古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:  ○三輪神社・大神神社( 8 )

三輪山信仰の変遷

三輪山信仰はどのように変化してきたか?

私は古い遺跡や古墳をめぐったり、出土品をみても「古い時代の物」くらいの認識しかなかった!
農具や武器などもいっぱひとからげに、「大昔のもの」でおわっていた。

やっとこのごろ、遺跡や出土品は、出土状況、時代をキッチリ意識したら、歴史の意味がすこしずつ見えてくることが分かってきた。

さて、以前から、大神神社について書いてきたが、それぞれの遺物、鳥居や摂社、末社等がどういう意味があるのかもうひとつハッキリしなかった。
いつから、どの摂社が追加されたのか、記紀に描かれた記述だけを信用していいものか分からなかった。

そんな時、つぎのHPで三輪山信仰の変遷を知ることができたので紹介する。
ただしこれも、筆者のただ今の見解で考えが変わることもあり得る、ということです。(歴史の見解はみなそうですが、、、、)

三輪山周辺の祭祀遺跡変遷http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.htmlより

三輪山周辺地域の分類・・・纏向・三輪・初瀬・三輪山の4地域に細分されます(寺沢1988)。
下の地図をご覧下さい。
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・纏向地域: 狭井川より北方で、桜井市と天理市の境界辺りまでの地域。
・三輪地域:東は三輪山がそびえ、西は狭井川と初瀬川(大和川)に挟まれた三角形の区域。古代歌謡では「水垣」といわれ、清浄な場所とされました。(田中八郎氏もここが「ミワ神の勢力地と書いている。」
・初瀬地域:三輪地域より以東の、初瀬川流域の一帯を呼称。広義の初瀬地域は、現在の長谷寺や天神山(与喜山)のそびえる辺りまでを呼びますが、本稿においては、現在の朝倉・忍坂地区周辺をもって狭義の初瀬地域とみなしたいと思います。
・三輪山地域:三輪山そのものを指します。

 この地域区分に沿って、三輪山周辺地域の祭祀遺跡変遷を見ていきたいと思います。

<前段階>(~3c初)
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○三輪地域が勢力集団の本拠地だった時期(~3c初)
○三輪地域に、芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡などの集落遺跡が集在。
○三輪山信仰は始まっていたが、三輪地域を「不入の聖域」と見る考え方には至っていなかったと見る。
○書記:崇仁天皇三年の秋九月。(紀元前94年?)屋敷を磯城(しき)に移した。
瑞籬宮(みづかきのみや)という。(三輪山(みわやま)の西南麓、桜井市金谷付近の地とされる。
これから三代に渡り、纒向(まきく)遺跡周辺に宮が置かれることになる。) 

*以前から「水垣」地域に住んでいた人達のところへ、崇仁天皇が瑞籬宮をおいたのか、、、
 まだ対立は起きてなかった、とおもわれる。

<第1段階>(3c初~4c)
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○纏向遺跡が三輪全域を神聖視していた時期(3c初~4c)
○祭祀場は、纏向遺跡の集落内祭祀。
三輪地域は聖地化され、集落も墳墓も築造されず。blockquote>
*纏向地域が発展してきたのだろうか?
 集落は「水垣」から纏向地域に移ったようだ。 


<第2段階前半>(4c後~5c前)
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○三輪地域に祭祀場が設けられた時期(4c後~6c初)
山ノ神祭祀遺跡(前半)を中心に、三輪地域の祭祀場化。

<第2段階後半>(5c後~6c初)
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○山ノ神祭祀遺跡(後半)
奥垣内祭祀遺跡。三輪地域における子持勾玉祭祀の始まり。
○三輪地域北部に茅原大墓古墳の築造。


<第3段階>(6c前~7c初)
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禁足地における勾玉祭祀期(6c前~7c初)
三輪地域→禁足地へ祭祀領域がせばまった。
禁足地磐座群(中津磐座)を志向した祭祀の可能性。
○三輪地域北部で後期古墳が築造されていく。

<第4段階>(7c前~14c?)
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○禁足地内「長方形土壇(御主殿)」祭祀期(7c前~14c?)
○「屋代」としての祭祀場。禁足地磐座群の見える位置での祭祀。


<第5段階>(1317~)
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○拝殿祭祀期(1317~)
山岳登拝の慣習も普及し、「奥津磐座」「中津磐座」「辺津磐座」概念が生まれた。
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三輪山の辺津磐座の一つであり、出土品は素文鏡・曲玉・滑石製模造品・土製模造品・須恵器・鉄片など祭祀に関わるものばかりであり、磐座祭祀の場と考えられています。
坩(つぼ)・匏(ひさご)・堅杵(きね)・堅臼(うす)・案(あん)・柄杓(ひしゃく)
これらは古代において、大三輪神に神酒を供え、また造酒の神徳にちなんで、それらの道具を土製模造品でつくり、献げられたものとされています。

○この頃になると、三輪山を中心として様々な磐座が設けられ、信仰された。


*ナルホド!!
 こんな風に整理されたら本当によく分かる。


子持勾玉の型式変遷略図
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[三輪山出土の子持勾玉] 
子持勾玉とは、大きい勾玉(親)に小さい勾玉(子)が突起の如く付属している祭具です。
三輪山周辺地域は、全国的に最も子持勾玉が出土している所で、その型式変遷から、大きく古式と新式の2期に分けることができます。
そして、その古式と新式の出土した場所に偏りがあることから、これも三輪山祭祀遺跡の分布変遷の傍証となりえます。
 
○三輪地域(芝遺跡・山ノ神遺跡・茅原源水遺跡)出土 → 古式の特徴。5c末ころ。
 ○禁足地出土 → 新式の特徴。6c代

古式の特徴は、断面が丸く、全体的に作りが曲線的であるという点です。子勾玉も忠実に再現されています。対して、新式の特徴は断面が平面的で、全体的な作りが直線的で、先端部が尖っているといった点です。子勾玉は、単なる突起に形骸化していきました。
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by jumgon | 2010-12-15 20:22 |  ○三輪神社・大神神社
なぜ古代日本の王権発祥の地は大和なのか?

日本の(文献上の)歴史が奈良盆地から始まったことはいうまでもないが、今の奈良県をみていると「どうしてこの地が重要であったのか?」の疑問がわく。さほど魅力的な土地であったようには思えない。
大和地方で一番古い古墳があるとされる三輪山麓周辺はそんなに広い土地ではない。
明日香も狭い。甘樫の丘から明日香村を見下ろすと、細い飛鳥川を挟んで、狭い平坦な地がある。この地でさえ天武天皇が湿地を埋め立てて平地にし、都を作ったというが、なんでこんな狭い場所を都にしたのか不思議に思うほどである。

飛鳥寺を訪れた時、「この長閑な水田がひろがる土地が本当にかっては日本の首都だったのか?」と思わずにいられなかった。

なぜ王権発祥の地が大和地方なのか?

