古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:★日本の鉄の歴史( 4 )

真弓常忠「古代の鉄と神々」より

わたしはこの本を読んで、今までの自分のわずかな知識をつなぐ大きなヒントを得た。
それで要点をまとめて、書きとめておきたいと思う。
まとめ方は自分流に取捨選択しているし、氏の意図した事とは違うように解釈しているかもしれない。
だから、このペーは真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」の正確な要約では無いことを断っておく。

稲つくりと鉄
■縄文時代晩期に稲種がもたらされて、水稲耕作はわずか100年ほどの間に日本列島のほぼ全域にいきわたった・
■水稲耕作を推し進めたのはなにか?
 それは鉄製農具か鉄製利器によって加工された木製のスキ・クワである。
■弥生時代の初期に鉄器が用いられたのは、いろいろな遺跡から鉄斧が発見されることによって 証明されている。
 * しかしそれが製鉄のはじめからわが国で作られたものか、大陸から輸入されたものかは証明できない。
考古学者の山本博氏(「古代の製鉄」の作者、故人)によると
銅よりも鉄の方が溶融点は高いが、銅は溶解しなければ製品とすることが出来ないのに対して、鉄は溶解しなくても、7~800度の熱度で可鍛鉄を得さえすれば、これを熱してはたたき、熱してはたたいて鍛造できるという

このことは1912年にW・ゴーランドが指摘している。
それによると
*鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
*鉄鉱石は溶解しなくとも、7~800度の熱度で可鍛鉄を得ることが出来る。
*鉄の抽出には、特定の送風装置を必要としない。
弥生式土器を焼成する程度の熱でよく、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくても、野辺にて製錬することができたということであった。

露天タタラ
わが国は地下資源に乏しいが、火山が多いだけに砂鉄には恵まれていて、いたるところに砂鉄は存在する。

窪田蔵郎氏によると
弥生時代には河原や海岸近くの台地、あるいは山あいの沢のような場所で、自然通風に依存して天候のよい日を選び、燃料の薪の上に砂鉄を集積し、その上にさらに薪を積み上げて何日も燃やし続け、海面状を呈したごく粗雑な還元鉄の塊を半焼けの金糞の中から拾い出し、よさそうなものだけを再び火中に入れて加熱し、再三打ったりたたいたりして、小さな鉄製品を作るという、きわめて原始的な方法で製鉄は おこなわれたであろう。
弥生時代中期より古墳中期まで、このような原始的な方法による製鉄の行われていた事が推測される。

わたしが理解した範囲でわが国の製鉄のながれを整理しよう。

褐鉄鉱を採取して製鉄を行う。(弥生時代)・・・鉄鐸、銅鐸神事と関連あり
*褐鉄鉱の団塊(スズ)はそのまま或は粉砕して、露天で製鉄することができた。
  ただし、砂鉄の磁鉄鉱 に比べ品位は低く生産量も少ない。
砂鉄(磁鉄鉱)を採取して鉄器の生産
■金穴流し
 *砂鉄による製錬は、まず鉄砂を含む山を選ぶことから始まった。この鉄砂を含む山を「鉄穴山・神山」とい い、砂鉄をとる作業を「鉄穴流し」といい、そこで働く人々を「鉄穴師・かなじ」と呼ぶ。
鉄穴師は砂鉄分の多い削りやすい崖を選んで山から水をひき、崖を切り崩して土砂を水流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水は流し去り、重い鉄砂は沈むからこれを採ってタタラ炉に入れて製錬する。
*水田が「金穴流し」によって荒らされ、製鉄の民と農耕民の利害が衝突するのは、職業の分化が生じ、完成した水田に土砂が流れ込むことによるもので、当初農耕の民が自ら製鉄を行った段階では、「金穴流し」  はそのまま国づくりとなった。=オオナムチ
 オオナムチの神を「天の造らしし大神」とするゆえんである。→倭鍛治
③4世紀後半より5世紀にかけて、帰化系技術者(韓鍛治)の渡来による技術革新と職業の分化によって、製鉄に専従する部民と、それを管掌する氏族をも生じる。
* 古墳時代にはヤマトが大陸より多量の「鉄」を手に入れた。(⇒近つ飛鳥資料館①参照)
*わが国の露天タタラでできる鉄の量(質)では多くの鉄製品を作ることができないが、半島から鉄素材を手に入れることにより、鉄製品の製造(農工具、・武具)が飛躍的に発達し、大和王権が成立することになった。
オオナムチとアメノヒボコの争い古いヤマトの勢力 対 外来文化を担った新しい進歩的勢力
④やがて律令制の施行とともに特定氏族の管掌した製鉄の部民は収公される事になり、それととも に製鉄一般の神として、金山彦が構想され、「鉄穴」から発想されたオオナムチの神の製鉄に関与したかっての性格は忘れ去られた。

