古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:★言語、歴史( 40 )

前回の「天平写経」を書いているときに思い出したのが経典の版木だ。

高校時代に訪れた京都のお寺で見たことがある。
「こんなのがあるんだ。」と感動したのを覚えている。
高尾の神護寺だったように思えるが何しろ半世紀近く前の話だ。
ネットで調べたけれどどうやら神護寺ではないようだ。

ネットで調べると、宇治の黄檗山萬福寺の宝蔵院に版木が収蔵されているとある。

私が行ったときはお寺の一部屋にあったと記憶しているが、現在の宝蔵院収蔵庫は立派な鉄筋建ての建物だ。


宝蔵院と鉄眼一切経
   (重要文化財)
 
黄檗山宝蔵院は、1669年一切経の開版を志した鉄眼禅師が、隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立したものです。
 全6,956巻、現在仏教各宗派で使われているお経は、いずれもこの一切経のうちに含まれています。
 6万枚の版木は、縦26cm、横82cm、厚さ1.8cmで、3cmの縁がついています。版木材料はすべて吉野桜。版木の書体は明朝体であり、現在広く使われている書体としての明朝体はこれから発したものです。
桜材 26.3cm×86.2cm 延宝6年(1678)完成  国重要文化財
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鉄眼一切経
原稿用紙の元になったのもこの一切経といわれております。
明朝体と合わせて今日の「図書・印刷」鉄眼禅師が
文化のルーツとされる所以です・・・


一切経とは・・・ 
仏教思想は三蔵に収まります。即ち釈尊が説かれた「経」と戒められた「律」及び釈尊とその弟子が「経・律」を解説した「諭」の3つで、つまり一切経6,956巻をいい、精神面はもとより、天文・人文・医術・薬学・人道など社会全般のあらゆる面を説き明らかにしたもので、仏教百科事典とも言うべきものです。
 古来インドで出来た経文は梵文であり、これをまとめて中国語に訳した高僧が玄奘三蔵法師達であり、日本に広めたのが鉄眼禅師です。

版木の現在・・・ 
黄一切経の版木は、現在も完全な形で保存されていて、国の重要文化財にも指定されています。
 宝蔵院内では、この版木を用いて現在も経本の印刷(木版印刷)・出版が行われています。
 一切経は、初刷より現在まで約2,000部余りが印刷され。国内はもちろん明治時代にはアメリカ、イギリス、ドイツ、タイ、昭和には満州、中国にも搬出され、中華民国中央研究所(台湾)にも納められました。

一度に刷れる数も限られ、湿度と温度をみながら一枚ごと丁寧に刷り上げられています。
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◎現在も印刷されてるなんて、大きな遺産ですね!
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by jumgon | 2011-08-01 23:03 | ★言語、歴史

唐招提寺・千手観音の謎

唐招提寺・千手観音の謎

杉山二郎著
「天平のペルシア人」より

左京条二坊にあった大安寺が長安の西明寺を模倣した、天平中期の東アジア圏いや西アジアの商人や技術者の蝟集した国際ホテルを擁して活気のあったところだったのですが、どうやら鑑真和尚がこの唐招提寺を造立した天平末期には、この地に東アジア・西アジア出身の人たちが集まってきていたのではないか、とわたしは推定しているのです。
~中略

金堂は天平建築物の代表のように考えられておりますが、実は鑑真和尚が遷化されてから、約四十余年たってからの 大同年間の造立徒建築史の方々の意見があります。
鑑真和尚の遷化した天平宝字7年(763)にはこの金堂はまだなかったのです。

当時既に造立されていた仏像も、本尊毘盧遮那仏と、小さな木造梵天、帝釈天、それに四天王像の7体と考えてよいでしょう。

となりますと両脇侍の丈六の千手観音立像と薬師如来立像は、何時どのように造られたかが問題となりましょう。
これは私の個人的な見解なのですが、千手観音立像は寺の言い伝えによりますと、「天人一夜の御作」と呼ばれています。
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鑑真和上の徳力によって、天人たちが舞い降りてきて、一晩のうちにこの千本の手を持つ観音像を造り上げたとする伝承なのです。しかし天人が虚空からやって来たと考えるよりも、唐招提寺の近くにあった国家管理の手を放れた氏寺にあった尊像を、金堂に持ってきて一晩のうちに解体した像を組み立てたとする方が、理解納得がゆくのではないでしょうか。
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わたくしはすぐ近くにあった藤原仲麻呂(光謙女帝から恵美押勝と愛称された寵臣)の邸宅にあった、千手堂の本尊だったのではないかと推測しています。

ご存知のように橘奈良麿が孝謙帝の廃立を計画して反乱を企てたおり、藤原仲麻呂がその反乱の鎮圧勝利を祈念して、私宅に造立したのが木身乾漆造りの千本の手のある観音像だったと思われるのです。
私寺の千手堂の本尊ながら、国家鎮護のための造立ですから、光明子と光謙天皇の寵愛を一身に享けた彼仲麻呂は、東大寺の諸仏を造立していた官営造仏所の工匠・工人らを自由に利用できたはずです。ですから文字通り千本の手を差し込んで合理的に造るやり方を用いたのでした。~

光謙帝の寵愛が道鏡に移り、光明子の庇護を失った恵美押勝は,遂に天平奉宝字8年(764)に道鏡を除こうと兵を挙げ、そして結局殺されてしまい、彼の邸宅も官に没収、多くガ破却される運命となりました。
千手堂の本尊であった千手観音丈六像は、廃邸の余計物ですから、至近距離にあった唐招提寺に解体して運搬し、そして一昼夜くらいのスピードで再び組み立てることも可能かとおもわれます。
ですから「天人一夜の御作」の伝承がここから生まれたのでしょう。
もちろん、唐招提寺の建築も仏像も、年号銘文ではっきりした造立年次がわかっておりませんので、やはり推測の域を出ません。
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by jumgon | 2011-07-08 15:28 | ★言語、歴史

伎楽の歴史

伎楽の歴史

WIKI その他の記事を参考にして書きました。

伎楽は「呉楽(くれがく)」「伎楽儛(くれのうたまい)」ともいわれるように、中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞であった。そのルーツについては中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説ある。

伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇で西域をへて中国に伝わり、散楽といわれたものである。 我が国には「神楽」があったがこの時以来、宮廷に伎楽が加わって日本の芸能は幅広い豊かなものとなった。
ところが、宮廷が衰えた武家時代に、これらの音楽家は天王寺や住吉、春日等大社寺に保護されて、民間でも演技を行うようになっていった。

「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、『日本書紀』欽明天皇(在位 西暦540年~572年)の項においてである。
呉国の国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述がある。
ただしこのとき、実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明。


『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
この年に百済人味摩之(みまし)が帰化してきた。その人の言うことに「呉の国に勉強に行き伎楽舞(くれのまい)を学んできました。」と。
そこで桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。
そこで、真野首(まののおびと)弟子、新漢(今木の綾)斎文(さいもん)の二人がこれを習って伝えた、これが今の「大市(おおいち)の首(おびと)、辟田(へきた)の首らの祖先である。
この記事が、実際に日本で伎楽が行われた記録としては最古である。 


聖徳太子の奨励などによって伎楽は寺院楽としてその地位を高めた。伎楽の教習者には課税免除の措置がとられるなど、官の保護もあった。

『延喜式』によると法隆寺をはじめ、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていた。
4月8日の仏生会、7月15日の伎楽会と、少なくとも年2回の上演があった。

●えんぎ-しき 【延喜式】
(1)平安中期の律令の施行細則。五〇巻。905年(延喜5)藤原時平らが醍醐天皇の命により編纂を始め、時平の死後藤原忠平らにより927年完成。施行は967年

◎ということは平安中期にも法隆寺、大安寺、東大寺、西大寺などに伎楽を上演する一団がおかれていたということですね。

また天武天皇14年(西暦685年)には、筑紫で外国の賓客を供応するため伎楽が行われた。このように伎楽は仏教行事以外の場でも上演されている。

東大寺の大仏開眼供養(西暦752年/天平勝宝4年)の時には他の諸芸能とともに大規模に上演された。

奈良時代にさかんに行われていた伎楽も平安時代を経て鎌倉時代になると次第に上演されなくなった。しかし現在でも「獅子舞」や、各地の寺院で行われる「お練供養」にその痕跡をとどめている。

◎「獅子舞」「お練供養」が伎楽の痕跡をとどめてるって?
そうなんですか、、、
以前訪れた「当麻寺」(奈良県御所市)では毎年お練供養がある。
聖徳太子と縁のあるお寺だ。
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『日本書紀』巻22 推古天皇20年(西暦612年)5月、
の記事に
百済人味摩之を桜井に居住させ、少年(わらべ)を集めて伎楽儛を習わせた。

と書いてある。
さてここに出てくる桜井の地名がどこかということで二つの説がある。

●一つは奈良県桜井市にある「土舞台」説
■ 伎楽は奈良時代に栄えたが平安時代末期以後は途絶えてしまう。
戦後、桜井市出身の評論家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)(1910 - 1981)は、味摩之が伎楽を若者たちに教習させた場所を考証した。
そして、江戸時代の『大和名所図絵』に土舞台が描かれているのを知り、そこが伎楽教習所だったとし、これだけの史蹟地を顕彰しないことはないと、有志を募って「土舞台」と刻した標石を昭和47年11月3日に建てた。
翌日にはその標石の前で市が後援する盛大な顕彰式典が挙行された。それ以来、土舞台顕彰会主催の顕彰式典が毎年行なわれ、土舞台が我が国演劇史上の大切な史蹟地であることを喧伝している。

●もう一つは「明日香村豊浦」説

現在の向原寺(明日香村)の南に、難波池(なんばいけ)と呼ばれている小さな池がある。
H22年7月15日付けの奈良新聞の報道によると、ここに碑を建てることを思い立ったのは、韓国の世宗大学校日語日文学科教授の李応寿(イウンス)教授(56)だそうだ。
聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所ついて、教授はその所在地は現在の明日香村豊浦であるとする新説を2年前に発表された。
そして百済人・味摩之(みまし)が伎楽を伝えた場所に、そのことを顕彰する記念碑を建てるなら、現在の向原寺の境内に立ててみたいと思われたそうだ。
そうした願いを実現されたことになる。
この説に興味がある方はこちらをご覧ください。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-4/2010_0723.htm
さてどちらの説が正しいのでしょうか?
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by jumgon | 2011-07-04 22:57 | ★言語、歴史
   遣唐使物語
736年(天平8年)に帰日した遣唐使船と共にやって来た外国人

今回は 
天平5年(733年)出発の第10回遣唐使について書きたいと思う。

天平5年(733年)出発
天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

天平5年(733年)に日本を出発、
天平5(733)年8月、遣唐使船、4船とも相次いで蘇州の岸に漂着、ついで東都洛陽にはいる。
◎漂着しただけで難破したわけではないので献納物は無事だったのでしょね?

天平6(734)年4月、多治比広成、洛陽に入る。
日本国使、絁400疋を唐の政府に献上。
(この年、阿倍仲麻呂36歳、吉備真備、ほかに僧玄昉が留学生として唐にあった。)
日本への帰路
天平6年10月(734/11月)
帰路、4つの船で同時に蘇州を出発したが、悪風が突然に起こり、4隻の船はお互いに見失った
◇第1船
大使広成、玄昉、吉備真備
天平6年11月20日(734/12/23)、多治比広成ら(第1船)が多祢島(種子島)に到着。
天平7年3月10日(735/04/11)、多治比広成らが、唐国から帰朝し、節刀を返上した。
天平7年3月25日(735/04/26)、遣唐使一行が天皇に拝謁する。

◇第2船
中臣名代(第2船)は、インドシナに漂着し(734年)、翌年洛陽に戻る。天平7年閏11月洛陽を発ち、帰国
天平8年8月23日(736/10/06)、遣唐使・副使中臣名代らが唐人3人、ペルシャ人1人を率いて帰国の挨拶のため天皇を拝謁した。
副使中臣名代、道璿、理鏡(日本人入唐留学生) 、婆羅門僧菩提僊那(39歳)、安南僧仏哲、皇甫東朝(こうほとうちょう)、袁普卿(えんしんきょう18歳)、ペルシャ人李密翳、景雲(日本人入唐留学生)


