古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ: ○葛井寺(藤井寺市)( 4 )

今回は葛井寺 の概略を紹介しよう。

紫雲山   葛井寺
しうんざん ふじいでら
宗 派   真言宗御室派
本 尊    十一面千手千眼観世音菩薩
開 基   行基
創 建   神亀2年(725)年
住 所   〒583-0024 大阪府藤井寺市藤井寺1-16-21  
交 通   「大阪阿倍野駅」から近鉄南大阪線「藤井寺駅」下車、南側徒歩5分
TEL     0729-38-0005
拝観料   無料
駐車場  5 00円(NTT横駐車場:1時間まで)
ご詠歌   参るより 頼みをかくる 葛井寺 花のうてなに 紫の雲
   
 


●南大門 
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●仁王像 
 なかなか迫力がある
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●阿弥陀25菩薩堂と満開の藤
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●阿弥陀25菩薩堂の内部
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【宝物】 

●千手千眼観世音菩薩坐像 (国宝)
天平仏像脱活乾漆造。乾漆像の中でも保存状態は良好。
高さ1.4m大の手2本、中の手40本、小の手1001本、計1043本の手を持つ。十一面の顔に真数の1043臂千眼の観音菩薩であり、日本最古の千手観音であります。
千手にて迷える衆生を救うための大慈悲を示しておられます。秘仏。毎月18日に開扉。その美しさは人々を魅了し、現世利益の観音信仰を支えてきました。

写真撮影禁
◎千手千眼観世音菩薩坐像を描いた絵が南大門の裏にありました
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●四脚門 (国指定重要文化財)
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慶長6年(1601年) 豊臣秀頼が寄進したもので、桃山時代の様式をよく伝える建造物として、また葛井寺で現存する最古の建物として国指定重要文化財に指定されています。
以前は南大門として建てられましたが、現在は西門に移建されました。
 
●石灯籠 (大阪府指定美術品)
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聖武天皇のご寄付。紫雲石灯籠とも言います。 
紫雲石の灯籠はいたみが激しく、本物は裏庭にて管理しておりますが、現在境内にあるのは、欠損箇所まで同じように仕上げた明治時代のレプリカです。

●聖観音菩薩立像
本堂須弥壇(しゅみだん)上、本尊厨子の右に安置されています。
重厚な作風のなかにも、弓なりに反った体型、身体の起伏にそって大きくうねる着衣の表現などに動勢が感じられ、顔立ちは端正です。
欅(けやき)の一木造。
 
●地蔵菩薩立像
本堂須弥壇上、本尊厨子の左に安置されています。
頬の膨らみをはじめ、丸みのある肉取りと帯状のひだに特徴があります。
松の一木造。
 

葛井寺 周辺の様子
西門(4脚門)の横に「松風軒」という和菓子屋がある。
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ここの「むらさきもなか」は紫蘇風味の餡で美味しい、(広告料はもらってませんよ!)
わらびもちも不思議な柔らかさでかなりおいしい!!

西門まえに「姫桜」という着物のリサイクルショップがあります。

西門から駅へ行く途中にある「時空」という和もの雑貨のお店
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ちりめん細工や、着物地でつくった洋服など置いてます。

葛井寺南大門前のおみやげ物やさんのところに、石の道標がたっている。
あまり古くはなさそうだ。文字もハッキリと分かる。
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道標:右 壺阪吉野
    左 伊勢
    左 道明寺 たつた(竜田)法隆寺 なら

藤井寺歴史ボランティアの方に聞くと、「この碑を建てたのは神南大道心という人です。
大変な極道ものだったのだが、ある頃より改心し人の役にたつこととして、あちこちに道標を建てた。(江戸中期の人)・天保12年没
◎「大変な極道もの」って、まるで時代劇の世界!
手のつけられない極道者があるときからすっかり心を入れ替えるなんて、私には理解不可能。 ある情報では、堺の商人だったらしい。

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by jumgon | 2011-05-05 00:25 |  ○葛井寺(藤井寺市)
葛井寺は西国三十三箇所(さいごくさんじゅうさんかしょ)5番札所である。

毎日18日になると札所巡りのバスがやってきたりして、いつもより人が多い。
そもそも、札所というのはいつからできたのだろう?
以下の記事は
西国三十三所巡礼の旅  http://saikoku33.gr.jp/05/ や藤井寺市のHPなどを参考にしました。

西国三十三箇所(さいごくさんじゅうさんかしょ)または西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。

◎そうか観音様にお願い事を頼んでまわるのではなくて、巡礼参拝したら「現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できる」という意味なのか。
巡礼参拝したら「現世で犯したあらゆる罪業が消滅し」なんて、実は私には考えられない。あまりに都合よすぎませんか?
今みたいにバスで簡単に行けるからそう思うのかな?昔は全行程じぶんの足で歩いてまわっていたらしい。

