古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:○当麻寺(奈良県)( 3 )

當麻の里って、どこだろう?

http://homepage2.nifty.com/m-kasama/taima/taimadera.htm
より、地図をお借りしました。

近鉄南大阪線当麻寺駅辺りの地図
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当麻寺境内図
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国宝で日本最古の「梵鐘」 
屋台のテントのすぐ後ろにあるのが「梵鐘」
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「當麻寺の仁王門(東大門)」を入って、直ぐ目の前に建つのが「鐘楼」です。中に吊り下げられている国宝の「梵鐘」は、白鳳時代に鋳造され、青銅で高さ152.9cm、上帯に鋸歯文、下帯に忍冬唐草文を陽刻する。
現存最古の「梵鐘」です。

本堂(曼荼羅堂)・国宝
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本堂の背面の閼伽棚
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本堂の背面には「閼伽棚(あかだな)」がありますが付属的な建物には見えず閼伽井屋と勘違いするほど豪華な建物です。
閼伽とは仏菩薩に供える聖水、香水(こうずい)を意味しますが閼伽水とも言います。
閼伽棚は霊水や花、供養具を置く棚のことです。

このデザイン面白いですね!
木瓦葺と蟇股
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蟇股 
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双塔 国宝天平時代
當麻寺のシンボルとしてそびえる双塔は、創建時のまま揃う全国唯一のものです。
 特に注目されるのが水煙(すいえん・塔のてっぺんの部分)で、東塔は極めて特異な魚骨形。西塔は蔓唐草(つるからくさ)に未敷蓮華(みぶれんげ)を配した古式で華麗なものです。 「相輪」は通常九輪であるのに、両塔とも、八輪という珍しいものです

◆奥の院から見える双塔
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 ◆東塔
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東塔の水煙・(魚骨形)
◎わぁ、こんなの初めて見た!
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◆西塔
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西塔の水煙・(西塔は蔓唐草(つるからくさ)に未敷蓮華(みぶれんげ)を配した古式で華麗なもの)
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◆石 灯 籠( 重要文化財・現存)
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「金堂」の前方中央に建っている凝灰岩八角形の「石燈籠」は、国重文で、我が国最古の石燈籠。
白鳳時代(飛鳥時代と奈良の天平時代との間に挟まれ、645年の大化元年から710年平城遷都までの時代、美術史上の1つの時代)に松香石で造られました。最古の遺構で貴重なものです。

◆金堂
金堂は鎌倉時代の再建ですが燈籠は当初の金堂と同じ天平時代に建てられたものでしょう。
 
當麻曼荼羅
中将姫が蓮糸を用いて、一夜の内に織った物語で知られているこの図像の原本は、大きさ3.95メートル角という大画幅であるが、極めて損傷がひどく修補が重ねられているため、絵画と見誤られていた時期もあったが、数十年前から研究の結果、綴織の錦であることが判明した。この織物の図像は、すでに早くからひどくいたんでいたようで、3回の転写本が作られた。第一回の建保曼荼羅と言われるもので現存しない。
第二回目が文亀、第三回の転写は貞享の写本である。原本はその後板張りにしてあったが、延宝八年(1680)にそれを剥して、幅装に改めた。剥きとったあと板壁に残った残片が付着したものを裏板曼荼羅という。現在厨子の裏側にみているのがそれである。

◆国宝・當麻曼荼羅図(根本曼荼羅)
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◎さすがに傷みがひどいですね。
◆當麻曼荼羅図   中之坊蔵
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by jumgon | 2011-05-14 15:48 | ○当麻寺(奈良県)
当麻寺は関西では長谷寺と共に「ボタンの寺」で有名だ。

又、「中将姫」でも有名だが、中将姫って、どんな人なのかも知らない。当麻寺がいつ、どのような経緯で創建されたかも、わたしは知らない。
境内の中将姫の像
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まず http://taimadera.org/
より勉強しよう。

●當麻寺のそもそも 
612年、聖徳太子の教えによって、その弟、麻呂子(まろこ)親王が河内に万法蔵院(まんぽうぞういん)を建立しました。その後、親王の夢に従って、681年、麻呂古親王の孫にあたる当麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が、役の行者(えんのぎょうじゃ)開山の地へ移したのが當麻寺(当麻寺・たいまでら)です。
 金堂(こんどう)に本尊として弥勒菩薩(みろくぼさつ)像が祀られ、役の行者が百済より四天王を飛来させました。次いで講堂、東塔、西塔、そして現在の本堂である曼荼羅堂(まんだらどう)が完成し、伽藍(がらん)が整えられました。

