古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31

カテゴリ:★古墳( 5 )

墳丘が消失した古墳

先日藤井寺市文化財課の2010年発掘企画展が市役所であるというので出かけた。
2010年度のものに限定はしてなかったが、文化財課の方の説明がきけてよかった!

文化財課の方から聞いた私にとって新しい知識を次ぎにあげます。

① この辺の人(古市古墳群の近在の人)は古墳からハニワがでてくるのは当たり前みたいに感じているが、全国的に見たら、ハニワのない古墳はたくさんある。
これだけ大変な数量が出土している、というのは珍しいとのこと。
◎そう言えば黒塚古墳(3世紀後半~4世紀前半)からも藤の木古墳(6世紀第4四半期)からも埴輪は出ていない。 

②ハニワには野焼きのもの(初期)と窯によって焼かれたもの(後期)がある。

野焼きのものは火力が弱いので、埴輪は薄く作られている。
例 津堂城山古墳出土のはにわ、触って見みたら確かに薄い!薄く造るほうが難しいと思ったけど、、、、。

●野焼きにしろ、登り窯にしろ、これだけ大量の埴輪を焼くには膨大な木材がいる。
 それをどこから調達してきたか分からないそうだ。
●それと、これだけ多量の埴輪をやく窯の遺跡は少なすぎるそうだ。(まだ窯跡が出てくる可能性はないとは言えないが、可能性は少ないそうだ。)

藤井寺市・羽曳野市には、応人天皇陵や仲哀天皇陵・津堂城山古墳・仲姫皇后陵古墳・允恭天皇陵・日本武尊陵古墳・墓山古墳などの巨大古墳以外にも中小の古墳が存在する。
今回はその中で消失してしまった古墳の出土品を紹介しようと思う。
それら小さな古墳の出土品をジグソーパズルのようにつなぎ合わせる事で歴史がどのように繋がっているか垣間見ることができる。
天皇陵に指定されている古墳は発掘できないので、中小古墳のほうがメッセージが大きいかもしれない。

f0215268_15345664.jpg


岡古墳(墳丘消失・4世紀後半・方墳)
f0215268_14554264.jpg

一辺33mの二段築成の方墳で斜面には葺石を施し、中段のテラスには円筒埴輪列を備えていた。
形象埴輪は家・船・盾・靫・衣蓋形が出土。
墳頂の中央に割竹形木棺を内蔵した粘土槨
棺内から三面の鏡出土
岡古墳は、隣接する仲哀天皇陵よりも100年前後早く築造されたことが明らかになった。
船形埴輪は全国的に見ても出土例が少ない貴重なものだそうです。
岡古墳出土・船形埴輪
f0215268_14572583.jpg


◇狼塚古墳(5世紀前半・径28m・円墳・墳丘消失)
応神天皇陵北側の円墳です。
造りだしには円筒埴輪列、その内側に2列の鳥形埴輪列が確認されました。
又造りだし北側に導水施設?を模した形象埴輪(囲形埴輪)が見つかった。

 *囲形(かこいがた)埴輪の出土 
この埴輪は、史跡大鳥塚古墳の東隣の発掘調査で見つかった小さな円墳から出土しました。調査を始めるまで、ここに古墳が眠っているとは分かっていなかったそうです。
もっともこの辺りは、古墳の集中しているところなので、新たな古墳が見つかることも予測はしていました。
 調査の進展にしたがって、この古墳は直径28メートルの円墳で、西側に「造出し」と呼ぶ突出部をもつことが分かってきたのです。古墳の名前は小字名をとって「狼塚(おおかみづか)」としました。
 さらに注目されたのは、造出しの北西側の、やや低まったところに平坦面をつくり、そこにこれまであまり類例の知られていない囲形埴輪を据えていたことでした。
f0215268_1513265.jpg

囲形埴輪は、8つの箱形のパーツを組み合わせていました。一辺につき、2つの箱を直列させ、1.2メートルの範囲を四角く囲っていたのです。囲った内部は、小ぶりの川原石が敷き詰められていました。その上に凹みをつけた羽子板形の粘土板、明日香の酒船石をほうふつとさせる奇妙な土製品が置かれていたのです。
f0215268_1563483.jpg

 一体これは何を模した埴輪なんだろうか。資料検索が始まりました。もともと囲形埴輪自体がもう一つよく分からない謎の埴輪といわれていました。
上部にギザギザが表現されていて、四角く囲みを作っていることから、塀のような施設を現しているというところまでは分かるのですが、それが何の施設なのかはよく分からなかったのです。
*近年の調査で特徴的な埴輪として、家形埴輪と、「導水施設形埴輪」と「井戸施設形埴輪」についてわかってきました。埴輪に表現された「導水施設」や「井戸」が、奈良県南郷遺跡や群馬県三ツ寺遺跡などで発見され、埴輪に表現されたまつりが、具体的に各地で行われていたことがわかりました。
◎実際の遺跡でこの埴輪と同じような形状のものが発見された!!
  埴輪は実物を模していたのですね!!


