古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:★葛城( 5 )

葛城 高天彦神社

葛城高天彦神社への道

今朝(5月21日)テレビで「高天山草園」という所ガ取材されて放送していたらしい。
パートナーが「ここよさそうだ。行ってみよう」という。
どこのことかとネットで調べたら、高天彦神社のすぐ近くらしい!
高天彦神社はまだ一度も詣でたことはない。
どなたかのブログで「大変な坂道で、~」とか書いてあるのを読んだことがあってサバイバルなイメージをもっていたのだ。
「よほど体調の良いときでないと無理かも~」なんて思っていた。

大阪から葛城は、車だと近い。昼過ぎに出発。

一言主神社を過ぎて名柄の標識。そこを過ぎるとやがて高天彦神社の標識があるので注意しながら
進む。
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「あっ、あった!」その標識のところをを右折、ほんのしばらくで高天彦神社への参道に着きます。
たしかに急な坂です。
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でも車を停める所がない。
ネットでゲットした、手書きの葛城古道の私製地図でみると高天山草園の近くにPのマーク。
それに従っていくと、ほんの5分くらいで駐車場があった。

ナント、それが高天彦神社の駐車場なのだ。

ということはあの急な坂道を登らずに、大きな杉につつまれた神さびた道を味あわずに高天彦神社に着いてしまっていたのだ。
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なんとあっけない!
しんどいけどこの道を歩きたかった!!もし、歩いたとしたらこの道を進むことになります。
樹齢数百年の杉並木の参道を抜けると、高天彦神社の境内に辿り着きます。

あまり簡単に着いちゃうと、有難みも「神話時代への神秘感」もない。
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上の写真・自分で撮った写真はイマイチなので、せめてよい雰囲気の写真をと思いはよそからお借りしました。!!

ここは社務所はありませんが休憩所があります。
現在、この神社は高鴨神社のご神職が管理しておられます。
高天彦神社のお守りや御札なども高鴨神社で授かることができます。


◇高鴨神社へは去年の9月に行きました。⇒高鴨神社・http://jumgon.exblog.jp/15088805/


高天彦神社は、多分普段だったらあまり人はいないと思うけど今日は割にたくさんの人が来ていた。
(高天山草園がすぐそばでテレビの宣伝効果だと思う。テレビの影響力の大きさに感心した。)

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/parts/97.htmより
写真をお借りしました。
●高天彦神社社殿
瓦がオレンジ?黄土色?なのに、ふるさびたイメージは壊れない。

http://takama.sakura.ne.jp/takama
天孫降臨伝説地~高天原エリア史跡ガイドから
 
高天原とは?
 高天原は古事記神話に登場する神様たちが住むとされる天上界のことです。 高天原と書いて「たかあまはら」や「たかまがはら」と読まれます。
天照大神の孫にあたるニニギノミコトが地上界に降臨する天孫降臨伝説はこの高天原から天孫ニニギノミコトが日向の高千穂へと天下る神話です。 また有名な大祓い詞などにも高天原のことばが一番最初に登場します。
高天原の伝承地~大和葛城(奈良県御所市高天) 
古事記神話に記されている高天原がどこを指しているのかは諸説があります。
新井白石は高天原とは常陸の国多珂郡の海上を指すといった解釈をしていますし忌部正通は「一念無き胸中」であると人々の心の中にあるといった説もあります。 (同感してるわたし!)
 その中で奈良県御所市の高天は古来より神話の世界である高天原の伝承地として伝えられる場所のひとつです。 この場所は金剛山の中腹にぽっかりと広がる高原台地でここからは大和盆地を一望できる標高の高い場所です。

金剛山(高天山)の中腹に広がる台地が高天原エリア
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↑   ↑   ↑
大和側から見て左側が金剛山(高天山)で右側が葛城山
 
現在、金剛山と呼ばれる山は古代に大和側からは高天山と呼ばれていたそうです。(山の反対側の河内側からはコンゴウセンと呼ばれました。)
高天原は金剛山(高天山)の中腹にある高原台地のエリアです。
 この高天原エリアを含む葛城地方は、大和朝廷以前の古代にこの地域は葛城王朝と表現されるほど強大な勢力を誇った葛城氏という豪族の本拠地でした。
● 高天原よりすこし山を下った場所ではこの葛城氏の祭祀場跡と推定される巨大な遺跡が発見され(極楽寺ヒビキ遺跡)この地が古代の信仰にとってとても重要な場所であったことが推測されます。

