古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ: ○牽午子塚( 3 )

越塚御門古墳見学会

大田皇女の墓か?石室を新たに発見 
  牽牛子塚古墳のすぐ近く


先日、牽牛子塚古墳のすぐ近くで発見された古墳の見学会に行ってきた。
9月に行ったばかりなので、場所はだいたい分かっている。
あの時ほど混まないとは思っていたが、警備員さんが「9月の半分位の人出」と言っていた。

◎9月に行ったとき、牽牛子塚古墳へ行く途中の山?畑?に穴が4、5箇所ほどあった。
「まるで古墳の入り口みたい!」
何の洞穴かな?と気になってた。その前にはごみや袋がおいてある。農家の人が物置に使ってるみたい。
「もしかしたら、この辺の人が遺体を葬ってるのかな、それとも未発見の古墳か?」なんてドキドキしてしまった。
そのことについて見学会の整理をしている人に尋ねたら「あれは生姜の保存場所です。」
えっ、そんなとこに保存しとくの?多分穴の中が保存に適してるらしい、とその整理マンが教えてくれた。


ぎりぎりの3時半に現地に着くように行ったけど、それでもまだ行列は続いていた。
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先ず産経新聞の記事から
産経新聞 12月9日(木)20時17分配信
 天皇クラスの墓に限定される八角形墳であることが今年9月にわかり、被葬者が斉明天皇(在位655~661年)であるとほぼ確定した奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳のすぐ前から、存在が知られていなかった7世紀後半の石室が新たに発見され、同村教育委員会が9日、発表した。
667年、斉明天皇陵の前に孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を埋葬したと記している日本書紀の内容と一致し、被葬者を決定づける超一級の資料となった。


 大田皇女は天智天皇の娘で、大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武天皇)の后(きさき)となったが、20代で亡くなったとされている。
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見つかった石室は「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」という構造で、牽牛子塚古墳の約20メートル南東で出土。地名から越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。
◎本当に近くなので驚いた。12~13人位の人が手をつなげば越塚の入り口になる。
 石室は、石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)をくり抜いた4メートル大の上石(うわいし)を床石にかぶせる構造で、総重量は推定約80トン。上石は後世の盗掘で4分の3程度失われたが、内部は長さ2・4メートル、幅90センチ、高さ60センチ分がくり抜かれ、木棺が納められていたという。
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◎盗掘坑という説明札が見えますね!
 石室付近からは、土に付着した漆や木質が残る鉄釘が見つかり、棺は外側が黒、内側が赤の漆塗り木棺と推測されるという。
副葬品は見つからなかった。
◎残念!

 墳丘は上部が大きく削られて規模や形状は不明だが、牽牛子塚古墳と近接していた。牽牛子塚古墳造営に伴う整地層を掘り込んで新たに墳丘を築いており、越塚御門古墳の方が後の造営と判明した。また石室南側に、人頭大の石を両脇に並べ、路面に小石を敷いた墓道(長さ4メートル以上、幅1メートル)も検出された。

 
斉明天皇陵と大田皇女の墓について宮内庁は、それぞれ南西約2・5キロにある別の2つの古墳(奈良県高取町)に治定している。

天智天皇、3女性の埋葬済ませ遷都
毎日新聞 12月9日(木)21時36分配信
 斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が葬られたとみられる奈良県明日香村の牽牛子塚古墳の前に造られた古墳が新たに見つかった。孫の大田皇女の墓とみられる越塚御門古墳。中大兄皇子(天智天皇)が埋葬してから1300年余りの時を経て、日本書紀に記された肉親3女性をめぐる古代史のドラマがよみがえる。

 斉明は中大兄皇子、大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)の母。
661年、朝鮮半島の百済を救援するために遠征していた朝倉宮(福岡県)で亡くなった。中大兄が指揮する日本軍は663年の白村江(はくそんこう)の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗。
665年には妹の間人が亡くなった。大田は中大兄の長女で、大海人の妻。2人の子を残して若くして亡くなり、667年2月に斉明、間人を合葬した陵の前の墓に葬られたと日本書紀が伝える。
日本書紀は天智天皇の六年春二月二十七日条に、
「天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬り。是の日、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬す」

 わずか6年で最も親しい3女性を相次いで失った中大兄が、都を飛鳥から近江大津宮(大津市)に移したのは、3人を埋葬した翌月だった。
牽牛子塚、越塚御門の堅固な構造に、前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は「飛鳥を去る前に、親しかった女性たちの墓をしっかり造りたかったのだろう」と心境を思いやる。

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by jumgon | 2010-12-19 23:30 |  ○牽午子塚