そもそも西暦後の文明を日本列島に育てた功労者は渡来人である。

(それ以前の渡来者も海からやってきて、縄文文化を華咲かせていたが、、、)


渡来者はまず海岸や港に生活を根付かせたから、新文明の弥生文化の到来は北九州や瀬戸内海や山陰が大和より優位だったのは当然でなことだ。
弥生時代後期の頃の大和は、九州、吉備、や山陰と比べると、紛れもなく後進地だったはずだ。

先進地をおしのけ、後進地の内陸が幾百、幾千あるなかで、大和が選ばれて新国家創建の地になった理由はなにか?

なぜ、筑紫や出雲、吉備でなく大和まで人々はやってきたのか?

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」ではいろいろ細かく語られているが次の二つが大きな理由だ。
① 宇陀に辰砂が産出し大陸から買い付けられた。(買い手があった。)
(えっ、そんな昔から?そういえば、不老不死の薬を求めにやってきた徐福伝説がありますね。中国では「神武天皇は徐福だ」という説があるそうです。
亀の瀬渓谷の地すべりが天然の要塞となり大和を防衛した。

(亀の瀬渓谷ってどこにあるの?たぶん、亀の瀬渓谷なんてたいていの人はご存知ないと思う。これについては、「大和川・河内平野から大和への道)の項でかきます。)
地図で青い星マークが亀の瀬です。


さて、これを詳しく見ていこう。

 辰砂採掘は先住民も行っていたが、後にやってきた王権予備軍は辰砂採掘のみでなく冶金による水銀生産を始めようとした。水銀鉱脈を探す為には地元先住民の協力は無くてはならないものだったし、採掘、冶金の労働者は先住民だったから、それを采配する大国主の力は王権予備軍より大きいものだった。
やがて冶金の技術を知っている王権予備族が次第に力を大きくしていった。(採掘と冶金の権益をめぐって、先住民と王権予備軍との間で軋轢があったことは、大神神社で述べた。)

王権予備軍は 鉄の農工具使用によって古墳を築く為の土を採り出し、あとに出来た大きな平地を水耕稲作地とした。
(巻向時代に先立つ唐古・鍵の弥生時代にも水田生産は実践され、他地方に先行した農法だったが、大規模の実施は箸墓建設にともなった。)古墳建設と水田農耕はセットで推進された。

水田農耕も古墳建設も全て労務者は先住民で、労務の指揮監督者は王権予備軍だった。先住民たちは古墳建設や新農業の合理的な生産と利益の産出に驚き参加しながら、富のおこぼれを得た。(箸墓労務者は単純計算で少なく見積もって年間3400人プラス家族人数、それに加えて管理者、治安要員の人口があり、その食料の必要性が水田稲作を推進させた。)
こうして、だんだん王権派の力が強くなっていった。

 古墳築造・水耕稲作地の開発の為、不特定群集を管理するための組織つくりと不満分子を監督する為の武力(戦闘集団)を作った。これでますます力をつけていった。

○ 決定的な力の差を生んだは、馬の出現だった。運搬力と鉄鉱技術。これによって先住民は分裂して、とうとう王権派が永く続いた拮抗を崩し主導権を握った。


以上が田中八郎氏の「大和誕生と水銀」にかかれた、大和に古代日本の首都が出来た理由です。

ナルホド、地に足がついたお話だ。
先住民と王権予備軍の「せめぎあい」があったとは思うけれど具体的にどういうことだったのか全く分かっていなかった。田中氏によると三輪山麓・巻向時代の特徴は、大王を含む諸豪族と先住民勢力=オオクニヌシ派とが共同統治をおこなっていた、という。物資の輸送人足や労務者の統率には先住民の指導者の協力は必須だった。
双方互角で均衡した有様を映しているのが、ツバ市の域内にあった崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)に、オオクニヌシとアマテラスを崇神自身が祭祀していたことにある。
  

奈良の重要な場所は、以下のように移っていったらしい。
1.弥生時代(磯城郡田原本町。唐古・鍵遺跡がある)
2.ヒミコ時代(桜井市・巻向の古墳群)
3.初期大和朝廷時代(桜井市・橿原市)
4.飛鳥時代(明日香村の飛鳥浄御原京)
5.藤原京時代(橿原市)
6.平城京時代(奈良市)

わたしが考えたこと
王権予備軍の人口は先住民より少なかったと田中氏は書いているが王権予備軍はいったい何人ぐらいの集団だったのか?
◎最盛期人口1,600万人もいたインカ帝国を滅ぼしたのはピサロ率いる、わずか168名の兵士と1基の大砲、27頭の馬という兵力だった。

わたしの想像では、神武をふくむ幾組かの親族集団でやって来たのではないかとおもう。
神武一族、久米一族、安曇一族、隼人一族、その他。
各親族集団30名位とすると約100~200人位ではなかったか?
先住地元民と戦うときは協力しつつ、それぞれ力を蓄えた各族のうち、神武一族が最終的に王権を握ることになった、、、、てストーリーはどうかしら?
記紀では最初から、他の一族を部下みたいに書いてるけど、、、、。

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by jumgon | 2010-11-04 15:35 |  ○三輪神社・大神神社
あてがわれた看板「太陽信仰の神」
三輪山山頂の奥津磐座にある日向(高宮)神社があります。
日向神の登場するいきさつを記紀に見てみましょう。

古事記にはスクナヒコナの神が常世国に行ってしまったので、オオクニヌシは愁いました。
大國主(オホクニヌシ)神は悲しんで、「私一人でどのようにしてこの国を作ることができるだろうか。どの神と私とで、この国を共に作るのか」と告げた。この時、海を照らして寄って来る神がいた。その神は、「私の御魂(みたま)をよく治めるならば、私が共に作り上げよう。もしそうでなければ、国は出来上がらないだろう」と言った。そこで大國主(オホクニヌシ)神が、「それならば、どのようにして治(おさ)め祀(まつ)ればよいでしょうか」と言うと、「そういう汝はだれだ。」「吾は汝の幸御魂奇御魂なり
、「それならば、どのようにして治(おさ)め祀(まつ)ればよいでしょうか」と言うと、「私を倭之青垣(やまとのあをがき)の東の山の上に祭祀(さいし)しなさい」と答えた。これが坐御諸山上神(みもろやまのへのかみ)である。 

