古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

カテゴリ:★寺院・神社( 8 )

伏見稲荷大社

伏見稲荷HPより
伊奈利社創祀前史

欽明天皇が即位(539または531)される前のことについて、『日本書紀』では次のように書かれています。

欽明天皇がまだご幼少の頃のある日のこと「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみました。
天皇は目覚めてから早速方々へ使者を遣わされて探し求められたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいたのです。

天皇はこれを大いに喜ばれて早速彼を宮廷に呼び寄せられ、「今までに何事かなかったか」と問われた。

彼は「別段何もありませんでしたが、伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の“おおかみ”が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その“おおかみ”は二匹とも命を全うできました」と答えました。
そこで天皇は、「夢で見たとおりの人に会えたのは、おそらく神のおかげであろう」と仰せられて、彼を厚く遇せられ、やがてにぎわいを呈するようになり、即位されると共に、彼を今でいう大蔵省の重席に任じたとあります。

稲荷大神のご鎮座は秦(はたの)伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊呂巨(具)との200年たらずの脈絡についてはほとんど不明です。
しかし不明であるから全く関連はないとは言えないでしょう。深草の里が早くから開拓されて、人の住むところであったことは深草弥生遺跡に見ることができます。

深草弥生遺跡
この付近は、弥生式文化時代の重要な遺物が出土した所である。戦前、陸軍練兵場であったこの付近は、戦後になって数度の学術調査が実施され、弥生式中期時代(今から約二千年前)の人々の生活、特に農業の様子を示す遺物が多数発見された。中でも注目されるのは木製品で、鍬(くわ)・鋤(すき)の農具、小形椀などの日用品が発見され、いずれも高い技術で加工されている。石斧などの石器、壺や甕などの土器も多数発見され、土器は形式的には滋賀県南部と共通する特長を持っている。
また、焼けた米も発見された。この付近に住んだ弥生式時代の人々は、高い技術を持って稲作の農耕生活を営んでいたことが確認される。原始時代の生活を探るための重要な遺跡である。伏見区深草西浦町 深草電話局敷地内


◎広隆寺と秦の川勝
 広隆寺の創建についても、聖徳太子ではなく秦河勝が建立したことを示す次の話が『日本書紀』に載っている。
すなわち、推古11年(603年)11月1日、太子は群臣を集めて「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏を祀るものはいないか」と訊かれた。このとき、秦河勝が進んで申し出て「臣(やつがれ)がお祀りしましょう」と言って仏像を貰い受け、蜂岡寺を造った、云々。

◎これが広隆寺の前身の蜂岡寺です。有名な弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)があります。
  広隆寺は京都市左京区太秦・東映太秦撮影所の傍です。)
f0215268_20271331.jpg


深草の地に秦氏族が住みつき、在地の小豪族として勢力を伸ばして、ついに秦大津父の輩出となりました。、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。
この「屯倉(みやけ)」とは、朝廷および皇族の直轄領のことで、その運営については、在地の豪族、深草屯倉の場合は秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。
この頃の族長は誰であったかわかりませんが、大津父から伊呂巨(具)に至るちょうど中間に相当する時期に、深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いことです。

平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録があります。これは弘仁5年(814)6月に奉られたもので、その当時近畿に住んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1,182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に編んでいます。

『新撰姓氏録』の記事は、実際にはあまりあてにならず、近年では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられています。
ともかく、雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でていた一方、大津父が大蔵省に任官されたように計数に明るかったようです。

このようにして渡来あるいは帰化氏族は、秦氏に限らず、当時の先進地域であった大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもたらし、これが後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。
例えば、記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱらこれらの氏族であったと考えられています。朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうとされています。
彼らはたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を生かした専門職の地位を与えられていたようです。

大津父の時代を下った山城国における秦氏族の本拠地は右京の太秦であるとされています。
たしかなことは不明ですが、深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を祀った秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようです

◎松尾大社は嵐山周辺にあります。

この太秦の秦氏族は、7世紀頃、今の桂川の大堰を築堤したり、奈良期から平安期にかけて、当時外戚として勢力を伸ばしてきていた藤原氏と姻戚関係を結び、長岡遷都やこれに引き続いて行われた平安遷都の際にも、河川の改修や都城の造営等で大いに影響を与えたとされています。
また一方において、山背国における古くからの由緒正しい豪族である賀茂県主族とも早くから姻戚関係を結んでおり、ついには賀茂県主の子孫を自称するようになるのです。