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」では
スジン天皇以前の三輪地方の発展を「辰砂・水銀」を中心にとらえている。
そして、鉄に関してはあまり触れられていない。というか鉄生産はなかったように書かれている。
「オオタタネコ」に自分を祀らせたという記紀の意味を考えよう。
古事記には大田田根子(オホタタネコ)を大物主(オホモノヌシ)大神の祭主とした、とあります。
「オオタタネコ」はオオクニヌシ(オオモノヌシ)が指名しました。

◎須恵器を作る技術をもった「オオタタネコ」は、スズ鉄か「鉄穴流し」による砂鉄かによって鉄を作る技術を持っていたとおもわれる。
そして、原始的な砂鉄生産で「スジン」に対決したのではないだろうか?
だが半島からの鉄素材の輸入により結局は「スジン」に押されてしまう事になった。
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by jumgon | 2010-12-13 13:43 | ★日本の鉄の歴史
「スズ鉄」について

「スズ鉄」なるものを知ったのは
「ひもろぎ逍遥」というブログで読んだのが初めてだ。
http://lunabura.exblog.jp/i30/

真弓常忠「古代の鉄と神々」によれば
銅鐸が姿を消して弥生時代が終焉し、古墳時代がはじまったのは、スズを採取しての原始的鉄生産から、砂鉄を採取する方法を会得したことによる、と謂われている。その後のいっそう大規模な製鉄技術は、天日槍などの神の名で語られる帰化系の技術者によって飛躍的に増大し、それは畿内では四世紀後半から五世紀初頭にあたる、と思われる。

今回は今まで断片的に述べてきた「スズ」についてまとめてみよう。
*ここでいうスズは(元素記号 Sn)のスズではない。褐鉄鉱を意味しています。
 
「みすずかる」は「信濃(しなの)」にかかる万葉集の枕詞です。「みすず」は「み」+「すず」で,「み」は貴重な鉄の原料である「すず」の美称です。
  「すず」とは、古代より製鉄の原料として、温泉地帯の湿地帯に生える植物(葦や茅,薦等)の根に,ある種の鉄鉱石(褐鉄鉱)が付着した塊をいいます。
この 「すず」は、"たたら"製鉄より古い製鉄方法によって、"たたら"より低い温度(土器を焼くくらいの温度)で精錬された。
特に信州(信濃)などで盛んに行われました。またこれらの「すず」をつける植物群も「すず」といいました。だから「みすず"刈る"」です。
この根は鉄鉱石成分が付着しどんどん成長し、中が空洞になると同時に小さな塊が残り、振ると音がします。これが本来の「すず(鈴)」です。この「すず」は成長するのに、数十年以上の長い時間がかかりました。現代でも、神社などで鈴を鳴らすのは、この「すず」がたくさんとれるように、と祈った名残りです。
また葡萄の房のように、この鉄鉱石の「すず」がたくさん付いた状態を「すずなり(鈴生)」という説があります。

◎日本建国神話中の建御名方神 が諏訪にまで逃げていったのがわかった!
 私はただ遠いところへ逃げた、といい加減に解釈していた。
 信濃、諏訪は「すず」が採れるところだ。

*建御名方神は原始的なスズによる製鉄でなく、「神穴流し」、すなわち砂鉄による初期製鉄を行ったように  思われる記述もある。
日本建国神話中の建御名方神wikiより
建御雷神が大国主に葦原中国の国譲りを迫ると、大国主は息子の事代主が答えると言った。事代主が承諾すると、大国主は次は建御名方神が答えると言った。
建御名方神は建御雷神に力くらべを申し出、建御雷神の手を掴むとその手が氷や剣に変化した。

これを恐れて逃げ出し、科野国の州羽の海まで追いつめられた。建御雷神が建御名方神を殺そうとしたとき、建御名方神は「もうこの地から出ないから殺さないでくれ」と言い、服従した。
なお、この神話は『古事記』にのみ残されており、『日本書紀』での葦原中国平定にあたる部分に彼の名は見えない。