これはどういう意味か

「大和誕生と神々」より
「もともとオオクニヌシは出来が悪くて頭領になる素質がなくスクナヒコナが介添えしていたから、頭領としてやってこられたのだ。そのスクナヒコナが去って困っているところに、海の向こうから身元不明ながら国を治める力のあるものがやってきた。オオクニヌシは自らの意思でそのものを、ミムロに招じ入れる選択をした。外来者が強引に武力制圧で押し入ったのではない。招かれて入った神が山頂にいる日向神なのだ。」といいたいのだ。(勿論古事記を編集したサイドが)
ミムロ神は伊勢神の配下である。ミムロの山から伊勢(太陽神)を拝礼している、と宣伝しようとしたのだ。
「日向神」はミムロ神よりえらい。ミムロ神が上に頂いている神だ。
ミムロに取り付き、寄生して、ミムロ神の力を弱める任務を負った社は二社ありました。
一つは山頂の日向神であり、も一つは若宮社のオオタタネコ神社です。
*山頂の日向神は明治の前半の頃に、ここの日向社と山麓のミコノモリという地にある高宮社とが入れ替わっていた。現在日向社はミコノモリにある。


若宮社(オオタタネコ神社)
古事記には大田田根子(オホタタネコ)を大物主(オホモノヌシ)大神の祭主とした、とあります。
「オオタタネコ」は王権予備軍とミムロ神との仲介役にオオクニヌシ(オオモノヌシ)が指名しました。
◎きっと宇陀の辰砂採掘の利権と巻向市場の支配権をめぐっての仲裁を頼んだのでしょう。
田中八郎氏の説では
「オオタタネコ」はやがて王権派にとりこまれてしまった。
「王権予備軍がミムロ派を神社から出れないように(活動できないように)、見張る役目に就いたのが隼人族だ。その名残が、狛犬だ。
だから、「アマツ神を祀る神社には狛犬はいない」
隼人はもともと縄文先住民だったが、王権派が九州をでるときに従ってともに来たらしい。
政の中心にはつかず、その職掌は警備だった。(ようするに下っ端ということ)

◎狛犬に関しては、???という感じですがそのうちその説が妥当かどうか検証していきます。

◇司馬遼太郎は「街道をゆく」で、この地域の古代信仰は大和を拠点に活躍していた出雲族が行なったとしており、その出雲族である「ミワ」という種族が「大物主」を最大の神として祀ったことから三輪山の信仰が始まったとしています。
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by jumgon | 2010-10-30 18:12 |  ○三輪神社・大神神社

前々回の三輪山の話 ③では、狭井神社(さいじんじゃ)について、さらっと通り過ぎてしまいました。
今日はもう一度おさらいします。

大神神社HPより
狭井神社(さいじんじゃ)
祭神     大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
        大物主神(おおものぬしのかみ)
        媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
        勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
        事代主神(ことしろぬしのかみ)
例祭日4月10日
鎮花祭4月18日

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この神社から三輪山の禁足地への登り口があります。

「大和誕生と神々」より
延喜式神名帳の狭井座大神荒魂神社の祭神はアラタマの荒ぶる神です。大神神社の祭神ニギタマと違って、荒ぶるという表現の中味は疫疾の発生そのものを指しています。養老律令の注釈書である令州解(りょうのしゅうげ)に「春の花の花粉が飛び散るとき疫神が分散して癘を行うので、それを鎮めるためにこの祭を始む。ゆえに鎮花という、とあります。
もしかして花粉症?三輪山は杉が多いから~
古代では皮膚疾患のみが病でありそれ以外は祟りでであると思われていました。その祟り神ミムロが巻き起こす疫病を防止する祭祀が鎮花祭です。
王権が行った疫病対策の最大の施策がこの祭祀なんです。
大神神社の祈祷殿から市杵島姫神社への道にくすり道と呼ばれているみちがあります。
製薬会社の献灯篭が両脇にならんでいて、薬効があると思われる色々な樹木が植えられています。
スープを作るときに使う月桂樹(ローレル)もありましたよ。
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狭井神社の狭井とはやまゆりの古名です。鎮花祭の特殊神饌としてゆりねと忍冬を供える伝統があります。薬用としてのゆり根は漢方薬として多用されており、内臓の働きをよくし、排泄をうながし、強心と強精の効果や、消毒、鎮静、鎮咳、利尿薬として使用されている。
今日では大阪・大和・京都・富山方面の大製薬会社が新薬の数々を献じて薬業の発展を願う祭が鎮花祭です。
下の写真は「山ゆり」です。
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鎮花祭でつかう笹ゆりが激減しているので、今は保存活動をされています。境内のあちこちに「ささゆり園」が設けられています。
人間とイノシシの害を防ぐ為、柵をされています。

あれ、「さい」って山ゆりのことじゃなかったの?まあ、イイカ。たしか神社ではささゆり園って立て札があったけど、、、
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写真はささゆりです。
勿論いまは咲いてませんでしたけど、、、、。

さて、気になるのでゆり根の歴史を調べました。
ゆりねの歴史中国と日本原産のゆりは古名を佐韋(さい)、三枝(さいぐさ)といい、これは賽の河原のサイと同じ意味で、ゆりの霊力が天上の扉を開くと信じられていました。百合というのは漢名で、鱗片(りんぺん)が幾重にも重なり合っていることからつきました。
 古くから薬用として使われ、一部苦みの少ないゆりねは食用にもしていたようです。はじめは自生のものを採取していましたが、17世紀になって栽培されるようになりました。
鬼ゆり
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 現在では食用として栽培されている95%は苦みの少ない小鬼ゆりで、残りの5%が鬼ゆりや苦みのない山ゆりです。
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by jumgon | 2010-10-28 20:23 |  ○三輪神社・大神神社
大和の黎明期

さて、三輪山 ②で大神神社をつくり祀ったのは王権予備軍だといいましたね。

「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔です。

その証拠?なるものがあります。
①ミムロ神は注連縄が逆さ飾り
②ミワ鳥居の怪
③鎮花祭の目的は祟り神をしずめることで
④狛犬がいない
⑤そうではないのに、大和王権の守護神とされた

①、②はもうお話ししました。
③、④,⑤ は相互にからみ合うので、今日は大和の黎明期全体を考えながら、お話ししたいと思います。

なぜ、人々は巻向をめざしたか?
大和の黎明期

王権予備族が大和へ進駐してきた頃の繁栄地域は、ミムロ山麓に展開した社会が活動していた。その繁栄の情報が広く伝わり、交易と生活技術とを求めて関東から九州地方までの各地から、多くの人がミムロ山麓都市である、巻向へと往来していた。遠い旅を、あえてやってくるほどの魅力は、大陸から到来した薬品・食料をふくむ生命を補助してくれる各種の雑貨品と技術でした。九州や日本海沿岸でなく海から隔たった不便な土地の大和へどうして大陸人は荷揚げをしたのでしょう。
それは大陸の人々の欲する物質が、大和でしか手にはいらなかったからです。
その物質とは、ミムロ山の背後から産出した朱砂、辰砂です。それがオオ市、巻向市庭で交易された結果、大陸からの商品がたくさん到来した。

