古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:★言語、歴史( 40 )

当麻寺を創建したのは聖徳太子の弟の麻呂子皇子だという。

◎聖徳太子の弟?
 聖徳太子に弟がいたのですか?(ほんとうに何も知らないわたし~)


wikiによると
父である用明天皇には以下の子女がいる。
o第一皇子:田目皇子(または多米王。別名豊浦皇子)
o第二皇子:厩戸皇子(諡号は聖徳太子。上宮太子・豊聡耳皇子・法主王ともいう)
o第三皇子:当麻皇子(別名麻呂子皇子) - 征新羅将軍。当麻公・当麻真人の祖
o第四皇子:来目皇子(または久米王) - 撃新羅将軍。登美真人の祖
o第五皇子:殖栗皇子 - 蜷淵真人(みなぶちのまひと)の祖
o第六皇子:茨田皇子
o皇女:酢香手姫皇女(または須賀志呂古郎女[4]) - 伊勢斎宮

麻呂子皇子についてこの機会に調べてみよう。
(当麻皇子)(たいまのみこ、生没年不詳)は、6世紀後半から7世紀初期にかけての皇族。麻呂子皇子ともいう。
●602年(推古天皇10年)征新羅将軍であった異母兄弟の来目皇子が没した後、翌年の603年4月に征新羅将軍となった。難波から船で出発したが、播磨国明石で妻である舎人皇女が没したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。

◎ということは、当麻寺の前身である万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立したのは推古天皇20年(612)だから、征新羅将軍となったのは、その前だということになりますね。

ほかにも「麻呂子(まろこ)親王」に関する記事を見つけた。

http://www.ryoutan.co.jp/re/oni/2003re4.htmlより
神と鬼の山 4 日本の鬼の交流博物館館長 村上 政市
無量寺縁起と仏谷-福知山の麻呂子親王伝説-
 
麻呂子(まろこ)親王、これもあまり聞きなれない名前だと思いますが、聖徳太子の異母弟とされる人物です。
 この麻呂子親王が、三上山(大江山)にすむ、英胡(えいこ)、軽足(かるあし)、土熊(つちぐま)という三鬼にひきいられた鬼どもを討ったという伝説が、当地方の古社寺の開創縁起となって伝えられています。
当地に仏教が流入した時期と麻呂子親王の時代とではズレがありますから、先行していた麻呂子伝説を、寺社創始の権威づけのため利用し混合していったと考えるべきでしょうか。 
この両丹地方には、大江山の周辺を中心に実に多くの伝説関連地が残っており、地名の由来となっているケースも多くみられます。
今回の話の中で、そうした福知山に残る麻呂子親王伝説を紹介しようと思いますが、中でも、筈巻の無量寺に残る縁起書は、年号の記されている縁起書としては、両丹地方最古のものですし、ゆかりの仏像もまつられています。
また雲原の仏谷(ほとけだに)は、親王が鬼退治を祈って、七仏薬師を刻んだところと伝えています。長安寺や長田の願来寺など、親王ゆかりの薬師如来像をまつると伝える寺院もあります。
 私が、この麻呂子伝説で一番興味をもっているのは、大江町河守の清園寺の「古縁起」に、親王に討たれた鬼どもが、「火」と「風」と「水」を自在にあやつるとあることで、「火」「風」「水」をあやつるのは、古代製鉄に従事したタタラ師たちではないかと思っています。麻呂子親王が、この地方では、もっぱら「金丸親王」とよばれ、「金屋皇子」とも呼ばれていること、それに鬼の首領の「英胡」の「胡」は、早くから製鉄技術をもっていた中国の胡族を連想させるのです。 

大江山には古い時代のタタラ跡が残っています。「魔谷」(大江町北原)、「火の谷」(福知山市天座)など、タタラ跡のあるところは、鬼を思わせる地名ですね。麻呂子親王伝説の裏にひそむ鉄の争奪を、私なりに推論してみたいと思います。


http://kammuri.com/s1/oni/maroko/index.htm
凡海郷(おおしあまのさと)より
●麻呂子親王伝説

日子坐王の土蜘蛛討伐から約六五〇年後、丹後國に再び官軍が派遣されるに至りました。
●日子坐王
 
日子坐王は、記紀系譜によると開化天皇の子で崇神天皇の弟とされる皇族で、四道将軍「丹波道主命」の父にして古代十九氏族の祖とされていますが、実在を疑問視する声も多い謎の人物です。

日子坐王に討伐された陸耳御笠(クガミミノミカサ)と匹女(ヒキメ)を首領とする土蜘蛛は丹後國中の青葉山に棲んでいましたが、今回麻呂子親王(マロコシンノウ)を大将軍とする官軍が討伐の対象とした『鬼』たちは、陸耳御笠が逃げ込んだとされる三上ヶ嶽(現在の大江山)に棲んでいました。

●妖術を使う三鬼 
第三十一代用明天皇の御代、丹後國河守荘三上ヶ嶽(現在の大江山)に、英胡(エイコ)・軽足(カルアシ)、土熊(ツチグマ)の三鬼を首領とする多くの鬼が棲み、丹後はまるで魔國のようになっていました。
 朝廷は鬼を討伐すべく、知勇兼備の麻呂子親王を大将軍とする官軍を遣わす事に決し、勅を奉じた麻呂子親王は、岩田・河田・久手・公庄の四勇士をはじめ一万綺からなる大軍を率いて三上ヶ嶽へ攻め入りましたが、鬼は妖術自在(空を翔び、海を渡り岩をくぐり、雲をおこし雨を降らせ、身を隠したり顕れたり)で斬りつける事も矢で射る事もできませんでした。

神仏の御加護と白い犬 
鬼の妖力の前に人智は全く歯が立たない事を悟った親王は、神仏の御加護を以て鬼を討ち果たそうとお考えになりました。
一旦兵を引かせた親王は、自ら七体の薬師如来像をお彫りになり、「もしも鬼を討ち果たせたならば、この薬師如来像を祀って丹後に七寺を開きます」と祈誓され、併せて天照皇大神と天神地祗に祈願されました。
するとどうでしょう。
親王の元へどこからともなく額に鏡を付けた白い犬が現れました。この犬が神仏の御遣いであることを察した親王は、白い犬を先頭に三上ヶ嶽へ攻め入ったところ、鏡の光が次々と隠れていた鬼の姿を照らし出し、鬼の妖力をことごとく封じてしまいました。
 鏡の聖なる力によって身動きが取れなくなった鬼達は最早官軍の敵ではなく、麻呂子親王は無事勅命を果たす事ができました。

◎白い犬は神聖なものとされていたようですね。古事記・雄略天皇の段にも白い犬は出てきます。

三鬼の末路
三鬼のうち、英胡と軽足は官軍に討ち取られましたが、土熊のみは生け捕られました。
土熊は生き残った鬼達共々助命を願い出たため、親王は「七体の薬師如来像を安置する七つの寺の土地を一夜のうちに開くならば、命だけは助けよう」と申されました。
 鬼達は喜び勇んで七寺の土地を開墾したのち、丹後半島の先端にある立岩に封じられました。
七薬師伝説 麻呂子親王御開基の七薬師寺を主張する寺院は、現在七ヶ所以上ありますが、「多禰寺縁起」によると以下の通りです。

一、施薬寺(与謝野町)・・・・・・桓武天皇勅願所、旧根本寺
二、清園寺(福知山市大江町)・・・・・・略縁起と縁起絵は府の指定文化財
三、元興寺(京丹後市丹後町)
四、神宮寺(京丹後市丹後町)・・麻呂子親王のものと伝わる墓がある
五、等楽寺(京丹後市弥栄町)
六、成願寺(宮津市)
七、多禰寺(舞鶴市)・・・・・・用明天皇勅願所、西国薬師第三十番霊場

 また、大江町の如来院(古くは仏性寺と呼んだと思われる。日本の鬼の交流博物館のすぐ近く)も麻呂子親王御開基と伝えられる古刹であり、本尊の薬師如来像の胎内仏は親王の護身仏と伝えられています。 更に、仏性寺の山号を鎌鞭山と云いますが、これは親王が鬼達を討ち取った後に武具である鎌と鞭を納めた事に由来すると言われています。

