古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:★言語、歴史( 40 )

倭と古代朝鮮との往来

         記紀にしるされている
      倭と朝鮮との交流記事は本当だったのだろうか?


日本列島と朝鮮との頻繁な往来が記紀で語られている。

「遣唐使の頃でさえあんなに、遭難が多かったのにもっと以前にそんなに頻繁に
    往来できたのだろうか?遭難の記事もみかけないし、、、。」


      こんな風に疑問をもったのは私だけではないと思う。

だけど現実に、日本の古い古墳からの出土品から朝鮮半島製のものが多く出土している。
記紀には神功皇后の新羅遠征、とかそれ以外にもいっぱい朝鮮半島との行き来の記録がある。
またわが国以外の記録としては、有名な好太王碑がある。(教科書にでてきますね。)

「好太王碑」
通説では以下のように解釈される。
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残(百済)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉

解釈にはいろいろ異論もあり、又一時改ざん説も取沙汰されたが、一応改ざんはなかったと、するのが学界の定説のようである。

古代交通について調べていると、とても分かり易いサイトが見つかった。

遣唐使船の記事だ。
http://kondoh-k.at.webry.info/200512/article_3.html
f0215268_1441475.jpg


海事博物館ボランティアより

前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。

しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来した事も一因となり、やむなく東シナ海横断の「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。

◎そうか、遣唐使船は後期になって、沿岸航路ではなくなったから、海難事故が多かったのか?
 ナルホド!!

このサイトには遣唐使船のもっと詳しいことが載っています。興味のある方は訪問してみてください。
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by jumgon | 2010-12-06 14:45 | ★言語、歴史

河内に陵墓がある天皇

「河内王朝」
日本古代史に「河内王朝」という言葉がある。

こんな言葉を聞くと河内に都があったように誤解してしまう。
記紀にもそんな記載はない。

一説には「天皇の皇后の実家近くに陵墓は造られる」というのがある。

私の考え
陵墓を造るには膨大な土地がいる。
(陵墓築造に必要な様々な人員、住居、食料、資材の倉庫などの確保)
だから、都の近くに古墳は造れない。


以下、河内に陵墓のある天皇の都の所在地を記す。

代数   漢名    和風諡号      都所在地      陵墓名      現在の住所14 仲哀天皇・タラシナカツヒコ・穴戸豊浦宮・筑紫橿日宮・恵我長野西陵・藤井寺市

15 応神天皇"・ホムダワケノミコト、オホトモワケノミコト"・"軽島豊明宮(現在の奈良県橿原市大軽町か)大隅宮(難波?)"・川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡・羽曳野市

16 仁徳天皇・”オホサザキノミコト”・難波高津宮・百舌鳥耳原中陵・堺区

17 履中天皇・”イザホワケ"・伊波礼若桜宮(記)、磐余稚桜宮(紀・いわれのわかざくらのみや)・百舌鳥耳原南陵・堺区

18 反正天皇・”タジヒノミズハワケ”・丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)・百舌鳥耳原北陵・堺区

19 允恭天皇・”オアサヅマワクゴノスクネ”・遠飛鳥宮(高市郡明日香村)・恵我長野北陵・藤井寺市

20 安康天皇・”アナホノミコ”・石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)・菅原伏見西陵・奈良市

21 雄略天皇・”オオハツセワカタケルノミコト"・磐余宮(紀)、泊瀬朝倉宮(記紀・はつせのあさくらのみや)、斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる・丹比高鷲原陵・羽曳野市

22 清寧天皇・”シラガタケヒロクニオシワカヤマトネコ"・伊波礼之甕栗宮(記)、磐余甕栗宮(紀・いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市が伝承地) ・河内坂門原陵・羽曳野市

23 顕宗天皇・”ヲケノスメラミコト"・近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)、明日香村八鈎、羽曳野市飛鳥の2説あり・傍丘磐坏丘南陵・奈良県香芝市

24 仁顕天皇・”オケノスメラミコト”・石上広高宮・埴生坂本陵・藤井寺市

25 武烈天皇・”オハツセワカサザキノミコト"・泊瀬列城宮(紀・はつせのなみきのみや、
奈良県桜井市出雲か・
傍丘磐坏丘北陵・奈良県香芝市
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by jumgon | 2010-11-30 19:36 | ★言語、歴史
今日新聞で、中西進の万葉キッズ塾を読んでると気になることが書いてある。