◎大陸や日本の他の地方では朱砂は採れなかったのでしょうか?採れても量が少なかったのでしょうか?これは今、調べるています。
やがて、大和平野に王権予備軍がやってきた。、オオ市、巻向市庭を蚕食し、鉄製農工具をあつかう稲作でそこに自分たちの国をつくろうとした。彼らは先住民を追い抜く力を築いていった。
占領地域の統治をすすめる鉄則は、被占領民の有力者を指導者風にしたてて、それを表看板にして裏から操ること。つまり王権は傀儡役にミムロ神を就任させたかった。懐柔政策としての友好関係を押し売りしました。「ミムロ神は王権の守護神である」などとミムロ神の了解もなしに宣伝しました。

その頃の様子を日本書紀で読みましょう。

日本書紀・崇神記 より

疫病と祭祀
 三年の秋九月。屋敷を磯城(しき)に移した。瑞籬宮(みづかきのみや)という。(三輪山(みわやま)の西南麓、桜井市金谷付近の地とされる。これから三代に渡り、纒向(まきむく)遺跡周辺に都が置かれることになる。) 
 四年の冬十月。天皇(すめらみこと)は、「祖先の天皇(すめらみこと)(族長)たちは一族の安定・発展のために尽力してきた。そして今、我々は大和国(やまとのくに)でも有数の豪族となったが、さらなる発展のためにはどうすべきか。豪族たちと話し合ってみよう」と語った。
(まだ、大王以前の状態だったと思われる。) 
 五年。国中に疫病(えきびょう)が発生し、大半の民が死亡した。
 六年。百姓が流出し、反逆する者もいた。説得してもその勢いは止まらなかった。

(きっと、先住民たちを酷使して、利益はホンの少しだけ、といった状態だったのでしょう。)
そのため、天皇(すめらみこと)は朝夕に神祇(あまつかみくにつかみ)(天上の神々と地上の神々。いわゆる天神地祇(てんじんちぎ))に祈った。それまでは天照大神(アマテラスオホミカミ)(太陽の女神であり、一族の祖神の一柱)と倭大國魂(ヤマトノオホクニタマ)(大和国(やまとのくに)の国土の神)とを屋敷内で一緒に祀っていたが、その不安定な状態が神の怒りを買った。そこで天照大神(アマテラスオホミカミ)の霊威を豊鍬入姫(トヨスキイリビメ)命の身に憑(つ)け、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬひのむら)(諸説ある)に移し祀ることにした。、そのための神籬(ひもろき)(神が降臨する場所。後の神社)をたてた。

(ようするに、大物主(オホモノヌシ)大神がアマテラスと一緒だと怒るので、アマテラスを移転させた。これがアマテラス流浪の始まりだ、と田中氏は述べている。国つ神も王権予備族の神も、仲良くしようという欺瞞をアマテラスが上手に演出できなかったので、アマテラスはよそへ移転させられた、そうだ。)
また、日本大國魂(ヤマトノオホクニタマ)神の霊威を渟名城入姫(ヌナキノイリビメ)命の身に憑(つ)けて祀らせることにしたが、渟名城入姫(ヌナキノイリビメ)は髪が抜け落ち、痩せ衰えてしまい、祀ることができなかった。

(大物主(オホモノヌシ)大神が進駐勢力と平和的に共存を図れると思ったのに結局先住民の権益がだんだん損なわれていったので、まやかしの祀りを拒否したのことの象徴だそうだ。) 
七年の春二月。天皇(すめらみこと)は、「昔、我らの祖先がこの地に定住してから、一族は安定と繁栄を手に入れた。しかし、思いがけず、今となって災害が多発した。おそらく、よい政(まつりごと)(祭祀と政治)が行われておらず、神々が咎(とが)を与えているのだろう。占いによって、原因を突き止めよう」と語った。そして神浅茅原(かむあさぢはら)(所在は諸説ある。神聖な草原の意)に出向き、占いで神々に尋ねた。この時、一族の神明倭迹迹日百襲姫(カミヤマトトトビモモソヒメ)命の身に神が憑(つ)き、「案ずるな。私を敬い祀れば、自然に安定するだろう」と語った。天皇(すめらみこと)が、「そのように教えてくださるのはどの神でしょうか」と尋ねると、「私は倭国(やまとのくに)の国内にいる神で、大物主(オホモノヌシ)神である」と答えた。そこで、神に教えられた通りに祭祀を行ったものの、なんの兆候も表れなかった。

(王権予備軍の利益代表の神明倭迹迹日百襲姫(カミヤマトトトビモモソヒメ)命が祀りはしたが現実に先住民の納得のいく行動がなかった、ということか?この祀りの失敗は「箸墓伝説に投影されているという)
箸墓伝説 
大物主大神と結婚したヤマトトトビモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「あなたのお姿を見たい」と言うと、「もっともなことだ。明朝、あなたの櫛筥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」とお答えになりました。翌朝、姫が櫛筥を開けてみると、そこには衣紐ほどの麗しい小さな蛇が現れました。姫は驚いて叫んでしまいます。すると、大神は恥じてたちまち人の形となり、自分に恥をかかせたと言って大空を踏んで三諸山に帰ってしまわれます。残された姫は仰ぎみて悔い、どすんと座り込みました。その時、箸で陰部を突いて亡くなってしまわれます。この姫の墓を箸墓と言い、その墓は昼は人が造り夜は神が造ったと伝えられています。

そのため、天皇(すめらみこと)は身を清め、屋敷を清めて、「私の神への崇敬が足りないのでしょうか。神意をお教えください」と祈った。すると、その夜の夢に大物主(オホモノヌシ)神と名乗る神が自ら現れ、「案ずるな。すべては私が与えた試練である。もし私の子孫の大田田根子(オホタタネコ)に私を祀らせたなら、自然に安定するだろう。また、国外の者たちも従うことになるだろう」と告げた。
 
なんと大物主の方から祭祀者としてオオタタネコを指名したのだ。国つ神と王権予備軍の神との仲裁役として、、、
秋八月。天皇(すめらみこと)の近しい者三人が、夢のお告げを報告した。どの夢も、「大田田根子(オホタタネコ)命に大物主(オホモノヌシ)大神を祀らせ、また、市磯(いちし)の長尾市(ナガヲチ)に倭大國魂(ヤマトノオホクニタマ)神を祀らせたならば、きっと天下は安定するだろう」というものであった。