アリ山古墳(5世紀前半・墳丘消失・現在は病院が建っています。)
一辺45m、高さ4,5m
多くの埴輪以外に農工具や武器といった多量の鉄製品が見つかりました。(大阪大学蔵)

赤子塚古墳(5世紀後半・円墳・墳丘消失)
允恭天皇陵古墳の西側にあった。1950年代までは墳丘を留めていましたが、その後宅地化され墳形や規模さえ分からなくなっていた。
1995年に発掘調査が行われ、造りだしをもつ径34メートルの円墳である事が確かめられました。周囲の濠からはたくさんの形象埴輪(家・衣蓋・盾・人物・動物形)や円筒埴輪が出土。
允恭天皇陵古墳とほぼ同じ5世紀末に造られ、その陪冢であった可能性が強くなりました。
又、この古墳が築かれる前にこの地には墳墓群があったことも分かりました。(古墳時代前期の埴輪棺も含まれていました。)

土師ノ里8号墳(築造時期?・墳丘消失)
8号墳が造られた土師の里遺跡及び南に隣接する茶山遺跡一帯では円筒棺、埴輪棺が多数見つかっている。その中で8号墳は小なりと言えど墳丘を持ち副葬品を埋納し、追葬を行っている事から被葬者は、土師氏一族の中ではリーダー的な人物だったのではないでしょうか。
◎立派な円筒棺にはヘルメットみたいな蓋がありますが、その他のものは円筒に遺体を安置し両端は小石でふさいだだけだそうです。
f0215268_15395421.jpg

*土師の里遺跡の特徴的な出土遺構に円筒棺墓があります。円筒棺墓とは、筒形をした埴輪を棺に使った墓のことです。
筒形をした埴輪には、古墳に立て並べるために作った円筒埴輪を棺に転用したものと、初めから棺用に作ったものとがあります。
前者を転用棺、後者を専用棺と呼び分けています。専用棺は大きくて丁寧な作りをしていますが、見つかる割合は圧倒的に転用棺が高いのです。
 では円筒棺墓がなぜ土師氏に結びつくのかを考えてみましょう。まず、出土した円筒棺墓をみると、一部の例外を除いて、副葬品を伴わないことです。これは円筒棺を庶民の葬法と考える証となることです。ところが、円筒棺墓がたくさん見つかる地域は限られていて、当時の一般的な庶民の葬法ではなかったことも知られるのです。
 円筒棺墓がたくさん見つかる地域は、大古墳群が造られた地域と見事に重なります。古市古墳群、百舌鳥古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群などです。
つまり、円筒棺墓は、これらの古墳造りに関係した人々のお墓であった可能性が濃厚なのです。古墳造りに関係した人々とは土師氏をおいて考えられないのです。
 円筒棺の調査を進めていくうちに、難しい問題に直面したのです。それはこのお墓がいつ造られたものか簡単に判別できないということです。 
し前までは、棺に使われている埴輪の作られた時期がお墓の造られた時期と見なしてきました。ところが、一緒に葬られた副葬品の年代が棺の年代よりかなり下降するものがあることが知られたのです。
ある円筒棺では、棺が5世紀後半の作なのに、副葬されていた土器は7世紀初めのものだったのです。このお墓は100年以上も前に作られた埴輪を棺に使っていたのです。
 埴輪作りがとうの昔に終わっている7世紀になっても円筒棺という葬法をとっていた人々がいたという興味深い事実が明らかになったのです。
 土師氏は陵墓の管理を重要な仕事の一つにしていたことが知られています。
大古墳が造られなくなった6世紀後半以降の円筒棺墓は、こうした陵墓の管理にたずさわった人々のお墓かもしれません。伝統的な埴輪を使った特殊な棺に葬られることで、土師氏一族との結びつきを表明したのかもしれません。
◎土師氏は武力や政治的権力を持った豪族ではありません。職能集団といえます。