言うまでもなく賀茂県主族は天下の名社・賀茂社を奉祀していた名族で、新参の渡来氏族が彼と結びつくことによってその名をとり、一方賀茂氏族の側にあっては、そうなることによっておそらくは当時としては近代的な文化及び経済などの実をとったのであろうと考えられています。
◎弥代前期に、奈良県葛城郡に住みいて高鴨神社を創建した鴨族です。
あの鴨族が山城の地にひろがって住みついていました。
 


こうして
太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701)桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、

深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。

 
由来はともかくとして何でも叶える神様です。
願   意 ◆◆
商売繁昌 ・家内安全・ 交通安全 ・厄  除・ 開運招福
入試合格・ 学業成就 ・大漁満足・ 海上安全・ 良  縁
心願成就 ・初  宮 ・旅行安全 ・安  産 ・子  授
病気平癒 ・七五三詣      
上記以外の願意は「心願成就」で受付します

f0215268_22201929.jpg


あれ、ホームページには御祭神書いてあったかな?


そういえば
深草の秦氏族は、和銅4年(711)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となったのです。
とかいてあった。

稲荷神が祭神らしい、、、それと御神威赫々たる大神。

例えば地図に載っている熊鷹社には
「熊鷹大神(火焚祭11月17日)の御塚が鎮まっています。」
といった具合に各場所に○○大神が祀られているようだ。
要するに自分の願いに何でも応じてくれる神様たちなのだ。
日本国中広がっていったのがわかる。
稲荷信仰とはかいてあったけど、、、、。
[PR]
by jumgon | 2011-01-02 22:34 | ★寺院・神社

2011年京都 金閣寺

明けましておめでとうございます。
昨年はご訪問いただいて本当に有難うございました。
昨年2月にブログを開設し、私の子供・姪・友人6人位に開設を知らせました。
それから訪問してくださる方が徐々に増え、励みになり感謝しています。
今年もよろしくお願いいたします。

大晦日には日本海側各地で雪が降っているというニュース。
テレビで丁度雪の金閣寺を映している。
「明日、金閣寺へ行こう!」と決めました。

「もう雪は解けているかもしれない、」などと心配しながら出かけたけど、京都は南と北とではかなり気温が違う。
金閣寺に着いたら屋根には雪が残っている。
さすがに京都のメイン観光地だ。人がいっぱい!!

参道の樹木には雪が積もっていて、時々ドサッと落ちてくる。大阪の人間は雪が珍しいから、嬉しくなる。金閣寺には来たことはあるけど、冬に訪れたことはない。

冬の京都は風情があるように思うし、厳しい寒さの中にたつことで身も心も引き締めたいと思うが、年令とともにそんな気力、体力も失せてきている。

金閣寺は美しかった!

人がいっぱいで後戻りなんかできない混みようだけど、金色と雪の白、透明感のある池の氷の組み合わせは雪の金閣ならではの美しさだった。
足元は悪かった。着物を着てきた人もいたが裾が汚れて後始末がたいへんだろうな、と余計な心配をしてしまった。
日本人は半分もいただろうか?中国語・韓国語・ドイツ語もきこえてきた。それにインド人らしき人や東南アジア人らしき顔つきの人々も混じっていた。噂に聞いてたが中国人観光客の多さを実感した。

金閣寺についてはあまりに有名なので、詳細はさける。今回は美しさをめでることが目的だから~。

さて金閣寺のあとは目的の伏見稲荷へ。
今年の元旦は伏見稲荷へ行く予定だったのです。
伏見稲荷は神社ちかくの商店街でカレンダーをかなり安く売ってる店があります。多分お正月の間だけやっている店だと思う。
今年もその買物かねておまいりにいくつもりだった。(数字が大きくて遠くからでもよく見えるカレンダーが7つ位必要なのです。200円~1000円で売ってます。)
買物を済ませ、境内に到着したのが4時ちょっと前。

あまりの混みかたに疲れてきた。本殿の前に到着するには一時間は待たなければいけないでしょう。
連れが寒さと混雑で疲れてきたので、きょうは参道のお店・屋台で雰囲気を味わうだけにした。

去年は昼頃に着いたけど、こんなに混んでなくて境内を一通りみてまわれたのに~。

伏見稲荷は大きな立派な建物が立ち並ぶ神社です。

でも私はあまり好きにはなれないのです。
いくつもの鳥居がつずく道(千本鳥居というらしい)。あれは外国人にとっては異国情緒のある所なのでしょうが、わたしは好きになれないのです。
f0215268_20174437.jpg

あの鳥居列いったいいくつあるのでしょう?(千本?数えたことはないけど、、、)

いったん、その道にはいると横にそれることができないのです。
「往きはよいよい帰りは恐い~恐いながらにとおりゃんせ、とおりゃんせ~」
のわらべ歌を思い出してしまうのです。
何も恐いことはなかったけど、自分を縛られているみたいでイヤでした。