(疑い深かったのですね!三人の夢のお告げが一致していたので、やっと大田田根子(オホタタネコ)命に大物主(オホモノヌシ)大神を祀らせることにしました。)

天皇(すめらみこと)は夢のお告げに大いに喜び、困窮していた内外の豪族に布告して大田田根子(オホタタネコ)を探させた。すぐに茅渟県(ちぬのあがた)(大阪府南部の沿岸部)の陶邑(すゑのむら)に大田田根子(オホタタネコ)がいることがわかった。そこで、天皇(すめらみこと)は自ら神浅茅原(かむあさぢはら)に出向き、諸豪族や一族の家来たちを集めた。そして大田田根子(オホタタネコ)に、「あなたは誰の子か」と尋ねると、「父方は大物主(オホモノヌシ)大神の子孫、母方は活玉依媛(イクタマヨリビメ)の子孫と言い伝えています。陶津耳(スヱツミミ)の娘です」と答えた

陶津耳(スヱツミミ)の娘ということは、ミムロの民に須恵器をもたらしたということだと思う。
先日、ある資料館で「三輪山麓遺跡出土、子持ち勾玉}を見る機会があったが、その説明の紙札に、「陶製」と書かれていた。今まで、勾玉の材料は、滑石製とか翡翠しか見たことがなかったので、これは何だろう?と気になっていた。
大神神社の資料館にも子持ち勾玉が、欠けたのも含めたら、5個くらい展示されていた。
須恵器(すえき)とはWIKIより
日本で古墳時代から平安時代まで生産された陶質土器(炻器)である。青灰色で硬い。同時期の土師器とは色と質で明瞭に区別できるが、一部に中間的なものもある。5世紀に朝鮮半島南部から伝わり、土師器より高級な品として扱われた。
土師器までの土器が日本列島固有の特徴(紐状の粘土を積み上げる)を色濃く残しているのに対し、須恵器は全く異なる技術(ろくろ技術)を用いて製作された。それまでの土器は野焼きで作られていた。このため焼成温度(800~900度)が低く、強度があまりなかった。また、酸化焔焼成(酸素が充分に供給される焼成法)となったため、表面の色は赤みを帯びた。それに対し、須恵器は窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成する。閉ざされた窖窯の中では酸素の供給が不足するが、高熱によって燃焼が進む。燃料からは、酸素が十分なら二酸化炭素と水になるところ、一酸化炭素と水素が発生する。これが粘土の成分にある酸化物から酸素を奪う、つまりは還元することで二酸化炭素と水になる。特徴的な色は、粘土中の赤い酸化第二鉄が還元されて酸化第一鉄に変質するために現れる。



オオタタネコが持ち込んだ須恵器は土器として偉大であり革命的製品だった。(高温で焼かれている為、従来の土器のように、水漏れがしない、硬く割れにくいなど、従前の生活の様相を変えるまでになった。)
これがオオクニヌシがオオタタネコを招いた魂胆だった。
だが、それは縄文価値観の世界内部のことで新しい文化が盆地内に展開され、沸き立っているのにオオクニヌシは気がつかなかった。地面をいじくり、土を盛り上げ古墳と呼び、土を平らにして水田稲作はじめだしたのをみても、それほど意味があると思っていなかった。
ところがその連中が鉄の武器を持って、いつのまにかミムロ神の周りを取り囲んだのです。
そして、新しい勢力に次第に押されていく事になりました。
ミムロ神が土だけでなく、金属の世界に踏み込んでいたなら、鉄の新時代が到来しても、頭領神として、権威を継続することが出来たでしょう。
一見、さほど値打ちもなさそうな岩石が精錬や冶金で鉄になったり、金になったりする。ミムロ神はその魔法を知らなかったのです。でも、その権威は雄略の時代まで、長く続きました。


日本書記・雄略天皇条にこんな記事がある。

七年の秋七月。天皇〔すめらみこと〕は少子部連〔ちひさこべのむらじ〕のスガルを呼び、「三諸岳〔みもろのをか〕の神の姿とやらを見てみたい。おまえはおもいきったことをする男だ。行って捕えて来い」と命じた。<この山の神は大物主〔オホモノヌシ〕神のことであるという。あるいは、菟田墨坂神〔うだのすみさかのかみ〕であるともいう>。スガルは、「ためしてみましょう」と答え、三諸岳〔みもろのをか〕に登って大蛇を捕えて戻った。ところが天皇〔すめらみこと〕が身を清めていなかったため、大蛇は轟音〔ごうおん〕を鳴らして目を光らせた。天皇〔すめらみこと〕はびびり、目を合わせることもできず御殿の奥に隠れ、山に戻させた。そしてその名を改めて雷〔イカヅチ〕とした。
「御諸〔みもろ〕」は神霊の宿る山の意。大物主〔オホモノヌシ〕神は三輪山〔みわやま〕(桜井市)の神で、第10代崇神〔すじん〕天皇の時代からしばらくの間、大和〔やまと〕政権による祭祀の最大の対象であった。
 
                                           つづく
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by jumgon | 2010-10-26 16:57 |  ○三輪神社・大神神社
色々ややこしい御託をならべずに、大神神社はどこにあるのか、又だいたいの概略図だけでも見せてもらわないと、どんな神社だか訳が分からない!という声がきこえてきそうです。
ちょっと観光案内風に大神神社をたどりましよう。


大体の場所は分かってもらえましたね。
つぎは大神神社の境内図です。
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大鳥居をくぐって、進んでいきましょう。(うこの鳥居の説明はやめときます。)
鳥居をくぐって参道をすすみます。
こんな可愛い和小物を売ってるお店がありました。
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さらに進むと屋台が並んでいます。
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「あれ、今日はお祭りかな?」
そうでした。
10月24日は秋の大神祭の日でした
なんだか来る時も道が混んでると思った。

順番に境内の説明をしましょう。

大神神社公式HPより
巳の神杉(みのかみすぎ)
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江戸時代には、「雨降杉」とあり、雨乞いの時に里の人々が集まり、この杉にお詣りをしました。いつの時代からか、杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています。
蛇は、古来より三輪の神の化身として意識されており、『日本書紀』の崇神天皇10年9月条に、「小蛇(こおろち)」と記され、『同紀』雄略天皇7年7月条には、三輪山に登って捉えて来たのが「大蛇(おろち)」であったと伝えています。いずれも、三輪の神がその原初的形態として、蛇神であると信じられていたことを示していると考えられます。
これは、古代の人たちが、三輪山は千古鉞(おの)を入れず鬱蒼たる森林として、何がひそんでいるかわからない不気味さを覚え、そのお山から流れ出る水により、種々の農作物を作り、日々の暮らしをたて、山に立ち昇る霧や雲に神意を感得して、山内に棲む蛇を直感したものであったのでしょう。
三輪の神の原初の形とされる蛇は、水神であり、雷神ともなり、農業神、五穀豊穣の神となり、やがては国の成立とともに、国家神的な神に至ったと考えることができます。

