古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:★言語、歴史( 40 )

日本の船の歴史

日本の船の歴史

遣唐使船を調べるうち、日本の造船の歴史に興味が出てきた。
遣唐使船の構造で参照した
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm

を参考にかいていきます。


船舶史を調べてみたかぎりでは、我が国ではじめて竜骨をもつ船が造られたのは幕末期の頃のようである。
意外なことだが、千石船などをふくめて、それまでの和船は大型のものでも竜骨を備えもっていなかったのだ。(当然遣唐使船も)

江戸時代末期の思わぬ事件が契機となって竜骨をもつ欧米風の大型船建造技術が国内に伝承されるまで、和船の基本構造は遣唐使船の時代とほとんど変わっていなかったことになる。

1854年(安政元年)11月4日、伊豆下田一帯は、紀伊半島南端沖を震源とする大地震によって起こった大津波に襲われる。下田の町家のほぼ全戸が一瞬にして倒壊流失してしまうほどに凄まじい津波だったらしい。米国のペリーなどと同様に、幕府との開港交渉のためロシアから派遣されていたプチャーチン提督は、下田湾に停泊する軍艦ディアーナ号上にあって、たまたまこの津波に遭遇した。

◎黒船さわぎで日本が沸騰し始めるころですね。
 
津波に翻弄されて遭難、大破したディアーナ号は、プチャーチンとの交渉のために幕府の代表として下田に逗留していた幕閣、川路聖謨の気転と配慮で、修理のために西伊豆の戸田(へだ)港へと回航されることになる。
◎腐り始めた幕府にも、有能な官吏がいたのですね。
60門もの大砲を備えた2千トン級のこの大型木造帆船には約500人のロシア人が乗り組んでいたという。ディアーナ号はなんとか戸田湾沖まで回航したが、海が荒れているうえに方向舵の破損とひどい浸水のために航行がままならず、田子の浦に近い宮島村沖(現在の富士市新浜沖あたり)に流され、そこで動きがとれなくなってしまった。
  必死の救船作業もむなしく、さしものディアーナ号も沈没の危機にさらされる事態になったため、ロシア人乗組員と宮島村周辺の地元民とは、激しい風浪をついて決死の共同作業を行ない、辛うじて船と浜辺との間に救助用ロープを張ることに成功した。
そして、カッターボートやランチに分乗したプチャーチン以下約五百名の船員は、そのロープを命綱に激浪を乗り切り宮島村に無事上陸することができた。そのときに船内の貴重品や資材の一部も陸揚げされたようである。

  それから2,3日後のこと、沈没寸前のディアーナ号をなんとか戸田村まで曳航しようということになり、駿河湾周辺の漁船100隻ほどが宮村沖に集結した。蟻のように群がるそれら手漕ぎの小漁船に曳かれて、ディアーナ号は戸田港のほうへと八キロほどジリジリと移動したのだが、そこでまた突然海上に巻き起こった疾風に襲われ、ついに沈没してしまう。
それからほどなく、宮島村に上陸したロシア人たちは幕命によって戸田村へと移され、全員の帰国が実現する六ヶ月ほのどの間、彼らは村人と実りある交流を続けながら戸田の集落に滞在することになったのだった。
◎ロシアって、この事を記憶している?
 第二次世界大戦終了後も満州に侵攻して、日本人をシベリアに抑留したりして~!
 和歌山沖で遭難したトルコ船を助けたことをトルコの人はしっかり記憶して
 その後も感謝の意を表しています。

幸いなことに、遭難したディアーナ号の乗組員の中には、のちに飛行機の設計製作でもその名を知られるようになるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていた。
プチャーチンをはじめとするロシア人一行の帰国にはどうしても専用船が必要であったから、必然の成り行きとして、このモジャイスキーの設計と指導のもと、戸田の入江の一隅で八十トンほどのスクナー型帆船が建造されることになった。もちろん、そのための資材や船大工、人夫などは幕府側が提供することになったのだが、すこしも労を厭わずロシア人たちのために十分な便宜をはかり、造船作業の遂行に大きく貢献したのは、有能かつ開明的な人物として名高い、前述の幕閣、川路聖謨であった。
  新船建造にあたっては、西伊豆各地の船大工が多数召集された。船匠だけでも四十名ほど、これに幕府の諸役人や村の関係者、人夫を合わせると三百名、さらにロシア人たち五百名が加わったから、総計八百人ほどの人間がこの一大事業に従事したことになる。

プチャーチンによって「戸田号」と命名された、三本マスト、全長二十二メートルの本格的なこの洋式帆船は、三ヶ月たらずという当時としては驚異的なスピードで完成された。
この一連の作業を通して、日本の船匠たちは竜骨をもつ外洋帆船の建造技術をはじめて実地で学びとったのだった
攘夷派の中心的人物で「ロシア人を皆殺しにせよ」とまで唱えた水戸斉昭までが、最後には家臣やのちに石川島播磨重工の基礎を築いた自藩の船匠らを戸田に送り込み戸田号の建造現場を見学させたというから、相当にセンセーショナルな出来事だったのだろう。
 
単にそれが造られたというだけの話なら、戸田号が誕生する数ヶ月前に国内で二隻の大型洋式帆船の建造が行われている。大型船の必要を感じて幕府みずからが浦賀で建造した鳳凰丸と、薩摩藩が鹿児島で独自に造船した昇平丸がそれである。だが、両船ともに外国文献を頼りに見よう見真似で建造されたために両船ともに技術的欠陥が多く、昇平丸のほうなどはとくに浸水がひどくて、まったくの失敗作となってしまったという。
したがって、戸田号こそは、我が国で初の本格的な竜骨構造をもつ洋式帆船だったと言ってよい。実作業の監督にあたった七人の船大工の棟梁たちは、細大漏らさず船の製作過程の記録をとり、のちのちの洋式帆船建造に備えようと努めたらしい。

◎当時の日本人船匠は向上心があった。エライ!!現在も技術者には立派な人たちが多いようだ。
 
もっとも、戸田号の建造に臨んだ日本の船匠たちが、けっして受身いっぽうであったわけではない。全体的な船の骨格造りの段階ではロシア人技師たちの指導が大きな力となったのだが、細部の作業や表面仕上げの段階になると、手先の器用な日本の船匠たちの技術とアイディアが活かされ、その素晴らしさにロシア人たちは皆舌を巻いたという。
  面白いことに、戸田号には、日本人船匠らの意見を入れて日本式のオール、すなわち、艪が六丁ほど備えつけられていた。
プチャーチンらの乗った戸田号がカムチャッカのぺトロパブロフスク港に近づいたとき、それらの艪が思わぬ威力を発揮する。当時はクリミヤ戦争のさなかだったため、同港一帯はイギリスとフランスの艦隊によって包囲されていた。ところが、たまたまその日は稀にみるようなべた凪であったため、ロシア人たちは備えつけの艪を使い敵艦隊に発見されることなくアバチンスクの入江に逃げ込むことができたのだという。
 
わずか三ヶ月間の戸田号建造を通じてスクーナー型帆船の製作技術を習得した日本人船匠らは、ロシア人らが帰国したあとも、六隻の同型船を次々に造りだし幕府に納入する。やがて彼らやその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸をはじめとする国内各地の造船所に散り、今日に至る我が国の造船業界発展の礎を築いたのであった。
◎与えることは与えられることという見本みたいな話ですね。
  気密甲板や竜骨を備えもっていなかったことも大きな欠陥であったが、遣唐使船をはじめとする古式和船の最大の弱点はその推進力の要になる帆の構造そのものにあった。一口に言うと、ヨーロッパやアラビアの帆船が、逆風や横風でも進むことのできる揚力利用の帆の原理をすでにとりいれていたのに対し、和船の帆は順風あるはそれに近い風しか利用できない原始的な帆に過ぎなかった。いわゆる「ヨット」と「帆掛け舟」の違いである。
 
飛行機の翼の断面みたいに表側の面がふくらみ、それに比べて裏面が平らな物体の両面に沿って大気が流れると、相対的に気流の流れが遅い裏面側から気流の流れの速い表面側に向かって揚力という特別な力が働く。飛行機や羽根を広げて大空を滑空する鳥などは、この揚力のおかげで空中に浮んでいるわけだ。ヨットの三角帆(原理的には三角帆でなくてもよい)の断面はやはりいっぽう側(帆の表側)がふくらんでいるため、たとえば帆の真横から風が吹いてきた場合、同じ原理で帆裏から帆表の方向に向かって揚力が働く。この力がヨットを推し進めるわけである。
理論上は船の真横方向から風が吹いてくる場合に揚力は最大となり、状況次第では船速が風速を上回ることも可能である。
  逆風の場合でも、たとえば船の舳先を風上に対してほぼ右四十五度の方角に向け、帆の角度を風向ラインとなるべく平行になるように調整すれば、揚力が生じる。舵を巧みに調整すれば、その分力を利用して右斜め前方に進むことができる。しばらく進んだら、今度は船の向きが風上に対して左四十五度になるように舵を切り、やはり帆の角度を風向ラインと平行になるようにしてやれば、こんどは左斜め前方に進むことができる。タックと呼ばれるこの操作を繰り返せば、船はジグザグ運動をしながら風上方向へと進んでいけるのだ。