先ずその歌

泊瀬女(はつせめ)の 造る木綿(ゆう)花(はな)
み吉野の 滝(たぎ)の水沫(みなわ)に 咲きにけらずや
   

◇ 巻六の九一二番、笠金村(かさのかなむら)の歌

泊瀬の女が作る木綿垂(しで)が、吉野川の逆まく波の水の泡に、花のように咲いているではないか

◇ その解釈  
 作者は吉野川の急流を見ているうちに、ふしぎな幻想にとらわれました。
 急流の波頭(なみがしら)に木綿の花が咲いている、と。
 ところが木綿というのは、植物の繊維を細長く束(たば)ねたもので、花ではありません。いま、しめ縄に垂らす紙がありますね。あれが木綿垂(ゆうしで)のなごりです。  また泊瀬女が作る、独特な花のような木綿垂が有名だったのでしょう。
◎真っ白な繊維のたばで、花みたいに結んだのかしら? 結局作者は、急流の白い飛沫(ひまつ)を花のようだと思い、さらに神祭りの「花木綿垂」に似ていると思ったのでした。
 白い花火のような飛沫が、神聖な美しさに輝いていたのですね。
 こうした、自然の美しさを人工の物にたとえる見方も、万葉びとはすでに持っていたようです。近代になってこのような見方を「自然が芸術のまねをする」といった人がいます。
(奈良県立万葉文化館長・中西進)


ふーむ、しめ縄についてる紙の紙垂(シデ)は元は植物の繊維だったのか、、、

*万葉時代、楮の繊維で作った神祭りの幣帛のことを木綿「ゆう」といいました
。「もめん」ではありません。「もめん」が日本に伝来するのは、鎌倉時代以降のことです。

*木綿(ゆふ ゆう)は、麻や楮(こうぞ)等のさらした繊維を垂らしたもの。
(さらして、白くしたのですね!
木綿垂(ゆふしで ゆうしで)ともいわれる。
今も神道で祓の串や幣に用いられる。
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by jumgon | 2010-11-07 15:49 | ★言語、歴史

恵我という地名 ①

     先日から「ひもろぎ逍遥」(サイドバーにリンクしています)の管理人のるなさんと
      牽牛子塚(けんごしづか)古墳がある場所の昔の地名探しをしているうちに
         近所の天皇陵の地名のことが気になってきた



仲哀天皇チュウアイ恵我長野西陵・大阪府藤井寺市藤井寺・岡ミサンザイ古墳

応神天皇オウジン恵我藻伏崗陵・大阪府羽曳野市誉田・誉田御廟山古墳

允恭天皇インギョウ恵我長野北陵・・大阪府藤井寺市国府・国府市ノ山古墳

*古墳名のあとの青い文字列は現在の住所表記
古墳の陵名にえか(恵我)がでてくるのはこの三つだ。
*古代は濁音はないそうだ

エカと言う地名はいつからあったのか?  
  現在羽曳野市恵我之荘(えがのしょう)という地名があり駅名もある。
  駅の周辺は恵我之荘1丁目、二丁目、、、、、と続く。
  えが(ゑか?)の地名は確か日本書紀で出てきた記憶があるが
  どこでだかハッキリ覚えていない。
  その文を読んだとき、ああこの恵我之荘辺りに飛鳥時代にエカの市があり、
  その後平安時代に誰かの荘園に なったのかな?と勝手に解釈していた。

ちゃんと調べてみよう!
     調べてみるとでてきた。

  えかのいちとして『日本書紀』にも出てくる古くからの名称で、飛鳥時代から奈良時代にかけて栄えた。
市とは市場の市(いち)。
所在地は確定できないが、現在の大阪府藤井寺市国府の大和川と石川(餌香川)の合流点付近にあったとされる/span>
 ☆川の合流点付近一帯というのは説得力がありますね。
百科事典マイペディアの解説.
餌香の市
河内(かわち)を流れる餌香川(現在の石川)左岸にあった古代の市。所在地は確定できないが,現大阪府藤井寺市の国府(こう)とする説が有力。国府は石川の舟運のほか東西に大津道(のちの長尾街道),南北に東高野(こうや)街道が通る要所で,河内国府(国衙(こくが))が置かれていた。
*藤井寺市国府は、石器時代の遺跡で
「シュラホール」に展示してある、<けつじょうピアス>が出土した所です
   