 その他七薬師寺伝説の寺としては、円頓寺(京丹後市久美浜町)・月光寺(廃寺、京丹後市大宮町)などがあります。
親王の足跡 
今日、丹波・丹後には七十ヶ所以上に麻呂子親王にまつわる伝説が残っています。
 その一部を列挙すると
・京都府福知山市雲原に「仏谷」という地名があり、麻呂子親王はここで七体の薬師如来像を彫ったとの伝説がある。
・大江町の元伊勢皇大神社には、「麻呂子親王お手植えの杉」と呼ばれる杉の巨木が現存する。また、皇大神社には麻呂子親王勧請説がある。
・ 与謝野町の大虫神社(延喜式内社)には、戦勝祈願のために親王自らが彫った神像が納められていた。また、白い犬の鏡も合祀されていた。(いずれも火災で焼失)
・ 与謝野町に、「二つ岩」と呼ばれる巨石がある。これは大江山から親王めがけて鬼が投げつけた巨石で、親王はこの岩を刀で受け止めて真っ二つに切り裂いたものであるとの伝説がある。
・京丹後市丹後町の竹野神社は、麻呂子親王を合祀していると伝える。近くには土熊を封じたとされる「立岩」があり、「鬼神塚」も現存している。
・大江町に美多良志(ミタラシ)荒神という小祠があり、親王の大願成就と同時に死んでしまった白い犬を祀っているという。
 膨大な麻呂子親王伝説は、後年の源頼光による鬼退治の物語『酒呑童子伝説』へと昇華していきました。
付記2・英胡、軽足、土熊 
清園寺略縁起(京都府指定文化財)には奠胡(テンコ)、迦楼夜叉(カルヤシャ)、槌熊(ツチグマ)の名で登場します。研究者は、こちらの呼称の方が古く、本来はこの呼び方ではなかったかとしています。

◎奠胡(テンコ)、迦楼夜叉(カルヤシャ)、槌熊(ツチグマ)って不思議なヒビキ。
 ツチグマはツチグモと同じことかな?

付記3・鉱物資源を巡る争い 
数年前、私が福知山市大江町にある「日本の鬼
の交流博物館」を訪れたとき、運良くあるお方にお話を聞く事ができました。
 あるお方曰く、
 陸耳御笠が棲んでいた青葉山も、三鬼が棲んでいた大江山も、古くから海洋交通の目印であり、修験の山であり、鉱物資源の豊富な山として知られてきました。この山を支配してきたのは海人族であり、製鉄民でありました。鬼とは製鉄民族の事なのです。大江山を始めとして、丹後には沢山のタタラ場がありました。
 鉱物資源と優れた技術を押さえる事は、古代に於いても現代に於いても、戦略上極めて重要な事です。
 丹後の鬼と官軍との戦いは、丹後の地方勢力と大和朝廷の、鉱物資源争奪戦だったのです。
聖徳太子は秦河勝を使って次々に地方豪族を滅ぼしていきましたが、丹後の攻略も聖徳太子の意志であったのではないでしょうか?最も、聖徳太子も母親が海人系の間人皇后ですから、海人族の血を引いているのですが・・


◎他の地方にも「麻呂古親王伝説」があるかもしれない。
 どなたかご存知の方、ご教示ください。

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by jumgon | 2011-05-20 19:04 | ★言語、歴史
5月13日の朝日新聞の夕刊で気になる記事を見つけた。

【ナカニシ先生の万葉こども塾】

言問(ことと)はぬ 木すら紫陽花(あじさい)
諸弟(もろと)らが 練(ねり)の腎臓(むらと)に あざむかえけり
巻四の七七三番、大伴家持(おおとものやかもち)の歌

ことばを口にしない木だってアジサイは花の色を変える。ことば巧(たく)みなモロト奴(め)の占いにだまされてしまった
◎そういう意味ですか?想像もつきませんでした。  
 
● 作者は、諸弟という男に恋占いをしてもらったところ、成功するといわれたのに失敗したと、怒っています。 アジサイだって花の色をかえて人をだますのですから、口上手な諸弟には、かないません。では諸弟はどんな占いをしたのでしょう。
 「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にあります。当時肝臓占い(羊の肝臓で神様の祟(たた)りを占うこと)が広く行われていますから、その一つでしょう。
 そうなると、モロトという日本離れした人名は、中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません。
イスラム教の祈りのことばでもあります。ムラードとはミスター祈り。彼はペルシャからやって来た肝臓占師だったでしょうか。
 時の朝廷にいた李密翳(りみつえい)はペルシャ人らしい。
シルクロードがペルシャ文明を運んでいました。家持も、ペルシャかぶれで、失敗したのかもしれません。
(奈良県立万葉文化館長・中西進)

◇この記事の中で疑問に思ったこと

疑問 ①「むらと」とは腎臓のことだと古い辞書にありますという記述。
疑い深い私は先生の記事まで疑うという身の程知らず。
調べてみると、なるほどちゃんと出ている。

むらと 【▼腎】
腎臓(じんぞう)の古名。[和名抄]
[ 大辞林 提供: 三省堂 ]

疑問 ②「諸弟、もろと」は中近東によくある人名の、ムラードと同じかもしれません、という記述
 じゃあ、「橘諸兄、たちばなもろえ」も中近東人?なんて思っちゃった。
 でも、これは「もろと」という音からムラードに結びつくので、漢字の「兄」「弟」の意味とは関係ないと自分に言い聞かせました。

疑問 ③李密翳【り・みつえい】
◎こんな人が時の朝廷にいたなんて、もうビックリ!本当かしら?
ついでに李密翳【について検索したら、こんなのが見つかりました。

李密翳【り・みつえい】
•朝日日本歴史人物事典の解説
•生年: 生没年不詳
天平8(736)年8月,遣唐副使中臣名代の帰国に同行して来日した波斯(ペルシャ)人。
同年11月に唐人皇甫東朝と共に位を授けられた。医師,楽人,幻術師,商人やゾロアスター教の司祭などいくつかの説があるが,正倉院に残るペルシャ系文物の存在を考慮して,官営工房などに属し,技術の伝授を行った工匠ではないかとする見方が有力である。
『続日本紀』にみえる唯ひとりのペルシャ人。
(森公章)

◎なるほど「諸弟」なる人物がはるばる日本へ来ていたのか~。
異国の地へやってきてどう感じたのだろうか?
家持とは何語で話したのかしら?
十分に意思疎通できなかったから、自分の都合の良いように占いを解釈したのだろうか?
漢字で筆談?
ずっと日本に住んだのだろうか?
いつ頃まで滞在したのだろうか?


もっと何か情報はないかと検索したら、面白いサイトに出会いました。

橿原日記
http://www.bell.jp/pancho/kasihara_diary/2006_05_02.htm
この方の記事はよく調べられていて信頼性が高く、よくお世話になっています。
(以下、上記の「橿原日記」より引用・省略改変あり)

昭和57年(1982)5月8日付けの東京朝日新聞の夕刊記事

以下記事のタイトルは、”イラン系医者は6世紀に来ていた”となっている。
読んでみると、当時は弘前大学医学部麻酔科の助教授だった松木明知氏と中世ペルシャ語解読の第一人者である京都大学名誉教授の伊藤義教氏の共同研究によって、イラン系の医師が初めて来朝したのは、これまでの通説である8世紀ではなく、6世紀の半ばであることを解明したというものである。通説では、天平8年(736)に遣唐使に従って来朝した李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人医師とされていた。
松木明知氏は、麻酔術が日本に伝わった時期を研究するため『日本書紀』をひもといて、見慣れない二人の人名に気づかれた。
欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。

欽明天皇はその前の年に隣国の百済(くだら)に対して、軍事支援の見返りとして「医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」と要求した。
要求に応えて百済から派遣されてきた交代要員の博士たちの中に、二人の医師が含まれていた。
松木氏は親交のあった伊藤教授に解読を依頼したところ、王有陵陀は中世ペルシャ語で「ワイ・アヤーリード」の写音文字で「ワイ(神)によって助けられるもの」という人名であることが判明した。
潘量豊丁有陀についても、「ボリヤワーデン・アヤード」の写音文字で、「鋼のような強固な記憶の持ち主」という意味であり、イラン系の医師であると判断したという。
その他に、天平8年(736)に来朝した李密翳(りみつえい)は医師とされているが、翳(えい)は中世ペルシャ語では楽人を表し、医師ではないこともほぼ確実になったという。