*このスズの例として。高師小僧があります。
http://www.geocities.jp/tyuou59/index2.htmlより

愛知県指定天然記念物の褐鉄鉱(かってっこう)のこと。
豊橋市の高師原(たかしばら)で多産したことからこの名前が付けられています。
愛知県の天然記念物 : 高師小僧
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(豊橋市地下資源館より)
◎色々な形になるらしい。鈴の形のイメージはない。
成分は鉄と土です。
鉄分を多く含む水の葦原ではバクテリア(鉄細菌)が葦の茎に付着して、葦の腐敗にともない有機物を取り込む一方、水中の鉄イオンを酸化することでエネルギーを獲得しその結果の褐鉄鉱が植物の周りに沈積したと考がえかたが有力です。

この高師小僧は、砂鉄等とともに、古代の鉄の生産原料の一つであったと考えられます。
豊橋を中心に、地名を探ると、諏訪とか須賀とか産鉄地名が多く認められます。

鈴なりということばは、この葦などの茎に鉄分がこびりついている様子からきたという説が有力です。

青森県岩木山北麓 巖鬼山神社にこんな鈴があるのを見つけました。
これはスズ鉄ができる様子を表わしたものではないでしょうか。
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青森県岩木山北麓 巖鬼山神社 : 坂上田村麻呂が再建した神社
この地区には鬼神社など鬼にちなんだ神社が結構あります。また鬼伝承も色々有り、鬼が水路を作ってくれた話とか、村娘をお嫁にほしいと言って、刀を10振り作ったら嫁にやるといわれたので一生懸命つくったら、その一振りを隠されてしまい、泣く泣くお嫁にもらうのをあきらめた話などがあります。
もともと、鬼伝承の有るところには産鉄がおこなわれていた気配が濃厚で、鉄をとるという作業は山を伐採し炭をとるので、川の氾濫を招いたりし、稲を作っている人たちとは生活上相容れないようなところがあり、産鉄に携わる人たちを鬼と呼んで、嫌ったり避けたりしたようです。

◎以前に紹介したスズ石(鳴石)も褐鉄鉱です。重複しますが再度記しておきます。
 
北海道名寄市の鈴石
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国指定の天然記念物で、直径3~6cmの球状の石で、
振るとカラカラと鈴の音がするので「鈴石」と呼ばれています。
核となる粘土などに鉄分が殻のように巻き付いてできたと考えられる褐鉄鉱の一種で、内壁の小石が剥離して 中で動き音をだします。
指定地周辺の土中に包蔵される拳ほどの大きさのものが多い。

◎吉野座王像の蔵王権現の胸に飾ってあったアクセサリーには鈴がついていた。わたしはこれが気になっていた。この鈴・スズは「スズ鉄」を表現しているのではないかと思う。
修験道は鉱山と関係があるという説があるのです。

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でもこの蔵王権現が造られたのは天正20年(1592)です。
今ある蔵王権現坐像は役行者が桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀した蔵王権現の形を踏襲しているのではないかと思います。
◎これは私の個人的な考えで、正しいかどうか分かりません。
■褐鉄鉱から磁鉄鉱へ
葦や薦の水辺の植物の根に「スズ」のなるのを気長く待って鉄を得ていたわけであるが、砂鉄を採取することを知って、鉄器の生産は著しく増大し、ここに弥生時代は終焉し古墳時代となる
古墳時代の文化は鉄器によって作られた。それと共にその頃より帰化系技術者(韓鍛治)の渡来もはじまった。
                                                       つづく
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by jumgon | 2010-12-11 11:38 | ★日本の鉄の歴史

鉄の古語

鉄を表わす古語
真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」のなかに面白い記事があるので書き停めます。(一部改変省略)

鉄の古語には次ぎの種類がある。
①テツ、タタラ、タタール、韃靼
②サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ
③サナ、サヌ、サニ、シノ、シナ
④ニフ、ニブ、ニビ、ネウ
⑤ヒシ、ヘシ、ベシ、ペシ

①テツの語群
テツ(鉄)は、ヒッタイト民族が鉄をもって築いた強大な王国トルコの名に由来することは広く知られている。
◎わたしは知らなかったよ~
このヒッタイトの創始した製鉄技術は、シルクロードを経由して紀元前13世紀頃の殷代の中国に入ったとされている。
殷・周代は中国では青銅器文化が発達したが、鉄は戦国時代に武器として用いられ、漢代には鉄は国の管理下におかれた。
このトルコ、タタール、、韃靼に発した製鉄技術がタタラにほかならない。
タクタク、タツタツともいい、鉄の語源ともなった。
わが国では北方大陸系文化としてもたらされたものである。