◇第3船
第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。
平郡広成の乗った船115人は崑崙国(ベトナム。マレー、スマトラとも)に漂着した。賊兵に包囲され、捕虜となる。
殺されたり、逃亡したり、残ったものも90人余りが病気(マラリアか)にかかり死亡した。
広成ら4名だけが生き残り、崑崙王に謁見し、わずかな食料を与えられ、よくない場所にかこわれた。
中略
渤海が使いを派遣しようとしているのに出会ったのですぐその使節に同行して出発した。 渤海船は1隻が波にのまれて転覆し、大使・胥要徳(しょようとく)ら40人が死亡した。広成らは残りの衆を率いて出羽に到着した(天平11年7月13日)。
天平11年(739年)10月27日に帰国。

◇第4船難破して帰らず

以上が帰路についた4船の顛末である。
 
今回は第2船でやって来た、外国人について書く事にする。

第二船に乗船して我が国にやってきた外国人は、史書で判明しているだけでも9名にのぼる。
唐人の袁晋卿(えんしんけい)、皇甫東朝(こうほとうちょう)、皇甫昇女(こうほしょうじょ)、李元環(りげんかん)、唐僧の道■(どうせん)、善意(ぜんい)、波斯人の李密翳(りみつえい)、天竺婆羅門僧の菩提僊那(ぼだいせんな)、林邑僧の仏哲(ぶってつ)らである。
これほど多くの外国人が一度に渡来してきた例は今回が初めてである。しかも、第二船は、海上での暴風雨に翻弄され一度は越州に押し返されている。それでも一年後に再度渡海してくるとは、相当強靱な意志を持った人々だったにちがいない。
東大寺のHPより
天平8年8月、菩提僊那(ぼだいせんな 33歳)、仏哲、道璿(どうせん 35歳)ら難波津に着く、行基(69歳)らが迎える


さてこれら外国人たちはどこに住んでいたのだろう?

杉山 二郎 「天平のペルシア人」によると
「おそらく、大安寺、史書には記されていない商人や遊芸の徒たちもやってきたと思われる。それらの人たちは東市、西市辺りか大安寺ではないか、、、、もとより証拠はない。」

と記されている。
この時代はわたしの認識不足かも知れないが、想像以上に国際的な華やかな雰囲気をもっていたようだ。

正倉院に残る楽器や伎楽面、衣装,幟などから、東大寺の大仏開眼供養がその煌きの頂点だと想像できる。

さて前回訪問した「大安寺」に住んだ僧達

□菩提僊那(704~760)
菩提僊那は、インドのバラモン階級に生まれた。彼は青年期に唐へローカタクシャや安世高の偉業を追って、ヒマラヤを越えて入唐し、中国五台山にも滞在した(五台山の文殊に会うためという説もある)。
唐では長安の崇福寺を拠点に活動していたようで、唐滞在中に日本からの入唐僧理鏡や第十次遣唐使副使中臣名代らの要請により、チャンパ国出身の僧仏哲・唐の僧道璿とともに736年(天平8年)に来日した。3人の僧ははじめ九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住し、時服を与えられた。
僊那は、華厳経の諷誦にすぐれ、呪術にも通じていた。インド呪術は、僊那から日本僧の弟子へ伝授された。

◎インド呪術って密教的なものかしら?

751年(天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇、行基、良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
760年(天平宝字4年)2月25日、僊那は大安寺にて西方を向いて合掌したまま死去した。

□仏哲(ぶってつ)
仏哲(ぶってつ、生没年不詳)は、奈良時代の渡来僧。仏徹とも書く。林邑国フエの出身。
インドに入り菩提僊那に師事して密呪に秀でた。
唐開元年間(713年 - 741年)菩提僊那とともに唐に入り、当時日本から唐に入っていた僧理鏡らの招きにより、736年(天平8年)師の菩提僊那・唐の僧道璿とともに来日した。
大宰府を経て京に入り、奈良大安寺に住した。

「菩薩」・「抜頭」などといった舞や林邑楽(雅楽の楽種の一つ)を伝え、また多くの密教経典も請来したという。
大安寺では林邑楽などを楽人に教え、752年(天平勝宝4年)の東大寺大仏開眼供養会の際も舞を伝授した。
◎大安寺で林邑楽を楽人に教えたのですって!!
 大安寺は国立音楽学校でもあったのですね

□道璿(どうせん、702年~ 760年)
中国唐代の僧。
入唐した僧栄叡(えいよう)・普照(ふしょう)の要請により、鑑真に先だち戒律を将来するために日本に招かれ、736年(開元24年、天平8年)インド出身の僧菩提僊(33才)・ベトナム出身の僧仏哲とともに来日する。

□袁晋卿
•?-?奈良時代の官吏。
天平(てんぴょう)8年(736)帰国の遣唐使にともなわれ、18-19歳で唐から来日。
音博士、大学頭、玄蕃頭などを歴任。
宝亀(ほうき)9年(778)清村(浄村)宿禰(すくね)の氏姓をあたえられた。

●真備は、袁晋卿(後の浄村宿禰)という音韻学に長けた少年を連れて帰朝したが、藤原長親によれば、この浄村宿禰という人物は、呉音だった漢字の読み方を漢音に改めようと努め、片仮名を作ったとされる。
◎この人は何処に住んでいたか史書に記録はない。

□皇甫東朝(こうほとうちょう)
皇甫東朝は、唐王朝の楽士としてその名が聞こえた存在だったのだろう。
その彼に海東の日本に行くことを誘ったのは、おそらく下道真備(後の吉備真備)だったと思われる。
真備は帰国するに当たって楽書として『楽書要録』十巻を将来したことが知られている。

当時の我が国には、大宝律令によって治部省に雅楽寮(うたまいのつかさ)が置かれていた。これは、技楽・唐楽・和楽の制度化した寮であり、中国に倣って師と生徒の数を決めて楽人を養成していた。

●下道真備が養老元年(717)の第八次遣唐使に付随し入唐し、天平6年(734)に第九次遣唐使と共に帰国の途に着くまで17年間を過ごした唐の都長安は、玄宗皇帝の開元の治(713 - 741)が行われた時代で、唐代を通して最も繁栄した時期である。