◎医博士・易博士・暦博士を当番制で交代させよ」とあるから、何年か日本に滞在したのでしょうね。

松木助教授は、昭和57年(1982)6月5日と6日の両日、京都市の京都医師会館で開催された日本医史学会でこの共同研究を発表されたようだが、どのような評価を受けたかは聞いていない。
◎この研究は学会で今認められているのでしょうか?
ペルシャ人の渡来に関しては、上に述べたように天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)が最初のペルシア人とされている。その後、鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)もペルシャ人だったとされている。

だが、松本清張氏によれば、それ以前にペルシャ人の渡来を記した記述が存在する。例えば、斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着したので、朝廷が召したという記録や、斉明天皇5年(659)に吐火羅(とから)人が妻の舎衛婦人とともに来たとする記録が『日本書紀』にある。

◎覩貨邏(とから)国については諸説あるようです。

ゾロアスター教の寺院は拝火の殿堂であり、そこで光の象徴としての純粋な聖火が焚かれ、祭官がこれを護持している。そのため拝火教とも呼ばれている。西暦226年にパルティアを滅ぼして西アジアを統一したササン朝ペルシア(222~651年)は、ゾロアスター教を国教と定めた。
そのため、ゾロアスター教はイラン人の宗教として、7世紀以降のイスラムの侵入までイランの人々の信仰のよりどころとなっていた。だが、イスラムがイラン国内に入り、各地で大発展を遂げると次第にゾロアスター教は少数派となり消滅していった。
古代イランのゾロアスター教は、後漢末から三国時代にかけて中国に伝えられ、5世紀頃には東西に分裂していた華北の北周や北斉で広まっていたという。
唐代には「けん教」と呼ばれ、都の長安や洛陽、敦煌や涼州などに寺や祠が設けられ、ゾロアスター教徒であったペルシア人やイラン系の西域人が、薩保や薩宝という官職を設けて管理していた。
景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教と総称して三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市であった長安を中心に盛んであった。
◎「国際都市・唐」のイメージが少し想像できるようになりました。
中国にゾロアスター教を伝えたのは、中央アジアのソグド地方に居住していたイラン・アーリア族の住人である。ソグド地方は古代の東西交易路の三叉路にあたり、この地域の住民は商売がうまくその商業的活動は他の民族の追随を許さなかった。ソグド人は中国で「胡賈(こか、外国商人)」と呼ばれた。「胡」は中央アジア以西のイラン族を指す。
『後漢書』によれば、後漢の霊帝(168-188)は「胡服、胡帳、胡牀、胡座、胡飯、胡クゴ、胡笛、胡舞を好んだので、都の貴族たちは皆これにならった」と伝えている。

◎後漢の桓帝・霊帝の頃(紀元147~189年)といえば「倭は大いに乱れ、国どうしの勢力争いが続き、統一者が出なかった。卑弥呼共立(魏志倭人伝)」

胡の習俗は、後漢以来、中国では一種の先進文化として受け取られていた。ハイカラ趣味のように3世紀以来中国の貴族にもてはやされたのである。
ソグド人の商人はゾロアスター教徒だった。中国に商売のため逗留したり、居住したりする内に、その信奉する宗教が貴族の間で西域趣味としてもてはやされたこともあったろう。


これに関連したうららさんのブログを思いだしました。
http://blog.goo.ne.jp/goo3820/c/df0eb88e365eff56a0bc9c32919440dd/3
うららさんのブログで
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木について言及されたものがあります。

ユーラシアの東の端・日本の法隆寺の香木。
その香木に不思議な不思議な文字がありました。
不思議な文字は、研究の結果、ソグド人のものであることがわかりました。

香木いずれも長さ約60cmで20cmほどにわたる刻銘があり、その端近くに焼印。
刻銘、焼印ともに漢字以外の文字であり、長い間その意味は謎とされてきました。

現在では、刻銘の文字はサーサン朝ペルシャ時代に使われた中期ペルシャ語のパフラヴィー文字で、銘の内容は「ボーフトーイ」(bwtwdy)という人名か香木のメーカー名。
焼印の文字はソグド文字の「ニームnym」と「スィールsyr」で、「2分の1シール(重さおよび貨幣の単位)」のことだった。
またその焼印には大きな十字架のマークがあるらしい。
ちなみにパフラビー文字とソグド文字の焼印はともにヘブル語から変化したアラム語です。

輸送の際、木材に荷主を判別するため押印をすることは古今東西広く行われていて、法隆寺の白檀二点の焼印・刻印がソグド語とパフラヴィー語であったことは、その流通・輸送にイラン(ペルシャ)系商人が深く介在したことを示しています。

白檀の原産地である東南アジアから積み出され、中国の広州や揚州などの市場を経て、最終的に法隆寺に納められたと考えられます。


東京国立博物館「法隆寺宝物館」の白檀について、言及されているブログが他にもありました。

http://blogs.yahoo.co.jp/cosmorama7272/53843534.html
(一部省略)
東京国立博物館「法隆寺宝物館」に展示されている白檀の香木の実物は撮影禁止で、週刊朝日別冊に掲載された写真しかアップできません。

 10数年前、塔頭の屋根裏から香木が発見されたという記事には驚きました。 
白檀、栴檀、沈水香の3点の香木でしたが、これらのうち2つにはパフラビー文字(中世ペルシャ語)とソグド語の文字が刻印されているということでした。

 新聞や雑誌にはサイズが書いて無く、ただ写真だけでした。
 その形状から、ゾロアスター教徒が家庭で使用している香木と思いました。せいぜい直径1センチ、長さ10~12センチくらいのものと思いこんでいました。

 ところが実物は直径9センチと11センチで長さは80センチと90センチもあった。
 これは今でもゾロアスター寺院の一番大きなカップで使用している拝火のために使用している木のサイズだ。

 直径1センチ、長さ10センチ程度の香木はインドのゾロアスター教徒専用の仏具店で購入しているが、百段の場合、値段は日本円で200~300円もする。直径10センチ、長さ90センチなら数万、いや数十万はするだろう。

 通常、ゾロアスター寺院では、香木ではなく松か樫の木で火種を絶やさないようにしている。
 香木を使用するのは、よほどの祭事のときだけだ。

 沈水香は複雑な形の根っこだったが、ほかの2本は木の幹だった。
 栴檀のほうも白檀材となっていたから、2本とも白檀の木であろう。

 この香木に刻印されている文字を大阪大の東野教授は、「ボーイトーフ」と読みメーカーの名前か人名と断された。他方、大阪外大の井本教授は、「サオシュヤント」の方言形と言われた。 
◎学者によって解釈が異なるようです。
サオシュヤントは、ゾロアスター教でいう救世主である。仏教なら弥勒ということになろう。
 法隆寺夢殿に安置されている救世観音像と対応する。


以上の記述を事実だとすると
ペルシア人の渡来は

①欽明天皇15年(554)の条に記されていた医博士の王有陵陀(おううりょうだ)と採薬師の潘量豊丁有陀(はんりょうぶちょうだ)という人物である。
②斉明天皇3年(657)に覩貨邏(とから)国の男2人、女4人が筑紫に漂着した。
③天平8年(736)に遣唐使に従ってきた李密翳(りみつえい)
④諸弟(大伴家持・718~785)の間のある期間、在日。
⑤天平勝宝6年(754)鑑真(がんじん)に付き添って来日し、鑑真の死後その遺志を引き継いで唐招提寺金堂を建立した安如宝( あんじょほう:不明~815年)
となります。

他にもいるかもしれないけど、それほど多くはないので日本文化に大きな影響を与えなかったような気はします。
大伴家持の歌にうたわれているので、それなりの交流があったように想像できます。

◎日本にやって来たらしいペルシア人?について調べているうち、だんだん古代の人間の交流について未知の世界へ運ばれてきました。
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by jumgon | 2011-05-16 17:39 | ★言語、歴史