◎よく読まないとちと難しい。
  もちろん、順風の場合は風に任せて進めばよいわけであるが、この場合は揚力を利用していることにはならないから、風の速度以上には船速は上がらない。真横や前方寄りの風なら微風でも揚力のおかげでそれ相応には前進できるが、順風でも微風の場合にはヨットといえども思うようには前進できない。
  いっぽう、帆の構造上の関係で揚力を利用できない帆掛け舟の場合には、順風ないしはそれに近い後方よりの風でしか前に進めないうえに、風速以上の船速を出すことはできないから、きわめて走行能力が低くなってしまう。しかも、逆風などの場合には帆をたたむしかないわけだし、また、たとえそうしたとしても風下に流されるのを避けることはできない。
  遣唐使船は言うに及ばず、江戸時代の千石船や北前船にいたるまで、我が国の船はほとんどが船央付近に帆柱をもつ「帆掛け舟」であったから、行く先々の港で風待ちをしながら順風だけを頼りに進まざるをえなかった。したがって、このような船に乗って安全な沿岸地帯を離れ、風向きの一定しない外洋に出てしまった場合には、風浪に翻弄され、目的地に着く前に難破したり漂流したりしてしまうのがむしろ自然なことであった。
  遣唐使船の復原模型をみたかぎりでは、その帆は二枚ともに相当大きな長方形の麻布製で、帆裏には竹材や葦のようなしなやかで強靭な補強材が密に編みそえられてあったようである。
迅速に上げ下げするのが難しいこのような重たい帆だと、それでなくても高い船の重心がさらに高くなり、順風であっても強風の時などには帆柱全体に強い力が加わり不安定になってしまったに違いない。しかも、上部になるほど受ける力が小さく風向きに合わせて帆の角度を自由に変えられる三角帆や、上げ下しが容易でマストの先端に近いほど小さくなる洋式帆船の複層帆と違って、下部よりもむしろ上部のほうの幅が広い和船の帆は、力学的にみても相当に無理があった。
  たとえ同じ大きさの力であっても、帆柱の先端よりにその力が加わると、テコの原理によって支点にあたるマストの根元付近や船の本体にかかる力は大きくなる。だから、突風や強風に煽られるとマストが折れたり、船が不安定になって傾いたりすることは頻繁に起こったことだろう。
 悪名高い倭寇について述べた明時代の文献には、「倭寇の使う船は船底が平で波を切り裂いて進むことができない。その帆布は中心線が帆柱と重なるように張られており、中国船のごとく帆の端線が帆柱と重なるようには張られていないから、順風を使うことしかできない。逆風や無風の状態になると帆柱を倒して艪を使うのだが、思うようには航行できないから、倭寇の乗る船は東シナ海を渡り切るのに一ヶ月余もかかってしまう」といった意味のことが述べられている。
  ちなみに述べておくと、四角い帆の左右どちらかの端線が帆柱に重なるように張り止められ、帆のもう一端が帆柱を軸にして風向きに合わせ自由に動かせるようになっていれば、ヨットの三角帆と同じ原理で横風や逆風を利用し進むことができるわけだ。「一ヶ月余もかかってしまう」という記述は、いくらなんでもちょっと大袈裟過ぎるような気もするが、東シナ海の横断にずいぶんと時間がかかったことだけは確かだろう。
  ただ、和船にもまったく例外がなかったわけではない。華厳縁起絵巻に見る十二世紀後半頃の大陸渡航船の帆は中国風に端線が帆柱と重なるように張られているし、1604年から1635年頃まで続いた御朱印船(荒木船)は三本マストで、中国船と洋式船の折衷型の帆を備えていたようで、舳先にも小さな帆が張れるようになっていた。それらの船のの帆を巧みに使えば、進行方向の調整や逆風の利用も可能だったことだろう。
そのあと鎖国の時代に入り、外洋の航海に耐える大型船の建造が禁止されたこともあって、その種の帆は使われなくなってしまったのかもしれない。結局、和船はもとの帆掛け舟状態ににもどってしまいそれ以上発達することがなくなってしまったのだ。海洋国であるにもかかわらず外洋船が発達しなかったのは、原初的な構造の和船でもなんとか間に合う沿岸地域や中国、朝鮮との交流が主で、太平洋の彼方へとの目を向ける必要のなかった我が国の歴史的背景と地理的事情によるものだったのかもしれない。
  遣唐使船が東シナ海を渡るのに、大陸方向に向かって南東の季節風の吹き荒れる夏期を選んだのは、すでに述べたように、帆の構造上、順風に頼るしかなかったからである。南東の季節風が吹く時期は、中国大陸に近づくにつれて海が荒れてくる。当時の遣唐使船にとっては季節風のひきおこす荒波を乗り切るだけでも容易なことではなかったのに、この季節は南海で発生した台風が中国大陸よりの海上コースをとって北上する時期にも重なっていた。台風情報などしるよしもなかった当時の状況のもとでは遭難が続出するのも当然だった。
  往路も大変だったが、復路はさらに厳しかった。順風を帆にはらんで日本へと戻るには、晩秋から厳冬期にかけて大陸から吹き出す北西の季節風に乗るしかなかったが、まだ季節風が弱い晩秋の頃は台風シーズンと重なって、大荒れになることが多かった。
また日本付近が強い冬型の気圧配置に覆われる厳冬期になると、激しい北西の風に煽られ、東シナ海海は四六時中荒れに荒れた。しかも、揚子江下流域や杭州から船出して北西の風に乗った場合、順風とはいっても船は南東方向に流されることになるから、直接九州本土に着岸することは難しかった。だから、たいていの場合には、いったん奄美諸島や沖縄諸島のどこかに辿り着き、そこから天候待ちをしながら黒潮本流や対馬海流に乗って島伝いに北上、太平洋側に流されないように細心の注意を払いながら坊津あたりに着岸するという方法がとられていた。
◎鑑真来日
鑑真一行の乗った第二船は沖縄到着後黒潮に乗って無事屋久島まで北上した。だが、屋久島から坊津に向かう九十キロほどの航海中に激しい嵐に遭遇、一時は方向を失い太平洋側に流されかけたが、辛うじて遭難を免れ坊津秋目浦に着岸したのだった


南東の季節風に乗って中国に向かう往路の場合は、大陸のどこかに着くことができればなんとかなったが、復路にあっては、船体そのものが無傷であっても、太平洋のただなかへと流されてしまう前にどこかの島に到着しなければならなかった。
したがって復路の航海はいっそう困難をきわめたわけである。いったん太平洋に流れ出てしまったら、よほどの幸運にでも恵まれないかぎり生還は絶望的だった。「南島路」という言葉にはなにやらロマンの響きさえ感じられるが、実際にはその言葉は「地獄の一丁目」と同義語だったと言ってよかったろう。
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by jumgon | 2011-01-20 12:44 | ★言語、歴史

遣唐使船の構造

後期遣唐使船の構造

遣唐使がたびたび遭難にあったのはどういう理由からか?

これについては
倭と古代朝鮮との往来でルートの面から述べた。

もう一度引用します。
海事博物館ボランティアより
前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。


しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来した事も一因となり、やむなく東シナ海横断の「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。


 前期遣唐使(~669)
後期遣唐使(702~)


海難が頻発した遣唐使の派遣を巡って問題になるのは、ルートだけでなく遣唐使船の構造や航海術がどうであったのかということも考えなければならない。

調べて見ると色々な意見がある。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海であった。
この原因を航海技術が未熟であったためとする見方が主流であるが、佐伯有清は遣唐使船の大型化東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。
東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。
しかし、遣唐使は朝貢の使いであるという性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件のよくない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。

私の知識ではとても判断できないので、色々な説を紹介する。

今回は後期遣唐使船の船型構造の一端をご紹介します。先にご案内した主として「南路」で渡唐した遣唐使船を、後期遣唐使船と呼ぶことにします。

後期遣唐使船の構造概要 
遣唐使についての文献史料はかなり残されているのですが、船の船型や構造となると皆無に近いのが実情です。
しかし、船型についてこれまで多くの模型が造られ、また、推定図が描かれているので、特に後期遣唐使船については、ある程度共通イメージが出来上がっていると考えられます。同時代の絵画資料は全く無いので、復元に使われているのは時代は遥かに下がりますが、平安時代後期以降の絵画に出てくる外洋航行船です。

史料としては『 聖徳太子絵伝(1069年) 』、『 吉備大臣入唐絵詞(12世紀末) 』、『 鑑真和上東征絵伝(1298年) 』などが挙げられます。
これらに描かれているのは何れも想像図には違いないのですが、それらによると中国の伝統的帆船、いわゆるジャンク船で外航用の大型構造船であったと考えられます。
後期遣唐使船は多数の乗員、食料や飲料水、並びに朝貢品を乗せて外洋を航行するため、使用船の条件としては積載量が大きく、耐航性のある航洋船ということが第一だったと考えられます。この条件を満たすためには北路で使ったと推定される大型準構造船では間に合わず、恐らくいわゆる唐船(中国式ジャンク船)のような、本格的大型構造船であったと思われます。

鑑真和上東征絵伝
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ジャンク (船)とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジャンク(戎克、英: Junk)は、中国における船舶の様式の1つ。古くから用いられきた木造帆船だが、物資・貨客の輸送業務においては、19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した。独特のスタイルは絵画や写真の題材として好まれており、今日では観光用として用いられている。