一応「千本鳥居」の説明。(伏見稲荷HPより

千本鳥居
「赤い鳥居」といえば、すぐさま人々は「おいなりさん」を連想するほど、赤という色が人々の心情に深く染みとおっています。

元来、稲荷の鳥居は社殿と同じく「稲荷塗」といわれ、朱をもって彩色するのが慣習となっています。
この「あけ」という言葉は、赤・明・茜など、すべてに明るい希望の気持ちをその語感にもち、その色はまた生命・大地・生産の力をもって稲荷大神の“みたま”の働きとする強烈な信仰が宿っています。

崇敬者が祈りと感謝の念を奥社参道に鳥居の奉納をもって表そうとする信仰は、すでに江戸時代に興り今日の名所「千本鳥居」を形作っています。

[PR]
by jumgon | 2011-01-02 20:38 | ★寺院・神社

龍田神社

「龍田神社」

◎田中八郎氏の本で、「竜田の神」・竜田神社と「広瀬の神・広瀬神社」が崇神天皇を悩ませたような記述がある。

●竜田は、弥生の頃の原始的な風による製鉄?(大きなタタラ場は奈良時代以降で、それ以前の風による野タタラ)をおこなう金属加工技術者がいて勢力があった。
●広瀬神社の方は「忌神」とされていた。(ナニワと大和を結ぶ水運の要の地を抑えていて勢力があった。


日本の神々・神社と聖地(谷川健一編)より・・・一部抜粋
広瀬大社
奈良盆地を潤す富雄川・佐保川・初瀬川・寺川・飛鳥川・蘇我川・葛城川・高田川の合流地点に鎮座する。
室町中期以前は盛観を窺い知る記録があるが戦国乱世においては縁起だけでも残すのがやっとであっただろう。天文14年(1546年)に社殿の復興があり、以後歴史を経、現在の春日作りの本殿は、正徳元年(1711年)に造営されたものである。(大矢良哲)


そういうわけで、この二社は以前から気になっていた。
今年さいごの紅葉を見がてら「竜田神社」にまいってきた。
有名な神社だけど、HPで調べても駐車場のことはどこにも書いてないので「車を停めるところはあるだろうか?」なんて心配しながらJR三郷町へ向かう。

駅から徒歩5分と書いてあった。
そのあたりに近づくと「七五三まいり」とかかれた旗がいっぱいはためいている。
さすがに歌にも読まれた神社だ。かなり社地は広そうである。
そして、20~30台は停めれる大きな駐車場があった。

f0215268_1621631.jpg

◎この鳥居のあし、どこかで見たことある。
 そうだ、「辛國神社の鳥居もこの形だった。(色は赤くないけど、、、)⇒★神社⇒辛国神社
 扁額には「竜田宮」とある。

境内は広く、木が多く今もなお氏子さんの多い神社だと分かる。

この神社のしめ縄はすべて「左綯え」だ

これが田中八郎氏の言うように<王朝予備軍にたいする反骨のなごり>になるのかどうか分からないけど、、、>
時代が下って天皇から武家の時代になってからは、縄文・弥生神たちも朝廷となかよくしてるようです。
大神神社だって拝殿には菊の御紋がついてますから。

WIKIより
祭神
天御柱命(あめのみはしらのみこと)・国御柱命(くにのみはしらのみこと)を祭神とし、龍田風神と総称される。同社の祝詞などでは、天御柱命は級長津彦命(しながつひこ・男神)、国御柱命は級長戸辺命(しながとべ・女神)のこととされている。

歴史
『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によれば、崇神天皇の時代、数年に渡って凶作が続き疫病が流行したため、天皇自ら天神地祇を祀って祈願したところ、夢で天御柱命・国御柱命の二柱の神を龍田山に祀れというお告げがあり、これによって創建されたという。

正史では、天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田に祀らせたとの『日本書紀』の記事が初見である。『延喜式』では名神大社に列し、二十二社の一社とされた。近代社格制度のもと、明治4年(1871年)に龍田神社として官幣大社に列した。


境内には摂社が色々あるが後の時代に勧請されたものなので省略。
八幡さまは何時から祀られているか不詳ということで、おそらくかなり古い時期から鎮座しているのではないかとおもう。
f0215268_16551971.jpg


戦争の犠牲者を祀る「忠魂碑」もあった。

◎神様というのは、人間の要望でいくらでも増える。
 単科別に、「武神を祀る神社」「目の病に効く神様・神社」「商売の神様」
 「五穀豊穣の神様」etc.....
 わたしの場合、古代史を探る目的なのであとで追加された神様はとばしていきます。