椋の木

以前からひもろぎ逍遥というブログで次のようなきじを読んで以来、私は椋の木が気になっていた。
http://lunabura.exblog.jp/15310757

椋の木には黒く固い実が成るのであるが、それを空から降る隕石の化身と信じた、について
これについては眞鍋氏はこう説明しています。

記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。

◎うーん、確か羽根つきのに使われるのはムクロジの種だったと思うのだけど~。
下の写真はムクロジの実と種
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羽根つきの羽根のこと
このブログない「洗濯の歴史」に次のように述べています。

●羽根つきの羽根はムクロジなどの木ノ実に鳥の羽根をつけてできあがったもので、「羽子」「羽子板」は道具の名称です。
「羽根」は球についているものですが「つきばね」「おいばね」という遊び方のスタイルの名称としても現れます。

◎ムクロジなどの木ノ実に鳥の羽根をつけて、、、、とあるから黒く固い椋の実ももちいられたのだろう。
季節の花300より
椋の実
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●眞鍋氏の説明
2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。

椋の木はそれほど珍しい木でもなさそうだけど、そんなにちょくちょく隕石なんて落ちて来たのだろうか?と不審に思わないでもない。
それによく考えれば私はその木について何も知らない。もしかしたら見たことあるかもしれないけど、それが椋の木かどうか知らないから気が付かなかっただろう。

まず、木と隕石と関係があると言う記事はないかとネットで検索してみた。
それらしい記事はなかなか見つからない。

やっと見つけたのが

京都・東九条の宇賀神社とムクノキの巨木
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樹齢およそ500年  歴史を刻む「ご神木」
 境内東側にあるムクノキは樹齢およそ500年。樹高は約15m、幹まわりは3m以上あるといわれ、遠くからでもわかるほど風格ある姿をしています。
 約60年前、落雷のため、現在の大きさになりましたが、それがなければ現在の姿の2倍くらいの巨木になっていると考えられます。
 また境内西側のイチョウも大変大きな木で、ムクノキとともに神木として崇められています。
なお、境内に雷が石になったと伝えられる雷石があり、これは隕石だといわれているとのことである。


◎だが、隕石とムクノキの関係は述べられていない。

●美星町についてこんな記事があった。

そもそも、美星町 ってどこだかわからない。
井原市美星町は岡山県の西南部に位置する,吉備高原にひらけた町です。
標高505メートルの龍王山を中心に,128の集落が起伏のゆるやかな台地に点在しています。
気象は瀬戸内海内陸型で準高冷地帯に属し,農業にも居住するにも恵まれた環境にあります。
特に晴天率が高く大気が安定していることから,最も天体観測に適した地域としても全国に知られています。

石碑には「星尾大明神降神之地」と書かれています。つまり昔ここに隕石が落ちたということを示しています。美星町にはここ以外にもう2ケ所、合わせて3ケ所に隕石が落ちたそうです。このことから「星尾降神伝説」が生まれたそうです。
 なお、この場所のすぐ近くに「星尾神社」があります。この地の豪族が創建したそうです。
星尾降神伝説
それは遙かむかし。
静かな山村が夜のとばりに包まれたころ,星がひとすじ光跡を描きました。
ところが,その流星はこの村にどんどん近づいてきたのです。
「大きな流れ星だなぁ」と夜空を見上げていた村人も次第に騒ぎはじめました。
間もなくその光は,空中で三つに分かれこの村の北槙,八日市,本村,というところに落ちました。
人々はこれを神さまの使いと信じて,星尾神社,高星神社,明神社を建て厚く信仰しました。
それからいつしか,この村は”星の郷”と呼ばれるようになったということです。


ところが星尾神社には椋の木が生えているという記載はない。
星尾神社の社叢は、胸高直径70cm前後のモミの大径木が優占しており、特に社殿北側には、30mを越えると思われるモミが生育しています。一部にクロマツ、アカマツの大径木の生育がみられるほか、亜高木層にはコシアブラ、モミ、アラカシなどが生育しており、自然状態を保っている植生の一つの形態を典型的に残している注目すべき社叢林といえます。また、チトセカズラが低木層の樹林を覆うほどに繁茂しており、特記すべき群落を形成しています。
◎椋の木ははえてない、と言うことでこれはボツ。
ほかにそれらしい記事は探してもないから椋の木そのものはどんな木か調べてみた・

WIKI、そのほかより
◆ムクノキ(椋木、椋の木、樸樹、 Aphananthe aspera)はニレ科ムクノキ属の落葉高木
東アジアに分布する。単にムク(椋)、またはムクエノキとも言う。成長が比較的早く、大木になるため、日本では巨木が国や地方自治体の天然記念物に指定されている例がある。また地名や名字(椋本など)となっている例も多い。

日本では関東以南の本州から四国、九州でごく普通に見られ、琉球列島ではまれで屋久島、種子島、沖縄島に分布する。日本国外では、朝鮮、台湾、中国に分布する。特に人家周辺の神社などによく見かける。
◆生育環境
主に山地から低地の森林内に生育する。
山地に生える落葉高木です。
 葉は互生し,葉が開くと同時に淡緑色の小さな花をつけます。果実は直径が 1 センチ前後

季節の花300
http://www.hana300.com/mukuno.html
http://www.geocities.jp/greensv88/jumoku-zz-mukunoki.htm
より写真をお借りしています。

名前の由来
実黒あるいは実木→ムク、樹皮が剥(ム)ける木→ムクなどの説がある。木工の仕上げに、この木の乾燥した葉を使ったことから、「木工(モク)の木」がなまったとも。

・高さ20m以上になる高木。
・上の方でいっぱい枝分かれする。
枝分かれする様子がケヤキに似ている。
●樹皮
(椋の木の樹皮は縦に多数の筋がある。
縦筋のないケヤキとは樹皮で区別できる)
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●葉
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葉は互生し、葉身は卵状長楕円形、葉先は鋭尖頭、葉脚は広いくさび形で、左右不同。
縁は鋭鋸歯がある。表裏共に短い豪毛があり、ざらつく。
骨や角細工を磨くのに用いられた
昔は、この葉っぱでべっこうなどを磨いた。
10月の椋の木の葉っぱ
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12月の椋の木の葉っぱ
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●雄花
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雌雄同株、雌雄異花。
新葉が展開してすぐに、葉腋に集散花序を付け、小さな雄花を多数開く。花被片、雄しべともに5個。

●雌花
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雄花の開花に少し遅れて、枝の先の葉腋には雌花が、数個付く。写真のように目立たない。花柱は先が2裂し微毛が密生する。

●枝
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むくのきの若枝は、灰色のねた毛がありざらつく。紫褐色で小さい丸い皮目がある。冬芽は平たく、先は尖る。芽鱗は褐色で縁は濃い。

●実
7月の椋の木の実
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10月の椋の木の実
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実は核果で、11月に黒く熟す。球形で10mm以上あり大きいので、小鳥には無理か。ムクドリやハトなど少し大きな鳥の餌になる。黒く熟してしわの寄った実は、干し柿のようで甘くて美味しい。
熟した椋の実
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●種
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中にタネがあります
種子は、葉と同様に表面がざらつく。鳥の体内を通過して散布されるために丈夫な作りになっている。
●実生
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ムクノキの実生は見つけやすい。双葉が、アサガオのそれのようにハート形になっている。
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by jumgon | 2011-03-11 15:34 | ★言語、歴史

座りかた考

人間の生活様式の違いをすわり方を中心に今日は考えていこう。
西洋とか東洋とか、中近東とかの区別のなかった人類の初めのころの住まいは穴居生活だった。勿論椅子もベッドっもない。

やがて洞穴に住み始め、樹木や草や土、石で住居を作っていった。

それから何万年か経ち、土のままの床からやがて草や獣の皮を敷いたり、石やレンガを敷いたりしていったことだろう。
そして、気候、環境の違いから文化が分かれていったのでしょう。
椅子や、ベッド、じゅうたん、畳、が出現したのはもっとのちの時代の事です。

さて、いろいろな国の座りかたを調べてみた。

●まず韓国
韓国の時代劇を見ればわかる。女性はあぐらをかくか、片膝立てて座っているのをよく目にする。それが正式なすわり方らしい。
正座は朝鮮半島では罪人の座法とされる。

一方中国では身分の高い人たちだけかもしれないが椅子やベッドを使用している絵画を目にするけどいったいどうなんだろう?。

Wikiより
●中国
中国では、春秋戦国時代正座が正式な座り方だったことがある。当時中国では股割れズボンを着用していた。 足を伸ばして座ったり、体育座りの姿勢で座ると陰部が隠せないため、正座をしたと考えられる。 その後股割れズボンを履かなくなったことや、椅子の普及で正座をすることはなくなった。

●インドイギリスの植民地だったインドではどうだろう?
私の娘がバックパッカーとしてインドに滞在していたことがあるので聞いてみた。

現在の上流階級は西洋式の生活様式である。
金持ち宅にはダイニングテーブルやチェアがある。

中・下層階級の家の場合
ある家では戸をあけると玄関はなく土間で靴のまま入る。
今でも土間の上に座って食事をする家もある。

どんな貧乏な家にもベッドはある。
◎土の上には寝れないよね!