下田池(しものたいけ)古墳(6世紀前半・円墳・墳丘消失)
 径25mの円墳。周囲に5m前後の濠がめぐります。
ここからは馬の埴輪の脚部?が出土している。
◎展示してありましたよ。確かに馬のひづめっぽい。
「どうしてこの破片が馬のひづめ部分だって分かるのですか?」と聞くと同時に馬の頭と思われるものがでています、とのこと。

西墓山古墳
この古墳についてはこちらをお読みください。(カテゴリー★古墳⇒だれも埋葬されていない古墳 ②)
[PR]
by jumgon | 2010-12-23 16:08 | ★古墳

西墓山古墳

だれも埋葬されていない古墳 ②
f0215268_2201821.jpg

藤井寺市のHPより
西墓山古墳
西墓山古墳は、一辺18メートルの方墳で、墳端に円筒埴輪列をめぐらせ、斜面には葺石を施していました。古墳の中央部には、8×4メートルの大きな穴を掘り、内部に長さ6メートル、幅60センチの細長い木箱2つを東西に並べていました。東側の箱には、刀や剣といった200点を超える武器、西側の箱には、鍬や鎌、ヤリガンナといった農工具類2000点以上が納められていました。この施設は西墓山古墳のほぼ中心に作られており、人体を埋葬した痕跡は見当たりませんでした。
 つまり西墓山古墳は、当初から人体の埋葬を目的とせず、鉄製品の埋納を目的とした「副葬用陪塚」として計画されたものと考えられるのです。

f0215268_21294870.gif

上のイラストの右下に四角形の方墳が2つありますね。その小さい方が西墓山古墳、そして中央の大きい古墳が墓山古墳です。
西墓山古墳は、墓山古墳の附属施設と見なすことができます。したがって西墓山古墳に納められた大量の鉄器群は、墓山古墳の主の意図のもとに埋められた遺物と推定できます。
 いうまでもなく、大前方後円墳墓山古墳の主は、5世紀前半に活躍した大王、もしくは彼にとってかわりうる実力者と考えられます。
西墓山古墳は、墓山古墳の附属施設と見なすことができます。したがって西墓山古墳に納められた大量の鉄器群は、墓山古墳の主の意図のもとに埋められた遺物と推定できます。
 いうまでもなく、大前方後円墳墓山古墳の主は、5世紀前半に活躍した大王、もしくは彼にとってかわりうる実力者と考えられます。

f0215268_21384719.jpg

木箱は、石や粘土などで特別な保護施設を作らず、大きな墓穴の中に直接置いて埋め戻されていた。木箱はは長方体の箱形をしており、その中にはびっしりと鉄製品が納められていたこと。東側の箱には、鉄の刀と剣が5群に分けて入れられ、南北両端には短剣が入っていました。
出土の鉄製品の保存について
東側の刀剣類は外側のサビがひどいが、中心部分には鉄素材が良く残っていて、今後急速にサビが進行する可能性がありましたので、できるだけ単体で取り上げ、保存処理しました。

西側の農工具類は、サビがひどく一点ずつ取り上げることは困難なので、現状のまま土ごと切り取り、そのまま保存処理にまわした。

古墳を築造するには膨大な人夫を必要とする。それで食料の確保が必要となる。だから農具は必要だし、古墳を築くのにいろんな鉄の道具が必要だ。この出土品は「墓山古墳」を造る時に使用した物ではないだろうか?
じゃあ、鉄刀は?多分財産保存だと思う。自分の子孫が危急存亡の時にはこれを使いなさい、ってことではないかしら?
よく時代劇なんかでこんなシーンがありますね。嫁入りのとき親が「これは普段使ってはいけないよ。本当に困った時でないと使わないで、」といってお金や高価な品を渡す。

ちょっと想像過多かしら?
[PR]
by jumgon | 2010-10-20 21:34 | ★古墳

天神山古墳 ①

だれも埋葬されていない古墳②

「田中八郎さん」の「大和誕生と神々」を読んでいたら、人が埋葬されてない「天神山古墳」について述べている箇所があった。
えっ、古墳ってお墓じゃないの?
そういえば、藤井寺の西墓山古墳も人は埋葬されてなくて、多量の鉄剣と、鉄の農工具が埋められていた。!藤井寺シュラホールでその現場をそのまま保存処理してあるのを展示していた。
f0215268_18502991.jpg