●奈良時代にもこの高天に高天寺という名の大寺院が存在していることから大変に古くからこの地がすでに高天と呼ばれていたことがはっきりとわかります。

この様なことからも、奈良県御所市の高天・北窪の一帯が神話に登場する高天原であると伝えられています。
●高天原を含めた葛城古道のコースには全国の鴨社の総本社である高鴨神社や、御歳神を祀る全国総本社の葛木御歳神社、一言主神社の全国総本社の葛城一言主神社などがあり、山口神社の全国総本社の鴨山口神社など各神社の発祥の地がひしめくエリアであることから御所市のこの一帯は日本神話のふるさとと呼ばれています。

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葛城古道は『日本の美しい歩きたくなるみち500選』にも「日本神話のふるさと~葛城古道」として登録されています。

●蜘蛛塚
社殿の左脇には土蜘蛛を埋めた跡とされる蜘蛛塚があります。ガイド本に紹介されることもなく、現地に案内板もないので、多くの方は見落とされます。見つけた方も何か分からずに帰ってしまわれることも多いことでしょう。
土蜘蛛とは日本の先住の人々のことです。高天エリアには高天彦神社の土蜘蛛塚のほかに蜘蛛窟と呼ばれる土蜘蛛の史跡があります。

蜘蛛窟~先住の民・土蜘蛛伝説地
この高天の蜘蛛窟には次の様な伝説が残っています。『むかし、千本の足をもつ大きな土蜘蛛がすんでいた。時の天皇はお悩みであったので勅使がきて、字 サルチ(猿伐)から矢を射て殺した。
矢の落ちたところを矢の段という。土蜘蛛を高天彦神社の傍に埋め、蜘蛛塚といった。蜘蛛のいた窟は神社の前の並木の東にある。(御所市史より)

◎蜘蛛窟に迷わずにたどり着く方法~を読んだのに蜘蛛窟は結局見つけられませんでした。

蜘蛛とは?~まつろわぬ人々
神話によれば神武天皇が大和を平定すべく東征をしたときこの地には先住の人々が暮らしていました。
その先住の人々は神武天皇の皇軍に従わずに抵抗し敗れます。 土蜘蛛という名称は、勝者側が敗者の先住の人々を呼ぶ時に使われた蔑称のひとつです。


●日本書記には
土蜘蛛のことを「そのひととなり、身短くして手足長し。しゅじゅと相類す


●摂津国風土記の逸文には

「恒に穴の中に居り。故、賤しき号を賜いて土蛛と日う」など表現されています。
実際に先住の人々の胴体が短くて手足が長く、土の穴に住んでいたのかは定かではありませんがこのあたり一帯に先住の人々が暮らしていた可能性は高そうです。

●葛城の地名の由来
日本書記によれば神武天皇の皇軍は葛のつるで網を作り、それを覆いかぶせて反抗する土蜘蛛を捕らえて殺した。それでこのあたりを葛城と呼ぶようになったと葛城の地名の伝承について記しています。
土蜘蛛に関しては、土蜘蛛(先住民側)の残した記録が無いためほとんど謎に包まれています。
葛城には高天彦神社社殿の脇にある岩をはじめ土蜘蛛に関する史跡がほかにもあります。あと高天原エリアではありませんが葛城一言主神社境内に土蜘蛛塚があります。

●パンフレット「高天彦神社」から
御祭神   高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)(別名 高天彦神)
由 緒 
本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊尊を奉斎する名社であります。
 神話では天照大神の御子の天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)に、本社の御祭神の娘の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)が嫁がれ、その間にお生れにになった瓊々杵尊(ににぎのみこと)が高天原からこの国土に降臨されます。
その天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社の御祭神がお世話申し上げたのであります。
日本民族が太古から神々の住み給うところと信じていた 「 高天原 」 も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。
御本社の背後には美しい円錐状の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。
古杉の聳える参道は北窪・西窪の集落に通じていますが、そこがかっての葛城族の住地であります。
彼らは背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて 「 高天原 」 と呼び、その名称が神話として伝えられてきたのです。
葛城族は弥生時代中期に、現在の御所市柏原の地に移って水稲農耕を始めました。
そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。
神武天皇が橿原宮で帝位につかれたというのも、この柏原の地であります。