芸術を愛した玄宗のもとでは、新しい唐楽が次々と興り普及していた。それを目の当たりにした真備は、楽書の招来だけでなく、それを教える優秀な楽人の招聘も痛感したにちがいない。

天平勝宝4年(752)4月9日、東大寺の大仏開眼の法要が盛大に行われ、国風歌舞の五節舞、久米舞などと共に、外来音楽の唐楽、渤海楽、呉楽などが盛大に演奏された。
楽人として来日した東朝たちもその式典に参加しただろうと推測される。

皇甫東朝の名が『続日本紀』に帰国記事以来、記されるのは天平神護2年(766)になってからである。
この年の10月20日、隅寺(現在の海竜王寺)の毘沙門天像から現れた舎利を法華寺に移して安置する舎利会が盛大に行われた。
この日、皇甫東朝は同じ遣唐使船で来朝した袁晋卿(えんしんけい)および皇甫昇女(こうほしょうじょ)と共に唐楽を奏でた。翌日、称徳天皇はこの慶賀を祝して官人たちの官位をそれぞれ一階級昇叙させた。皇甫東朝らも唐楽を奏でた功績で、正六位上の袁晋卿は従五位下に、従六位上だった皇甫東朝と皇甫昇女も従五位下に叙された。3階級の特進で貴族クラス入りを果たしたことになる。

皇甫東朝は称徳天皇に重用されたと思われ、翌年の神護景雲元年(767)3月20日の人事異動では、雅楽(うた)員外助に任じられ、合わせて花苑司正(かえんしのかみ、花卉や園地の業務を担当する長官)を兼任することになった。

また、上記のように西大寺は、天平宝字8年(764)9月に勃発した恵美押勝の乱の平定を祈願して、孝謙上皇が金銅四天王像の造立を発願したのが始まりとされる寺だが、この地にも皇甫東朝が足跡を残している。

花苑司正(かえんしのかみ)は令外の官であり、皇甫東朝の墨書入りの須恵器が西大寺の旧境内で見つかったことから、皇甫東朝が西大寺にあった花園の管理も任されていたと推測する専門家もいるようだ。
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◎中国の絵画では「ぼたん」などがよく描かれている。美しいガーデンをつくったのかしら
□皇甫昇女(こうほしょうじょ)
東朝の娘とする説があるが、どうであろうか。東朝と一緒に皇甫昇女も従五位下に叙された点を考慮すると、年齢的に二人は夫婦であった可能性が強い。

□李密翳(りみつえい)
生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月、遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師、楽人、幻術師、商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが、倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して、官工房などに属し、技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)


□李元環(りげんかん)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
?-?奈良時代の官吏。
唐(とう)(中国)の人。清宗氏の祖。渡来は天平(てんぴょう)6年か。天平宝字7年(763)織部正(おりべのかみ)、8年出雲員外介(いずものいんがいのすけ)となる。正五位下。

□善意(ぜんい)
史書には記録はない。
三重県伊勢津市西来寺(せいらいじ)に国宝の大般若経がある。
大般若経(国宝)唐僧善意記天平年間ノ物 と書いてある。
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天平19年、唐僧 善意ノ跋アリ、と津市の国指定文化財の説明にかいてある。
このお経は「天平年間のものです」と奥書に書いてあったということか。
このお経は唐から来たものか、日本で書写されたものか~どこを経巡って三重県の西来寺にやってきたのだろうか?
西来寺で絵はがきになってたこともあるらしい。
(行ったことがないので今もあるか分かりません) 




 
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by jumgon | 2011-06-30 20:38 | ★言語、歴史
白鳥神社(しらとりじんじゃ)
(大阪府羽曳野市古市1-1 )

ネットで検索して、びっくりした!
なんと白鳥神社は全国にどっさりあるのだ!
東北から九州まで~。
ヤマトタケルは全国を平定して回ったと、記紀に記されているからあちこちにヤマトタケルを祀る神社があってもおかしくないかも、、、、。

さてともかく白鳥神社を訪ねてみよう。

古市駅から2,3分もいくと商店街の左手に鳥居がある。(行きしなには気付かなかった。)
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西琳寺を探すためにその道を通り過ぎ次の角で左に曲がる。
道の左手奥に鳥居が見える。
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一の鳥居です。
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入っていくと右手は小学校になっていて、学校の前にしめ縄をまいた木があった。
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(御神木につき周囲をきれいにしましょう)と書いてある。昔はここも境内だったのかしら?
二の鳥居から階段をあがると本殿です。
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本殿の前には大きな灯籠が一対ありますね。
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上の灯籠の裏側に
〈文政5年壬年8月〉
(石工 山田村 武兵衛)
と刻印がある。
文政5年(1822)に村の人たちが寄進したのかしら?
本殿左手にある灯籠には(油働中)の刻印
油関係の商人の組合・講?が寄進?
境内をお掃除していたおじさまに聞いたけど「油働中の意味はわからないけど寄進者の名前です」とのこと。

本殿のなかを覗かせてもらいました。
鏡があります。「伊岐宮」の額も、、、
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それと壁には奉納額絵がありました。
●奉納額絵
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菊水法憲会
「楠勢 渡邉橋畔に敵の病兵を救う」とある。

楠正成と白鳥神社は何の関係があるのかしら?

菊水法憲会って河内の英雄、楠正成を顕彰する会?
この額絵、何時からあるのかしら?
かなり新しそうです。

境内左には白長大明神(はくちょうだいみょうじん)と書かれた稲荷っぽい鳥居
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昭和50年3月の寄進者名碑がありました。

村社として生きている神社なのですね。
本殿の屋根の飾り?が不思議な感じがしたので写真をパチリ。意味があるのかないのか~
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さて、神社にある説明版を読んでみましょう。

歴史街道 白鳥神社
白鳥神社の社伝によると
寛永年間(1624~43)末期、軽墓(軽里)の伊岐谷にあった「伊岐宮」を古市村の産土神として現在の地に移築したとあります。
伊岐宮には日本武尊が祀られていましたが南北朝や戦国時代の兵火によって焼失し、峯ケ塚古墳にある小さな祠として存在していました。
しかし、慶長の大地震(1596)で倒壊するとそのまま放置されたといわれていました。
享和元年(1801)の河内名所図絵には「伊岐宮、誉田の南、5町、古市村にあり、日本武尊の霊を祀って、白鳥神社と称す。

さて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)によると
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。
南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。
天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。
明治41年(1908年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている

この二つの解説をあわせると

次のようにわたしは解釈しました。
何時から軽里の西方の伊岐谷に「伊岐宮」があったかはわからない。それが白鳥陵とよばれていたかどうかもわからない。(いつから白鳥陵と呼ばれていたのだろうか?)
あれっ、現在地に移されたのが、「寛永年間(1624~43)末期」と「天明4年(1784年)」の二つになってますね。
享和元年(1801)の河内名所図絵には載っている。
ということだろうか?