◎今は、もう埋め戻され、墳丘は消失しています。

多分私が知らないだけで「人が埋葬されてない古墳」は日本中探したらいくつもあるかもしれません。

でも、今回はその一つ「大和天神山古墳」についておはなししましょう。

古墳内に41キロの水銀朱
大和天神山古墳(やまとてんじんやまこふん)は、奈良県天理市柳本町に所在する古墳時代前期初頭の古墳(前方後円墳)である。
天神山古墳は、大和盆地東辺に立地する柳本(やなぎもと)古墳群の中の1つで、いわゆる崇神(すじん)天皇陵の西方に位置す全1960年(昭和35年)に県道拡張工事で後円部の一部が削られたのを機会に緊急発掘調査が行われた。
発掘当時の写真
f0215268_18405358.jpg

後円部のほぼ中央に長さ6.1メートルの竪穴式石室が検出された。石室の中央部には、現存の長さ2.6メートルの板材が残っており、その中央は仕切り板で区切って、内法1×0.5メートルの木櫃状になっている。一見木棺のようであるが細部を検討すると木櫃(もくひつ)とした方がよい大きな木製容器が置かれていた。
その櫃内には41キログラムの水銀朱が埋納され、これをとりまくように鏡面を上に向けて20面の鏡と、木櫃外にも3面の鏡が並べられ、さらにその内外に鉄剣、鉄刀、鉄鏃、刀子、鎌などが置かれていた。 鏡は木櫃の周縁に沿って北から右廻りに20面で一周し、櫃外の北側に2面と南側にも1面が配され、その内訳は、方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)6面、内行花文鏡(ないこうかもんきょう)4面、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)4面、獣形鏡(じゅうけいきょう)4面、画像鏡(がぞうきょう)2面、三角縁変形神獣鏡(さんかくぶちへんけいしんじゅうきょう)2面、人物鳥獣文鏡(じんぶつちょうじゅうもんきょう)1面である。  天神山古墳の年代は4世紀後半ごろとされているが、これらの鏡は前期古墳によくみられる典型的な三角縁神獣鏡を含まず、後漢時代の方格規矩鏡や内行花文鏡などを主体とする特異な組合せを示している。天神山古墳は遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に崇神天皇陵があり、同陵の遺物のみを埋納した陪塚(ばいちょう)とも考えられている。

f0215268_18374716.jpg

◎「天神山出土の木櫃と水銀朱」
上の写真は県立橿原考古学研究所(以下、橿考研と略称)の附属博物館で、2008年に研究所創立70周年を記念して特別展示が開催された時の写真
水銀は『三国志』魏書東夷伝倭人条で「その山に丹あり」といわれ、日本でも産出したが初期古墳では輸入品も使われていたらしい。
水銀朱とは、もともと水銀と硫黄が化合した硫化水銀で、多くの場合辰砂(しんしゃ)を砕いて得られる。辰砂は、中央構造線に沿った断層に多く認められる。

「大和誕生と神々」によれば、「宇陀」「都祁」の水銀を支配していた先住民(縄文人)の親分であるミムロ神(ミムロの有力者)に対抗した新興勢力がその支配権を奪って物資流通の支配力の証に、この天神山古墳をつくった、とかいてある、(かなりはしょってます)

それが後の大和政権に繋がるかどうかは分かりませんが、ジンムも水銀、富を求めてやってきたのでしょう。(ここでは、神武東征はなかった、とか色んな意見は一応おいておきます。)

この古墳も崇神陵のまえにあるので、もしかしたら崇神陵の遺物のみを埋納した陪塚(ばいちょう)かもしれない。
藤井寺の西墓山古墳もすぐ近くの「墓山古墳」の陪塚(ばいちょう)とも考えられているそうだ。
以前、公民館講座で文化財課の人がこんなことを言ってました。
「何故こんな貴重品(鉄製品)が多量に埋められているか考えた人は、私に言ってください。妥当だと思ったらパクリますから、、、」なんて冗談をいってました。
西墓山古墳は応神天皇陵などがある、河内王朝の時代だから、鉄を大量に作る技術がもうあって、それほど貴重品でもなくなっていたのかもしれない。

① 古墳は戦闘基地・・・・・古墳に戦士を配置し、武具を近くに埋めて保存した。(西墓山古墳)
② 財力見せびらかしの場所(天神山古墳)
③ 万が一のときの為の財産保存(天神山古墳)


◎天神山古墳は伊射奈岐(いざなぎ)神社の境内の裏手にあります。
   
[PR]
by jumgon | 2010-10-19 18:54 | ★古墳

長持山古墳の石棺 ①


今は墳丘が消失した長持山古墳

藤井寺市のHPより
この古墳を最初に見つけたのはイギリス人のウイリアム・ゴーランドという人物です。
ゴーランドさんは、明治初期の日本政府が西欧の最新技術を積極的に取り入れるために招へいした専門家の一人だったのです。彼は明治5年に来日し、大阪の造幣局に冶金学の技術指導者として16年間日本に滞在しました。
 彼は公務のかたわら、日本の今でいう古墳時代の遺跡に大きな興味をいだいたようで、全国各地の古墳めぐりをしています。

