芸術にするおよそ400年前、乱世から太平へと向かい始めた江戸時代初期。「嵯峨本」と総称される書籍群が刊行された。

日本の印刷史上、有数の美しさといわれる書物は、オリジナルにこだわる芸術家たちの飽くなき情熱の結晶である。

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近畿大学中央図書館所蔵の「伊勢物語」1608年(慶長13年)発行の書物は一見すると写本のようだ。しかしこれは手書きではない。手書きの味わいを最大限に引き出した、活版印刷なのだ。
活版印刷とは、文字を彫った活字を組み合わせて印刷する方法。。一つの活字にⅠ文字ずつ彫るのが一般的なやり方だ。
この「伊勢物語」は違う。縦12,6ミリ、横14,2ミリの木製の活字をベースに、2文字なら縦に二倍、3文字なら3倍の大きさの木枠に文字を彫っていく。ひらがなの続け字を生かす方法だ。
「数理的な美しさと古筆の美しさをカネソナエテイル。」グラフィックデザイナーの永原康史氏は慶長版「伊勢物語」についてこう指摘する。活字の大きさが一定の大きさに収まることで「ひらがなのくずしに独特のリズムが生まれている」。

◆芸術作品のような本
「伊勢物語」「方丈記」「徒然草」、、、、。17世紀初頭の京都で生まれた一連の豪華本を「嵯峨本」と呼ぶ。
京都嵯峨野に拠点があった豪商、角倉素庵が版元となり、本阿弥光悦、、俵屋宗達らがかかわったといわれている。
多くは活版印刷で作られ、雲母の粉を紙にすり込む「雲母(きら)刷り」を多用した。
活字のもととなった文字は本阿弥光悦が書いたとされるが、角倉素庵との説もある。能楽の教則本「謡本(うたいぼん)」では、俵屋宗達が表紙の下絵を描いたといわれる。紙、文字、装丁にこだわり抜き、当時の文化人の間で絶大な人気を博した。

嵯峨本はなぜ「美しい」のか。
奈良女子大学文学部の鈴木広光教授はその謎を解明すべく、近代所蔵の「伊勢物語」の文字をすべて解析した。使われた活字の数はH合計で1万5千超。繰り返し登場した活字をコンピューター上で除いていくと、実に2100個の活字が使われたとことが分かった。
単に組むだけならここまで必要ない。そこには角倉素庵らの造本にかけるすさまじいまでの情熱が潜んでいた。

「一度しか使っていない活字が344個、実に16%もある」。鈴木教授は舌を巻く。伊勢物語は上下2巻あるが、下巻の後半に至ってもなおも新しい活字を追加している。

「同じ漢字を何度も使うことで生じる版画の単調さを、字形の異なる活字を加えることで避けようとしたのではないか」
おなじ「か」でも、大きさや字形を変えることで版面に余白が生まれたり、勢いが出たりする。
流れるような字形の「し」をページの真ん中に置くなど、視覚的な効果を狙った配列も目に付く。

デザイナーの永原氏は「光悦や素庵の書にみられる美意識が色濃く投影されている」と感嘆する

驚かされるのはそれだけではない。1608年刊行の「伊勢物語」(初刊本)11冊を確認したところ「全く同じ本は一つもなく、どこかの文字がそれぞれ違っていた。」(鈴木教授)。
一冊刷るごとに、わざわざ一部の活字を違う字形のものと差し替えているのだ。印刷物でありながら、1点物の芸術作品のようなこだわり。素庵らの強烈な思いが伝わってくる。

◆個性競う変革期
嵯峨本を生んだ慶長年間(1596~1615年)とはどんな時代か。
静岡文化芸術大学の熊倉功夫教授は「下剋上に象徴されるように、旧来の秩序が大きく転換した時代」と評する。