あと色んな大きな杉がありますが、これも省略。

狭井神社(さいじんじゃ)
祭神    大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
        大物主神(おおものぬしのかみ)
        媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
        勢夜多々良姫命(せやたたらひめのみこと)
        事代主神(ことしろぬしのかみ)
例祭日4月10日
鎮花祭4月18日
本社の荒魂をおまつりしている、延喜式神名帳に記される古社であります。古くより、華鎮社(はなしづめのやしろ)と称され、病気を鎮める神としての信仰が厚く、ご神水の湧き出る薬井戸があります。
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薬井戸(くすりいど)
狭井神社拝殿の左手にあり、ご神水がこんこんと湧き出ています。この霊泉は万病に効くと古くから伝えられており、遠近よりたくさんの方が受けに来られます。


狭井神社に入る手前に「市杵島姫神社」がある。
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◎市杵島姫を祀る宗像海人族が、神武以前か以後かは分からないけど、やってきた証拠だと思う。
九州の夜須地方と大和の地名が配置の方向まで類似しているとの安本美典氏の意見がある。
これもやがて書くつもりだが、脱線しないで境内めぐりを続けよう。

久延彦神社(くえひこじんじゃ)
祭神久延毘古命
例祭日5月5日 9月1日 12月第1日曜日
ご祭神の久延毘古命は、大国主神が国造りの際、多くの神がご存じなかった、少彦名命(すくなひこなのみこと)の神名をお教えになられた神様であり、知恵は世に類なく優れておられ、『古事記』には「足はあるかねど天下の事を、尽(ことごと)に知れる神」と記されている神様であります。
特に受験合格・入学・進学・就職等の成就安全をおまもり下さる、知恵の神様として信仰されており、社頭にはそれぞれの願い事を書いた「願かけ絵馬」が数多く掛けられています。

この神社はすこし小高い丘の上にあります。(デジカメの調子が悪いので写真はありません)

次ぎは大鳥居を左に行ったところにある大直禰子神社です。
久延彦神社(くくえひこじんじゃ)から急な石の階段を下りたところにあります。
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大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ。若宮社とも言われる)
祭神大直禰子命(おおたたねこのみこと)
配祀少彦名命(すくなひこなのみこと)活玉依姫命(いくたまよりひめのみこと)
例祭日4月8日 10月23日
奈良時代には、神仏習合の姿をとり、大神神社の神宮寺、大神寺(おおみわでら)として栄えました。中世には、三輪流神道がこの地より広まり、各方面に多大の影響を与えました。
明治の神仏分離までは、大御輪寺の本堂として、若宮の大神様とともに本地仏十一面観音(国宝、現聖林寺奉安)が併祀されていました。
現社殿は、昭和62年より3年間に亘り解体修理が実施され、応永19年(1412)の姿に復元されたものであります。(重要文化財)

◎「おおたたねこ」ってどこで区切るの?
「おおた・たねこ」と単純におもっていたけど、「おお・たたねこ」かも知れないと思う。
「おお」というのは「多」「太」「意富」とか漢字かかれることもある。
「太安万侶」っていましたね。氏族の名前ではないかな?


田中八郎氏によると、「オオタタネコ」は縄文先住民と王権予備軍の仲介役だったが、そのうち王権がわに取り込まれ、ミムロ神の監視役になり下がった。とのことです。その証拠がただ一つある、狛犬だそうです。「大神神社」にはここ以外に狛犬はどこにありません。

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◎あっ、又脱線しちゃった。これも又の機会にもう少し詳しく書きますね!
次ぎは宝物収蔵庫
宝物収蔵庫(ほうもつしゅうぞうこ)
当社の宝物は、宝物収蔵庫に収蔵され、そこで一般に公開されています。その展示品は大きく、古代 祭祀関係の出土品・伝世の神宝類・神宮寺関係文書・神宮下賜の御神宝・近現代の美術品の5種類に分けられます。 特に、古代祭祀関係の出土品が多く、総数では数千点となっています。
「館内は写真はご遠慮ください「とのことなのでHPからうつします。
祭祀遺跡から出土したものがあったが、少しだけ紹介しよう。

石製模造品【子持勾玉(こもちまがたま)・勾玉・臼玉】
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祭祀遺跡として、最も神聖な三輪山内の禁足地から出た子持勾玉は、祭祀用品であったことは勿論、信仰の上からもある呪力をもつものであり、親の玉が子の玉を生じて増加するという、多産増幅の意義をふくむ神秘の象徴とされ、特に祈願を行った上で埋斎されたものであります。
◎この前羽曳野市の綾南の森資料室に「三輪山麓遺跡出土、子持ち勾玉」が展示されていました。ここのと同じように、具象的でなくどちらかといえば幾何学的な形をしていました。こちらから借りてきたのでしょうね。気になったのは「陶製」と書いてあってあったことです。「須恵・陶」で造ったということなんですよね。オオタタネコは「スエ」出身です。

山の神出土品
山の神祭祀遺跡は、狭井神社より東北方の山林傾斜地にあります。大正7年、露出していた巨石の下と、その周辺より大量に出土しました。
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三輪山の辺津磐座の一つであり、出土品は素文鏡・曲玉・滑石製模造品・土製模造品・須恵器・鉄片など祭祀に関わるものばかりであり、磐座祭祀の場と考えられています。
坩(つぼ)・匏(ひさご)・堅杵(きね)・堅臼(うす)・案(あん)・柄杓(ひしゃく)
これらは古代において、大三輪神に神酒を供え、また造酒の神徳にちなんで、それらの道具を土製模造品でつくり、献げられたものとされています。
その他の出土品の写真です。
禁足地出土品
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今日はこの辺で、、、、
                                           つづく
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by jumgon | 2010-10-25 20:23 |  ○三輪神社・大神神社
王権予備軍が「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔だ、というわけです。

「えっ、そんな証拠がどこにあるんですか?」
前回はここで終わりました。

その証拠?なるものがあります。
① ミムロ神は注連縄が逆さ飾り
② ミワ鳥居の怪
③ 鎮花祭の目的は祟り神をしずめること
④ 狛犬がいない
⑤ そうではないのに、大和王権の守護神とされた