牽牛子塚(けんごしづか)古墳の現在地の地名について気になることがあって 
      調べているうちに思いがけない記事に出会った。



古代大和王権は、古墳や宮殿、寺院そして道路や灌漑用の溜池づくり等に、地方から使役の民を大和に召しださせました
召しだされる時は、国造(くにのみやつこ)の役人に付き添われ、宿泊や食事も与えられました。労働につくと、夜を日についで、工事は強行され、疲労して逃亡するというのもあり、そのような過酷な労働に耐えてやっと任務を終えて帰郷する時には政府の援助もなく、裸同然で放り出されました。
国名がつく集落は、帰郷できず、その地にそれぞれの国ごとに来た人々が住みついたものと思われます。
   <ナルホド!これが正しいとすれば、色々な地名が離れた所にあるのもうなずける>

奈良県にみる「国名集落」

高 取 町・・・土  佐、薩  摩、吉  備

明日 香村・・・越

橿 原 市・・・大  隈、飛  騨

桜 井 市・・豊前(ぶぜん)、出  雲、吉  備、長  門

天 理 市・・・上総(かずさ)、備  前、因幡(いなば)、武  蔵

三 宅 町・・石見(いわみ)、但馬(たじま)

                 これを見ると

         随分とおくから労役に連れだされてきた事になる。

      牽牛子塚(けんごしづか)古墳のある高市郡明日香村越に
        「越」の国」から人々が駆りだされたのは
           古墳築造の為だったとおもわざるを得ません
  

           国名集落を見ていけば、
       近くに古代の大規模土木事業のあとが見つかるかもしれない!

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by jumgon | 2010-09-27 22:00 |  ○牽午子塚
巨石の墓 女帝の面影


          斉明天皇の墓、ほぼ確実 
     牽牛子塚古墳は八角形墳
 


   墳丘の周囲に敷かれた切り石の並んだ形状から、八角形墳とわかった牽牛子塚古墳
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    次ぎは朝日新聞の記事
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    大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)の母
   、斉明(さいめい)天皇(594~661)の墓との説がある奈良県明日香村の
    牽牛子塚(けんごしづか)古墳(国史跡)が、当時の天皇家に特有の
    八角形墳であることが確認された。

    墳丘全面が白い切り石で飾られ、内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた
    例のない構造だったことも判明。
    斉明天皇は巨石による土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ    
    確実になった。

  
    八角形の墳丘は
<道教の宇宙観>を示すとされ、斉明天皇の夫・ 舒明天皇や息子の天智天皇らの陵にもみられる天皇専用の形。
    又、こんな説もある。
    <仏教思想を反映して法隆寺夢殿のような八角円堂を模したとする説>と、
    <天皇の支配が、四方八方に及ぶことを表現する>との説がある。
    ☆天皇の即位式で用いる高御座(たかみくら)も八角形だ。    
    墳丘の形に加え専門家を驚かせたのが、大規模で高度な土木技術が駆使された
    墓の構造だ。
  巨石をくりぬいて造った石室は推定重量約70トンで(具体的な重さがピンとこないよ!)
   材質は加工しやすい凝灰岩でここから約12キロ北西の二上山から運ばれたらしい。

   二上山の凝灰岩石切り場
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    石室が二つの空間に仕切られている。
    斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された
    日本書紀の記述と合致するほか、漆と布を交互に塗り固めて作る最高級の棺
    「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが
    出土していた。

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    したの写真はは「明日香村教育委員会」のパンフレット
    上の写真は墳丘全体、したの写真は二つの空間にしきられた石室    
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    見学会当日の石室写真
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    これまでの発掘成果と合わせ、「一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという
    意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない」(白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長)
    など、専門家らの意見はほぼ一致している。

*宮内庁は奈良県高取町にある別の古墳を斉明陵として管理しているが、
    多くの研究者は「根拠に乏しい」とみている。

宮内庁書陵部の話
    八角形墳は最近関東でも見つかっており、必ずしも陵墓特有の形とは言えなくなっている。
     牽牛子塚古墳が斉明陵とする説があるのは承知しているが、現在の斉明陵を否定する
     だけの材料がない。

   この古墳はかなり高いところにあり、発掘現場付近からは、飛鳥の村を俯瞰できた。

   築造年代については石槨構造などから7世紀後半ごろと考えられる。「明日香村教育委員会」

   斉明天皇のエピソード
   日本書紀より「斉明の土木好み」
   蘇我馬子の孫の赤兄(あかえ)が斉明の「失政」と批判した記述
   ① 大倉庫を建てて財物を集めた。
   ② 長い水路を築いて公金をを浪費した。
   ③ 船に石を積んで運び丘を築いた
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by jumgon | 2010-09-12 21:55 |  ○牽午子塚