伝承

養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。
そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人はこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして三十三所巡礼は忘れ去られていった。

◎「三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかった」と言うのはどういう理由だろうか?
冥土の入口で閻魔大王に会ったなんて、庶民は本気にしなかったのか。時間と経済的余裕のある人しか現実に「三十三所巡礼」を実行することはできない。車も電車もない時代に何泊も(どこに?)しながら巡るのだから。
徳道上人が冥土の入口で閻魔大王に会い、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受ける。
この様子を絵にしたのが下の写真です。
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現在92歳の方が描いて納められたということです。
下の写真はそれを刻した、石碑です。
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徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山法皇(968年 - 1008年)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を受ける。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)

葛井寺は、平安時代後半には観音霊場として知られるようになり、江戸時代から西国三十三番観音霊場の第五番札所として賑わっています。

札所の歴史

霊場は一般的に「札所」という。かつての巡礼者が本尊である観音菩薩との結縁を願って、氏名や生国を記した木製や銅製の札を寺院の堂に打ち付けていたことに由来する。 札所では参拝の後、写経とお布施として納経料を納め、納経帳に宝印の印影を授かる。写経の代わりに納経札を納める巡礼者もいる。


◎西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ)5番札所である葛井寺は今は境内もあまり広くはありません。
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でもお寺を守っていこうという人がたくさんいて、訪れて見所がある場所にしようとされているようです。
藤の花育成会(正式な名前かどうかは分かりません)の方々
その方々の手入れのおかげでこんな綺麗な藤を楽しむ事ができます。
あの絵を描いた方。(お風呂やさんの壁の絵を描いていた方だそうです。)
その他、地元の方々が、いろいろお世話をなさっています。
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by jumgon | 2011-05-04 22:30 |  ○葛井寺(藤井寺市)

藤井寺②葛井寺の歴史

2011年5月1日の葛井寺
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葛井寺の歴史
以下の記事は
西国三十三所巡礼の旅  http://saikoku33.gr.jp/05/ や藤井寺市のHPなどを参考にしました。

 飛鳥時代から奈良時代にかけては、全国各地で有力な氏族が、仏教興隆を奉じて競っ
って氏寺を造りました。葛井寺もその一つです。
葛井氏は、6世紀に活躍した渡来系の王辰爾の甥の胆津を祖とし、『日本書紀』によれば、吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績で白猪氏の姓を賜りました。その後、葛井と改め、一族の葛井連広成が葛井寺を創建したと伝わります。
永長元年(1096年)には、大和国賀留の里の住人・藤井安基が葛井寺の荒廃を嘆きその復興に尽力したと伝えられる。藤井寺という地名はそこからまれたといいます。

吉備の白猪屯倉の田部の丁を定めた功績とは
569年(欽明30)の春正月に、詔で吉備の白猪屯倉(しらいのみやけ)では、年齢が十歳あまりに達しているのに、籍に漏れているために賦課を免ぜられている者が多い。膽津(いつ)を遣わして田部の丁籍を検定せよと述べた。4月になって、膽津は詔に述べられているとおりによく丁(よほろ)を調査して籍を定め、田戸を編成したので、その功をほめて白猪史(しらいのふひと)の姓を賜い、田令(たづかい)に任じた(『日本書紀』)。

◆「よほろ」とは?
•百科事典マイペディアの解説
•律令制において課税対象となる成年男子を丁(〈よほろ〉とも)といい,そのうち21~60歳までの男子を正丁とし,庸(よう)・調(ちょう)・徭(よう)などの課役を賦課。
 
◆田令(たづかい)ってなあに?
必要な時だけ中央から現地に赴く監督者

◎いつの時代も税を免れたく思うのは庶民のならい。胆津(いつ)は税の徴収に力を発揮したのですね。その功績で白猪史(しらいのふひと)の姓を賜い、その後、葛井と改め、一族の葛井連広成が葛井寺を創建した、ということなのですね。
飛鳥時代から奈良時代にかけては軍事より財務・実務官僚が必要とされる時代になってきたようですね。


◆参考までに造籍に関する記録を見てみよう。
造籍に関する古い例としては、
540年(欽明元年)八月の条「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」(『日本書紀』)。