デジタル大辞泉の解説えか‐の‐いち 〔ゑか‐〕 【×餌香の市】 より           
古代、河内(かわち)国に置かれたという市。 
現在の大阪府藤井寺市国府付近、もしくは羽曳野市古市付近が考えられる。 
          以上の記事によると、今の恵我之荘駅の至近地ではなさそうだ。
      駅名なんて鉄道敷設のときに、近辺の地名を参考にしてつけたものだと
      思われるから ちょっと離れてるけど「えが」を借りてきたのかもしれない。 
         ちなみに、恵という字をくずすと「ゑ」という変体仮名になる。
          だから、「ゑか」と発音されたと思われる。
            ゑ(ィエ)に近い発音だと、母が言ってた


結論としては
   今の「恵我之荘」と昔の「ゑか」は比較的近いとは言え、少しはなれた位置にある。
     それとも「ゑか」という地名が広範囲をさしていたのか?
  
       まだ分かりません。
     この件に関して、調べ次第また追加して行きます。

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by jumgon | 2010-09-28 13:19 | ★言語、歴史

伊勢神楽

私の婚家いったいに昔から年に一回「山本源太夫」さん一行の伊勢神楽がやってきた。主人たち兄弟は小さい頃毎年秋ごろ、獅子舞が来るのが楽しみだったという。今と違い受動的な楽しみは少ない。
テレビが普及したのも高校になってかららしい。幼児の頃は「紙芝居」「お宮さんのお祭りの屋台」が楽しみの時代である。
それが平成時代でもまわってくるのだ!「**月**日、*・時ごろ訪問します。」
      というはがきが来るのだ。
平成17年までは6~7人でやってきて、おわったらお札を貼っていってくれた。
その次の年には引越ししたから、「世の中だんだん変わっていくなあ」と思った事だろう。今でも神社にはきてるらしい。
伊勢神楽が各地をまわるのは、江戸時代くらいかららしい。そんなに古くからはなかったようだ。

宗教法人 伊勢大神楽講社のHPから

伊勢大神楽とは、獅子舞をしながら檀那場(だんなば)各戸にかつては伊勢神宮、現在では伊勢大神楽講社の神札を配布してまわる人々のことで、彼らのおこなう芸能の総称でもある。
彼らは各戸で竈祓(かまどばら)いを行う際に獅子舞を舞うが、それ以外に特定村落の鎮守社境内などで総舞と呼ばれる芸能を披露する。(北川央[大阪城天守閣研究副主幹])

宗教法人 伊勢大神楽講社

代表・山本源太夫森本忠太夫 山本勘太夫 加藤菊太夫 加藤源太夫 石川源太夫
所在地 三重県桑名市大字太夫155 増田神社
とある。
西日本を中心にまわってるらしい。
http://www.ise-daikagura.or.jp/tayuu/tayuu.htmhttp://www.ise-daikagura.or.jp/tayuu/tayuu.htm
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by jumgon | 2010-09-09 12:50 | ★言語、歴史

蛇行状鉄器

蛇行状鉄器
(ひもろぎ逍遥)というブログで蛇行状鉄器というもの存在を知った。出土数の少ない珍しいものです。
奈良近辺に出土したものがないか、、、、と思い調べて見た。
法隆寺のそばにある藤の木古墳はどうだろう?
確か聖徳太子が馬に乗っていた絵を見たことがある。
藤の木古墳からは華麗な馬具が出ているし~
でも残念!(蛇行状鉄器)は出ていない~。