  
[PR]
by jumgon | 2010-12-06 17:50 | ★寺院・神社
吉野山は
大海人皇子(天武天皇)が近江から吉野に入り、持統天皇が何度も訪れた吉野山。
私のイメージの中ではまさに「深山幽邃の地」だ。

以前一度だけ訪れたことがある。
だがその時は桜には少し早過ぎたらしく、下界では桜は八分咲きだったのに、肝心の吉野山ではちらほら。おまけに土産物屋と人がイッパイで、こんな俗っぽいところかと、ハッキリ言ってガッカリだった。

金峯山寺の秘仏・金剛蔵王権現のご開帳が12月9日までという情報に気付き、行ってきた。
吉野は期待以上の紅葉で「来てよかった!」と嬉しくなった。

まず、後醍醐天皇を祀る吉野神社に着いたが、ここは今日の目的ではない。
車を金峯山寺の駐車場にいれる。混んではいたが、駐車待ちしなくてすんなり停められた。
多分奈良公園だったら、駐車できずにウロウロするはめになっていただろう。やはり吉野は遠い。

しばらく歩くと黒門があった。金峯山寺の総門。木造の門で、黒く塗られていることからこの名が。
f0215268_174406.jpg

次ぎは銅の鳥居(重文)
 黒門からの急坂を登りつめたところにあります。高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、すべて銅製。1348(正平3)年に高師直の兵火で焼失したあと、室町時代に再建されたものです。正しくは発心門。

次ぎは仁王門(国宝)
f0215268_17114021.jpg

そしてやっと蔵王堂
f0215268_17131489.jpg



吉野全体のイラストマップ
f0215268_16115667.jpg

先ず
金峯山寺のHPの説明から(一部改変)
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。
これが金峯山寺の開創と伝えられています。  

◎修験道ってそんなに古くはないのですね。飛鳥時代以前には遡らない。

明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。


蔵王堂は、金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。
  重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という高い評価を得ています。
  金峯山寺内では古くから、白鳳年間に、役行者(えんのぎょうじゃ)が創建されたと伝えており、また、奈良時代に、行基菩薩が改修されたとも、伝えています。
その後、蔵王堂は過去6回の焼失記録があり、現在の建物は天正20年(1592年)頃の再建。重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートルという巨大な木造の建物であり、檜皮葺の建物としては世界一の大きさを誇る第一級の国宝建造物に指定されています。

大正5年から13年にかけて、解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、屋根の桧皮の葺き替えを主として大修理を行ないました。


金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)
堂内は撮影禁止。
さすが秘仏ですね。ポスターの写真をのせます。
f0215268_16225428.jpg

    左尊(弥勒菩薩) 中尊(釈迦如来)右尊(千手観音菩薩)
スゴイ迫力です。不思議な力強さがあります。
◎現在の蔵王権現の作者はどこにも書いてないけど、いつ造られたかはパンフレットに書いてありました。

パンフより
秘仏・金剛蔵王権現は、天正20年(1592)の蔵王堂再建以来、蔵王堂(国宝)のご本尊として四百数十年にわたり鎮座されている日本最大の秘仏です。


金剛蔵王権現の説明
これまで、4年1回の密教儀式「伝法潅頂会(でんぽうかんじょうえ)」以外に、私たちの目に触れることはほとんどありません。
造立開眼以来大地を高く蹴り上げ、逆立ち乱れる頭髪。口の両端から刃のように突き出す牙。3尊の全身は、ことごとく悪魔を払う忿怒の形相を現されていますが、それは、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩を本来のお姿とする変化身です。
三尊は、それぞれ過去、現在、未来を表し、三世にわたって私たちを守ってくださる守護仏でもあります。役行者が汚濁に満ちた世の中に救済を求める苦行の中で、強い祈念によって祈り出された権現様を心静に拝めば、すべてを認め、一切をゆるす「恕(じょ)の心」を感じ取ることができます。
 金剛蔵王権現の右手にある三鈷は天魔を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿を現されています。
さらに、背後の火炎は偉大なる智慧、御身の青黒色は深い慈悲を現しています。
まさに、大自然の霊威そのものの発現とも思われる金剛蔵王権現は、神であり、仏として、神仏混淆を旨とする修験道のご本尊として祀られています。3体の総高は、釈迦如来(中央)7.3メートル、弥勒菩薩(向かって左)5.9メートル、千手観音(右)6.1メートル。重要文化財に指定されている日本最大秘仏です。