訪れるとベッドに座るように促される。
ベッドは寝る場所であり、椅子であり、その上に胡坐をかいてチャイ(お茶)を飲んだりする。
でも基本的には食事でもプージャ(お祈り)でも地べたに座ってがもとの形だと思う、とのことである。

デリーで居候させてもらっていた家は、やや金持ちで(下の上、か中の上)部屋にじゅうたんが敷かれていた。靴はぬぐこともあり、脱がなかったり、かなりアバウトな感じらしい。
「だけど、地域によっても違うと思うし、ヨーロッパ文明が入る前はどうだったか私には正確には分からない」とのことである。

でも、インド人は基本的には地べたに座る人達で女性も胡坐をかいて地べたに座るのに慣れているのか膝がメチャ柔らかくて、二等列車で地べたに座ってるおばちゃんなんて何時間も同じ態勢で座ってはったそうだ。
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◎上の写真はよそからお借りしてきました。でも娘から聞いていたイメージに近いので載せさせて頂きました。あ~今さらですが20歳前後のうら若い娘が、なぜこんな所へ飛び込んで行ったんでしょう?

インド研究家の伊藤武先生
という方がおられ、インドの歴史、文化、古来インドから現在にの及ぶ生活習慣や儀式について何でも知ってられるので、「詳しい事知りたかったらにメールで聞いてみようか?」なんていってきたけどそこまでしてもらうのは恐縮するので遠慮しました。

さて今度は日本のすわりかたについて考えてみよう。

●日本の椅子の歴史
日本では、古く武士が野戦用に使用した床几(しょうぎ)があり、鎌倉時代には、中国から仏教とともに伝来した仏具のなかに院内で使用する局ろくが含まれていて、これらが日本におけるイスの起源と考えられる。

●床几(しょうぎ)とは移動用の簡易腰掛け。
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脚2本をX状に組み合わせ、上端に革や布を張って座席とする。移動時は折りたたんで携帯する。日本では古くから用いられ、古墳時代の埴輪にも見られる他、記紀や延喜式にも「胡床(こしょう、あぐら)」の呼称で散見される。腰掛け用として、朝儀の際に武官が用いたと記録にあり、後世には武家が野戦時に帷幕内で用いるほか、鷹狩りでも利用された。

●床几の歴史
床几の古形である胡床は中国大陸から日本に伝わった。中華では古代、日本と同じように椅子を用いず床に直接座る習慣があったが、漢代には北方から胡床が伝来し、宮廷から戦場まで広く普及した。唐代には椅子の使用が始まったが、胡床は携帯用座具として重宝されつづけた。日本では椅子の普及が明治に入ってからであるため、近世に至るまで広く使われ、現代でもその姿を見ることが出来る。また「縁台」のことを指して床几ということもある。

しかし日本の生活様式がイスを必要としない床座式のため、イスは家具としての発展をみずに明治時代を迎えた。
開国と同時に、西欧人の渡航、文明開化の風潮によって普及、官庁・学校・公共建造物におけるイスの使用がそれに拍車をかけた。
◎奈良飛鳥時代は中国文化の影響が影響が強いから、椅子が使われていたかも知れないと思った。
(あっ、でも中国で椅子が使われ始めたのは、唐代からだった!)

平城京遷都1300年祭にちなんで、行基や聖武天皇、橘諸兄、孝謙女帝が出てくるテレビドラマで確か、藤原の仲麻呂(恵美押勝)の館にイスとテーブルがあったと記憶している。(このドラマの時代考証は確かなのだろうか?)

ちょっと気になるのは
平城京の大獄殿の高御座だ。
一見イスのように見える。
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Wikiから高御座の構造の説明を引用する。
◆高御座の構造と外形
高御座の構造は、三層の黒塗断壇の上に御輿型の八角形の黒塗屋形が載せられていて、鳳凰・鏡・椅子などで飾られている。椅子については古くから椅子座であり大陸文化の影響、と考える人がいるが、『延喜式』巻第16内匠寮に高御座には敷物として「上敷両面二条、下敷布帳一条」と記され二種類の敷物を重ねる平敷であり椅子ではない。


さて、正座について
Wikiから引用する。
●正座の歴史では、正座の座り方(後述)がいつ頃から始まったのか、という部分と、この座り方を「正座」とする概念がいつ頃発生したのか、について分けて考える必要がある。
正座とは、元々、神道での神、仏教で仏像を拝む場合や、征夷大将軍にひれ伏す場合にのみとられた姿勢であった。日常の座法は武士、女性、茶人などでも胡座(あぐら)、立膝で座る事が普通であった。
江戸時代初期、正座の広まった要因としては、江戸幕府が小笠原流礼法を採用した際に参勤交代の制定より、全国から集められた大名達が全員将軍に向かって正座をする事が決められ、それが各大名の領土へと広まった事が一つ。

また、別の要因として、この時代、庶民に畳が普及し始めた頃であったことも要因であるという。
入澤達吉『日本人の坐り方に就いて』では元禄~享保に広まったと推測されている。
それに対して、川本利恵と中村充一「正座の源流」[3](東京家政大学紀要第39号 1999年)では、この座り方そのものは『日本諸事要録』(天正11年)の記載から、16世紀後半にはすでに下級武士や農民にまで浸透していたことを指摘しており、古代遺跡や奈良時代の仏像にも現代の正座と同じ座り方があることから、座り方そのものは江戸時代以前から一般的であったとも考えられる。

http://www.seizajsa.com/article/1291900683.html
にかなり詳しく正座や日本人の座り方の歴史が記されている。興味のある方はどうぞ。

•イースター島のモアイは裸で正座している。

◎イースター島のモアイ像については由来がまだ謎のようだが、正座というのもその解決の一つの要素になりそうですね!
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by jumgon | 2011-03-09 10:18 | ★言語、歴史
以前から考えていた事だが、日本人は床に座り、床に布団を敷き眠る。
布団は朝になると押し入れに入れる。
一方主に西洋では椅子、ベッドの生活形態である。


西洋式が優れているのは老人になり筋肉やが膝が弱ったりしたとき、あるいは介護状態になった時行動の補助になるという便利さである。
西洋文化は、人間が楽になるよう工夫された文化だと思う。

多分前者の方が、足腰の筋肉が鍛えられると思う。
布団の出し入れだって毎日なら大した運動でないみたいだけど、何十年続けていると腕の筋肉の発達の差はとても大きいと思う。
西洋式トイレより和式トイレの方が足腰の筋肉の発達を促すと思う。
自宅のトイレではウォッシュレットなどとても便利で良いと思うけれど、公衆トイレでだれが座ったか分からない便座におしりをおろすのは抵抗がある。

私がこのように思っていても、実際体力に差が出ているか私は証明することはできないけれど、専門家なら比較出来ると思う。こんなこともうとっくに研究されてるかも知れないけれど、もしだれかご存知の方いらっしゃいましたら、教えてください、お願いします!