船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られている。また、横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって突風が近づいた時などに素早く帆を下ろすことを可能にしている。この二つが大きな特徴である。河川や沿岸を航行する小型のものから、400総トン程度で耐波性に優れた大型の外洋航行用のものもある

遣唐使船の構造的欠陥/b>
について
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm
では次のように述べられている。

遣唐使船をはじめとする古式和船の
第一の欠陥は、海水を完全に遮断できる気密甲板を備えもっていなかったことである。甲板に完全な防水処理を施すだけの技術がなかったうえに、積荷の揚げ降ろしを効率よくおこなうことが優先されたから、現代の船のように船倉を気密度の高い甲板で覆うことなどはあまり考慮されていなかった


古式和船の第二の欠陥は、船底部が竜骨をもたない平底の構造になっていたことである。

竜骨とは船底部の基本骨格のことで、その構造が、太い背骨を中心に左右対称に湾曲してのびる恐竜の胸骨の造りに似ているのでその名がある。紀元前の昔から竜骨をそなえていたヨーロッパやアラビア地方の船は、船底部の断面が大きく開いたV字形をしていて浮かんだ時の重心が低く、起き上がり小法師と同じ原理で左右に傾いても復原する力が強かった。また、支柱となる太い竜骨があるために船底部の強度が大きく、激浪に対する耐久性も高かった。嵐の海で船体が激しく海面に叩きつけられたり、高波の直撃を受けたりすると瞬間的に船底や船側、甲板などが歪む。竜骨があると衝撃による歪みは少なくてすみ、その応力(外力を受けたとき物体に生じる抵抗力)によって歪みは修正復原される。


◎遭難の原因は様々考えられているのですね。

ちなみに遣唐使以前、倭寇?とか民間交流で(国なんてものがはっきりとはなかった時代)
弥代・古墳時代の朝鮮や中国への航海ルートの想像図をあげておきます。
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by jumgon | 2011-01-16 18:33 | ★言語、歴史

遣唐使が持ち帰ったもの

前回、遣唐使が持っていったもの
について述べた。
今回は、
遣唐使と共に東から来た物について
書きたいと思う。

Wikiと東野治之「遣唐使」をおもに参考にして書いています。

東野氏は、遣唐使全体を通して中国の文化受容に関して、次のように述べられています。

初期の頃は仏教の受容に重きが置かれ、次に文化全体、次第に貿易の手段として、中国側から見れば朝貢、日本側の意識としては物々交換による交易として遣唐使を考えていた。
だが、何でも取り入れたのではなく、その受容には取捨選択があった。
仏典や注釈書などは重複するものはさけ、新しいものを探して持って帰ったとみられる。
又中国で盛んだった道教は取り入れなかった。わずかに道教関係の書もあるが、それを広めようとした形跡はないそうだ。
また宦官・科挙の制度も取り入れられなかった。


遣唐使たちは書籍だけでなく、美術工芸品その他のものも持ち帰った。
それらはあちこちの寺院や正倉院に保管されている物もある。

奈良時代から平安時代にかけて、遣隋使と遣唐使が持ち帰ったものを列挙しよう。

中国原産ではなく、シルクロードから伝わったもの、
 すなわち、白菜、ピーマン、西の瓜と書くスイカなどを、 長安で種を得て日本に持ち帰り、日本に根づかせました。

楽器のルーツも、たくさんもたらされました。
横笛・宮中でも使われている笙(しょう)
正倉院にもある五弦の琵琶
螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)
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正倉院にある五絃琵琶は、聖武天皇(しょうむてんのう)の遺品(いひん)で、現在(げんざい)では世界でたったひとつしかないとても貴重(きちょう)なものです

*五弦の琵琶は、中国では滅んだ楽器で、シルクロートの天山山脈の 南の街「庫車(クチャ)」にある古代の「亀茲国(きじこく)」 の壁画からも、正倉院の琵琶と同じものが描かれていて注目されました。

サイコロ、双六、囲碁、壺の形をした陶器に
 投げる輪投げ
なども伝わりました

経典以外の書
●奈良時代には、古代中国のよい文を集めた「文選(もんぜん)」が読まれ、 仏教文化が根づいた平安時代には、中国の仏教詩人である 白楽天が愛好されました。それらも遣唐使が持ち帰ったものです。

貨幣
野菜発酵(はっこう)技術〈蘇(そ)・味噌(みそ)・しょうゆ
野菜をくさらせて、長持ちする食べ物を作る技術も、唐から日本に伝わりました。蘇はそのひとつです。
●蘇というのは、平城京(へいじょうきょう)の時代のチーズのことです。
●また、現在(げんざい)私たちが、毎日のように食べている味噌やしょうゆも、同じ時代に、唐から伝わりました。味噌もしょうゆも、大豆(だいず)をくさらせた食べ物です。
これは遣唐使(けんとうし)ではなく、唐から日本に移住(いじゅう)してきたり、日本の貴族(きぞく)に政治(せいじ)のアドバイスをするためにやってきた人が、故郷(こきょう)の味をなつかしんで作ったものではないかと考えられています。

スパイス・薬草(やくそう)〈胡椒(こしょう)・シナモンなど〉
占(うらな)い・天文学(てんもんがく)・暦法(れきほう)
また変わったところでは

小国鶏(しょうこくどり)があります。(京都検定に出題されたそうです。)
遣唐使が中国寧波府の昌国(しょうこく)より持ち帰ったとされています。
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平安時代に鳥羽僧正が描いた『鳥獣人物戯画』(高山寺)にも
小国鶏が描かれています。
天然記念物の小国鶏(しょうこく)です。
この写真は「白藤」という羽色のもので、天然記念物に指定されている貴重な日本鶏などを飼育保存している「日本鶏飼育場」からお借りしました。

小国鶏は平安時代(?)に中国から持ち込まれた鶏で、
姿が美しいことから、観賞用品種を作出するため
の交配に多く用いられた鶏種です。
◎縄文時代から鶏はいますが、小国鶏という品種はなかったのですね。

さて、うららさんの「質店オザサのブログ」⇒参考リンク<古代史ミステリー>
ではじめて読み、教えられたのが「武術と遣唐使」についてだ。

これについてはアカデミックな書物では読んだことはない。(わたしの勉強不足?)

その記事はうららさんが
http://www.sportsclick.jp/combat/01/index10.html
を参考にされて書かれたという。

初耳のことばかりで、ビックリ、ここまで気がつかなかったなあ、と感心しました。

鑑真とともに来日した僧侶は21人にのぼるが鑑真とともに最初から行動し最も信頼されていたのが弟子の思託(722~809)である。
思託鑑禎は743年台州・開元寺に入り鑑真の弟子となる。741年天台山修禅寺に留学、天台学、禅学、拳法などを修業。
 澄水流の始祖・大伴古麻呂は古代の名族としてもちろん家伝の武術をもっており、武人の家系であるから、日本へ向かう航海中も鑑真や思託らと武術談義をし、若い思託らと拳法を教えあったことであろう。


日本の歴史を格闘技から書いている。

上記の格闘技のサイトには、行基の師、道昭についても言及している。

 法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術 
●遣唐使とともに中国へ行き、仏教修行をして日本に帰国した僧侶で、武術を伝えたと思われる僧に道昭がいる。
653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。この法相宗第一伝の道昭師、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。拳法と杖術が強かったという伝説がある。
●その後、唐で学び法相宗を伝えた僧には、智通、智達が第二伝
●興福寺を中心に普及した智鳳が第三伝、
●玄ボウが第四伝だが、みな玄奘かその高弟の窺基、智周に学んでおり、その法系は達磨禅、拳法の崇山少林寺に連なっている。 
●法相宗第三伝の智鳳の高弟に岡寺の開基者である義淵(~728)がいる。
中世、槍で有名になる宝蔵院は興福寺の義淵の私坊がその始まりである。
◎「宮本武蔵とのたちあいで有名な宝蔵院です

●僧兵で名を知られるのは奈良の興福寺、比叡山延暦寺だが、僧兵とは寺院が自衛のためにおいた武器をもつ僧。平安時代中期、寺院がその荘園を貴族や武士の侵入から守るためにおいたのが始まり。
特に興福寺、延暦寺の僧兵は強力で、しばしば朝廷に押し掛けて強訴(ごうそ)を行い,寺院の要求を認めさせようとした。これらを見ても法相宗の僧侶と武術は強い関連があったことが知られる。

●さて奈良・興福寺は藤原氏の氏寺として知られるが、日本最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。
◎初耳ですけど、平心流ではそのように伝えられているのでしょうか?というより、平心流なるものの存在も知らなかった。

●奈良の岡寺には、暴れ龍を退治した義淵の伝説があるし、他には義淵が、強い法力の持ち主であったこと、人々の危機を救い、盗賊を捕らえた話なども伝えられている。

●同じ法相宗の京都・清水寺は征夷大将軍・坂上田村麿(758~811)と深い関係があると伝える。
◎杉本苑子「檀林皇后私譜」と言う小説では、当初清水は「坂上田村麿の私寺」だと書いてある。
田村麿は人生の多くを蝦夷地平定のため武人として働いてきた人である。古伝柔術の流派・観世流は流祖を坂上田村麿としている。
◎これもホントですかって、気持ちがある。私が知らないだけかな~