「かぶきものと呼ばれた個性的な糸人が各層に現れ、様々な文化を生んだ。嵯峨本もその一つで、今でいえばiphoneのような斬新さがあった。」
折しも豊臣秀吉の朝鮮出兵で銅活字がもたらされ、ほぼ同時期に西洋からグーテンベルク式の金属活字が伝来。
「後陽成天皇、後水尾天皇らが推進した平安期の王朝文化復興の潮流の中で、古典文学への需要が高まっていたことも、嵯峨本の背景にある。」と熊倉氏は解説する。

時代の変革期に生まれた美しい活版印刷はしかし、江戸初期を最後にいったん途絶えた。
太平の世は印刷物への高い需要をもたらし、より大量生産に適した製版(一枚版の木版)での印刷に取って代わられる。宗達はその後、「風神雷神図屏風」を描き、光悦は芸術村を築く。

嵯峨本に結実した芸術家の情熱は、形を変え、琳派へとつながっていく。
「川尻定」


嵯峨本の存在を知らなかったので調べてみた。


国立国会図書館所蔵
「伊勢物語(いせものがたり)」 2巻 慶長15(1610)刊 1冊 27.2×19.0cm
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 古活字版。嵯峨本。嵯峨本は本阿弥光悦が嵯峨の豪商角倉素庵の協力を得て慶長から元和年間にかけて出版したもので、装訂に意匠を凝らしているのが特徴である。古活字版『伊勢物語』には多くの異版があるが最初の刊行は慶長13年(1608)。展示本は慶長15年(1610)の刊記がある具引き素紙刷。
慶長13年版をもとにして刊行した旨の刊語がある。挿絵と刊語は整版。ところどころにみえる書き入れは、歌人で若狭小浜城主であった木下長嘯子(1569-1649)によるといわれている。当館では本書の異植字版も所蔵する。


http://web.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/isemonogatari/keityou/kaisetsu/index.html
より

川舟による水運開発で知られた角倉了意の子、角倉素庵によって、慶長13年(1608)以降、「嵯峨本」と呼ばれる一連の豪華な版本が出版されました。
「嵯峨本」は「角倉本」とも呼ばれ、また本阿弥光悦が協力したとされることから「光悦本」とも呼ばれますが、謡本や『徒然草』、『古今集』など、その種類は多岐にわたっています。その「嵯峨本」の中でも、最初に刊行されたのが、この『伊勢物語』でした。
 「嵯峨本伊勢物語」の本文は木活字を用いて印刷されましたが、木製の活字は欠けやすく、一度に少量の部数しか印刷できませんでした。
また、印刷後は活字をばらばらにして再利用するため、増刷する時はもう一度最初から活字を組み直す必要がありました。木の活字は形がまちまちだったので、同じ版をもう一度作ることは不可能でした。そのような事情から、「嵯峨本伊勢物語」には、たくさんの種類の版があることが知られています。 
「嵯峨本」の料紙は、一枚ずつ色を変えたり、全面に雲母(きら)を引いたり、下絵を描いたりした豪華なものですが、これらの「嵯峨本」は、売られたのではなく、身分の高い人たちに贈呈されたと考えられています。
「嵯峨本」の出版は、すぐれた文化人でもあった実業家、角倉素案によっておこなわれた、文化的な社会貢献の事業だったのです。
 「嵯峨本伊勢物語」には、上下2巻あわせて49枚の挿絵が含まれています。
その図柄は、室町時代以来の絵巻物や絵入り本の系統を引いていますが、大変すぐれたできばえで、江戸時代になって次々と刊行され続けた『伊勢物語』絵入り版本に、長い間、大きな影響を与え続けました。
 今回展示するのは「嵯峨本伊勢物語」そのものではなく、「嵯峨本」の刊行が終わってまもなく、その「嵯峨本伊勢物語」の各ページを、そのまま、古活字ではなく版木に彫って再現した覆刻版です。
「嵯峨本」の人気が高かったので、その需要に答えるために作られた一種の海賊版ですが、この本は、さらに付加価値を付けるために、手書きで彩色が加えられています。