以上はパンフレットからの引用だが

日本各地でたくさんの人々がそれぞれ神を奉じて暮らしていたのでしょう。
各地に残る高天原は全部信じても良いような気がします。なにしろ神のいます処を高天原と名付けただけなのですから~
(あとで神武神話に収斂されますが、その中の一つが神武天皇と名付けられた人なのではないかと思います。神武から今の天皇家まで直線で繋がってるとは限らす、崇神天皇や応神天皇も又各地の始祖王だったのが、いつの間にか神武の系譜に繋げられただけかもしれません。
もしかしたらそれほど時代がかわらない同時代の人だったかも~。

時代のことは学者の皆様がちゃんと順序だててまとめてくださることでしょう。
これは間違っているかもしれませんが、わたしの勝手な空想です。)
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by jumgon | 2011-05-23 00:00 | ★葛城
記紀に色々な地名が出てくる。
いったい今でいえばどのあたりなんだろう?


前からそれを知りたいと思っていた。
難しいけれど、出来るだけ調べていこう。
先ず今回は神功皇后の時代の記事から~

記紀はいろんな方が訳しておられます。詳しい内容はつぎをご参照ください。

「古事記の神々(現在語で)
http://himeluna.exblog.jp/
葛城襲津彦(3)の記事から


摂政5年
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

◎サビは多分「佐味」、忍海は現在地名でそのままと、理解できる。
 あと問題は「高宮」だ。高宮なんてあちこちにある。「桑原」は探してみたが、これも大阪市内など何箇所かあり確定できない。

やはりもう研究されてました。
次に地図をのせます。
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◎ソツヒコが連れて帰ったのですから、勢力範囲の葛城に居住させたのですね。
 地図の下に解説が書いてあります。
 「葛城氏が没落後、蘇我氏はこれらの人々を取り込み、力をつけていった。」
 飛鳥時代に蘇我氏が力をつけたのはこういう訳だったのですね!


◎葛城襲津彦の伝承WIKIより
『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。
先祖
o父:武内宿禰( 孝元天皇の曾孫)
o母:葛城国造荒田彦女葛比賣

o葦田宿禰
o玉田宿禰
o磐之媛(仁徳后)
o的戸田宿禰(的(いくは)氏祖)
o腰裾宿禰(忍坂氏祖)
o熊道宿禰(忍海原氏・朝野氏祖)

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by jumgon | 2010-12-07 17:22 | ★葛城

葛城地域に関して ①

前回、「高鴨神社」で書き忘れたが、
葛城は大和の葛城山麓に展開する大地名で、『山城風土記』によれば襲の嶺に下りた「カモタケツヌミ(鴨武角身)」が、神武東征に先んじて東遷し、定住した所である。
という情報があります。

賀茂建角身命出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2010/10/03 12:43 UTC 版)
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、日本神話に登場する神である。山城の賀茂氏(賀茂県主)の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知られる。
『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。
神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。
『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。
◎そんなに簡単に日向から大和まで行けるのでしょうか?そんな昔に、、、、、

襲の嶺とは「鉄の峰という意味があるという。⇒次回掲載の「鉄の古語」をご覧下さい。
そういえば、高鴨神社近く、「風の森」というバス停がありそこから5分くらいのところに
「風の森神社」というのがある。今は小さな祠が残るだけのようだ。

http://www.norichan.jp/jinja/hitokoto/kazenomori.htmより

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風の森神社
祭  神:志那都比古神
      (伊耶那岐命と伊耶那美命が34番目に産んだ神様です)

境内看板には、
      「本社は、御所市大字鴨神、旧高野街道・風の森峠の頂上に位置し
       ています。
       御祭神は、志那都比古神をおまつりしています。
       志那都比古神は、風の神であり、古事記、日本書紀には、風の神
       に因んだ事柄が記載されています。
       又、葛城地方は、日本の水稲栽培の発祥の地ともいわれており、
       風の神は、五穀のみのりを、風水害から護る農業神としてまつら
       れています。
       日本では、古くから、風の神に対する信仰があり、毎年旧六月に
       は、各地で薙鎌を立てて、豊作を祈る風祭が行われています。」
       とあります。
  住  所:奈良県御所市大字鴨神
 

 ◎風が強く野タタラで鉄を作りやすいので、風の神を祀ったと私は思います。そして鉄で農具を作ったのではないでしょうか。木の鋤を作るにも鉄がないと能率がわるいし、先だけ鉄を使ったかもしれない。よく資料館などでみます。 

さて前回葛城王朝説について触れたが少し気になることがあるのでもう一度考えることにする。

葛城王朝説は鳥越憲三郎が唱えた説。
神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。

◎欠史八代までは、鴨族なのかな?
  葛城氏は鴨族の末裔なの?