わたしにとって、遣唐使の留学僧が武術もならっていた、というのは、はじめて知った事柄でこれが信憑性のあるものかどうかはわからない。

文献がなく、武道流派の家伝書のたぐいから記事を書いているようだ。だがまったく可能性がないと思えないのは、興福寺や比叡山の僧兵の存在があるからだ。
僧というからには、ただの無頼の徒ではないだろう。
お経や書物、美術工芸品、医薬、音楽、物産、娯楽と幅広い東の文化を吸収、伝来したのだから武術があってもおかしくないと思うので記しておいた。

行基について
◎道昭の弟子に行基がいる。
当時の仏教は国家安泰を祈念するもので、個人の救済や魂の救いを目指したものではない。唐でも同じである。
これを考えると、道昭や行基が
「各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。」
というのは革命的な行動だと思う
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by jumgon | 2011-01-13 18:33 | ★言語、歴史

遣唐使・回数

今回は遣唐使の回数についてです。

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
•12回説:藤家禮之助
•20回説:東野治之、王勇
他に14回、15回、16回、18回説がある。

遣唐使派遣一覧
次数出発帰国使節その他の派遣者船数備考などについて書く。
備考には中国文献に見られる記事をいれた。

 舒明2年(630年)出発
    舒明4年(632年)帰国
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日

備考:唐使高表仁来日、僧旻帰国
備考:貞観五年(631年)、遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、勅旨で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史の高表仁を遣わして、節を持して行かせこれを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。
 貞観二十二年(648年)、また新羅に付いて表を奉し、以て日常の音信を通じた。(旧唐書)

白雉4年(653年)出発
    白雉5年(654年)帰国
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)・留学僧・道昭・定恵
◎定恵とは  
  
定恵(じょうえ、(643年~666年2月2日))は、飛鳥時代の学僧。定慧、貞恵とも書かれる。
  父は中臣鎌足(藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。
  出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」、弟に藤原不比等がいる。
  653年(白雉4年)5月遣唐使とともに唐へ渡る。(10歳?11歳)
  長安懐徳坊にある慧日道場に住し、
  神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。
  665年(天暦年)9月、(22,23歳頃)朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、
  同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった。
  (帰国後わずか3ヶ月)
  高句麗の僧道賢が誄(しのびごと)をつくっている。


備考:
永徽初(650年)、その王の孝德が即位、改元して白雉という。一斗升(ます)のような大きさの琥珀(こはく)、五升升のような瑪瑙(めのう)を献上した。
時に新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。幾ばくもせず孝德が死に、その子の天豊財が立った。死に、子の天智が立った。(新唐書)

翌年(651)、使者が蝦夷人とともに来朝。蝦夷もまた島の中で暮らしており、その使者は鬚の長さ四尺ばかり、箭を首の耳輪の辺りに構え、人に瓠を載せて数十歩先に立たせ、射って的中せざるはない。天智が死に、子の天武が立った。死に、子の総持が立った。(新唐書)

第2船が往途で遭難

白雉5年(654年)出発
    斉明元年(655年)帰国
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没

斉明5年(659年)出発
    斉明7年(661年)帰国
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)
伊吉博徳
第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される。

天智4年(665年)出発
    天智6年(667年)帰国
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 
唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日

天智6年(667年)出発
    天智7年(668年)帰国
(送唐客使)伊吉博徳
 唐使法聡を送る。唐には行かず?

天智8年(669年)出発
不明河内鯨(大使)  *第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
備考:
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。
(新唐書)

大宝2年出発(702年)
    慶雲元年(704年)帰国
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)山上憶良・道慈

備考: 
長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して太宝という。朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。朝臣の真人は唐の尚書のようである。進德冠を冠り、頂に華蘤四披があり、紫の袍に白絹の帯
備考:長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。
朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らす。身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていた。
真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だった。則天武后は、これを麟德殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させた。(旧唐書)

養老元年(717年)出発
    養老2年帰国(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使)
留学生:阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
井真成については藤井寺市出身の藤井氏だという説があり、藤井寺市のシュラホールには墓誌のレプリカがおいてある。
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井真成の墓誌本文の日本語訳です。

【日本語訳】
尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 <序と并せる>

公は姓は井、通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせ訪れた。

中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬとは。

開元二十二年(七三四)正月■日に官舎で亡くなった。年齢は三十六歳だった。
皇帝(玄宗)はこれを傷み、しきたりに則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせた。

その年二月四日に万年県の河の東の原に葬った。礼に基づいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。
真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、荒れはてた郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
その言葉にいうには、「死ぬことは天の常道だが、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

備考:
開元初(713年)、粟田が再び来朝、諸儒に沿った経典を拝受したいと請うた。
詔を以て四門学の助教「趙玄默」を鴻臚寺での師と為した。大きな幅広の布を謝恩の礼として献じ、あらゆる賞・物・貿・書を持って帰る。
その副の朝臣仲満は中華を慕い、帰らず、姓名を変えて朝衡という、左補闕、儀王友などを歴任して多くの知識を備え、久しく経って帰還した。聖武が死に、娘の孝明が立ち、天平勝宝と改元した。(新唐書) 
備考:
開元初(713年)、また遣使が来朝し、儒士に授経を請うた。詔を以て四門学の助教の趙玄默が鴻臚寺に就いて、これを教授した。
玄默に修学の謝礼として大きな幅布を贈り、題して「白亀元年の調布」という。人はまたその真偽を疑った。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。その偏使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)、中国の風を慕い、因って留まって去らず、姓名を朝衡と改め、左補闕、儀王友を歴任。朝衡は京師に留まること五十年、書籍を好くし、帰郷させたが、逗留して去らなかった。

天平5年(733年)出発
    天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず

   天平18年746年)
span style="color:rgb(0,0,255);">◆石上乙麻呂(大使)
 -備考:停止

天平勝宝4年(752年)出発
    天平勝宝6年(754年)帰国
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 
◎この時の遣唐使の帰国船に乗って、鑑真一行は来日を果たした。
備考:
天宝十二年(753年)、また遣使が貢献。(旧唐書)
備考:
鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
備考:
上元中(760-761年)、朝衡を抜擢して左散騎常侍、鎮南(安南)都護とした。(旧唐書)

 天平宝字3年(759年)出発
    天平宝字5年(761年)帰国
(迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成
*渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国

天平宝字5年(761年)
仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使)  
*船破損のため停止

天平宝字6年(762年)出発
-(送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山 
*唐使沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止

宝亀8年(777年)出発
    宝亀9年(778年)帰国
小野石根(持節副使)・大神末足(副使)
/佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使) 
大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。
 *第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡

宝亀10年(779年)天応元年出発
    (781年)帰国
(送唐客使)布施清直・多治比広成
備考:
建中元年(780年)、使者の真人興能が方物を献じた。真人とは、官に因って氏とする者である。興能は書を善くするが、その紙は繭に似て光沢があり、人には知られていない。(新唐書)
唐使孫興進を送る

延暦23年(804年)出発
    大同元年(806年)10月帰国
藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使)
その他派遣者:最澄・空海・橘逸勢・霊仙
備考:
貞元二十年(804年)、遣使が来朝、留学生には橘逸勢、学問僧には空海(旧唐書)
*石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
備考:
元和元年(806年)、日本国使の判官「高階」真人が上奏「前件の学生、芸業がやや成り、願わくは本国に帰らせ、すなわち臣と同じに帰ることを請う」。これに従った。(旧唐書)
備考:
貞元末(805年)、その王は桓武といい、遣使が来朝。その学子の橘免勢、仏教の空海は留学を願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来朝し、免勢らを伴って帰還することを請う、詔を以て勅許す。次に諾楽が立ち、次は嵯峨、次は浮和、次は仁明。次は文德、次は清和、次は陽成。次は光孝、光啟元年にあたる。(新唐書)

承和5年(838年)出発
    承和6年(839年)帰国
藤原常嗣(大使)/小野篁(副使)円仁

*承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
備考:
開成四年(839年)、また遣使が朝貢した(旧唐書)
備考:
仁明は開成四年(839年)にあたり、再び入朝して貢献。(新唐書)

寛平6年(894年)
菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)停止。ただし大使の任は解かれず。

•次数は20回説を採用。
•送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。
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by jumgon | 2011-01-08 19:49 | ★言語、歴史

白浜②三段壁と熊野水軍

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崎の湯から千畳敷まで歩いた。10分?とか書いてあったが結構疲れた。

千畳敷の駐車場には観光バスが3台ほど止まっていた。中国人観光客らしき人達もいる。
磐の段が高いところもあるので滑ったり、こけたりしないよう気をつけないと~。
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波で模様が描かれた岩
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岩場を登ったり下りたり。
寒さと足の疲れで、展望休憩所で海をみながらいっぷく。

今回は海を満喫できたなぁ~
さてそろそろ、出発しようかな。

道に出ると「三段壁まで950m」と書いてある。

歩いていけるね、ということで散策を続ける。

途中、○○公社保養施設、とか△△公団?保養施設とかが売却中の看板が出ている。
ハコ物いっぱい作ってもう使われなくなったようだ。
昔の無駄遣いの痕跡!!
別荘なのかペンションなのかもう使ってない空き家みたいなのがある。ここも夏以外は経営が苦しいのかな、、、。

やがて、アロエの花がいっぱい咲いているところに着く。
「アロエ公園」の看板。
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公園というほどではないけど、、、。もう少し暖かいと花の色ももっと冴えていただろうな~。