確かに「大自然の霊威」を感じさせる姿だ。
蔵王権現の彫刻的価値はどうかわたしにはわかりませんが、写真でみるより、はるかに迫力があります。

映画をテレビで見るより、映画館の大画面で見る方が迫力があるのとおなじかな?
こんなこと言ったらお叱りを受けるかもしれないですね。

この蔵王権現で私が一番気になったこと。
それは、権現様の胸飾りに鈴が使われていたことです。

瓔珞というものでしょうか。今まで見た仏像では透かし彫りの平たい金具のアクセサリーだった。
f0215268_17301046.jpg

古代鉄のスズ鉄を表現したものではないかと思ってしまう!
戦国時代の末期、真田昌幸や幸村が徳川軍を迎え撃って2度も戦った信州上田城。、この上田の銘菓に【みすず飴】がある。
f0215268_17411844.jpg

この飴の名前は、信濃の枕詞『みすずかる信濃』から命名されている。
ここでいう『みすず』とは何かであるが、
すずとは褐鉄鉱が葦や茅の根元に付着している様子を示しているのです。
吉野は中央構造線上にある。
多分鉱物がよく採れるところだと思う。

蔵王堂内の柱がとても特徴がある。
きれいに削った柱でなく、伐採した木を樹肌そのまま、ゆがみそのまま使っているのだ。
勿論枝は払ってある。径40~50センチの大きな柱。ゆがんだり、でこぼこそのままの柱は森の中の原始的な生命を感じさせる。
つつじの木で出来た柱もあったが、つつじって、こんなに大きくなるんだろうか?
大抵は庭園で見るから、柱に出来るほどの大木に育つとは思わなかった。
梨の木の柱もあった。

蔵王堂を出て如意輪寺までミニハイキング。
途中の道では植物より、石を観察しながら歩く。でも鉱石の知識などゼロだから、大して意味はない。
だけど、石とか磐とかにも色々な表情があるのが分かった。

それにしても吉野山の紅葉はすばらしい。
携帯の写真なのでぼんやりしています。スミマセン。
f0215268_1610458.jpg


f0215268_1651671.jpg

向こうに見えるのは、金輪王寺・吉野朝皇居跡
後醍醐天皇が蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改めた。後醍醐天皇は悲運の生涯をここで閉じられましたが、その後、南朝3代の歴史が続きます。

吉野の歴史
興味のあるとこだけWIKIより抜粋
先史 吉野地方における先史を述べる。
吉野川流域からは、縄文時代から弥生時代にかけての土器や遺跡が発掘されており、この時代から人々が居住していた。現在のところ一番上流で発見されている遺跡は川上村の宮の平遺跡である。
五條市:南阿田大塚山古墳
下市町:岡峰古墳

古代
吉野という地名が、最初に史書に現れるのは、「古事記」「日本書紀」の神武東征の記事で、熊野国から大和国に入る通過地として記載されている。元より半神話の世界なので、正確な比定は困難であるが、少なくとも吉野川流域が想定される。 古事記では「吉野河の河尻」「吉野の首等(おびとら)の祖(おや)」「吉野の国巣(くづ)の祖(おや)」が登場する。

また日本書紀などの史書によれば、歴代の天皇や貴族が吉野を訪れており、この当時の吉野は、遊興の地となっていた。
以下に吉野を訪れた天皇・貴族を列記する。

応神天皇 -
吉野の宮へ行幸。この時、国巣の人々が酒を天皇に贈り、歌舞を見せた。また応神天皇の行幸は日本書紀における「吉野の宮」の初見になる。(日本書紀巻第十〇 応神天皇一九年冬十月)
雄略天皇
吉野の宮へ行幸し狩りを楽しんだ。(日本書紀巻第十四 雄略天皇二年冬十月)
斉明天皇
斉明天皇2年(656年)に離宮として吉野の宮を作った。
古人大兄皇子
大化の改新後に吉野へ隠棲するが、吉備笠垂の密告により殺害された。
大海人皇子(後の天武天皇)
吉野の宮へ隠棲する。天智天皇が崩御ののちに、この地から挙兵する(壬申の乱)。(日本書紀巻第廿八)
また天武天皇となったあとの天武天皇8年(679年)にも吉野へ行幸し、皇后の鸕野讚良皇女との間にもうけた草壁皇子が次期天皇であると宣言し後継者で争わないことを誓わせた(吉野の盟約)。(日本書紀巻第廿九)
持統天皇(鸕野讚良皇女)
頻繁に吉野の宮へ行幸している。その数は禅位後の1回を含めて32回に及ぶ。(日本書紀巻第卅〇)
文武天皇 -
吉野へ行幸した時の歌を詠んでいる。
「み吉野の 山の嵐の 寒けくに はたや今夜も 我が独り寝む」(万葉集1-74)