先ず、しめ縄の歴史から、みていきましょう。

田中八郎「大和誕生と神々」より
ミムロ地域の縄文期の信仰について述べましょう
縄文神は、雷や風や光や古木・岩石といった自然現象や物質を依り代としていました。人工の建築物や鏡や剣などには宿らぬのが慣わしでした。
縄文社会では集落も神も自由に移動していた。収穫物や気象や環境が良好な間はそこにとどまり、悪化すると良好な土地に移動するわけです。(洪水が多かったらしい)
大自然ということは神の能力は無制限に広がっていた。だから、どこへ村が移動しても神も移動できた。土地の収奪が最大の目標だった王権予備族にとって実に好都合な状況だった。
留守の間に土地を占領してしまうと今度は労働力を確保する為に先住民を奴隷化する必要があった。
建設すべき自分たちの王土作りのために、労働力の確保が必要だった。それには集落の移動を禁止し手、労働力の逃散を食い止めなければいけない。
労働力の逃散を食い止めたい王権予備軍は「ヤシロ(社・屋代)という神の定住処」を強制的に押し付けました。
といっても当初の社は簡単なものだったでしょう。
いわゆる神社建築は、仏教の普及に刺激を受けて設けられたものだから、六世紀よりさかのぼることはありません。「神とその指導者層を柵の中に閉じ込めておけば、村人は柵のまわりに群がって逃散する気遣いはない。」>(◎そういえば神社のまわりはたいてい石の柵で囲まれています。これは発生時の意味が変化し、神聖な神域を示すものに変化していったものと思う。)
どんな柵かというと、人がすり抜けられぬ約10cm間隔に地面に打ち込んだ木杭の周列で、容易に乗り越せない高さだったとおもわれる。この周柵に神と指導者を拘束して柵をくくり上げた縄が注連縄でした。だから注連縄の原初形は長い縄に下がりが数多くぶら下がっているもので、下がりが立ち杭を表現していた。

(この説、信じていいかしら?とりあえず、このまま進行します。)
長い縄に下がりが数多くぶら下がっているしめ縄?ありました。板締めという形式です。
板締め
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垂らした藁は隙間なくギッシリ詰まる。
全国各地で見られるが、福岡市水鏡神社・久留米市水天宮など九州北部に多い。
(なぜ、大神神社にないの?)

さて、しめ縄といえば紙垂(しで)がぶら下がっています。これは何を意味するのでしょう?

周柵内に閉じ込められ、〆られた国つ神へ村人は頻繁に指導を受けたり、相談することが必要でした。面会の手段として工夫されたのがシデ(紙垂・四手)です。
シデは三本の縄を撚り合わせたしめ縄の撚りをもどして出来た隙間に挟み込んで飾るのが元来のやり方です。幽閉された神に面会を求める村人たちはこう言いました。「シメをゆるめましたからどうぞ出てきてください」
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(要するに人を捕縛する細い縄。)
注連縄の2種類の綯え方があります。上図の通りです。

つまり右綯いの注連縄をしている神は注連縄によって〆られているのです。鳥居の外から右こぶしを上げられている、ということです。

この説も信頼じていいのかしら?(一説によると、注連縄の右綯いは80%、左綯いは20%だそうです。)
強い勢力をもったミムロ神は、王権予備軍の用意した社(やしろ)に閉じ込められるのはイヤでした。そんなこと許したくありませんでした。でもとうとう「ミムロを敬うふりをした大神神社」に祀られてしまいました。
王権予備軍側もミワ勢力と正面衝突をしないでいたかったのでしょう。注連縄はするけど、右こぶしは上げてません。
王権予備軍が右こぶしを上げるのではなく、ミムロ神の方が内側から右こぶしをあげている事になります。(表面的にはミムロ神をたて、実利を取る作戦です)
お正月に各戸の門口に飾る注連縄は下がりの部分が三本か五本に整形美容されたものだし、縄の真ん中が太くデフォルメされていて、神を捕縛する役目を忘れさせる形になっている。うかうか見過ごしていると、注連縄の原初の意味はうかがい知ることさえ出来なくなっています。

大神神社のしめ縄はすべて「左綯え」です。

じゃ、出雲大社のしめ縄は?

大きな勢力をもちながら大和王権にやむなく屈しただけあって、左綯いですね!
こうしないと、大国主のたたりが恐かったのかしら?
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上の写真は出雲大社の神楽殿のしめなわです。ほんとにデザイン的にカッコイイけど原初の形から変化したみたい。柵を意味した下がり部分をまとめたのかしら?
注連縄は時代が下るにつけ色々変化していってようですね。
田中氏いわく、「王権の神を祀った神社には注連縄はありません。」

◎でも確か、応神天皇が御祭神の誉田八幡宮には鳥居には注連縄はなかったけど、拝殿には注連縄があった。
私の勝手な想像だけど、原初の意味は次第に失われ、神の神域を示すものへと意味が変化したのではないだろうか?

注連縄の素材は稲藁です。
つまり稲に代表される農業が祭祀と古墳とに関わりを強くしたところから、注連縄の習俗が生まれた。
縄文神を押さえつけるのが注連縄なんです。

次ぎはミワ鳥居の怪について
② ミワ鳥居の怪
三輪山には本殿はありません。三輪山そのものが神とされ、拝殿があるだけです。
だけど拝するのに鳥居をくぐれないのです。
「なぜ?もう鳥居は2つくぐってきたけど、、、、。」
御神体の前にもう一つ鳥居があるのです。でもその鳥居の前に格子があるのです。だから鳥居はくぐれないのです。
この鳥居は神聖物として拝見できませんけど同様のものが檜原(ひばら)神社
にもあり、これは容易に見ることができます。
神に会いたい人は「格子越しの面会しかできないのです。格子というのは牢獄です。
格子つき鳥居はミムロ神を閉じ込める仕切りだ、ということになります。


大神神社パンフレットより

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大神神社HPより
三ツ鳥居(みつとりい)
明神型鳥居を三つ組み合わせた、一名「三輪鳥居(みわとりい)」とも言われる独特の鳥居です。いつ頃どのようにして、この形式が出来たのかは不明で、神社の記録にも「古来、一社の神秘なり」と記されているだけです。
左右には、長さ16間の瑞垣(みずがき)が設けられ、ご祭神とゆかり深い動物、花鳥など、すぐれた木彫りの欄間が、はめ込まれています。三ツ鳥居、瑞垣ともに重要文化財に指定されています。 これが大神神社の三つ鳥居です。拝殿の裏、拝殿と三輪山の境にあります。