そしてすぐに三段壁につく。
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三段壁は屏風のように海に直立する高さ30~60メートルの絶壁である。かっては熊野水軍の船隠し場であった海蝕洞窟がその岩層深くに眠るところである。

そのように聞いていたので是非訪れたいと思っていた。

三段壁洞窟館内では荷物を預かってくれてたすかった。
エレベーターで地下36メートルまでおりる。8秒ぐらい。早いね!
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そこから順路にしたがって巡る。
洞窟内には歩道があり、神秘的な雰囲気である。足元が濡れているので滑らないように気をつけないといけない。
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ところどころに明かりがついている。

牟婁大辯財天(むろだいべんざいてん)
いつから祀られているのかわからないけど、洞窟内ということで神秘的な雰囲気がある。
お顔は飛鳥佛的である。
水の神様ともいわれ、また神社仏閣の守護神としても知られる。
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やがて熊野水軍の説明版がある。
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熊野水軍と源平
熊野水軍の統率者であり、熊野別当(熊野三山の統括者)の湛増(たんぞう)は、源頼朝と外戚関係にあたり、武蔵坊弁慶の父であると伝えられている。
おりしも、源平の戦いは屋島檀ノ浦での海上決戦へと展開し、湛増率いる熊野水軍の動向が勝敗の決め手を担うこととなり、源平両軍ともに因縁浅からぬ湛増は、双方から助力を乞われた。
湛増は年来、平家安穏の祈祷をしていたが、国中悉く源氏に傾いており、義経より命を受けた息子弁慶の説得もあって、悩んだ末に “所詮神力に及ぶべきにあらず。神明の冥鑑に任すべし”として、 田辺の宮(現在の闘鶏(とうけい)神社)において“赤きは平家、白きは源氏”と告げ、白い鶏七羽、赤い鶏七羽を戦わせて神意を伺うことにした。
すると、赤い鶏は一羽も勝つことなく、“この上は神慮に任せ奉らん”と、ついに湛増は源氏方につくことを決意した。
かくして、湛増は熊野三山吉野十津川、死生不知(ししょうしらず)の兵を集め、総勢二千余人、兵船二百余艘をととのえて、紀伊国田辺の湊より出陣し、湛増の指揮する熊野水軍は、若王子の御正体を捧げ持ち、金剛童子の旗を靡かせて、堂々、檀ノ浦に姿を現し、源氏を勝利へと導いた。これらの経緯は『源平盛衰記』、ならび『平家物語』に詳しい。
なお、弁慶が湛増の子であるとすることは『御伽草紙』の「橋弁慶」でも同様に伝えられているが、『熊野別当代々記』に弁慶の名は見られない。ちなみに、『義経記』巻第三では、弁慶を「熊野別当弁せうが嫡子」とし、『弁慶物語』では「弁しん」の子としている。


◎本当に運命の分かれ道で迷って自分で決することができない時は神意に頼るほか無いのですね。
  この決断で一族郎党のその後の運命が変わるのですから、、、。


洞窟内には熊野水軍番所小屋がある。資料によって、再現されたそうだ。

囲炉裏があって休憩できるようになっている。
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◎ここで出陣までの間、交代要員の海族が仮眠したり、武者震いしたりしてたのだろうか~。
進むうちに「瀬戸鉛山鉱山の跡」というのがある。
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瀬戸鉛山鉱山
この洞窟には、瀬戸鉛山鉱山の跡が残っています。
この鉱山は正親町天皇の頃と言いますから、織田信長が桶狭間で戦った頃(1560年)に鉛鉱山として開発されたようです。時は鉄砲の時代を迎えようとしていましたので、鉛の需要は急増したのでかなり活況を呈し、数10もの竪抗が掘られたといわれています。
ただ、慶長年間といいますから、1600年のはじめ頃(大阪冬の陣の頃)には、坑道が海中に達するようになり急激に衰退したと言われています。

鉱(まぶ)  穴(あな) 
当時の採掘は人力のみの時代ゆえ井戸堀式の竪穴で縄梯子を投げ込み採掘に降りて行っては葛篭(つづら)に入れて背負って登ってくるという方法であったようである。
 こうした竪穴坑が三段から平草原を経て湯崎にかけての山中に300箇所以上あったらしい。現在に至っても200数箇所は残っており土地の人々は一般に鉱穴(まぶあな)と呼んでいる。
 尚当時の古文書によると、その時々の為政者たちは採掘を督励するために鉱山関係者に種々の恩典を与えたと言う。

                      免 税 書 
一、公用の鉛一人頭250目であるが山の目方として200目に定めてつかわす。
一、田辺から山へ入る者が分を過ぎた高値を言っても一割高に申し付けることを許す。
一、この外仕事の上でことごとく相許すから堀り子達を集めて怠りなきよう精を出すこと。

                                 元和5年8月27日


16世紀末から17世紀前半にかけて浅野氏や南紀徳川氏が鉛山に注目ししばしば租税を免じて躍起となって採鉱を奨励していた。
町には租税書が今も残り温泉神社の秋の祭礼(11月2日)には(御書祭り)と云って租税書を先頭に羽織袴の長老に続き稚児行列が賑やかに進むのは、当時を偲ばれます。


洞窟内は荒々しく露出した岩肌に熊野灘から押し寄せた怒涛がぶつかり、四方に砕け散る。その音と光景は荒々しく、ダイナミックである。
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わたしはなぜか洞窟が好きなんです。
笛の音色と洞窟というのが、私にとって原始信仰の雰囲気なのです。
でもここも良い!
もうそろそろ、外の光がさして来ました。
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by jumgon | 2011-01-07 14:02 | ★言語、歴史
悲劇の皇子・有馬の皇子と白浜

和歌山県白浜を訪れた。

子供がお正月に旅行をプレゼントしてくれました。

どこが良いかと聞かれたから「海の見える所!」ということで「白浜」へ行くことにしました。
奈良や飛鳥に行くことが多いので海がみたいなぁ、と思っていました。
それに白浜は奈良時代の天皇がよく訪れた温泉があるので、ぜひ訪れたいと思っていました。

関西の人にとって南紀白浜は近いが、土地勘のない遠くの人のために地図をあげておきます。


白浜観光協会のHPより
白浜温泉は日本三古湯(白浜、有馬、道後)に、また三大温泉地に数えられるお湯処です。
また、飛鳥、奈良朝の時代から「牟婁の温湯」「紀の温湯」の名で知られ、斉明、天智、持統、文武天皇をはじめ多くの宮人たちが来泉された1350年余りの歴史を持つ由緒ある温泉観光地です。 湯崎七湯に数えられる崎の湯(露天風呂)、砿湯(牟婁の湯)は、白浜温泉の最も古い歴史を残しています。

◎この「崎の湯(露天風呂)」をぜひおとずれたいと思っていました。

白浜に到着した当日は子供につきあって「エネルギーランド」へ行ったが、若い人むき。
目のトリックを使った設備があったが、これはお付き合い。でも一つだけ写真をみてください。
目のトリックだけどカメラも錯覚するのかしら?覗き窓からみるとこんな風に見えるのです。右の人がやけに大きく見えるのです。
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宿泊のつぎの朝から白良浜を散策して、崎の湯、など露天風呂をまわって千畳敷、三段壁へ行くことにした。
温泉は宿でイヤというほど入ったのでどんなところか見て周るだけにしよう。

白良浜はさすがに名前どおりきめ細かく白く美しい砂浜だった!
伊勢志摩や日本海側の砂はこんなに白くなかったと思う。
海もペールグリーンで、全体が明るい雰囲気だ。
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白良浜からゆっくり歩いて10分ぐらいで有馬の皇子の碑がある。
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有馬の皇子について  
「有間皇子の変」を書きましょう。
有間皇子の生い立ち
 父は孝徳天皇、母は小足媛(おたらしひめ)である。父が有馬温泉で療養していたときに生まれたので、有間(有馬)と言う名になったとか???。父の孝徳天皇と斉明天皇(舒明天皇の皇后で、後に斉明天皇となる)とは姉弟の関係であった。斉明天皇の子供が中大兄皇子で、後に天皇になった天智天皇である。

父の即位
 大化の改新(645(大化1)年)があるなど政権抗争が激しいときであった。大化の改新の後、有間皇子が6歳のとき、父が即位(孝徳天皇)した。父の即位で、そのただ一人の皇子として、有間皇子に皇位継承の可能性が生まれた。

有間皇子の父・孝徳の死
 649(大化5)年3月、外祖父の死で、有力な後ろ盾を失う。その後、15歳のとき、父・孝徳が654(白雉5)年10月難波宮で崩御した。当時の皇太子は中大兄皇子であったが、孝徳の同母姉宝皇女(もと舒明天皇の皇后で中大兄らの母)が飛鳥板蓋宮で即位した(斉明天皇として)。
中大兄は皇太子に留まるが、この時ほぼ独裁的な実権を握ったと考えられている。

斉明天皇について
◎昨年牽午子塚が発掘され、斉明天皇の陵墓ではないかと騒がれました。
 斉明天皇といえば、女帝であり、飛鳥の石の文化を築いた人として今日では知られているが、当時は土木工事を次々としたため、人々は「狂(たぶ)れ心の渠(みぞ)」と反発した。孝徳天皇の死後、再び即位した斉明天皇は、次々と土木工事に励む。
「飛鳥時代といえば法隆寺を代表とする“木の文化”が主流だったが、斉明天皇の時期だけは例外的に“石の文化”だった」と言ってよい。
 その斉明天皇にとって、自分の弟の子供である有間皇子より、わが子である中大兄皇子を次の天皇にと強く思っていた。