[PR]
by jumgon | 2010-11-29 18:08 | ★寺院・神社

辛國神社 ①

「大阪みどりの百選」に選ばれた辛國神社
f0215268_2146218.jpg


家から駅へ向かうとき、藤井寺南門に向かう道を通ります。
藤本酒造の白壁塀は最近補修して美しくなり趣のある道だ。葛井寺につき当るので左へ行くとすぐ辛國神社です。
藤井寺市藤井寺に鎮座する「辛国神社」
葛井寺の西に対をなすように鎮座している。
旧郡村字名 丹南郡岡村字春日山
神社専用駐車場 無し
延喜式内社
東向き

神社のその深い緑が日常生活にうるおいを与えてくれています。
f0215268_19305471.jpg

今日はじっくりと境内をみてみましょう。
御神燈の上がっている入り口の3段くらいの階段をのぼってすぐに、鳥居の基壇らしきものが左右に一対ありました。多分昔の鳥居はここに立っていたのでしょう。
f0215268_18224181.jpg

5~6メートルほど進むと木製の鳥居があります。
ここの鳥居は足の両横に足がそれぞれ付いていて、立派です。台風なんかで被害にあわないようにこうしたのかな?と思っていました。
f0215268_19425222.jpg

柱が一部補修されていてその部分は新しい木の色をしています。よく見ると今の鳥居の少し横に丸い石の基壇みたいなのがあります。
多分この鳥居がたてられる前は、石製かそれとも基壇だけ石製だったのか?
f0215268_21493029.jpg


木漏れ日がなんともいえず心地よい。
f0215268_19484577.jpg

10~15mほど進むと、やや小さめの石の鳥居がある。
f0215268_19535455.jpg

二ノ鳥居はもと葛井寺の境内に鎮座していた「長野神社」の鳥居
明治41年辛国神社に合祀された。
「元禄十七年、牛頭天王」の銘が彫られている。(これは延喜式内社を見て歩いた人のホームページに書いてあった。
でも私が今日見た鳥居の足には「長野神社 明治27年9月再建」もう一方の足には「長野神社」と彫られていた。???
どうなってるの?
まさか「延喜式内社を見て歩いた人のホームページ」を明治27年以前に作成したっていうの?それだったら、
「元禄十七年、牛頭天王」の銘を見たかもしれないけど、、、、、、。
(宮司さんにきけばはっきりわかるとはおもうけど、、、)

神社というのは参道が大事だとつくづく思う。

たいして大きな神社でないのに、奥行きを感じさせる社だ。

参道を進むうちに、敬虔な気持ちを盛り上げてくれる。

進むうちに、「御由緒」を書いた立て札がある。
f0215268_2016388.jpg

御由緒
当社は今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社となり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。
日本書記には「雄略十三年春三月、餌香長野邑を物部目大連に賜う」とありますが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われます。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ辛國神社と称するようになりました
三代実録には、清和天皇「貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る」とあります。
元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われます。
室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神、天児屋根命を合祀したと伝えられています。
明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っています。


御祭神
主神 饒速日命(にぎはやひのみこと・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神)  
    天児屋根命(あめのこやねのみこと・藤原氏の祖神)
    素盞鳴命(すさのおのみこと)・・・天照大神の弟神
相殿 品陀別命(ほんだわけのみこと)
    市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
末社
    春日稲荷神社(宇迦之御魂大神)
    春日天満宮
物部目大連の祖神は「ニギハヤヒ」です。
長野神社について
祈年祭に鍬が加えられた古社で格式があった。
「もと葛井寺の南西隅に在ったが明治41年、辛国神社へ合祀された。
祭神は、素戔鳴命
葛井氏は5世紀頃百済から渡来した百済十六代辰斯王の王子辰孫王の後裔で、長野連も同じ系譜の氏族と考えられている。
この辺りは志紀郡長野郷と呼ばれたので、氏族名と地名から長野神社と称し、長野連の祖を祀ったものであろう。」
辛国神社が゙在る地名が変わっていってる。
餌香長野邑→河内国志紀郡→たびたびの市町村合併の後→藤井寺市藤井寺1丁目
地名の事はまた他の機会に詳細に調べよう。

いよいよ拝殿です。
f0215268_21411842.jpg

そして、拝殿右横を裏手に進むと本殿が木間からみえる。
f0215268_21555952.jpg

鰹木のあがった立派な社です。
[PR]
by jumgon | 2010-10-12 22:00 | ★寺院・神社

志貴県主神社


先日、国府遺跡を訪ねたが、そこから5分も歩かない所に鎮座する志貴県主神社
がある。
その辺りは古い家がまだたくさん残っており農村地帯だったと思われるが、今は畑はすこし残っているだけで、新しい住宅が今も次々建てられている。
f0215268_19481457.jpg