関西大学電子展示室から解説、写真をお借りしてきました。
(初段・春日の里)…元服したばかりの主人公が、奈良の春日に鷹狩りにでかけ、思いがけず美しい姉妹を見つけて早速歌を贈る。室内に姉妹と女房(侍女)。塀の外では主人公が侍女に歌を手渡している。
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(二十段・楓のもみじ)…主人公が遣わした童が、女に楓のもみじを手渡している場面。
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(六十七段・生駒山)…和泉の国へ行く途中、雪景色の生駒山を見て歌を詠む主人公。
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by jumgon | 2011-03-15 15:04 | ★新聞きりぬき

笑う人物はにわ?

かわいい笑ってる人物埴輪!

朝日新聞 2011年2月24日23時40分

奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(国史跡、全長86メートル)で、古墳時代中期初め(4世紀末)に作られたとみられる武人の埴輪(はにわ)1体が見つかった。市教委が24日発表した。
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人を表現した人物埴輪の出土例は、これまで5世紀初め~前半が最古とされてきた。市教委は「人を埴輪で表現するようになった契機がわかる重要な発見」と話している。

見つかった埴輪片をつなぎ合わせたところ、高さ67センチ、幅50センチの武人と判明した。盾を構え、頭にはかぶとをかぶっている。
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目と口は穴が開いた形で表現され、目やほおの周りに赤い顔料が残っていた。あごには入れ墨を示す線刻模様があった。
◎これが武人?あまりにかわいすぎる!
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埴輪は、古墳時代に円筒や水鳥、家などの形で現れたといわれる。しばらく人の形は作られず、大和王権の中枢があった畿内に現れたあと、全国へ広まったと考えられている。

人物の最古の出土例は、5世紀初め~前半の拝塚(はいづか)古墳(福岡市)や墓山(はかやま)古墳(大阪府羽曳野市)だった。

古来、神の山とあがめられた三輪山の西のふもとにあることから、石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「三輪山の信仰と強い関わりのある一族が古墳を守護する意味で作ったのだろう」とみる。


現地説明会は26日午前10時~午後3時。埴輪も見ることができる。JR三輪駅の北約1キロ。問い合わせは市立埋蔵文化財センター(0744・42・6005)へ
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by jumgon | 2011-02-25 10:59 | ★新聞きりぬき
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2010年9月4日(土)朝日新聞朝刊より
中国の史書「魏志倭人伝」に登場する伊都国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡span>で中国後漢代の鏡と共にに3000千個以上の青や紺色系の小玉が出土。その中に紫色の小玉が44個含まれていた。さらに甕棺墓から青色小玉7500個の中に4個の黄色小玉(が見つかった。弥生時代後期に国内できわめてまれな紫色と黄色の透明ガラス玉が含まれていたことが福岡市教委や奈良文化財研究所の分析で分かった。

これは2004~2009年度の発掘調査で確認された。

新聞には写真も載っていたが、そのうちこの珍しいガラス玉もどこかで展示される事と思う。

紫、青系の小玉はカリガラスでインドから東南アジアに分布。
黄色はソーダ石灰ガラスで西アジアから北アフリカ・ヨーロッパに分布する玉と判明した。

ガラス玉は直径1ミリと微小でそれに穴があいていて紐を通して首飾りなどにした可能性が高い。

ソーダ石灰ガラス
窓ガラス、びん、多くの食器類などに使われる、もっとも普通のガラスで、古代に最初に作られたガラスもソーダ石灰ガラスと考えられています。二酸化けい素、酸化ナトリウム(Na2O)、酸化カルシウム(CaO)が主成分です。酸化ナトリウムの代わりに酸化カリウム(K2O)が使われることもあり、両方が使われることもあります。ソーダというのは、原料として使われる炭酸ナトリウムのことを指す言葉です。
カリ‐ガラス
《(和)kali(オランダ)+glas(オランダ)》ナトリウムよりもカリウムを多く含有するソーダ石灰ガラス。屈折率が増し、不純物による着色がないので、クリスタルガラス・光学ガラス・理化学用ガラスなどに利用。