有間皇子と白浜温泉
 父の孝徳天皇の死後、身の危険を悟った有間皇子は、精神病を装い、療養と称して牟婁の湯(和歌山県白浜温泉)へ行った。
療養から帰った有間皇子は、斉明天皇に土地を讃め病の完治を報告した。天皇はこれを聞いて喜び、紀伊国への行幸を欲した。
翌658(斉明4)年10月、天皇は牟婁の湯に行幸した。白浜では、白浜温泉を有名にした人として、有間皇子と斉明天皇の二人を白浜温泉では称えている。

天皇の牟婁の湯へ行幸と謀反
 斉明天皇は牟婁の湯に行幸のとき、有間皇子は留守官・蘇我赤兄らと共に飛鳥に留まった。
赤兄は皇子に天皇の失政を指摘し、皇子は赤兄の態度に喜んで「吾が年(19歳)始めて兵を用いるべき時なり」と言ったという。皇子は赤兄の家に行き、樓閣に登って謀議したが、その時夾膝が自然に折れ、これを不吉な前兆として謀反の中止を誓い合った。

罠にはまった有間皇子
皇子は自宅に帰ったが、夜半になって赤兄は人夫を率い、皇子の家を囲ませ、駅使を天皇のもとに派遣した。
9日、皇子は守君大石・坂合部連薬らと共に捉えられ、牟婁の湯に連行された。
皇太子中大兄は皇子に対し謀反をはかった理由を訊問し、皇子は「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず」と答えた。
11日、藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑に処せられた。 
赤兄は処罰されないで、天智天皇時代(662~671)の左大臣となった。
『日本書紀』では、この事件を赤兄の謀略として描いている。
『万葉集』では、皇子の歌をはじめとして、王位継承の渦に巻き込まれた悲劇の皇子として紹介されている。


有間皇子、自ら傷みて松が枝を結べる歌二首 
牟婁への護送の旅で詠まれたといわれています。

   磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び  真幸くあらば  また還り見む
◎海岸の松の枝に願い事を書いた紙を結び、運が良ければ帰りに見ることができよう
真幸くあらば  また還り見む、、、この歌を読んだとき皇子は19歳でした。

 家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕 旅にしあれば 椎(しい)の葉に盛る
◎我が家にいれば器に食べ物を盛るのに,今は旅に出ているので椎の葉に盛っている
単に器を使って食べていないから詠んだ歌ではないだろう。生か死かの不安な気持ちの中で,椎の葉に飯をのせているのであろう。

有馬の皇子の碑からは露天風呂・外湯、足湯などが続く。
道の途中は温泉らしい匂いとけむりがいっぱい。
途中で海の中に露天風呂が、、、!
お湯のところだけ暖かそうな湯煙がでている。
これは崎の湯か?崎の湯なら解説板と石碑があるはずだ。

とりあえず写真を一枚。
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もう少し歩くと崎の湯に到着。

今日は水曜日で定休日だとパンフレットに書いてあった。(残念!)
でも近くまで行って、温泉を覗けないかと期待した。
「入湯受付」のところはロープが張ってあってそこから中に入れない。
仕方ない。せめて案内板の写真と、観光HPからの写真を見よう。
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下は男湯、海水が入ってくるそうです!
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日本最古の湯壷と白い湯の花
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ほかにもここへ来ている人がいる。
◎今日は定休日だと書いてあるのに強引に中に入っていった。もしかして、温泉に浸かる気?

ここから千畳敷きまで歩いて15分、と書いてあるので歩くことにした。

途中赤い実がなっている木があった。
多分おがたまの木ではないかと思う。もしかしたらカラタネオガタマ(唐種招霊)かもしれない。自信がありません。
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かなりオレンジっぽい色の実がなっていました。
大木になるらしいがこの道端のは高さ2,3メートルだ。

◎どなたかこの木の名前知ってる方がいらっしゃれば教えてください。
◎追加報告  この木の名前は「トベラと判明しました。
以下のサイトで質問したら応えてくださったのです。ありがたや!!http://bbs8.as.wakwak.ne.jp/bbs.cgi?id=10170&pid=

◎せっかく「おがたまの木」のこと調べたから、このままにしときますね。<(_ _)>
おがたまの木
『宮崎あっち、こっち』というHPにおがたまの木のことが書いてありました。
http://www.kumaya.jp/atikoti44.html

西本宮境内拝殿前には招霊(おがたま)の木の大木が生えています。
芸能の神として崇められるアマノウズメは、古事記によると天香具山のヒカゲカ
ズラをたすきにして肩にかけ、天香具山のマサキカズラを丸くたばねて冠とし、
これまた天香具山の笹(ささ)の葉を手に持って、天岩戸の前で踊ったとされてい
ます。
また、他の一説によるとこのオガタマの木の実を振りながら踊ったともされ
ていて、この実の形から「神楽鈴」が作られたといいます。


◎神楽鈴はおがたまの木の実が由来?
 私はスズ鉄が由来だと想像していた。
 どちらかは当時の人に聞かないと分かりませんね。
 想像力過剰に注意!!

神楽鈴・巫女さんがもって舞ってるのを見たことがあります。
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オガタマの木は「招魂(おぎたま)」が訛ったものと言われ、神社に多く植えられお
り古来から日本民族の神木とされてきました。古くは玉串奉納にオガタマノキを
使うのが正式とされましたが、現在はサカキを使うようになっています。


さて、歩いているうちに千畳敷に着きました。

白浜 ②につづく
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by jumgon | 2011-01-06 15:45 | ★言語、歴史

日本語の数詞について

ひぃ、ふう、みぃ、よ、or いち、に、さん、し

日本の神社で、あきれるほど多いのは「恵比寿神社」「八幡神社」「稲荷神社」の系統である。
いったい何の神様か良くわからないので調べていたら、
偶然、八幡信仰についての記事を読み「ハチマンではなくヤワタ・ヤハタ」と読む、と書かれていた。

以前から気になっていた「日本の数詞」について調べた。

◎ほとんど、引用なので恐縮ですが、誰でも先達の知識があってこそ、進歩すると思っているので分かったことを書きます。

ウィキペディアより

先ず数字についての知識から

◆基数詞(きすうし)
  数詞(きすうし)とは、基数、すなわち分けて数えられるものの個数を表す数詞である。
  日本語の「いち」、「に」、「さん」は基数詞である。

◆序数詞(じょすうし)
  序数詞あるいは順序数詞(じゅんじょすうし)とは、順序数、すなわち分けて数えられるものの
  順番を表す数詞である。なお同音の助数詞と混同しないこと。
  日本語では単独で序数詞を表すものはないが、
  「第-」を漢数詞(助数詞が付く場合は、算用数字で表すこともある)の前に付けるか、
  「-目」「-位」を助数詞の後に付けて表現される。
•第二、第二回
•二番目、二回目、二個目、二人目、二日目、二位

◆反復数詞(はんぷくすうし)
  反復数詞(はんぷくすうし)とは、回数を表す数詞である。
  英語の once, twice, thrice は反復数詞である。
  日本語では基数詞と、「回」あるいは「度」を使うので、
  基数詞と区別される反復数詞はない。

◆集合数詞(しゅうごうすうし)
  集合数詞(しゅうごうすうし)とは、複数のものからなる組を表す数詞である
  日本語では基数詞と「組」とを用いて「三人組」などとするので、
  独自の集合数詞はない。
 
◆倍数詞(ばいすうし)
  倍数詞(ばいすうし)とは、何倍であるかを表す数詞である。
  英語には二系統あり、twofold, threefold などは基数詞から  
  規則的に導かれるが、double, triple などの表現は語源上はともかくとして、 
  現在の基数詞との語形の繋がりはなく独立の語である。

◆分数詞(ぶんすうし)
  分数詞(ぶんすうし)とは、分数の分母を表すのに用いる数詞である。 
  ヨーロッパの諸言語では序数詞を用いるが、補充形を用いることもある。
  英語では 1/3 は a third であり、分母は序数詞と同じであるが、
  1/2 は a half、1/4 は a quarter であり、序数詞と異なる。
  日本語、中国語などでは、基数 + 「分之(ぶんの)」 + 基数という複合語を用いるので、
  分数詞はない

◆底
  ほとんどの言語では、大きい数を表す数詞には一定の構造があり、
  数詞特有の規則に従って構成する。
  例えば日本語では、47 を表す基数詞は「よんじゅうなな」であり、
  4×10+7 を意味する。日本語の数詞は底が 10、すなわち十進法である。
  世界的には十進法が圧倒的に多いが、二十進法も世界各地で見られる。
  ニューギニア島は最も言語密度の高い地域として知られ、エスノローグには
  1071 個の言語が記されている。このため底も多様であり、
  二進法、四進法、六進法、十進法、十五進法、二十進法、二十四進法、
  六十進法が存在する。
◎10進法が当たり前だと思っていたけど、他にこんなにいっぱいあるんだ!
  9進法というのに何かの機会に触れた事はあったけど~。