もうすぐ、秋祭りと言うことで御神燈があがっている。

祭  神:神八井耳命 天照大神 天児根屋命 比咩大神 武甕槌命 
       経津主命 表筒男命 中筒男命 底筒男命 神功皇后

  
説  明:境内案内板によりますと、
      「この神社は、河内古市から国府に至る南北約五キロに亘って連
       なる洪積層の国府古市台地の北端に鎮座する、延喜式内社(延
       喜式に記されている古社)である。
       祭神は神武天皇の長子と伝えられる、神八井耳命。綏靖天皇の
       兄に当る。

       主神として天照大神。春日大神の武甕槌命・天児屋根命・比咩
       大神・経津主命。
       表筒男命・中筒男命・底筒男命のいわゆる住吉三神と神功皇后
       の各神を合祀されている。河内では最も由緒ある神社である。


       
大和時代初期のころ柏原附近から道明寺付近にかけての肥沃な水田地帯は大和朝廷直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武天皇の長子、神八井耳命を始祖と奉る志貴県主及びその同族である志貴首らであった。
これらの豪族の本拠地に祖神を祀り氏神として創建されたのがこの神社であったと考えられる。
       
三代実録の、清和天皇の貞観四年(西暦862年)二月の記録によると、「河内国志紀郡人、外従五位下、行木工助(木工寮の次官)兼右 大臣(藤原基経)家令支配人、志貴県主福依ら三人、姓として宿祢を賜い、即ち本居(本籍地)を改め左京職(平安京の左京)に隷す。
志貴県主は神八井耳命の後(子孫)多朝臣と同じ祖なり。」
という内容が記されており、平安初期の862年二月に本籍を
志貴郡から平安京の左京郡者に移したことが判るのである。
「その後、村上天皇の天暦年間(950年ごろ)諸国の所経費を節減するために設けられた惣社の制により、各国々の国府(国を治める役所)から最寄の有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一ヶ所に集めて祭祀されることになった為、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称されることになり、近隣の集落を惣社と称するようになった」

とあります。
  住  所:藤井寺市惣社1-6-23
  *惣社は総社と同じ。
志貴県主は「古事記」雄略天皇に<志幾の大県主の家>の段にも登場する。
つぎの機会にそのお話しを、勉強したいと思います。
[PR]
by jumgon | 2010-10-03 20:31 | ★寺院・神社

飛鳥寺

久しぶりに飛鳥寺を訪れた。
万葉歴史文化館に車を置いて(何と、今年の9月2日から駐車料無料になった!)のどかな路を少し歩くともう飛鳥寺。
f0215268_17412390.jpg


f0215268_20384277.jpg
境内といっても今は狭いが、塔のあった位置を確認する。

さすがにこの暑さで少し不安になったが大仏の住んでるお堂に行くと
「冷房してます」という入り口の張り紙で、ひと安心。
中で、説明をしてくれる人(僧?)が居た。
「飛鳥寺の伽藍配置は、高句麗式で、中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式と呼ばれる特異な配置の伽藍だった。」
「ここにいらっしゃるのは釈迦如来で、1400年間ここから一度も動かれたことはありません。」>「当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみになっています。」

「どこでそれが分かりますか?」と尋ねたら「横下の方に臍穴があるでしょう。」
ウンウン、確かにある。この穴だけで両脇時があったことが分かるのですね!
f0215268_18555884.jpg

色々説明をしてくれたけど、私にとって嬉しい発見を書こう。
まず、これをみて欲しい。
「仏の32相」という説明の為の札みたいなのを見せてもらった。
32相」、なのに四つしか書いてない。
f0215268_17511848.jpg

驚いたことに「眼}が紺青色だというのだ!
もちろん出来上がった当時は金箔が全身に貼られていた。
     金色の顔に青い眼
かなりの迫力だ。
後で調べて分かったことだが、仏像、仏画は32相に従って造られているという。
でも、仏像はたいてい下むいてるし、古いのは色がもう残ってないし、、、。
   知らなかったわ~
「眉間白毫相」「頂上肉髻相(ちょうじょうにっけいそう)」、、、これは分かる。
「手足縵網相」???
f0215268_185782.jpg

親指と人差し指との間が鳥の水かきみたいに膜がある、ということなんだそうだ。

さて、仏像の前のひな壇に「仏舎利容器」が置いてある。
f0215268_1857593.jpg

「レプリカなんでしょうね。」と尋ねたら、「いいえ、発掘当初のものです。」とおっしゃる。
「えっ、飛鳥時代のものにしては綺麗すぎるんじゃない?」と思ったけど、お寺の人がおっしゃるのを信用するしかない。
後で調べたら
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建てた」とある。

なお昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。
飛鳥寺の塔は1196年(建久7)に焼失し、合利は、翌年いったん掘り出された。そして新しく作った舎利容器を、木箱にいれて、心礎の上方2mのところに埋めた。
木箱の側面には、建久7年に塔が焼けたことが記してある。b>
ということだ。
1196年に新しく造った「舎利容器」
なんだ!