いくつかのサイトにこんな記事がある。
その出典は書いていないが、伝承があるものと解釈している。
現在白鳥神社のあるところは、欽明天皇の賓陵(仮の墓)と伝えられている前方後円墳の後円部にあたるといわれていますが、前方部は近鉄古市駅や国道の造設のため、削られてなくなっているのだそうです。

古代の当地は河内文氏(王仁の子孫)の本拠であり、また百済系の古市村主の居住地であった。

祭神 日本武尊、素盞嗚命、稻田姫命 
     合 饒速日命、廣國押武金日命(欽明天皇)
明治四十一年高屋神社「饒速日命」を合祀、昭和二十九年高屋神社は再度独立したが、合祀した饒速日命、廣國押武金日命を合祭神としている。
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by jumgon | 2011-06-26 11:15 | ★言語、歴史

白鳥伝説と白鳥陵

白鳥伝説と白鳥陵

先日、羽曳野市古市にある西琳寺を訪れたが古市駅の東側すぐそばに白鳥神社がある。
駅を西へ進むと白鳥古墳もある。

いわゆる白鳥伝説と関係のあるところらしい。

先ず白鳥伝説について確認しよう。

白 鳥 伝 説 
 
日本武尊(ヤマトタケル)は、父の景行天皇から、朝廷に服従しない熊襲・出雲などを征討するように命じられ、軍勢もないまま征討に赴き西国を平定し、やっとの思いで大和へ帰ってきましたが、休む暇もなく天皇から東国の蝦夷を征討せよと命じられます。
 その命令を受けた日本武尊は、伊勢にいた叔母の倭比売命に自分の不遇を訴えています。
幾多の苦難のすえ、東国を征討しますが、その帰る道中、伊吹山の神との戦いに破れます。
傷を負いながらも日本武尊は大和へ帰ろうとしますが、能褒野(のぼの)(亀山市)に辿り着いた時には、一歩も前に進めずついに力尽きてしまいます。

 体を横たえ、日本武尊は大和への思いを、
 『大和は国のまほろばたたなづく青垣 山こもれる大和し美し』
 と詠んでいます。

  能褒野に葬られた日本武尊の魂は、白鳥となって大和へ向かい、
琴弾原(御所市)
を経て、旧市邑(ふるいちむら)(羽曳野市)に降り立ち、その後何処ともなく天高く飛び去ったと古事記・日本書紀は伝えています。

 亀山市・御所市・羽曳野市の三市には御陵があり、俗に「白鳥の三陵」と呼ばれ、日本武尊・白鳥伝説は今も息づいています。
(この三市で交流イベントなどやってるようだ。 羽曳野市では市民祭りで「タケル君音頭」によるダンスコンテストもある。)

 ◎ふーむ、白鳥が飛んでいった先にまでお墓を造るの?
   魂が降り立った場所だということで~。
  

 
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)
三重県亀山市にある前方後円墳である。
宮内庁により日本武尊(やまとたけるのみこと)の陵墓と治定され、日本武尊能褒野陵として管理されている。(今のところ宮内庁はこの古墳を日本武尊陵としているがほかの意見もある。)

能褒野神社
祭神  日本武尊 配祀 弟橘姫命
由緒  日本武尊はこの地で薨ぜられた。明治十六年、社号を能褒野神社として創立された。
◎えっ、明治十六年に創立?
お姿 能褒野王塚古墳の横に鎮座する。この古墳は前方後円墳であり、全長90mの大きいものである。
4世紀末頃の築造と考えられている。
 倭王権で言えば倭王武の時代、記紀で言えば雄略天皇の時代、多くの兵士が東国平定に赴いた時期であり、当地まで帰ってきて亡くなった兵士もいたのだろう。

琴弾原白鳥陵
(奈良県 御所市富田)

訪れた人の記事を読むと地元でも場所を知らない人が多いらしい。
日本武尊白鳥陵、と書かれている。周りは畑と田んぼ。田舎、である。
第六代考安天皇陵から南へ約1km。白鳥陵の東、数100mのところにある山の名前は「国見山」。
訪れる人は他にいない。
小山に向かって畑の中へと進むが、案内板はないのでどこまで進んでいいのかわからない。
たまたま、犬の散歩をしていたおじさんが教えてくれた。この人がいなかったら、拝所までたどりつけなかったかも。

2010年に行った方のブログには日本武尊琴弾原白鳥陵は民家に挟まれた細い道を進んで行きますが、案内板が設置されているので、迷うことはありませんでした。と書いてある。
そんなだからこれに付随する神社はないのかな~。


白鳥陵(大阪府羽曳野市古市)
f0215268_10345837.jpg

羽曳野市のHPを見ると
墳丘長190m、後円部の直径106mの前方後円墳、前方部の幅165mで、幅40〜80mの濠を持つ。日本武尊の陵墓との伝承がある。
と簡単な説明。
◎日本武尊の陵墓かどうかは分からないけど伝承はある、と言うことらしい。
 それにしても大きな古墳ですね。



◎白鳥陵も大きいけれど、応神天皇陵の大きさには改めてビックリ!