創建は平安時代ともいわれています。鳥居の上部左右が上に跳ね上がる形は出雲大社型です。なお、伊勢神宮型はまっすぐです。

下写真は檜原(ひばら)神社
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大神神社の摂社、檜原(ひばら)神社の同じ形の三つ鳥居です。三輪山の西北麓に位置し、天照大神を伊勢神宮に遷す前に祭祀した「倭の笠縫の邑(元伊勢)」と伝えられます。 
伊勢神宮も大神神社(大物主神)の摂社かもしれません。
三輪山から「山之辺の道」をたどると、30分くらいでここへつきます。
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by jumgon | 2010-10-25 13:31 |  ○三輪神社・大神神社
「大神神社」とは?
ずっと書きたかったけどなかなかまとめられないでいた「大神神社」(みわさん)について、じょじょに書いていこう。
あとで文を整理したり、訂正したり、別の考えが出てきたらその時また書き足していきたいと思う。
田中八郎氏の「大和誕生と神々」を主に参考にし、他の先生たちの書物の知識もとりいれ、自分なりにまとめたいと思う。
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さて先ずは公式HPから
三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山であります。古来より神の鎮まりますお山として、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、 美和山(みわやま)、三諸岳(みもろのおか)と記され、大物主神(おおものぬしのかみ)の鎮まりますお山、神体山として信仰され、 三諸の神奈備(みもろのかむなび)と称されています。

高さ467メートル、周囲16キロメートル、南は初瀬川(はせがわ)、北は巻向川(まきむくがわ)の2つの川によって区切られ、その面積はおよそ350ヘクタールとなっています。

山内の一木一草に至るまで、神宿るものとして、一切斧(おの)をいれることをせず、松・杉・檜などの大樹に覆われています。


「田中八郎氏の「大和誕生と神々」には次のように記されている。

三輪山は神体山である、とする慣用句がガイドブックから考古学、歴史学の論文にいたるまで数々の記述に頻出するので、つい吟味せず資料視しするが初出は山崎闇斎(1618~82)のようだ。
彼は将軍家綱と綱吉治世の頃の儒学神道学者で、神儒一致説を唱えて垂加神道を創始した。
その中で三輪山の神体説を打ち出した。かれの大きな影響力もあって「三輪山神体説」が古代色も付け加わりながら浸透したとおもわれる。
現拝殿は寛文4年(1664)の再建で、将軍家綱の棟札があるので、山崎闇斎の影響が拝殿の方にまで及んだらしい。世を挙げて仏教一色のなかで、三輪山の役目をひきたてる必要から神体山説が意味をもったのだろうか。
山と神の話では、ヤマトトトヒモモソヒメと契った男がミムロ山に帰った神であった。という箸墓説話がある。

箸墓伝説 
大物主大神と結婚したヤマトトトビモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「あなたのお姿を見たい」と言うと、「もっともなことだ。明朝、あなたの櫛筥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」とお答えになりました。翌朝、姫が櫛筥を開けてみると、そこには衣紐ほどの麗しい小さな蛇が現れました。姫は驚いて叫んでしまいます。すると、大神は恥じてたちまち人の形となり、自分に恥をかかせたと言って大空を踏んで三諸山に帰ってしまわれます。残された姫は仰ぎみて悔い、どすんと座り込みました。その時、箸で陰部を突いて亡くなってしまわれます。この姫の墓を箸墓と言い、その墓は昼は人が造り夜は神が造ったと伝えられています。

又、 『日本書紀』に記されている伝説で、第十四代雄略天皇がチイサコベノスガルに「三諸岳の神の形が見たい」と命じました。スガルは三諸岳に登って大蛇をとらえ、天皇に奉り、天皇は斎戒をせずにそれをご覧になりました。すると大蛇が雷のような音をたて、眼はギラギラと輝いたので、天皇は見ることができず眼を覆って殿中に隠れてしまわれ、大蛇をお山にお返ししました。これによって三諸岳は「雷の岳」と名を改めたといいます。

この二つの話によれば
①神の住所はミムロ山で、山が神だとは言っていない。
②王権予備軍がミムロの神を懐柔するためヤマトトトビモモソヒメを派遣したが失敗。(水銀の流通権益を譲らせる為)
③ミムロの神が王権予備軍と拮抗した大きな力を持っていたことを表わしている。


拝殿奥の三つ鳥居から山頂にかけて磐座(いわくら)とか磐境(いわさか)とよぶ祭祀用岩石群があって信仰の対象になっている。これは岩石信仰であって山そのものの祭祀ではない。
山の土そのものに霊力があるとされた「天の香具山」とはちがうのだ。

山そのものを祭祀して拝殿が造られたのは「大神神社」であって、ミムロ山を根拠地とした(ミムロ神)信仰ではない

◎ややこしいので平たくいうと、ミムロ地方の先住縄文人の頭領やその祖先神がミムロ神で、先住縄文人たちは山の磐座をミムロ神の依り代として祀った。鳥居も拝殿もなかった。
◎大和王権が承認した名前が「三輪」で王権が成立していない以前の時代、つまり縄文時代の三輪山とその神は「ミムロ」である。

ミムロ山は、砂金も鉄鉱石もベンガラも産出しない。大和地方の繁栄の原動力となった地下資源は、宇陀、都祁の辰砂であり、その流通を押さえていたミムロの住民が勢力をはっていた。そこに、王権予備軍がやってきて、辰砂の権益を横取りし鉄の農工具を使って農耕地を広げ、大和王権をたてようとした。そのとき先住民の激しい反撃を懐柔するために「先住民の神を大事にしてますよ」というポーズのため作ったのが「大神神社」(おおみわじんじゃ)である。

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ところで縄文時代の人は辰砂を見て、それから水銀が採れるとどうして知ったんだろう?
辰砂とは?
辰砂は単独の鉱物としてより、水銀を取り出す為の鉱石として名前が知られている。
水銀を取り出す方法は、とても簡単で、ただ熱すればいい。
熱すると辰砂は亜硫酸ガスと水銀に分離される。
また、古くは辰砂自体の赤い色を絵の具に使用していたらしく
英名はギリシャ語でそのまま
「kinnabaris=赤い絵の具」に由来する。

私たち現在人は本当に自然を知らない。(特に私は)
自分で火もおこせないし、糸も針も作れない。きっと縄文人たちは色んな植物、岩石などの知識を持っていたのだろう。
スイッチやボタンひとつで電気をつけたりガスでお湯をわかしたりしている現在人とは能力が違うのだろう。

さて、「大神神社」に話をもどします。
なんで、「大神神社」を「おおみわじんじゃ」と読むのだろうと不思議に思わないくらい、浸透してしまっている名前。
王権予備軍が「あなたがたの神は大きな立派な神様です。」と宣伝して「その神を私たちも大事にしてますよ。だから自分たち王権の支配下にはいっても、大丈夫ですよ」という欺瞞の広告塔だ、というわけです。

「えっ、そんな証拠がどこにあるんですか?」

                                                              つづく
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by jumgon | 2010-10-21 13:52 |  ○三輪神社・大神神社