そして、後の発掘調査のときに出てきたものなんだ。
(発掘当初のもの、というのは嘘ではなかった!)/b>
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

593年(推古天皇元牛)、蘇我馬子は飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を立てた。
その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。

玉類や、蛇状鉄器が埋められていたらしい。実物は飛鳥資料館に展示されてるようだ

堂をでて少しのところに
「入鹿の首塚」がある。
f0215268_18543454.jpg

ここが昔、古代日本の首都だったことがあるなんて信じられないのどかさだ。
[PR]
by jumgon | 2010-09-14 18:59 | ★寺院・神社

売太神社

8月15日、稗田阿礼を祀る売太神社を訪問。
f0215268_1122319.jpg


f0215268_11513811.jpg
「阿礼祭」の前日に訪れたのは正解だった。駐車場が2,3台分しかないから16日に来てたら車を止められないところだった。

勿論ご存知ですよね!
「稗田阿礼」って!

稗田阿礼の暗誦したものを、太安万侶が筆録したのが「古事記」なんです。

でも、よく知らない人も結構いるみたいだから紹介します。古事記の序文に書かれています。

古事記の上巻には序文が付加されており、標題として「古事記上巻并序」と記されている。「并序」の読み方は「序(じょ)を并(なら)ぶ」「并(なら)びに序(じょ)」「序(じょ)を并(あは)せたり」等様々であるが、意味はどれも同じである。
 序文は編者の太安萬侶(おほのやすまろ)から第43代元明(げんめい)天皇への上奏文(じょうそうぶん)という体裁(ていさい)をとっており、本文とは異なりすべて漢文体で書かれている。そのため古代中国の典籍(てんせき)(文献)に拠(よ)る難しい語句等が多用されているが、解説すると餘計に難しくなるため、ここでは現代語訳においてなるべく簡単に読めるように配慮(はいりょ)した。
 この序文には、古事記本文の大まかな流れや古事記編纂の経緯(けいい)が記されているが、それによると、
第40代天武(てんむ)天皇が古事記編纂を企画し、舎人(とねり)(雑用係)であった稗田阿禮(ひえだのあれ)が『帝紀(ていき)』『旧辞(きゅうじ)』といった古伝承を暗誦(あんしょう)し、それを太安萬侶(おほのやすまろ)が筆録して、元明(げんめい)天皇の御世(みよ)(712年)に完成・献上されたものであるという。

稗田の地は太古より天宇受売命を太祖とする猿女君(さるめのきみ)(稗田氏)が居住していた。この稗田は環濠集落として有名であり、古の大族であった稗田の猿女の君の邸宅の跡と言われる。売太神社はその祖先の廟祠とおもわれる。

社名も「三社明神」→「十三社明神」(明治7)→「売田神社」(明治24)→「売大神社」(昭和17=田を売るを嫌ったため)と変遷しており、中世は祭神不詳であった。
阿礼祭(8月16日)は、昭和5年8月16日に、奈良県童話連盟が発起し、巌谷小波・久留島武彦・岸邊福雄をはじめ全国の董話家が参集し、お話の神としておまつりをしたのに始まる。

わたしはあちこち歴史の道を散歩して「環濠集落」と記されたところをいくつか行ったが、「環濠ってなあに?」と言いたくなるほど、、、堀なんて残ってなかった。(私が気づかなかっただけ?)
稗田は環濠がしっかり残っていて、貴重な歴史遺産だと思った。

稗田環濠及び集落

大和郡山市指定史跡 稗田環濠及び集落
稗田環濠は、環濠集落の代表的なものとして貴重な存在であり、且つ原型に最も近い姿で現存している点、全国的にもその例を見ないものである。築造された年代等については、判然としないが、大和平野に散在する200近い環濠が鎌倉末期から室町期にかけての中世の戦乱時に多く築造されていることから、同環濠もこの時代に外的からの防御や、農業用水の確保を目的に築造されたものと考えられている。
周囲2414.5m 幅最長ヶ所14m 最短ヶ所4m
昭和51年3月 大和郡山市教育委員会
社頭掲示板
f0215268_11331019.jpg
f0215268_11333889.jpg

[PR]
by jumgon | 2010-08-16 11:21 | ★寺院・神社