                                           つづく 白鳥神社
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by jumgon | 2011-06-24 23:45 | ★言語、歴史

縄文時代の大阪湾

以前 「ナニワからヤマトへの交通路」
http://jumgon.exblog.jp/14986924で縄文時代の大阪湾の地図をアップしました。


自分でアップしながら無責任なのですが、イマイチ現在の地理との位置関係がはっきりと掴めていませんでした。

6月20日の朝日の夕刊に「知遊自在 地図を歩く」という記事に縄文時代の大阪の地図が載っていました。

現在の大阪の地名が書いてあるので、イメージが確かになってくる地図です。残念ながら地図の写真は白黒なのでわかりにくい。
どこかにないかと探したら、 国土地理院のホームページ掲載の航空レーザ測量によるカラー陰影段彩図なるものがあるのを次のサイトで知った。

十三(じゅうそ)のいま昔を歩こう:大阪アースダイバーへの道
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-419.html


その中にこんな記事がありました。

知ってるつもり?!
縄文時代の大阪
先日の4月16日、ナカノシマ大学4月講座で
「大阪アースダイバーへの道」の講座が行われました。

◎「大阪アースダイバーへの道」なる講座があったんですね!!
 世の中、色々勉強してらっしゃる方がいらっしゃるものと感心しました。


そのサイトから写真をお借りしてきました。

縄文時代前期の後半(約5500年前)
f0215268_22594322.jpg

この地図の右下に 国府(こう)
 という地名がのっていますね。
ここは石器時代の遺跡があるところで「人骨やケツ状耳飾り」が出土しています。
古代人はどうやってこんな内陸までやってきたんだろうと思ってたら納得!(徒歩ではないよね!)
船でここまでこれたんだ。(石器時代には縄文海進はここまで進んでなかったと思うけど、川が使えるからね。

石器時代の遺跡「国府遺跡」
http://jumgon.exblog.jp/i63/



上町台地だけは細長い半島になっています。
JR大阪駅は海の中。
上町台地の突端に大阪城。
へえ~。あの辺ってそんなに高い土地なの?

現代の地図を重ねるとこの様な位置関係になります。
f0215268_23181058.jpg


神社仏閣、墓地などをプロットした地図
f0215268_23185151.jpg


面白いのは断崖絶壁の西側にパワースポットが集中しているところ。

●大阪城
●難波宮
●四天王寺
●住吉大社
などの位置が良くわかりました!!
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by jumgon | 2011-06-21 22:53 | ★言語、歴史

渡来人について

歴史書物を読んでいるとあちこちで渡来人の記事が出てくる。
いろいろな時期にやって来た渡来人がいるようなので、整理してみよう。


渡来時期を4つに区分すると・・・
  
Ⅰ 紀元前2~3世紀 弥生時代に日本に定住した。
Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人が多い。
Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)が最新技術をもたらした。
Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく,集団名・一族名を指している)である。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち,日本の国づくりを根底で支えたと言える。

[Ⅱ 5世紀前後  倭の五王が治めてた時代で,朝鮮半島からの渡来人]

秦氏
秦氏は4・5世紀ごろに朝鮮半島の新羅(「波旦」が出身地か)からきた弓月君(ゆづきのきみ)を祖とする氏族。
弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来した。「秦」と書くように,弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもあるがその根拠はない。
土木技術や農業技術などに長けていた秦氏は灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行った。また,養蚕,機織,酒造,金工などももたらした。
大和王権(大和朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていた。本拠地は始め京都山背にあったが,後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住んだ。中央での活躍と共に,秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで,全国規模で勢力を伸ばしていった。

東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。

東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して,大和王権(大和朝廷)のもとで文書記録,外交,財政などを担当した。また,製鉄,機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらした。
平安時代になると,東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではない。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので,互いに対抗意識をもっていたのかもしれない。  

西文氏(かわちのふみうじ)
西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で,古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え,日本に文字をもたらしたとされる。西文氏は河内を本拠地として,文筆や出納などで朝廷に仕えていた。


[Ⅲ 5世紀後半~6世紀  今来漢人(いまきのあやひと)]

5世紀後半頃,今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述がある。
東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)鞍作(くらつくり)金作(かなつくり)の諸氏を配下にし,製鉄,武器生産,機織りなどを行った。
蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていった。

http://jumgon.exblog.jp/16100144/野中寺(羽曳野市)でお話した船氏は今来漢人である「王辰爾」を祖としています。

[6世紀頃、来日した渡来人]

彼らは大王家や蘇我氏に仕え、活躍しました。

(1)513年、段楊爾ら五経博士が百済から渡来しました。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えました。

(2)522年、司馬達等が渡来しました。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝しました(『扶桑略記』)。司馬達等の孫が鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏です。

(3)554年、医博士・易博士・暦博士が渡来しました。

(4)602年、百済僧の勧勒が渡来しまし、暦法・天文地理の書を伝えました。

(5)604年、初めて暦を使用しました。

(6)610年、高句麗僧の曇徴が渡来し、紙・墨・絵の具を伝えました。

(7)612年、百済人の味摩之が渡来し、伎楽舞を伝えました。

[Ⅳ 7世紀  百済・高句麗などから亡命してきた。]
7~9世紀にも多くの渡来人が日本に来ている。
白村江の戦いのあと,百済から多くの渡来人が亡命してきた。
その中には百済・新羅の役職をもって渡来した氏族もおり,子孫らは奈良や琵琶湖周辺に多く居住した。さらに,唐から遣唐使とともに来た渡来人たちもいて,朝廷の政治に大きく関わる者もいた。
日本書紀に「余自信・鬼室集斯ら男女7百余人を近江国蒲生郡に遷居」(天智8年(669年))という記述がある。
鬼室集斯(きしつしゅうし)は白村江の戦いで活躍した百済の将軍鬼室福信の子で,近江朝廷では学識頭にまでなっている。彼らをこの地に移住させ,荒れ地の開墾をさせたのではないかと考えられている。

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by jumgon | 2011-06-16 21:36 | ★言語、歴史
弟媛はどこに行った?