日本で出土するガラス製品は、圧倒的に「鉛・コバルトガラス」なのだが、いくつかは「ソーダガラス」も混じっている。<
span style="color:rgb(0,0,255);">当時中国産のガラスにはソーダガラスは全く存在しないので由水氏の言うように、ガラスは「中国-朝鮮ルート」と「中央アジア-朝鮮ルート」の二つの道を辿って日本へもたらされた可能性も否定はできない。「科学する邪馬台国」より

いったいどのようにしてこの小さな玉に穴を開けたんだろう?
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by jumgon | 2010-09-04 18:27 | ★新聞きりぬき
2010,8月7日 asahi be 「うたの旅人」より

平城山(北見志保子 作詞)<2首の短歌よりなる>

ひと恋ふかなしきものと平城山に
もとほり来つつ堪へがたかりき


いにしへも夫(つま)にこひつつ越えしとふ
平城山のみちに涙おとしぬ


「もとほる」は古語で「回る、巡る」の意。

「人を恋することは悲しいことだと、平城山を巡ってきながら耐え難かった」
「古代の人もいとしい人を想いながら越えたという平城山路で、私は涙を落とした。」



万葉の言葉でつづられた恋の悲しみを、純日本的な旋律に乗せる歌「平城山(ならやま)」。歌が生まれた舞台は、日本の古代史の古里です。

 奈良時代の日本の都、平城京。その中心部で国政をつかさどった平城宮の跡地は今、平城遷都1300年祭が行われ、大勢の人出でにぎわっています。大極殿の北に連なる低い丘が、万葉の昔から「平城山」と呼ばれたところ。大小の前方後円墳がひしめく、うっそうとした森です。歌姫街道から石畳の「歴史の道」を歩くと、全長219メートルもある前方後円墳に出ました。「磐之媛命平城坂上陵」。これが仁徳天皇の皇后、磐之媛の墓とされています。

 磐之媛は「万葉集」巻2の冒頭を飾る歌人です。自分の留守中に天皇が浮気したのを知って足をバタバタさせて嫉妬し、家出して平城山を越え知人宅にこもりました。仁徳天皇が謝りに来たが会おうともせず、その地で亡くなった、と日本書紀は記しています。

 磐之媛だけではありません。平城山には多くの万葉歌人の思いが秘められています。大伴家持を慕い松の下で泣いた笠郎女や、かつての愛人大海人皇子のもとを去って天智天皇の下に走った額田王、恋人を殺され髪を振り乱し素足のままで葬列を追いかけた影媛……。

 その中で磐之媛はひと味違います。

 ありつつも君をば待たむ打靡(なび)くわが黒髪に霜の置くまでに

 黒髪が白くなるまで、あなたを待ちますという磐之媛の歌は、嫉妬深い半面、しおらしさ、切なさに満ちています。

 昭和の初め、この道を歩いて磐之媛の故事と仁徳天皇をしのび、自分の境遇と思い合わせた女性がいました。歌人の北見志保子です。1925年に創刊した歌誌「草の実」の34年4月号に「磐之媛皇后御陵」と題した連作の短歌を載せました。うち2首が「平城山」の歌詞になったのです。

 北見がのちに大阪市の弟子にあてた手紙には、こうあります。「あのうたは すぎし日 とほくゐる人を恋ひやまず たまたま平城山の陵ニあそび 仁徳帝のみ心を しのびまつり(中略)作りました」

 北見志保子とはどんな女性だったのでしょう。そして、「とほくゐる人を恋ひやまず」と詠んだ恋とは? 
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by jumgon | 2010-08-09 09:01 | ★新聞きりぬき