河内王朝は、瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。
さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。

こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。

◎崇神王朝に滅ぼされたとするのに、なぜ崇神後の天皇と関わりがあるのだろうか?
  鴨族と葛城氏はおなじなの、別なの?


欠史八代実在説・安本美典
初代神武天皇と欠史八代の王朝の所在地を葛城(現在の奈良県、奈良盆地南西部一帯を指す)の地に比定(「≒推定」の意)する説である。
この葛城王朝は文字通り奈良盆地周辺に起源を有する勢力で、九州を含む西日本一帯を支配したが、九州の豪族であったとされる第10代崇神天皇に踏襲されたとこの説は結論付けている。
この葛城王朝説は邪馬台国論争とも関連しており邪馬台国は畿内にあったとして葛城王朝を邪馬台国に、崇神天皇の王朝を狗奴国にそれぞれ比定する説や、邪馬台国は九州にあったとして崇神天皇の王朝が邪馬台国またはそれに関連する国、あるいは邪馬台国を滅した後の狗奴国であるとする説などがある。

また、欠史八代の多くは畿内の有力氏族と婚姻関係にあったとされる。


ああ、ややこしい!
その時代に生きていたわけではないから、結論はむつかしいね!
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by jumgon | 2010-12-02 22:46 | ★葛城
高鴨神社(たかかもじんじゃ)へ以前から行ってみたいと思いつつ、やっとこの秋に行ってきました。
葛城の道というハイキングコースがありますが、一言主神社を経て歩いていくのは、かなり距離があります。(わたしにとってですが、、、、)
私は車で行きました。正解です。車でも20分以上かかりました。

以前一言主神社へ来た時はあまり天気がよくなくて、「葛城の道」と言えば少し暗いイメージがありました。でも今回は晴れて、稲刈直前の季節でのどけさに包まれるような、道でした。
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山ふところに抱かれた実り豊かな農村風景です。
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やっと高鴨神社ちかくにきたようです。
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「歴史文化棺」というのが高鴨神社のすぐそばにあり、その前が車3,4台停められるようになっています。
大きな木があって、いかにも古い歴史を感じさせる雰囲気です。
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この一の鳥居の左側に「歴史資料館は」あります。
少し入ると、お祓い用の祓え串があります。
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そして清めの水で手を洗います。
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前に池があります。
本殿への道・二の鳥居のそばに背の高い杉の木が立っています。
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階段を登ると本殿です。

高鴨神社の説明版
高鴨神社
御祭神
   阿治須岐高日子根命(迦毛之大御神)
   下照比売命
   天稚彦命

由緒
本社は古代豪族の鴨族が発祥の地に奉斎した神社である。
鴨一族は全国各地に移住して、郡名、郷名に加茂の名を伝え多数の加茂社を祀ったが、本社はそれらの総社に当り、名神大社である。
神話においては国譲りに際し御祭神の三柱ともに御活躍され、また神武天皇の大和平定もヤタガラスとして武勲をたてられた御神徳高き神にてまします。
御本殿は極彩色の彫刻をもつ室町時代の建築で、県下の神社建築の中でもっともすぐれ、国の重要文化財に指定されている。

◎えっ、じゃあ「ヤタガラス」は鴨族なの?

神社のHPから
神社の後由緒
弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。
また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。
そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。

三つの鴨神社の位置を確認しましょう。(秋津遺跡の大体の位置も入れました。)
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だんだん鴨族が広がっていたのですね!

( このほか鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀りました。賀茂(加茂・賀毛)を郡名にするものが安芸・播磨・美濃・三河・佐渡の国にみられ、郷村名にいたっては数十におよびます。中でも京都の賀茂大社は有名ですが、本社はそれら賀茂社の総社にあたります。

 『日本書紀』によると、八咫烏(やたがらす)が、神武天皇を熊野から大和へ道案内したことが記されています。そして神武・綏靖・安寧の三帝は鴨族の主長の娘を后とされ、葛城山麓に葛城王朝の基礎をつくられました


WIKIで調べたら
神武天皇
      妃:吾平津姫(あひらつひめ、阿比良比売) - 阿多小椅君の妹
      皇后:媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと) - 大物主の女

綏靖天皇(すいぜい-てんのう)
      妻:五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと) 
      ※一説には川派媛(かわまたひめ)または糸織媛(いとおりひめ)

安寧天皇
      皇后:渟名底仲媛命(ぬなそこなかつひめのみこと。鴨王の女、あるいは天日方奇日方命の女か。      『古事記』では河俣毘売の兄である師木県主波延の娘 阿久斗比売)


◎安寧天皇の皇后は鴨王の娘?とあるが他の天皇はどうなの?たくさん妃がいたから載ってないのかしら?