日本書紀に
応神天皇37年の春2月1日に、天皇は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)を呉に遣わして、縫工女(きぬぬいひめ)を求めた。
という記述がある。

阿知使主たちは高句麗国に渡って、呉に行こうと考えた。高句麗に着いたが、その先の道は分からない。
道案内の者を高句麗に頼んだ。高句麗の王はクレハ、クレシの二人を道案内として与えたお蔭で、呉に行く事が出来た。
呉の王は工女、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四人の婦女を倭国に与えた。

応神天皇41年春2月15日に天皇は明宮で崩御された。御年110歳。

この月に阿知使主たちは呉から筑紫に着いた。

◎応神天皇37年の春2月1日から応神天皇41年春2月、ということはまる4年かかったということですね
この時、宗像大神は工女たちを欲しいと言った。そこで兄媛(えひめ)を献上した。これが今筑紫国にいる御使君(みつかいのきみ)の祖である。

筑紫国に残った「兄媛」に関しては
ブログ<ひもろぎ逍遙>
http://lunabura.exblog.jp/
で詳しく述べられています。

残りの三人を連れて津の国に行って、武庫(むこ)に着くと、天皇はすでに崩御されていた。間に合わなかった。そこで次のオオサザキ尊に献上した。
三人の末裔は今の呉の衣縫(くれのきぬぬい)・蚊屋の衣縫である。

この続きを
ブログ<ちょっと歴史っぽい西宮>
http://blog.livedoor.jp/p_lintaro2002/archives/55402344.html?1307885430#comment-form
よりお借りして書いていきましょう。(一部省略・改変)

ここまでは正史(日本書紀)に記載があります。そしてここからは伝承です。

女性技術者三人を含む阿知使主一行は西宮につきます。阿知使主らは往復で4年。呉を出発してからも長い日々だったでしょう。
一行は武庫の港に上陸、そしてしばしの休憩をとります。そこは、松原が広がる風光明媚な場所であったようです。彼女らは松に身を寄せ、故郷を偲んだとされています。 

その場所には現在、喜多向稲荷神社があります。北に向かっておられるのでそう呼ぶのだと思いますが、御祭神は「織姫大明神」です。

「史蹟 漢織呉織松 染殿池」と石碑にあります。この石碑は大正時代に建てられたもので、そのときはまだ松があったのですね。
日本書紀では「穴織(あなはとり)」でしたがここでは「漢織(あやはとり)」となっています。「綾織」とも書いたりします。
その漢織呉織松はもう枯れてありませんが、染殿池は神社裏にあります。

彼女らはこの池の水を使って糸を染め、布を織ったとされています。今見ればこの池は「水溜り」でしかありませんが、かつては清らかな水がこんこんと湧いていたのでしょうか。
 あれ、武庫の港に着いたのは兄媛を除く3人だったはず。弟媛はどこ行ったんかいな?と思いますけど、これはあくまで伝承。

ところで、この伝承とほとんど同じ話が、大阪の池田市にも残っているのです。
しかも、あっちのほうが充実している(笑)。

その池田の名を冠した「伊居太(いけだ)神社」も正式名は穴織宮伊居太神社で式内社、さらに「呉服(くれは)神社」もあり、その両社の神主は阿知使主の末裔。

この呉服神社から、和装衣服のことを「ごふく」と呼ぶようになったという、実に完璧な伝承です。
染殿井もあります。染殿池ならこっちにもありますが、池田には織殿も「星の宮」として伝えられ、穴織、呉織の没年も伝承として残り、阿知使主らとともに相当に顕彰されています。

池田で歴史散策をやれば、穴織・呉織ゆかりの地が中心になってしまうかも。うーむ。
 しかし、日本書紀には「武庫」に着いたことはちゃんと書かれてあることです。
矛盾無く説明するとすれば、まず一行は西宮に着き、そして仁徳天皇に謁見、そしてその後池田に居を構え、日本の紡績業の元祖としてその発展に力を尽くし、池田に没した。池田には伝承として墓もあるそうです。
 猪名川河畔に「唐船ヶ淵」という史跡があって、彼女らはそこから上陸した、との伝承だけはちょっと納得がいきませんが。着いたのは「武庫」だろう?(笑)。

ところでさっきも書きましたが、日本書紀には「既而率其三婦女」とはっきり書かれています。ところが池田においても「呉織・穴織」の二人です。
 弟媛の足跡が全然たどれません。もしかしたら、彼女は長命できなかったのかも、とそんな想像もしてしまいます。
だとすれば、遠い日本に連れてこられて、織物をこの異国の地に根付かせようという青雲の志もあったやもしれませんが、姉と強引に別れさせられ、そして足跡も残らなかった「おとひめさま」のことに、僕は思いを馳せてしまったりもするのです。

◎「池田には伝承として墓もあるそうです」って!!
 確かあとの三人は飛鳥の栗原に居住したのではなかったかしら?
 一体何が本当のことなのかしら?



●栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 栗原の集落は、呉(くれ)の国(当時の南宋?)から連れてこられた渡来人が住み着いたのが、その始まりと考えられている。
雄略天皇は倭の五王の一人で、当時の南朝政権・宋に遣使して上表文を奉ったことは有名だ。
『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛した。
いずれも朝鮮系の渡来人である。以下に示すように、二人は何回も呉の国に派遣されている。

•雄略8年2月、身狭村主青、檜隈民使博徳を呉の国に派遣。
•雄略10年9月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の国から鵞鳥(がちょう)を持って帰る。
•雄略12年4月、身狭村主青、檜隈民使博徳、再び呉の国へ使い。
•雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国。呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まる。
呉人を檜隈野に住まわせた。それで呉原と名付けた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖である。
 

◎日本書紀の応神記と雄略記を比較してみましょう。
応神記では
使いは、『阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかおみ)』・『宗像に兄媛を留めた』・『武庫の津につく』・『武庫に着いたのは遣いのものと3人の工女』

雄略記では
使いは、『身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)』・『宗像での話は無し』・『住吉に着く』・『住吉に着いたのは遣いのものと4人の工女』

だいぶ整理されてきた。
ナルホド、二つの話がごっちゃになっていたのだ。

阿知使主の時は多分「西宮」にも「池田」辺りにも滞在して足跡を残したのだろう。

◎ちなみに、前回の記事で僧、道照が火葬されたのは 「明日香村栗原」だって覚えてられますか?
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by jumgon | 2011-06-14 20:20 | ★言語、歴史

役小角って?