さて具体的に比較するために、煩雑だが和式の座り方、立ち方をかいせつしよう。
http://hac.cside.com/manner/6shou/1setu.html

から、解説写真をお借りしました。

まず、日本独特の姿勢、の解説から

●跪座(きざ)1
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跪座の姿勢は、正座から、両足を爪立てた姿勢である。
跪座の姿勢において、上体は正座の姿勢よりごくわずかに前傾する。
頭は、顎が上がらないよう注意し、まっすぐに胴体に据える。
視線を置く位置は、正座と同じく、畳の縦の長さ2枚分(3m60cm)前方の床の上に置く。
手の位置は、正座と同じである。
両足の踵(かかと)の内側は、互いにつける。

●跪座(きざ)2
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足のくるぶしを中心として、爪立てた足の甲と、足のすねがつくる角は、その角を鋭角にする気持ちで曲げる。

●跪座(きざ)3
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尻は、両足の踵(かかと)の上にしっかりと載せ、上体の重みをかける。
●跪座(きざ)4
この跪座の姿勢は、低い位置で動作をするときに多く用いる。
また、正立から正座に移るとき、反対に、正座から正立に移るとき、必ず、この跪座の姿勢をとる。


◆正座から立ち上がる時

●正座から跪座へ1
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正座の姿勢から、まず、両脚のももに力を入れ尻を少し浮かせるようにする。
このとき、上体が前かがみとならないよう注意する。
●正座から跪座へ2
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左足から、静かに爪立ててゆく。
次に右足を爪立て跪座の姿勢となる。
●跪座から正立へ1
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跪座の姿勢から、右足を半足長(自分の足の長さの半分)前に出し、右脚全体を浮かせるようにする。
●跪座から正立へ2
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からだの重心は、両足の中間に置く。左脚の膝を床から離し、つづいてゆっくりと立ち上がってゆく。
このとき両脚の膝に力がかかる。上体が、揺れないようにする。
●跪座から正立へ3
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立ち上がったら、左足を半足長前に出して、右足とそろえる。正立の姿勢となる。


◎かなり専門的で繁雑のようだが、文で読むより実際にやってみたら、なるほど、椅子に坐ったり立ちあがるより、いろいろな筋肉を使っている事がわかると思う。

ついでに座布団の座りかたを解説する。

座布団や寝具に入る時、まず、その外側で正座になり、座布団(寝具)の少し奥に両手こぶしを入れる。両手に体重を乗せ、両足膝を座布団(寝具)の上ににじりいれる。
もう一度奥に両手こぶしを置き、膝を真ん中にすすめる。


●座布団の基礎知識
座ぶとんには、裏表がある。
「表」とは、中央のしめ糸のふさのついているほうである。
また、座ぶとんカバーが使用されている場合、座ぶとんを真上からみて、チャックについている縫い代がかぶさっているほうが、「表」である。

座ぶとんには、前後がある。
「前」とは、座ぶとんの4辺のうち、縫い合わせのないほうである。
袋仕立てのものは、袋の底のほうが、「前」である。
また、座ぶとんカバーが使用されている場合、チャックのついていないほうが、「前」である。

◎座布団(寝具)は足裏で汚さない様そういう行動パターンが出来ていた。上等のふかふか座布団は、カバーをつけないし、めったに洗わないから~。

そういうものを形式化、儀式化したしたのがいわゆる礼法である。

私は月1回二年間ほど礼法教室に通ったことがあるが、時代に合わない部分に反発する面もあったが
日本文化の所作の美しさと合理的な部分は伝えていきたいと思った。

次回は日本以外の床に座る文化を探してみることにする。
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by jumgon | 2011-03-02 15:29 | ★言語、歴史
万葉集
      春過ぎて 夏来たるらし
         白妙(しろたえ)の 衣干したり
           天(あめ)の香具山(かぐやま)         
                      持統天皇


◆意味: 春が過ぎて、夏が来たらしい。白妙(しろたえ)の衣が香久山(かぐやま)の方に見えます。

たいていの訳文には上記のように書いてあり、私はもうひとつはっきりイメージできなかった。

洗濯ものを干しているのが見えるなんて、よほど近くでないと見えないではないか。
せいぜい、100メートルくらい先までだ。
飛鳥の宮殿から遠望できるとなると余程大きなものでないと~。

香久山あたりを、散歩したときに見かけたものなのか、、、、。

ここには、「衣」とかいてあるだけだ。
これでは、丸洗いしたものを干しているようなイメージを持ってしまう。

◎前回{日本の技術・縫製と手入れ}を勉強してから、
「解き洗い」をしてから干している様子を表している、のではないかと思い付いた。

さてそれが、
「板張り」か「伸子張り」かなのだが私が抱くイメージからいえば、「伸子張り」だと思う。
初夏のさわやかな風にたなびいている、衣
いかにも、衣替えの季節の風物詩ではないだろうか?
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そこで板張りと「伸子張り」の歴史を調べてみた。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuyondai

板張り
板張りは江戸時代末期以降に急速に広まった方法で、
着物や布団などを解いて洗った後に張板に張るものである。
伸子張りに比べて端縫いをしなくてもいいし、場所も取らず手間もかからないので、はるかに簡便なやり方である。
おそらく庶民に木綿の衣服が豊富になってきたという事情により、仕上がりよりも使い易さや簡便さが求められたのであろう。

張板(栃の木製の一枚板)に布海苔(ふのり:海藻でつくった糊(のり))を刷毛(はけ)でひきながら、布裏を板にはる。はりおえたら板を
たてかけて、自然乾燥させる。おもに木綿や化繊など、ぬれてもあまりちぢまない布に適している。

◎海藻から糊が作れるのだ!

伸子(しんし)張り
ときはなした布を、あらかじめ端縫(はぬい:裁断前の反物の形になるようぬいあわせること)してから洗濯をおこなう。
その後、布の両端をひっぱり、伸子(竹の細棒の両端に針のついたもの)を4~5cm間隔で布の両耳にうっていく。布裏全体に布海苔を刷毛でひいて、自然乾燥させる。

伸子張りは平安時代の資料ですでに確認できるもので、非常に古くからある方法である。それは着物を解いて洗い、縫合して反物の形にした後、柱や木の幹に引っ掛けた二本の棒を使ってこの反物を引っ張り、その両耳に竹串を等間隔で弓状に差し渡していくものである。この竹串を「伸子(しんし)」といい、反物を引っ張る時に使用する二本の棒を「絹張(きぬはり)」あるいは「桁(けた)」2)という。また絹張を柱等に引っ掛ける紐のことを「引手(ひきて)」という
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伸子張りの最古の資料は『年中行事絵巻』(図1)にある。時期は12世紀後半とされる。反物にして洗った着物を輪状に縫って絹張を入れ、庭にある二本の木の幹に紐で引っ掛けて張り、下女と思われる二人の女性が伸子を差し渡している様子が描かれている。反物を上下二段にして伸子張りを施しており、Aタイプである。もう一人の女性は鮮明ではないが、糊を刷毛塗りしているものと思われる。

さてここに出てくる、ふのりはどんな海藻なんだろう?

フノリ(布海苔)とは、紅藻類フノリ科フノリ属の海藻。「布海苔」と漢字で書くこともあるが、ひらがなやカタカナで表記されることのほうが多い。また、布苔、布糊、海羅と書かれることもある

2月から4月にかけてが採取期で、寒い時のものほど風味が良いといわれる。採取したフノリの多くは天日乾燥され市場に出回るが、少量は生のまま、または塩蔵品として出回ることもある。

乾燥フノリは数分間水に浸して戻し、刺身のつまや味噌汁の具、蕎麦のつなぎ(へぎそば)などに用いられる。お湯に長時間つけると溶けて粘性が出るので注意が必要である。
乾燥フノリ
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岩に自生するフノリ
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近年、フノリはダイエット食品として注目されている。また、フノリの粘性の元となる多糖質に抗がん作用があるとか血中コレステロールを下げる作用があるなどという見解を持つものもおり、フノリの成分を使った健康食品なども開発されている。

フノリは古くには食用よりも糊としての用途のほうが主であった。
フノリをよく煮て溶かすと、細胞壁を構成する多糖類がゾル化してドロドロの糊状になる。これは、漆喰の材料の一つとして用いられ、強い壁を作るのに役立てられていた。
ただし、フノリ液の接着力はあまり強くはない。このため、接着剤としての糊ではなく、織物の仕上げの糊付けに用いられる用途が多かった。「布糊」という名称はこれに由来するものと思われる。また、相撲力士の廻しの下につける下がりを糊付けするのに用いられたりもする。