②サヒの語群
ヤマタノオロチ退治のときスサノヲノミコトが使用された剣を「韓鋤剣」(カラサヒノツルギ)といい、鋤持神」(サヒモトノカミ)という。

*蛇の韓鋤の剣は蛇の麁正はとも呼ばれ、岩波文庫版「日本書紀」の註によれば、aramasa(麁正)とkaramasafi(韓鋤)は同根であって、「韓鋤(からさひ)」の「サヒ」とは、日本では小刀または刀の意。従って、韓から伝来した刀という意味ではないかと説明している。
サヒはサブ、サビ、サムとも転化し、寒川・寒田、寒河江・祖父江の地名もこれに由来する。
賽神(サイノカミ)というのも本来はサヒ(鉄)の神の意であった。
サヒ、サビ、サム、ソホ、ソブ等、この語類のサ行音は、元来砂、小石を意味する言葉で、砂鉄が精錬されて鉄となり普通の砂や石と違った貴重な性質を帯びることから、サ・シ・ソの一音だけでも鉄を意味することになった。
日向の襲の国(ソノクニ)、熊襲(クマソ)のソもやはり鉄の産地を意味した。

③サナ、サヌ、サニ、シノ、シナ
福士幸次郎はサナ、サヌ、サニ、シノ、シナ等の語源を追い求めた末、サナとは果実の核の部分を意味し、カナサナ(金讃)とは外皮を鉄でまとった果物や穀物の如き形状のもの、即ち鈴・鐸(サナギ)のことであるとした。
◎褐鉄鉱の鳴石ってまさしくそれね!⇒「唐古・鍵遺跡ミュージアム」
唐古・鍵遺跡ミュージアムへ行った時それに出会いました。それは褐鉄鉱の鈴を割って、中に翡翠の勾玉が入れてありました。鈴石だけでも貴重なのにその不思議な自然の力にプラス、自分の宝物を入れたのですね!銅鐸の起源かもしれませんね。

*鈴石(鳴石)について
褐鉄鉱は、良質な粘土の周辺に鉄分が凝縮して生成された自然の好物です。
褐鉄鉱の内部の粘土は乾燥収縮し、それが内壁にあたって音をたてる為、江戸時代の好事家の間では「鳴石」や「鈴石」として珍重されていたという。振ると鈴みたいな音がする。

奇石博物館にある、鈴石(鳴石)
奈良県生駒郡平群町産(割れ口の見える2個)
京都府相良郡和束町産(割れてない1個)
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④ニフ、ニブ、ニビ、ニホ
「ニフ」(丹生)は通常、朱砂(辰砂)の産する地につけられた名と考えられている。
しかし井塚政義氏の教示によると古代には硫化水銀を「朱」、四塩化鉛を「丹」、褐鉄鉱・赤鉄鉱・酸化鉄を「赭」にそれぞれ区分しながらも、これらを一括して「丹」とよんだ由で、丹生の地は鉄産地をも意味したという。
◎フーン、そんなに細かく区別表現していたのか~
丹生より派生した「ニブ」(二部・鉗)「ミブ」(壬生)・「ニビ」(鉗)や「ネウ」(根雨)もそれである。

⑤ヒシ・ヘシヒシ・ヘシは「和名抄」によると、鉄鏃を意味し、棹の先に装着した鉄片である。
この語から派生した「鉄の川」がイヒシ(飯石)川、イビ(揖斐)川であるとしたのも
福士幸次郎である。
ヒシ・ヘシの語が南方系海洋民の鉄・鉄斧を意味するという情報もある。
ベシ・ヘシの語によって表象される古代鉄文化は南方系海洋民によって運ばれ、琉球弧を北上して九州から朝鮮半島西岸、山東半島まで達していたと想像できる。

古代鉄を表わす語が色んな系統に分かれているのですね。
鉄の渡来には様々な民族、ルートがあるのでしょう。

◎そういえば日本語の数詞に「いち・に・さん」と「ひぃ・ふう・みぃ」(ひとつ・ふたつ・みつ)の二系統がありますが、これも日本列島へ流入した民族の違いを表わしているような気がします。
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by jumgon | 2010-12-03 14:27 | ★日本の鉄の歴史
この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。


最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。

以後室町期以降については省略する。
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by jumgon | 2010-11-26 16:47 | ★日本の鉄の歴史