*エスノローグ ( Ethnologue: Languages of the World, 民族語の意)

◆日本語の数詞
  日本語の数詞には、原日本語に由来すると考えられている固有の和語の数詞
  (ひとつ、ふたつ、みっつ、…)と、漢字とともに中国から持ち込まれ日本語化した
  漢語の数詞(いち、に、さん、…)の二つの系列の数詞が併用されている。

  本来、和語の数詞で数そのものの概念を表しているのは「ひと、ふた、み、よ、…」
  の部分であると考えられる。しかし、実際にはこの部分が単独で用いられることはなく、
  数または個数を表す場合には「-つ」などの接尾辞を伴って、
  「ひとつ、ふたつ、みつ (みっつ)、よつ (よっつ)、…」という形で用いられるか、
  具体的な接尾辞または助数詞を伴って、「ひとり、ふたり、みたり (みったり)、
  よたり (よったり)、…」、「ひともと (1 本)」、「ふたまた (2 又)」、「みとせ (3 年)」、
  「よっか (4 日)」、「やくさ (8 種)」などという形をとる。

  さらに 10 を超える数については、「とおか・あまり・みっか」 (13 日)、
  「みそとせ・あまり・ななとせ」 (37 年)、「よそじ・あまり・みっつ」 (43 個) などのように、
  桁ごとに接尾辞または助数詞を繰り返して言う方法しかなく、非常に冗長だった。
 
 
  なお「みそひともじ(三十一文字)」などの語は、このような和語系数詞本来の体系が
  崩れた後に、漢語系  数詞の体系に合わせて生じたものとされる。
  

  これに対して漢語の数詞は、「十・三」 (13)、「三十・七」 (37)、
  「二千・七百・六十・八」 (2768) などと言うように単純かつ体系的であり、
  「日」、「年」、「個」などの助数詞は末尾に1度付ければよいという合理性を持ち、
  また極小から極大まで、あるいは分数表現や割合表現、倍数表現などについても
  整然とした体系を持っている。
  このことが、現代日本語での和語系の数詞の使用が
  1~10 に限られ、11 以上はもっぱら漢語系の数詞が使用されるようになった原因と
  考えられている。

  現代日本語においては 10 以下であっても、「みたり」 (3 人) などのような表現は
  ほぼ消滅し、「ひとよ」 (1 夜) という表現も非常に古風な物言いと感じられる。
  時間あるいは期間としての 1 日を和語系数詞で「ひとひ」と呼ぶことは
  現代日本語ではほとんどなく、漢語系の「いちにち」という言い方しか行われない
  (月の第1日を「ついたち」と呼ぶのは「月立ち」の音便形である)。
  なお、4, 7 については漢語の「し」、「しち」より、和語の「よん」、「なな」を使うことが多い。

  年月日の読み上げでは、「四月」(しがつ)を除いて「四」を「よん」と発音する以外
  全ての数詞を漢数詞の読み方で発音するのが慣習であるが、
  無線などの雑音の多い環境での会話では「いち」「に」「し」「しち」などの
  発音の似ている数の混同を防ぐために、
  例えば「四月二十七日」を「よんがつふたじゅうななにち」と読み上げることもある
  (「一月」は「正月」(しょうがつ)と読む)。


◎以下は「生き物たちのエレガントな数学」の著者、上村文隆氏のHPより引用しました。
重複もありますが引用します。


日本の数学

『数詞の研究』

日本では数の読み方が二つある。[ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、とお]と、
[いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう]の読み方である。
では、何故2つあるのだろうか。

ヒント、日本語の中に漢字が入ってきているのは知っているだろう。
・・あっ、そうか。漢字を読む時 に音読みと訓読みがあるというのと同じでしょう。

では、どっちが訓読み?
・・ひ、ふ、み の方。

ピンポン。こちらの方が、旧日本式読み方。
・・ということは、いち、に、さんは音読みか。
・・ところで、ひとつ、ふたつ、みっつ、と呼ぶ方が正しいのじゃない。
「つ」は年齢を数える時に付ける調子のようなものさ。ひと、ふた、み、よ、と呼ぶのが正式かな。
10までは読めるとして、20は旧日本式読み方ではどうなるの。
・・?
ヒントだよ。20歳のことを古い言い方では?
・・はたち。

だから、20のことを「はた」という。30は「みそ」、「おおみそか」って言うだろう。
40は「よそ」、50は「いそ」、60は「むそ」、70は「ななそ」、80は「やそ」、90は「ここのそ」、
100は「もも」
・・山口百恵の「もも」か。

◎最近はミソジ(アラサー)とかヨソジ(アラフォー)とかいう言葉がはやってますね。
古語を使って、表現を和らげてるように思える。


500は「いほ」、千は「ち」、八千は「やち」、万は「よろづ」でこれ以上はない。八百万と書いて「やほよろづ」、とてもたくさんという意味だ。・・億はないの。こりゃ楽でいいや。
◎神話によく出てくる語彙ですね!

11はどう読む。
・・とおひと。
残念でした。「とを」と「ひと」余るから「とをあまりひと」つと読む。「とをまりひと」と略されていた。
百三十七は「ももちまりみそなな」。
・・へー。知らなかった。

◎たしか紀貫之の「土佐日記」のはじめにこんな文がありました。「それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時他、」

そうだね。みんなが知らないのは、この読み方が段々すたれてきたからだが、なぜ「じゅういち」という読み方の方になったのかわかるかい。
・・読み方が簡単だからじゃない。
・・十の位もそれぞれ呼び方が違うなんて、めんどくさいよ。「じゅう」さえ知っていれば「にじゅう」、「さんじゅう」、「しじゅう」と読んでいけるもんね。

12は「とをまりふた」「じゅうに」
25は「はたちまりいつ」「にじゅうご」
36は「みそあまりむつ」「さんじゅうろく」


◎「数学ウラ話」吉岡修一郎著、学生社も参考にされたそうです。

あぁ~、図書館にリクエストする本がふえた!
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by jumgon | 2010-12-29 15:07 | ★言語、歴史
遣唐使についての勉強をかねながら「天平の甍」の舞台となった
第9次遣唐使発遣について調べてみた。


以下の文は
●東野 治之著 「遣唐使船」
●http://kondoh-k.at.webry.info/200512/article_7.html
●http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-19?comment_success=2010-12-19T13:56:27&time=1292734587 

を参照しました。

◆天平4年・(732年)朝廷で第9次遣唐使発遣が議せられる。

大使  :従4位上・多治比広成
副使  :従5位下・中臣名代
判官  :4名
録事  :4名

四等官より下の構成員については『 延喜式(大蔵省式) 』に次のような人々が記されています。
*以下は正確には第9次遣唐使の内容かどうかは分かりません。

(1) 史生(ししょう、書記官)、雑使(ぞうし)、傔人(けんじん、使節の従者)
(2) 訳語(やくご、通訳)
   新羅・奄美等訳語(◎奄美の訳語も必要だったの?奄美などに漂着した場合に必要) 
   主神(神主)
   医師
   陰陽師(易占、天文観測)
   卜部(うらべ、占い師)
   射手(いて)
   音声長(おんじょうちょう、楽長)
(3) 知乗船事(ちじょうせんじ、船団管理者)
    船師(船長)
    船匠(船大工)
    柁師(かじし、操舵長)
    挟抄(かじとり、操舵手)
    水手長(かこおさ)
(4) 留学生(るがくしょう、長期留学生)
    学問僧(長期留学僧)
    請益生(しょうやくしょう、短期留学生)
    還学僧(げんがくそう、短期留学僧)
(5) 音声生(おんじょうしょう、楽師)
    玉生(ぎょくしょう、ガラス工人)
    鍛生(たんしょう、鍛冶鍛金工)
    鋳生(ちゅうしょう、鋳物師)
    細工生(さいくしょう、木工工人)
 ●これらの随行員は出発に際して、朝廷から賜物(餞別)が下賜されました。賜物は旅費等に使用され、また、唐での交易を行う時にも役立てたようです。

(注)唐政府から正式な遣唐使であることが確認されると、遣唐使一行の唐での滞在費や移動に要する旅費等の諸経費は、朝貢使待遇の一環として全て唐側で負担しました。
そのあたりの事情もあったと思われますが、遣唐使のうちで都の長安へ出向できたのは、全体の10%程度(後期遣唐使の場合で40~50名)の人数でした。
他の者は定められた別の地で、それぞれの専門分野の知識を学ぶため、それらの地で種々の研鑽に勤めたようです。


第9次遣唐使の場合(天平の甍の舞台)
   留学僧(長期留学僧)
    大安寺の僧・普照ふしょう(栄叡より2歳下)
    興福寺の僧・栄叡ようえい(30歳すぎ)

その他に「水手」「射手」の下級船員まで、総勢580余名

延喜五年(905年)に編纂された『延喜式』の賜蕃客例条(大蔵省・賜蕃客例・大唐皇)によると、

近江、丹波、播磨、安芸の四カ国に使節が派せられそれぞれ一艘ずつの大船の建造が命じられた。
4艘で出航


◆遣唐使が持参した朝貢品

延喜五年(905年)に編纂された『延喜式』の賜蕃客例条(大蔵省・賜蕃客例・大唐皇)によると

◇国信(定例の朝貢品・輸出品)
①銀・大五百両
②水織絁(みずおりあしぎぬ)・二百疋
  美濃絁(みのあしぎぬ)・二百疋
  細絁・黄絁、各三百疋
*絁(あしぎぬ)・真綿などの絹製品。
③黄糸(きのいと)・五百絇
*「黄絁」(きあしぎぬ)「黄糸」(きのいと)は、皇帝への朝貢品であることを明示する工夫。
    (中国では、皇帝の色は、黄色とされる)