葛城王朝説について
鳥越憲三郎が唱えた説で、実在を否定されている神武天皇及びいわゆる欠史八代の天皇は実在した天皇であり、崇神王朝以前に存在した奈良県葛城地方を拠点とした王朝であったが崇神王朝に滅ぼされたとする説。
河内王朝(百舌鳥・古市古墳群のある辺り)は瀬戸内海の海上権を握ったことと奈良盆地東南部の有力豪族葛城氏の協力を得たことが強大な河内王朝をつくったと考えられる。
仁徳天皇は葛城襲津彦(そつひこ)の娘盤之媛(いわのひめ)を皇后に立て、のちの履中、反正、允恭の3天皇を産んでいる。
また、履中天皇は襲津彦の孫黒姫を后とし市辺押盤皇子を産み、その皇子は襲津彦の曾孫に当たる?媛(はえひめ)を后としてのちの顕宗、仁賢の2天皇を産んでいる。さらに、仁徳天皇は葛城円大臣の娘韓姫(からひめ)を后としてのちの清寧天皇を産むという所伝もある。
こうした『記紀』などの記述から史実かどうかは別にしても葛城氏が河内王朝と密接な関係があったといえる。

 この王朝は大和・河内・紀伊・山城・丹波・吉備の諸国を支配するまでに発展しましたが、わずか九代で終わり、三輪山麓に発祥した崇神天皇にはじまる大和朝廷によって滅亡しました。

こうした建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の御活躍は神話の中で大きく物語られています。
高天原から皇室の御祖先である瓊々杵(ににぎ)尊がこの国土に降臨される天孫降臨の説話は、日本神話のピークでありますが、その中で本社の御祭神である味耜高彦根(あじすきたかひこね)神・下照比売(したてるひめ)神・天稚彦(あめわかひこ)、さらに下鴨社の事代主(ことしろぬし)神が、国造りの大業に参劃されています。

さて本殿の方へ行きましょう。
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 現在の御本殿は室町時代の三間社流造の建物で、国の重要文化財に指定されています。

摂社
   東神社(天児屋根命・天照大御神・住吉三前大神)
   神社(主祭神 多紀理毘売命、配祀 天御勝姫命・塩冶彦命・瀧津彦命)
末社
   八幡神社・一言主神社・猿田彦神社・金刀比羅神社・聖神社・稻荷神社・松尾神社
   細井神社・大山神社・春日神社・雷社・市杵島神社・八坂神社・西佐味神社
   祓戸神社・牛瀧神社・佐味護國神社
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境内に末社がイッパイあります。最近再築されたものらしく、木の匂いが漂ってくるようでした。
今もたくさんの人々に崇敬されているのですね。
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by jumgon | 2010-12-02 20:27 | ★葛城
11月24日・毎日新聞
秋津遺跡:大型建物群跡発見 ヤマト王権の重要祭祀施設か

大型建物群跡の見つかった秋津遺跡
 奈良県御所(ごせ)市の秋津遺跡で、古墳時代前期(4世紀前半)の大型建物群跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が24日、発表した。
珍しい構造の塀で囲まれた国内最大規模の区画の中に、4棟が規則的に並んでいた。
同研究所は、ヤマト王権の大王か有力豪族が重要な祭祀(さいし)を行う施設だった可能性があるとみて、文献の少ない「空白の4世紀」を考える上で重要な成果だとしている。
 
秋津遺跡で出土した塀跡や大型建物跡(奈良県立橿原考古学研究所提供の合成写真を加工)
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昨年5月から約1万8500平方メートルを調査し今年1月、方形区画の一部を確認したと発表。これまでに区画が六つ見つかり、いずれも杭(くい)を打ち並べた溝の内外を、2~3メートル間隔で打った丸太で押さえる特異な構造の塀で囲まれていた。
最大の区画は南北50メートル、東西48メートル以上と国内最大規模で、内部に南北13.5メートル、東西7メートルの同じ大きさの大型建物跡4棟が、方位をそろえて規則的に並んでいた。掘っ立て柱建物跡と竪穴住居跡も計52棟確認された。
 