古い寺社を訪ねていると、その由来や歴史に頻繁に出てくるのが、この4名だ。
聖徳太子、役小角、行基、弘法大師

今回は役小角について調べてみよう。

わたしの知識、としては役小角って、修験道者で実在したかどうかわからないけど、修験道の行者の代名詞になってる者。宗教者というより異能の呪術者であり超能力?を持った人の代名詞だ。

ともかく自分が、思い込みで描いているだけなので調べてみよう。

役小角が出てくる記事(このブログ内)
http://jumgon.exblog.jp/15069811

金峯山寺のHPの説明から(一部改変)
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。
これが金峯山寺の開創と伝えられています。  


◎修験道ってそんなに古くはないのですね。飛鳥時代以前には遡らないとわかりました。
●葛城一言主神社には役小角の伝承がある。
一言主神社の亀石
「亀石」といえば、飛鳥の「亀石」を思い浮かべます、ここにも「亀石」が~
 その昔、役の行者が災いをもたらす黒蛇を封じるために乗せた石がこの亀石だという伝えがあるそうです。

●奈良県當麻市の当麻寺にも
當麻寺のそもそも 
612年、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。
その後、親王の夢に従って、681年、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が、役の行者(えんのぎょうじゃ)開山の地へ移したのが當麻寺(当麻寺・たいまでら)です。
 金堂(こんどう)に本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。
次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍(がらん)が整えられました。
中之坊(なかのぼう)は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。

大阪葛井寺にある役の行者像
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を見てみよう。

役小角
舒明天皇6年(634年)伝 ~ 大宝元年(701年)伝
幼名小角、金杵麿
諡号神変大菩薩
尊称役行者、役優婆塞
生地大和国葛城上郡茅原村(現奈良県御所市)
宗派修験道

役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝 - 大宝元年(701年)伝)は、飛鳥時代から奈良時代の呪術者である。姓は君。
実在の人物だが、伝えられる人物像は後の伝説によるところが大きい。通称を役行者(えんのぎょうじゃ)と呼ばれ修験道の開祖とされている。

•出自
役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる。役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという。
また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる。

o役民とは?
律令制下の租税の一種として、無償労働にかり出された者のこと。

•続日本紀にみる役小角
『続日本紀』は、文武天皇3年(699年)5月24日に、役君小角が伊豆島に流されたことを伝える。同書によれば、小角ははじめ葛木山(金剛山・葛城山)に住み、呪術によって有名になった。弟子の韓国連広足が、小角が人々を言葉で惑わしていると讒言したため、小角は遠流になった。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。
『続日本紀』は、延暦16年(797年)に完成した史書で、基本的には創作された話が入る性質のものではない。 同書はまた、2年後の大宝元年(701年)11月に大赦があったことも伝えるが、役小角個人には言及しない。

•日本霊異記にみる役小角
役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。
後世に広まった役小角像の原型である。
荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。
霊異記で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。
若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役優婆塞の謀反を讒言した。
役は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。
大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になった。一言主は、役優婆塞の呪法で縛られて今(霊異記執筆の時点)になっても解けないでいる。

•その後の役小角像
634年に大和国葛城上郡茅原(現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。生誕の地とされる所には、吉祥草寺が建立されている。17歳の時に元興寺で学ぶ。
このとき、孔雀明王の呪法を学んだと言われる。
その後、葛城山(金剛山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、金峯山(吉野)で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。
二十代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。
699年に謀反の疑いをかけられ、伊豆大島へ流刑となり、701年に疑いが晴れて茅原に帰る。
701年6月7日に68歳で箕面の天上ヶ岳にて入寂したと言われる。
後の平安時代に山岳信仰の隆盛と共に、「役行者」と呼ばれるようになった。
天河神社や大峯山龍泉寺など殆どの修験道の霊場は、役行者を開祖としていたり、修行の地としていたりするなど、必ずと言っていいほど、結び付けられている。

•信仰
役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。

•肖像
修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。
•伝説
葛飾北斎『北斎漫画』より、前鬼・後鬼を従えた役小角
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役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。
左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。
しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。
そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。
すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。
また、役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。

また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。


ネットで調べていると役行者についてはいっぱいかかれている。

そのなかで興味深いのは
天武天皇の年齢研究だ。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-e.htm/#_top
すっかり読みふけってしまった。天武天皇と役行者の関わりについて述べられている。

ここではwikiと重複するが、役行者の実像を引用する。

•役行者の実像(一部省略)
行者の素性ははっきりしています。日本霊異記によると、

役優婆寒者、賀茂役公。今、高賀茂朝臣者也。大和国葛木上郡芧原村人也。

役行者こと役小角(えんのおづの)は賀茂氏の一族で役公(えんのきみ)であることから名づけられたようです。延暦の頃には賀茂氏の本宗家といえる高賀茂朝臣(たかかものあそん)を名乗ることになる由緒正しい家柄です。大和国葛木郡芧原村(奈良県御所市芧原)の出身です。続日本紀でも葛木山に住んでいたというから矛盾はありません。
優婆寒(うばそく)であるといいます。僧侶ではないのです。在家のものですが帰依三宝(仏、法、僧)を重んじた僧の一歩手前のような立場といえます。
かなりのインテリで、中国の書物に深く傾倒し、舶来の儒教、道教、仏教に精通していました。
ここで三教を論じるつもりはありませんが、この頃の教えはそれぞれがいい意味で影響しあい、混然としたものでした。
儒教は孔子によってまとめられた、すぐれた中国思想です。
道教は中国独自に古くからある多神教です。
仏教はインドから伝わる一神教です。

ひとつになることはありませんでしたが、それぞれに影響を与え、独自な発展を遂げたものなのです。
日本霊異記の作者は僧侶ですから、役行者が仏教を深く信仰したという書き方になっていますが、彼の知識は仏典だけに留まらなかったと思われます。
しかも彼の行動から察するに、彼の興味はむしろ道教にあり、とくに自然とともに生きる仙道に共感しながら、「抱朴子」などに描かれた仙人に自らなることを本気で目指していたと思われます。
「初老を過ぎた四十余歳」といいますから673天武2年頃でしょうか。彼の生年は諸説ありますが、たぶん天武天皇の壬申の乱前後と思われます。
この歳になってもまだ、岩屋に籠っていたと書かれます。
ところが後に、讒言にあって、伊豆の島に699文武3年5月24日に流されたのです。天武天皇崩御から13年後のことでした。

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by jumgon | 2011-05-26 10:44 | ★言語、歴史