だが、飛鳥寺の塔心礎の埋蔵物に蛇行状鉄器があったのだ!!だけど、あまり腐食が進み完全な形ではない。
ところが、奈良近辺に、、、
あっ、あった!!
有名な唐古鍵遺跡の近くの奈良県磯城郡田原本町大字矢部にある(団栗山古墳)からでてきたのだそうだ。かなり、よい状態で出土している。
ところが現物は東京の国立博物館にあるとのことだ。残念!!
せっかく近くだから見に行こうと思ったのに、、、、、。
仕方がない。国立博物館の情報を見てみよう。
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埼玉県で、旗を立てた馬形(うまがた)埴輪が日本でただ一点のみ見つかっている。旗を立てた馬形(うまがた)埴輪(はにわ)(酒巻14号墳)
とというのだ。だいたい上のイラストみたいな感じのはにわだ。

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この旗を立てた馬は、従来、用途が明確でなかった「蛇行状鉄器」を表現したもので、「蛇行状鉄器」の機能を示すものとして重要であり、国内では)(酒巻14号墳)のほか、出土例はない。出土した埴輪は、全体的に復元率が高く、残存状態が良好である。酒巻14号墳出土の埴輪は平成20年(2008)6月に一括して国の重要文化財に指定された。

 朝鮮半島では、高句麗(こうくり)の古墳の壁画の中に、この馬と同じ状態の絵が残されています。
 

しかし日本では、これまでその使用状態を表現したものは何もありませんでした。
 そこに出土したのがこの馬の埴輪で、日本でもこの鉄器を旗竿として使用していたことを証明する唯一のものです。  行田郷土博物館所蔵・行田市本丸17-23
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by jumgon | 2010-08-26 21:38 | ★言語、歴史

古田武彦氏のこと

今日の新聞に「古田武彦・古代史コレクション」の広告が大きく出ていた。
氏の著作は随分以前にのめりこんで読んだ時期があった。
「邪馬台国」はなかった 解読された倭人伝の謎>
<失われた九州王朝 天皇家以前の古代史>
<盗まれた神話 記・紀の秘密>
<倭人伝を徹底して読む>
などなど、、、、、。

以下広告記事より、
本書なしには、日本の古代史は語れないー
なぜ四十年間も、古田理論は学会から無視されてきたのか


だれもが、中学や高校の教科書で学んだ、聖徳太子の中国に対する対等外交を示す「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す、恙無きや」という国書を隋の煬帝に送ったといわれる、日本古代史上の有名な話。
しかし、「隋書」俀国伝には「開皇二十年、俀王あり。姓は阿毎。字は多利思北孤、阿輩雞弥と号す。使を遣わして闕に詣る。、、、、、、、王の妻は雞弥と号す。。後宮に女六,七百人有り。太子を名付けて利歌弥多弗利と為す。」とある。
開皇二十年というのは、推古天皇の年に当るのに、そこに記されていたのは、男帝なのである。
なぜ、この真実が古代史研究から消されたままなのか。その真相がこの「古田武彦・古代史コレクション」によって一挙に明らかになる。


私は氏の著作を読み、なぜ日本のアカデミックな学界がそれに反論することなく無視し続けてきたのか不思議でしようがない。これだけ、膨大な文献研究の結果を、なぜ無視するのか?反論して論破する自信がなかったのか?、、、、、、
わたしも氏の「中国文献絶対信頼」にたいして疑問を感じた部分はある。ずっと日本の後世の時代を記した部分に、天皇周辺の親族関係が誤って記載されていたように記憶する。(ハッキリと、この部分と指摘するには記憶が曖昧で説得力に欠けるが、、、、室町時代だったか、江戸時代だったか?これももう一度調べなければ、、、、)
それぐらい後世でさえ、中国文献の記事に誤りが見つかるのに、ましてや飛鳥時代の記録が絶対信頼できるものとは思えない。

だが、氏の著作に驚き、迫力のある研究に夢中になったものだ。
もう一度しっかりと読み直したい、、、と思う。興味のある方は、古田武彦で検索したら色んなサイトがでてくるから、見てくださいね!!
それから氏が親鸞、浄土真宗教団に関することに言及した文が 
http://hukohitomi.exblog.jp/
に投稿されている。参考までに、、、、。
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by jumgon | 2010-03-22 12:31 | ★言語、歴史
最近、ウグイスの声に目を覚ます。あ~、何てのどかなんだろう!
「ホーホケキョ、ホーホケキョ」、、、、、、
長い間ねどこでウグイスの声を聞く、、、、、。でも、ちょっと待てよ。確かに「ホーホケキョ」と啼いてる、、、、、ような気がするけど、よその国ではウグイスの鳴声をどのように表現してるんだろう?確か犬は日本では、「ワンワン」だけど英語では"bow-wow"というって習ったよね。
さっそく英語で調べて見たけど、どうやらウグイスの擬声はないようだ。
<<warbleという動詞があるが、これも「ホーホケキョ」イコール warble というわけではありません。少しメロディーが入ったような鳴き方の場合に warble を使います。(ウグイスなどは be warbling in a beautiful voice.、、、と表現する。>>とある。
ちなみに、すずめは朝起きて耳にする「チュンチュン」という鳴き声が chirp という擬声で表される。
擬声というのが少し興味がでてきたので調べると、こんな本が発行されている。

犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い (光文社新書) (新書)
山口 仲美 (著)

<<どうやら室町時代頃までは実際に犬は「びよ」と鳴いていた可能性があるといいます。犬が「わん」と鳴くようになるのは江戸時代から。ではこの違いはなぜ生まれたのか? 著者は人間と犬のつきあい方が変わったからだと考察していきます。>>

フーン、色々なことを研究してる人がいるものだ!!
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by jumgon | 2010-03-19 20:59 | ★言語、歴史

森 博達 先生について

森 博達 先生について、なんて書くとよほどの知り合いみたいだけど、こちらが一方的に存じ上げているだけである。京都産業大学の教授です。

古代日本語の音韻は現在と違っていて現在の「い」「う」「お」列には甲音と乙音ガある、と言う説は以前からある。「お」と「を」は発音が違う、、、というのもその痕跡だと思うけど、本を読んでも実際どのように発音されていたかと言うことはわかりにくい。(昔、母が「を」は「ゥオ」と発音するのよ、と教えてくれたけど、、、)

たとえば「み」と言う音も2種類の発音があってそれぞれ発音にあわせて合わせ、ちがう文字を使っている。
万葉時代はその区別が歴然としていたが、平安時代になると少し崩れが見られる、と言うことである。
かな習字の変体仮名でも「うめのはな」を「無(む)めの花」と表記している、(関戸本古今集)
古代には梅の花はどのような発音だったんでしょう?

さて、中国語が専門の先生が中国語の発音から、古代日本語の音を復元された、、、ということを知り是非実際に聞いてみたいと思っていた。もう20年以上前になると思うが、近所の公民館で、呼びたい講師をリクエストできる機会が会って、先生の講演会を聞くことができ、ひどく感激した。
「卑弥呼」も実際発音してくださったし源氏物語を復元音で一部読んでくださったが、録音しとけばよかったと思うほど貴重な講演でした。

本当に言葉と言うのは不思議なものですね。そういえば私が小学校のときの「あいうえおの表」には括弧して「ゑ」がまだ載っていたような気がします?(いったい何才だ?という声が聞こえてきそうですね!

森先生のお仕事はこれ以外にもイッパイあるから、興味がある方は、ネットで調べてくださいね!!
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by jumgon | 2010-02-22 16:15 | ★言語、歴史

古代日本語について

私は以前から古代史に興味を持っていて一時期色んな書物を渉猟していました。

「古代日本語の音韻について」とか「古代天皇はなぜ長寿なのか?」とか「卑弥呼の岩戸戸隠れ、を天文考古学から考える」とか、「遺跡の花粉分析から当時の植物相が推定できる、、、」とか「遺跡の虫卵の種類から当時の人が食べていた食物を推測する」とか「邪馬台国はどこか」とか、色々な説があり、こんなの探求してたらキリがない。色んな学者の説を読む頭脳も時間も足りないと思ってしばらく遠ざかっていました。なにしろ昔の話ですから諸説入り乱れ泥沼に落ちていくようでした。


最近思いついて「日本語の起源について」検索してたら、すごく研究してる人でかなりまとめていてくれてたページにたどり着いて、また勉強してみようかな、と思っています。

昨日はそう言う訳で、あちこちのサイトを読んで、インターネットってスゴイ!!とつくづく感じ入っていました。


わたしは書道で変体仮名をかじったので、 「古代日本語には、今より母音がたくさんあった。」に頷くものがありました。
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by jumgon | 2010-02-20 14:23 | ★言語、歴史