区画内からは生活に使われる土器がほとんど出土せず、北側の川跡に供物を置く高坏(たかつき)など祭祀用具が大量に捨てられていたことから、橿考研は「内部を清浄に保ち、祭祀を行った施設の可能性がある」とみている。

 
中国の歴史書「魏志倭人伝」は3世紀の卑弥呼、「宋書倭国伝」は5世紀の「倭の五王」について書かれているが、4世紀の記述はなく、古代史上「空白の4世紀」とされる。

 この施設で誰が祭祀などを行ったかについて、学者の間からは
ヤマト王権
▽5世紀に大王(天皇)の外戚(がいせき)として栄え、この地域を支配した葛城(かづらき)氏につながる豪族--などの見方が出ている。
 
現地説明会は28日午前10時~午後3時。JR玉手駅の南西約1.4キロ。駐車場あり。雨天決行。【高島博之】(実はこの日体調が悪くて行けませんでした!)

◎現地説明会にいった方の情報によると、

■「馬歯」の出土品があった。
◎この時期にすでに馬がいた。
唐古・鍵の団栗山古墳からも、馬具(蛇状鉄器)が出土しているから、馬は弥生時代からいたと推測できる。
(⇒★唐古・鍵ミュージアム)

■「鉄滓とふいご」も出土していた。
◎一般には製鉄は古墳時代後期より遡らないと言われている。(⇒日本における鉄の歴史
◎また、塀があったということは、木を加工するのに鉄器は必要であり鉄器を生産又はどこかから手に入れていた。

塀と大型建物の復元イメージ図(県立橿原考古学研究所作成)
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 大王をしのぐ力 
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話
「後の葛城氏の根拠地に当たり、その王宮とも言えるのではないか。大規模な施設から、葛城氏が大王をしのぐ力を持っていたことがうかがえ、4世紀の政権構造を明らかにするきっかけになる」

葛城氏とは? 
奈良県御所市など葛城地方を拠点とした古代の有力豪族。4世紀末~5世紀初めに実在した葛城襲津彦(そつひこ)が始祖。その娘は仁徳天皇の皇后となり、履中(りちゅう)、反正(はんぜい)、允恭(いんぎょう)天皇の母となった。
5世紀後半、雄略天皇に首長の葛城円(つぶら)が滅ぼされたのを機に衰退したとされる。古代、一帯は奈良盆地南の交通の要衝。

葛城襲津彦について「古事記の神々」というブログで語られています。
http://himeluna.exblog.jp/
 
関連の遺跡では、南西約1キロに始祖・葛城襲津彦(そつひこ)が被葬者とされる室宮山(むろみややま)古墳があるほか、葛城円(つぶら)の居館跡といわれる極楽寺ヒビキ遺跡などが御所市内で見つかっている。だが、いずれも5世紀代の遺跡で、それ以前の葛城氏の実像は不明だった。


<宮山古墳>
全長238mの前方後円墳で、別名「室の大墓」とも言う。明治年間に前方部から木棺と鏡11面、さらに玉類が多数出土し、大正10年に史跡に指定された。
その後、昭和25年に奈良県橿原考古学研究所が発掘調査を行い、竪穴式石室内に六区の方形を刻した長持形石棺が安置され、封土上には石室を囲って短形に靭、盾、短甲、草摺、家等の埴輪が立ててあったのが確認された。
橿原考古学研究所の室宮山古墳の石棺模型
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後円部径105m、後円部高25m、前方部幅22m、前方部高22mを測る、3段築成の古墳時代中期(5世紀)の古墳と考えられる。三段に造成された墳丘には、花崗岩を割った葺石がまかれ、石室の上にはさまざまな埴輪が方形に並べられていた。
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(橿原考古学博物館蔵)
これらの埴輪のうち、高さ142.6cm、最大幅95.5cmの靫形埴輪は特に有名である。銅部の上端に有茎式柳葉形鉄鏃が表現され、左右に広がったヒレとその表面の装飾は渦巻き文や直弧文で構成された豪華絢爛なもので、現在墳丘上にレプリカが立っている。埴輪の列の下に竪穴式石室があり、その中に長持ち型の組み合わせ式石棺が納められている。
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by jumgon | 2010-12-01 16:39 | ★葛城