とあり、6世紀の中頃、欽明朝頃には、まず渡来系の人々を戸籍によって支配したことが窺われる。
 *大蔵掾は人名

葛井寺創建の諸説  
永正七年(1510)の勧進帳によると、『聖武天皇』の勅願による2Km四方の七堂伽藍の建立で(当寺所蔵の伽藍絵図によると、金堂・講堂・東西両塔をそなえた薬師寺式の伽藍配置を整えていたと考えられる。)
古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺ともいう)の勅号をいただき、その落慶法要には、天皇自ら行幸されたという。
 その聖武天皇が春日仏師【稽文会(けいもんえ)・稽首勲(けいしゅくん)親子】
に命じて十一面千手千眼観世音菩薩を成させ、神亀二年(七二五)、三月十八日入仏開眼供養のため藤原朝臣房前卿を勅使に、行基菩薩を御導師として勤められた。

寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、実際は百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建されたと推定される。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏である。

◎「聖武天皇の勅願で行基が創建したという説」と「百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)の氏寺として、8世紀中頃に創建された」という二つの説があるようです

中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像は奈良時代の作品であり、境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いない。
境内出土の瓦の1つに久安3年(1147年)の銘があり、その頃に造営事業が行われたことが推定される。平安時代後期から観音霊場として知られるようになり、西国三十三所観音霊場が成立すると、その一つに数えられるようになった。
南北朝時代には楠木正成が陣をしいたことがあるなど、たびたび兵火にさらされた。
室町時代は、奈良・興福寺の末寺として栄えましたが、明応2年(1493)、畠山家の内紛に端を発した兵火にあって、楼門、中門、三重塔、鎮守、奥院を焼失し、本堂と宝塔を残すのみとなりました。残った建物も永正7年(1510年)の地震で堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建である。

全国の地震災害履歴一覧表によると
*永正7年(1510年)の地震で摂津・河内の諸寺で被害.大阪で潰死者があった。
 余震が70余日続く。
◎昔も地震の被害があったのですね。余震が70余日もあったなんて怖かったでしょうね!

四脚門
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 近世は豊臣家・徳川家の庇護を受け、とくに豊臣秀頼が寄進した四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、国指定の重要文化財となっています。この門はもと南大門として建てられましたが、現在の西門の位置に移建されました。


                                          (つづく)
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by jumgon | 2011-05-01 08:33 |  ○葛井寺(藤井寺市)

藤井寺①

4月19日から葛井寺は藤まつりだと南門に書いてある。いつも駅へ行く途中にそばを通る葛井寺。
身近すぎてかえってよく知らない。

南大門への道・酒造会社の白壁の塀
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葛井寺南大門の手前左に辛國神社がある。ここの入り口の「ゆずりは」・濃い緑と新緑の美しいコンビネーション。この木にはいつも心を癒される。植物の力!
「ゆずりは」アップ
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南大門てまえのお土産やさんの横に石の道標が~・あまり古くはなさそうだ。文字の刻印もハッキリとわかる。
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◎この石の道標については別稿でふれる事にする。


葛井寺は西国三十三所5番札所である。
札所とは何か?いつからそんなものができたのか?
そもそも葛井寺(ふじいでら)は何時創建されたのだろう?葛井寺について調べてみよう。


先ず今回は、葛井寺にいってみよう。
南大門まえの広場にはちょうど八重桜が満開。近所のこどもたちが集まって遊んでいるなんて光景は今は珍しくなっているのでうれしい気持ちになる。
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南大門横の白い小さな花びらの枝垂桜。藤まつり期間中だということで、紅白の幕が南大門にかかっている。
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境内図
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藤まつりだといってもまだ藤の花には少し早い。
でも、場所によっては咲いている。
阿弥陀二十五菩薩堂のまえに咲く藤
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あれ、阿弥陀二十五菩薩堂の横に、不思議な石像が~
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その前には石で四角く囲まれたものが~。
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歴史ボランティアの方が藤まつり期間中はいらっしゃるし藤井寺のことをよく知っている酒造会社の方もいて、いろいろ教えてくださった。

「ああ、あれは役行者の像です。その前の四角く区切られたところで護摩焚きをして、吉野・大峰へ出かけたのですよ。」
「えっ、役行者?いつ頃の話?」
「役行者が生きてた頃です。(!!)多分昔から多くの人々がここから大峰へ修験にでかけたのでしょうが、この玉垣や石像がつくられたのは、50年くらい前です。」
要するに書物による記録はないが、古くから修験道が盛んだったということらしい。
わたしが以前住んでいた地域(羽曳野市・藤井寺市の隣)でも舅(明治34年生まれ)は毎年大峰登山をしていたと言う。主人も小学生の頃父親に連れていってもらったことがある。

◎葛井寺の創建には修験道のことは書いてなかったと思うけど~。
  神社やお寺はその変遷の過程でいろいろ民のニーズに応えて各種の信仰が付け加わるものらしい。


                                         <つづく>
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by jumgon | 2011-04-29 18:27 |  ○葛井寺(藤井寺市)