道明寺近くの墳丘で石棺らしきものを発見しました。

戦後になって、大阪府教育委員会と京都大学が長持山古墳を発掘調査しています。そしてゴーランドさんが見つけた以外にもう一つの石棺が発掘されました。
*計二つの石棺
f0215268_15423389.jpg

向かって左が一号石棺、右が二号石棺です。
一号石棺・・・・長さ 205cm、幅 75cm、高さ 100cm
二号石棺・・・・長さ 220cm、幅 85cm、高さ  85cm
現在道明寺小学校の入り口に展示されています。
石棺が刳りぬかれる様子のイラスト
f0215268_18241361.jpg


また藤井寺市のHPから(一部改変)
1号棺とすでに露出していた2号棺とは刳抜き(くりぬき)式であることは共通するのですが、形に違いがあります。一番違っている点は縄掛け突起のつく位置と個数です。2号棺は屋根形をした蓋石の屋根部分に二対計4個が造り出されていたのですが、新しく見つかった1号棺は、蓋と身の両方の小口に大きな突起が一対造られていたのです。
また、両方の石棺とも身と蓋の合わせ目は、印籠(いんろう)型式のていねいな仕上げが施されています。身の上面には凸面を造り出し、蓋の底面には逆に凹面を造り、両者がぴったりと組み合うようになっているのです。とくに1号棺の身と蓋の組み合わせは、ほとんどすき間なく造られており、熟練した石工(いしく)の作品であることが分かります。

石の材質について
最近、熊本大学の渡辺一徳さんと宇土市教育委員会の高木恭二さんによって石材に含まれるガラス成分の分析が進められ、新しい研究成果が発表されたのです。これによると、1号棺、2号棺とも阿蘇溶結凝灰岩を石材としていることが確実になったのです。2基とも遠く九州からはるばる大阪に運ばれてきたのです ただ、両石棺は、同時期に造られたものではなく、まず1号棺から造られ、少し後に2号棺が造られた可能性が高いと考えます。。

長持山古墳は、すぐ東側にある大型前方後円墳市野山古墳の「陪塚(ばいづか)」と考えられています。
長持山古墳には、中国から輸入した鏡、最新式のよろい、挂甲(けいこう)、豪華な金メッキを施した馬具などが納められています。

阿蘇溶結凝灰岩 ってどんな石?
熊本市立熊本博物館のHPより
あそようけつぎょうかいがん    堆積岩
阿蘇溶結凝灰岩        火山砕屑岩
溶結凝灰岩は、火砕流(かさいりゅう)によってできます。阿蘇は、過去に大きな火砕流を伴う噴火(ふんか)が4回発生しています。特にAso-4火砕流堆積物は、九州の広い範囲に分布しています。火砕流は、土地の低い部分や谷にたまり、自らの熱と重さによって圧縮され、火山ガラス、軽石、火山灰などがくっつきあって溶結し一つの岩石になります。ガラス(黒曜石(こくようせき))は、拍子木状(ひょうしぎじょう)に伸びます。また、溶結の度合いは、火山からの距離により異なり、不純物が少なく加工しやすい溶結凝灰岩は、石材としても利用されています。
石棺はくりぬき加工をしてから、なにわまで船で運ばれました。
*阿蘇溶結凝灰岩は灰色石、ピンク石とよばれています。そういえば少し赤っぽい色をしてる!
興味のある人は、ライフログの「大王のひつぎ海をゆく」を参照してください。

国府遺跡、志貴県主神社、市野山古墳(允恭陵古墳)はすぐ近所です。
[PR]
by jumgon | 2010-10-04 16:10 | ★古墳

現在の住所・・・・・・・大阪府藤井寺市藤井寺

近すぎてわざわざ写真に撮ったりしたことが無かったけれど、先日の「古事記を読む」講座を聴いてから、天皇陵の写真も記録しておく気になった。

この堀にははす(すいれん?)の花が一面に咲いていたことがあった。今年はどうだったんだろう?
f0215268_20541063.jpg


やっぱり名前がほられた石柱は写しとかないとね!アイコンを置いたところから撮りました。
f0215268_20550100.jpg

[PR]
by jumgon | 2010-08-09 20:59 | ★古墳