その他、フノリの粘液は洗髪に用いられたり、化粧品の付着剤としての用途もある。また、和紙に絵具や雲母などの装飾をつける時に用いられることもある。
◎なるほど、日本人は海藻をとことん利用しているのですね。
 自分が海辺に住んでないものだから、海洋民族なんて言われてもピンとこなかった。

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by jumgon | 2011-02-01 15:34 | ★言語、歴史

洗濯の歴史

世界各国の天然洗剤
(サイカチの実、キキョウ、シヤボン草、シクラメン、大豆のゆで汁、米のとぎ汁、牛の胆汁、糞、尿、ウグイスの糞、etc)が長い 間使われて居た。

工場で初めて作られ商品化された洗剤は石鹸である。
伝染病 の予防手段として特にフランスでは熱心に研究され、ニコラス・ルブランに依り苛性ソーダの製造法が開発され量産が可能になった。

日本の石鹸のあゆみ
1543年 ポルトガルより渡来
1889年(明治22年)小間物商長瀬富郎商店が日本初の銘柄入リ石鹸を製造


以下は http://jsda.org/w/01_katud/a_seminar04a.html
を参考に書きます。

日本の洗濯の歴史
◆古代
踏み洗い・モミ洗い・手洗い
ようするに、水洗い?
◆奈良時代(700年代)から
サイカチのさや,ムクロジの果皮を天然の洗剤として使用していました。これらには泡立ち成分としてサポニンが含まれていました。
また,1000年頃からたらいや砧(きぬた)の使用が始まりました

◆1500~1700年頃
 そのころ日本では、灰汁・ムクロジ・サイカチ・石灰などを洗浄用に使用していました。シャボン(石けん)の洗浄力は知られていましたが、貴重品のため洗浄に使用することは稀でした。
浮世絵には、灰汁槽・たらいが洗濯の様子として描かれています。
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以下は http://www.geocities.jp/inage3868/wash.htm
より
洋の東西を問わず、古代から洗濯は川や泉のほとりで行われてきました。
日本古来の洗濯法は 「踏み洗い」が原型で、今でも青森から沖縄まで日本各地の幾つかのところで行われています。
踏み洗いをしている洗濯絵が平安末期のものとして残されています。また同時期に「たらい洗い」 をする女性が描かれた絵もあります。
外国の洗濯絵には棒でたたく「たたき洗い」があり、 韓国ではたたき洗いが洗濯の基本となっています。
江戸時代には、長屋の路地につるべ井戸が掘られ、共同の洗い場ができ、これが女性の社交の場と なっていて井戸端会議が行われるようになりました。洗濯剤としては、日本では昔から木灰のあく (灰汁)が主体で、江戸時代には灰汁桶が各戸に置かれていました。灰汁桶とは、その中に水を満たし て灰を入れ、底の栓口から灰汁がしたたるようになっています

平安時代の洗たく
洗たく場が川や泉のほとりから井戸端など住居の周辺に移るにつれて、洗たく桶が必要となりま した。「たらい」が現れたのは平安時代になってからです。この時代の洗浄剤としては米のとぎ  汁、灰汁が使われていました。

ムクロジ(天然植物の利用)
灰汁のほかに天然植物も洗たくに利用されました。その一つにムクロジがあります。ムクロジ(無患子)は落葉樹で、関東以西の山中に生え、昔は庭に植えたりもしました。この実の黒い種はあの「羽根つきの玉」です。果皮はサポニンという物質を含み、水に混ぜてふると泡立ちます。インドなどでは現在も使われているようです。
むくろじの木
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むくろじの花
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むくろじの実と種
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むくろじ泡実験
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明治元年・1868年

日本では,安政開港により1859年に洗浄用石けんの輸入が開始され,明治維新後に輸入量は急増しました。1872年には国内で石けん製造を開始(官営),翌1873年には堤磯右衛門石鹸製造所が民問として製造するなど.石けんはその後急速に普及していきました。ただし、当時.洗濯機はありましたが,ほとんどの家庭はまだ手洗いでした。
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by jumgon | 2011-01-28 14:50 | ★言語、歴史

「橡」とは

前回の 日本の技術・和裁と手入れ、
で引用した文について追加改稿


『萬葉集』(巻第七)には次のような歌が収められています。
「橡の 解き洗ひ衣の 怪しくも ことに着欲しき この夕かも」です。
この中の「解き洗ひ衣」は、まさに着物の洗い張りを示しているといわれています。橡で染められた着物を身に着けていたのは庶民ですから、洗い張りはすでに奈良時代から庶民の生活に溶け込んでいたようです。


前回引用した歌はこれでしたね。
私はここにでてくる「橡」の読みがわからなかったのでふりがなを入れませんでした。

調べているうち、二通りの答が出てきた。
①とち(栃)の木
②くぬぎ
どちらも「橡」とも書くそうだ。

万葉時代ではどちらのことを指していたのだろう?
調べているうち、決定打が見つかった。

    「紅(くれない)は 移ろふものそ
    橡(つるばみ)の
    馴れにし衣に
    なほ及(し)かめやも」
             大伴家持 万葉集


◎紅は色が変わりやすいが、橡染めは変化しにくいからこちらのほうが、まさっている。
 (これは私の解釈です。間違っているかも知れません。
 一般的に草木染は化学染料に比べ色の安定性に欠ける。

もうひとつ

    「橡(つるばみ)の 衣(きぬ)は
     人皆(ひとみな) 事無しと
    いひし時より
     着欲しく念(おも)ほゆ」
                万葉集


橡(つるばみ)= くぬぎ

クヌギはブナ科コナラ属の落葉樹のひとつ。新緑・紅葉がきれい。クヌギの語源は国木(くにき)または食之木(くのき)からという説がある。
古名はつるばみ。漢字では櫟、椚、橡などと表記する
くぬぎの葉
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くぬぎの花
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くぬぎのドングリ
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このもじゃもじゃしたのが付いてるドングリ、よく見かける。
これがクヌギのドングリだったのか~

実は爪楊枝を刺して独楽にするなど子供の玩具として利用される。
また、縄文時代の遺跡からクヌギの実が土器などともに発掘されたことから、灰汁抜きをして食べたと考えられている。
樹皮やドングリの殻は、つるばみ染めの染料として用いられる
つるばみ染めは媒染剤として鉄を加え、染め上がりは黒から紺色になる。


前稿は追加加筆しておきます。
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by jumgon | 2011-01-28 13:56 | ★言語、歴史
和裁の、縫い方のバリエーションの多さに感嘆した私だが、
それほど深く知ってるわけでもないが、簡単に紹介する。


縫い方には色々ある。

なみ縫い・合せ縫い(普通、「縫う」と言えばこの方法のこと)
布を中表や外表にして二枚以上重ねて縫い合わせる。
要するに普通の縫い方。

返し縫い
なみ縫いよりも丈夫な縫い方「本返し縫い」と「半返し縫いがあります。

二度縫い
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一度決まった縫いしろを縫い、さらにもう一度耳はしより0.3cm位入ったところを縫って
(空縫い)、縫いしろが開かないようにするこ
とをいいます。背縫いなどに使います。

あと私が最も感心したのは、くけ縫いというものだ。

きものの表面にでている縫い目からは、どこに糸が通ってるのか分かりにくい、縫い方
出来るだけ、表面には縫い目が少なく布の間を、糸が通って、時々、表、裏に縫い目が出るという、技法だ。
一本の糸だけで縫い合わせるから、
糸が引っかかったり擦れたり、ダメージを受けないようにうまく隠してあるのでしょう。

くけ方にはいろいろ種類があるようです。
「折りぐけ」「耳ぐけ」など~。
繁雑になるので詳細はさけますが折りぐけのイラストが見つかったのでお借りしてきました。。

まず、布を折りかぶせる。
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生地の裏から針を出しかぶせた布の中に針をくぐらせる。
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下の生地を掬う
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またかぶせた布の中に針をくぐらせ、下の生地」をすくう[
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◎これだと布表面には糸目が出ません。
 下の生地にも小さな糸目がつくだけです。