④細屯綿(ほそつみのわた)

◇別貢(別送)
①綵帛(さいはく)
*綵--べつのよみかたはあしぎぬ  帛--べつの読み方は、きぬ
②畳綿二百帖、
③屯綿二百屯、、
④紵布(ちょふ)・三十端、 
  望陀布(まぐだのぬの・上総国望陀郡産の麻布)・一百端
*望陀布(もうだのぬの)は、古代において上総国望陀郡(現在の千葉県袖ヶ浦市・木更津市・君津市付近)で産出されて調として徴された麻織物(麻布)のこと。律令制においては最高級品と規定され、大嘗祭などの宮中祭祀や遣唐使の贈答品としても採用された。

⑤木綿(ゆう)一百帖、(木綿(楮や麻の繊維)
⑥出火水精、(しゅっかすいしょう)十顆
⑦瑪瑙(めのう)十顆 
⑧出火鉄 十具
⑨海石榴油(つばきあぶら)六斗 
⑩甘葛汁(あまずらのしる、植物性甘味料)・六斗 
⑪金漆(こしあぶら、防錆用樹脂液)・四斗
鉱物製品について
 出火水精 十顆
 瑪瑙   十顆
 出火鉄  十具
「出火」という語が付くのは、火打ち道具として使うから  出火鉄は、火打ち金(火打ち鎌)。
  火打ち金で、火を起こすには、よい火打ち石が要る。
  その石は、石英質のものが適している。純度の高い石英である水晶や、成分に石英を含むメノウが最適。
  火打ち金十具に対し、火打ち石として最適の出火水晶 10個、出火メノウ10個用意されている。

唐の官人は、腰の革帯に手巾(ハンカチ)や刀子、算木(さんぎ)などとともに、
火打ち道具一式を入れた袋を下げていて、それらは一種の装身具でもあった。(吉村苣子)

唐に運ばれた火打ち道具も、そのように使われたらしい。
三ツ塚古墳群(奈良県葛城市当麻町)に副葬されていた革袋は、それを偲ぶ手がかりになる。
この古墳群には、9世紀の中下級官人が葬られているが、
彼らもこうした唐風の装身具を着けていたのだろう。
火打ち金や水晶の原石も見つかっている。

*延喜式(えんぎしき)とは
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つです。
905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、927年(延長5年)に一応完成したとされています。

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by jumgon | 2010-12-27 21:24 | ★言語、歴史

出雲と大和

出雲と大和はどちらが古いか?

「砂鉄」とか「いなばの白兎」とか出雲をあつかう神話のイメージから、出雲は大和より古いと私は思い込んでいた。

真弓常忠「古代の鉄と神々」のなかにこんなくだりがある。

「出雲国造神賀詞・かむよごと」
出雲の国造が新任のとき、朝廷に出てきて出雲の神からのお祝いの言葉を述べた中に、

【すなはち大穴持の命の申したまはく、『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主の命の御魂をうなて(の神奈備)に坐せ、かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、皇孫の命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮に静まりましき。】

オオナムチの神が出雲の杵築にまつられるにあたって、自分の和魂(にぎたま)をオオモノヌシと称して三輪山に祀ったことが記されている。

神話では出雲地方は大きく取り扱われているが、出雲地方の開けたのは、
考古学の上からは5世紀代以後とみられるのに対して、
三輪周辺には3,4世紀代の古墳が存在しているから、オオナムチの神の発祥地は出雲ではなく三輪山付近で、出雲の国造となった出雲氏の本貫の地も三輪山西南の出雲という地でオオナムチの神を奉じて出雲地方に移住したとする説(田中卓氏)がある。

◎出雲の人のサイトで「大和中心の古代史から出雲へ」なんて調子のお国自慢的な記事があったが、出雲の方、これを読んで気を悪くなさらないでね。
 これはあくまで歴史を探る為だから、、、、、。こんな見解もあるということです。

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by jumgon | 2010-12-12 21:54 | ★言語、歴史

竜田川・竜田越奈良街道

あらしふく三室の山のもみぢ葉は
  竜田の川の錦なりけり     能因法師

ちはやぶる神代もきかず竜田川
   からくれないに水くくるとは  在原業平    

この歌で有名な竜田川周辺を散策したいとおもっていた。
今まで国道25号線で亀の瀬を過ぎ、王寺・三郷町辺りへ来ると何度か「⇒竜田川」の標識と川沿いの遊歩道があるのを見つけていた。
一度はここらでゆっくりしたいと思ってた。

川沿いが遊歩道になっている。竜田神社から歩いて行けるのかと思い込んでいたが、my driver は「そんなの無理だ」という。
竜田神社へ参ったあと土手づたいの道まで車で出て、駐車場はないかと探したら10台くらい停められるスペースを見つけた!

さすが紅葉の見納めの季節とあって、近所の人達や家族連れが散歩に来ていた。
といってもいわゆる観光地ではないのでゆったりと散歩できた。

斑鳩町のぺーじから
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竜田川は、古くよりもみじの名所として、平安歌人の在原業平(ありわらのなりひら)や百人一首で知られる能因法師(のういんほうし)の歌をはじめ多くの和歌に登場します。現在は県立公園として整備され、春には桜、初夏には新緑、秋には紅葉と四季のうるろいを楽しめます。


竜田川の紅葉は、第10代崇神天皇が龍田明神に行幸され、五穀豊穣を祈られ、上流より流れてきた八葉の楓葉を龍田の神さまに献上されました。
のち文武天皇が行幸のとき、紅葉を見て大変感動されたといいます。以来、竜田川は紅葉の名所として天下に知られ、紅葉といえば竜田川とまで連想されるようになりました。


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竜田川公園となっている川沿いの道を三室山の方へあるく。
途中いくつもの朱塗りの橋があり、それっぽい風情だ。
途中石や木のベンチがある。
川のせせらぎの音が心地よい。

だけど、川は「からくれないに~」というようにもみじ葉は流れていない。
そもそも「三室山」ってどの山?
わたしは「三諸山=三輪山」ではないかとおもってたのだ。あとで地図を見て間違いだとわかったけど~
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WIKIより
歴史
神武天皇は即位前に竜田山に入ったが、峻険で狭い道に行軍が難航したという。

また、履中天皇も即位前に住吉仲皇子の反乱に遭い、平群木菟に助けられ難波から竜田山を経て大和国へ入っている。『日本書紀』。

*現代には竜田山という地名は存在しないが、竜田神社、竜田川、竜田道という名は現存している。
昌泰元年(898年)には宇多上皇が吉野から摂津国に向かう途中、竜田山を越えて河内国に入ったという記録がある。扶桑略記」昌泰元年10月28日条(898年11月15日)

製鉄業
河内国古市郡の嶽山から竜田山にかけての地域は、古代に製鉄・鍛冶が盛んであった地域として知られている。

◎えっ、製鉄・鍛治?これはまた詳しく調べないと~

藤原京が置かれていた頃の交通路
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竜田越奈良街道出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/07/02 05:25 UTC 版)
竜田越奈良街道(たつたごえならかいどう)は、奈良に至る「奈良街道」の一つ。 大阪と奈良を結ぶ街道の一つであり、斑鳩町の竜田(龍田神社付近)を通る「竜田道」の一つである。 現在は国道25号が踏襲している。

龍田(三郷町の龍田大社付近)を越えることから「竜田越」とよばれるようになった。 また、大阪府内では「渋川道」ともいわれる。

・歴史
飛鳥時代に、難波津・四天王寺と斑鳩里・法隆寺を結ぶ街道として整備された。沿道にある大聖勝軍寺を含め、いずれも聖徳太子にゆかりのある地域と関わりがある。聖徳太子自身もこの街道を往復していたといわれる。

奈良時代になると、難波京と平城京を結ぶ街道として利用された。最短ルートである暗越奈良街道が急峻な山越えであるため、比較的坂の緩い平坦路として重宝された。斑鳩より東は「横大路」(北の横大路)といわれた。また、現在の大和郡山市横田付近で「下つ道」に合流した。

なお、柏原から三郷にかけては、北側の山道越え(信貴山越と一部重なる)、大和川の北岸に沿うルート(いわゆる亀の瀬越)、対岸の南側を沿うルート(現在の国道25号)など、複数のルートがある。

柏原市内で、「亀の瀬」とよばれる地域を通るが、本街道としては現在に至るまで、難所として知られた。明治時代以降に鉄道が敷設されたときに長大トンネルが掘られたが、軟弱地盤のため、崩壊して放棄された。

◎軟弱地盤のため、崩壊して放棄された長大トンネル。このトンネルが一部崩壊せずに残っているという、新聞記事があった。一年ぐらい前だったかしら~

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竜田山に関する記事を見つけました。
 ● 亀瀬山・聖徳太子が始めて河内道(亀瀬越)を開いた。
 ● 天武天皇八年(680年)に始めて竜田山に関を置いた。麓に大和川の源がある。
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by jumgon | 2010-12-07 16:04 | ★言語、歴史