次に和服の合理性について書きます。

私の姑は、明治末年生まれ。
彼女が育った京都亀岡の農村地帯では、一家の主婦は家族全員の衣服をワンシーズンごとに作り直す。
そもそも和服は丸洗いはしない。ワンシーズン着たら全部ほどいてから洗い、そして縫いなおす。
◎明治期には石鹸はあったと思うけどそれ以前はどうしていたのだろう?
 なんらかの洗剤として使えるものはあったのだろうか。


http://homepage1.nifty.com/zpe60314/mukashi16.htmより
和服の手入れ法について

洗張り(あらいはり) 
古くからおこなわれてきた和服独特の洗濯方法。着物などの縫糸を仕立てのときと逆の順序でといて、
反物を裁断したときの状態にして洗濯をすることから、「解洗(ときあら)い」ともいう。和服の直線断ち、直線縫いという特徴をもっとも生かした洗濯方法である。

第2次世界大戦前までは、ほとんどの家庭でおこなわれていた。現在では、呉服屋をとおしたり、染物屋に依頼する場合が多い。
関西では、こうした取次商を「悉皆(しっかい)屋」とよんでいる。

利点と特徴
縫糸をといてからあらうため、丸洗いよりも汚れがよくおち、しみなどもとれやすい。とくに紬や絣などの織りの着物は、表と裏の色や柄が同じため、洗張りをおこなった後、
布面の傷みの少ない裏を表にしてぬいなおし、リフレッシュすることができる。
着物の寸法をあらためる場合も、洗張りしてからぬいなおす。
これらの方法によって、着物は母から子へ、子から孫へとうけつがれ、長い歳月にわたって着用されて
きた。
仕上げの方法
洗張りには、素材に応じて、さまざまな仕上げ方法がある。

板張り
一般の家庭でもっとも多くおこなわれていた方法で、下洗いの後、布を平板の上に広げて石鹸水によるブラシ洗いをする。
張板(栃の木製の一枚板)に布海苔(ふのり:海藻でつくった糊(のり))を刷毛(はけ)でひきながら、布裏を板にはる。はりおえたら板を
たてかけて、自然乾燥させる。おもに木綿や化繊など、ぬれてもあまりちぢまない布に適している。
◎海藻から糊が作れるのだ!

伸子(しんし)張り
ときはなした布を、あらかじめ端縫(はぬい:裁断前の反物の形になるようぬいあわせること)してから洗濯をおこなう。
その後、布の両端をひっぱり、伸子(竹の細棒の両端に針のついたもの)を4~5cm間隔で布の両耳にうっていく。布裏全体に布海苔を刷毛でひいて、自然乾燥させる。
縮緬や御召、大島紬など、ぬれるとちぢみやすいものに適している。

◎私は母の伸子(しんし)張りの手伝いをした覚えがある。棒の両端にぶら下がった、布は風にはためいて鯉のぼりみたいだった。
母のよほど気に入った、きものだったのだろう。
母が伸子(しんし)張りをしていたのは一回きりだったと記憶している。


伸子(しんし)張り、に使うしんし棒について、わかりやすい説明がありました。
図と説明を
三重県立博物館のページより、おかりしました。

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/176harimonoki-shinshibou.htm
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「しんし棒」は、竹ヒゴの両端に2ミリほどの針をつけたものです。これを反物の両耳(側面)に張り渡すことで布を強く張ることができます。竹の弾力を利用した方法です。また、しんし棒1箱は、300本入りが一般的だったようです。反物をおよそ12メートルと考えると、しんし棒は、4センチごとに張られていたことになります。反物の耳から耳へと張り渡されたしんし棒は、その間隔が狭ければ狭いほど布地に均質な張りを与え、縮みを少なくしてくれました。

 
『萬葉集』(巻第七)には次のような歌が収められています。
「橡(つるばみ)の 解き洗ひ衣の 怪しくも ことに着欲しき この夕かも」です。
この中の「解き洗ひ衣」は、まさに着物の洗い張りを示しているといわれています。橡で染められた着物を身に着けていたのは庶民ですから、洗い張りはすでに奈良時代から庶民の生活に溶け込んでいたようです。


◎そんなに古くから~、、、そんなのを実地に知ってる私って、いったい~? 

古くなった着物は、「洗い張り」を経て子どもの着物に作り変えられたり、また最後は“当て布”になったりと使い続けられました。何度も着物を解き、洗い、そしてまた仕立て直すという文化は、古くから代々受け継がれてきた、物を大切にする「エコ」なのです。

◎きものはそもそも
とき洗いして縫いなおすものであるから、ほどくことを前提に縫っている。
それが独特のぬいかたになっていると思う。
絹糸なんかは、特に高価なものだから弱りがなければ再利用された。
和服というのはエコで合理的な衣服なのである。
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by jumgon | 2011-01-26 13:46 | ★言語、歴史

日本の技術・縫製

前回日本の船大工・船匠の技術力に感心した。
以前から思っていたことであるが、人類の蓄積した、テクノロジーはすごいと思う。
最先端の科学技術はもちろん、三内丸山遺跡から出土している縄文ポシェット。これも古代からの人間の工夫、アイデアの結晶だとおもう。
工夫を凝らして樹木の繊維から編んだのだろう。(織ったのかもしれない)
編み物に関して言えば世界各地にはその国独特の編み方模様があり、それらも色々な人の工夫、アイデアの蓄積で素晴らしいものだと思う。

たかが女性の手芸、と思っている男性も多いだろう。

一本の糸から布を編み、立体的なものまでつくりだす。おもえば本当にすごいことである。
編み物なんかは、現在でもまだすそ野も広く、多くの人が伝承している。
だが縫製に関しては技術が継承されなくなるのではないかと思う。自分で縫うより買う方が安く、きれいにできる。需要がなくなったのだ。
しかし、縫製の基礎知識があれば修理は簡単だ。だけど技術習得の費用や時間を考えれば
修繕するより買い換えた方が早いということになる。
まだ、洋裁のほうは自己流でもなんとかこなしている人も多い。

だが和裁となるとどうだろうか?かく言うわたしも和裁ができるわけではない。

現在既製品の浴衣などは全部海発注品である。オーダーの着物ですら、海外委託品が多くなっていると聞く。
海外縫製も初めのころは日本人が指導に出かけたという。今では日本人のほとんどが和裁を知らず海外でしか技術は残らないのかもしれない。しかし和服の需要が極端に少ない以上、技術はすたれていくものかも知れない。
和裁士として生活していけないのではないか。たまにある注文では生活を支えていけない。

ところで、私は姑に二度ほどウールの単衣着物と浴衣の縫い方を教えてもらった事がある。、その時、二つの事を感じた。
一つは和服というのは何という合理的な衣服だろうということ。、
もうひとつは、和裁の縫い方のバリエーションの豊富さだ。

専門的に和裁を習う根気もないが、普段着ぐらい誰でも一度くらい縫う経験をすることで日本文化の一端を知る事が出来ると思った。

さまざまな縫い方も、時代とともに発達してきたものと思う。

縫製の歴史としては、日本書紀に記録がある。
応神(おうじん)天皇のころに、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4人の媛が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝えるために招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています


  
 「日本書紀」   
雄略14年 1月 
   身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。
   雄略14年 3月 
   臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
   衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。


◎上記の応神天皇の記事と雄略天皇14年の記事は同じことを述べているのだろうか?
 兄媛は宗像神の求めでこの地に残ったので、三輪神社に奉ったのだろうか。
 だけど、三輪神社でその祭神を祀ったところは、あったかな?
 確認しよう。


奈良県高市郡明日香村栗原
 檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 もとは、「呉原」。呉の人々が移住定住した地という意味だったようです。


 この時、呉原に移り住んだのは、織物など衣服関係の技術を持った人々だと考えられます。雄略紀の呉に関する記事は、この他にも見られ他国の先進技術を取り入れるのにかなり前向きだった、と言う事になるのかもしれませんね。
 今はなき栗原寺(呉原寺)は、その地名から呉原氏の氏寺であったと言われています。


さて私は和裁の縫い方のバリエーションに感動した。(おおげさ?)
それを今回は紹介したいと思ったがちょっと時間切れ。
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by jumgon | 2011-01-24 15:34 | ★言語、歴史