中之坊(なかのぼう)は、創建時に役の行者に開かれた道場で、住職の住房「中院御坊」として成立しました。その他、平安期には四十余房、江戸期にも三十一房の僧坊があったということです。

◎「役の行者」ってほんとうに行動半径が広い。あちこちに登場します。

●中将姫さまのおはなし
 
天平時代、藤原家の娘中将姫(ちゅうじょうひめ)は、継母に妬まれ命を狙われ続けますが、あえて恨むことなく、万民の安らぎを願い「写経」や「読経」を続けました。

◎当時は通い婚でそこで生まれた娘が、本妻?のいる藤原家へ引き取られて、いじめられたのかも~
それとも母の家にいる時に命を狙われたのかな?


そして1000巻の写経を成し遂げた16才のある日、二上山に沈む夕陽に阿弥陀如来の姿を見た姫は、現世の浄土を求めて都を離れ、観音さまに手を引かれるように當麻寺を訪れます。
当時の住職・實雅法印(じつがほういん)に認められ中之坊にて尼僧となり、法如(ほうにょ)という名を授かります。
その後、あの日に見た阿弥陀さまのおられる極楽浄土の光景を、五色の蓮の糸によって織り表しました。これが国宝・當麻曼荼羅(たいままんだら)です。その輝きに心を救われた法如は、人々に現世浄土の教え(この世で浄土を観じる教え)を説き続け、29才の春、不思議にもその身のまま極楽浄土へ旅立たれたということです。

●弘法大師さまのおはなし
 
弘法大師・空海さまは平安時代、唐より「密厳浄土(みつごんじょうど)」の教え、つまり、現世に浄土を実現する教えを授かり、我が国で真言宗を開きました。
弘仁14年(824)秋、お大師さまは當麻寺に参籠し、當麻曼荼羅にその密厳浄土の教えが表されていることを看破します。そして中之坊實弁法印(じつべんほういん)に教えを授けたことから、當麻寺が真言宗を奉じるようになりました。
 その後に単純な浄土信仰が広められたことによって、この當麻曼荼羅は来世の浄土を描いた風景画としてしか捉えられなくなりましたが、もっと深い教えを表したものであることは既にお大師さまが指摘されています。
_____________________________________
●二宗兼宗のおはなし 
當麻寺は当初、奈良仏教の源流である三論宗を奉じていました。
これは「空(くう)」の境地の体得により、心の平穏を保つ教えでしたが、弘仁期に弘法大師さまに教えを授かり、真言宗に改宗しました。
「空」の境地を通して得た智慧を生かし、現世に浄土の実現を目指す教えで、當麻曼荼羅の輝きのもとで法灯が守られてきました。
 しかし時代が下り南北朝時代になると、曼荼羅信仰の機運に乗じて、京都知恩院が當麻寺の境内に往生院(現・奥院)を創建し、200余名の僧らと共に、浄土宗の教えを持ち込みました。そして當麻曼荼羅を布教材料として専修念仏の教えを広めていきました。  
奥の院の門
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やがて江戸中期の宝暦年間になると、浄土僧も曼荼羅堂における法会参集が認められるようになりました。現在でも、「二宗兼宗」として、伽藍の諸堂のうち曼荼羅堂だけは真言・浄土の二宗によって勤行が執り行われる極めて珍しい形をとっています。
 曼荼羅堂以外のお堂(金堂・講堂など)での法会は真言宗のみで行われています。

◎そうか、私が今回訪れた「奥の院」は浄土宗総本山知恩院の「奥之院」として建立されたものだったのか、、、。

また当麻の土地で有名なのは、日本書紀に出てくる「當麻蹴速」です。どんな話か書いておきます。

藤井寺市のHPより
 『日本書紀』の垂仁天皇7年の条に次のような記事があります。天皇の側近が「當麻(たいま)の村に當麻蹶速(くえはや)という勇者がいます。彼は常々自分に並ぶ強者と生死をかけた力比べをしてみたいもんだとまわりの者に言っています」と告げました。天皇が「蹶速に並ぶ者はいないのか」と問うと、一人の臣が「出雲国に野見宿禰(のみのすくね)という勇者がいると聞いています。彼と対戦させてみてはいかがでしょう」と提案しました。
早速、野見宿禰が招集され、當麻蹶速との対戦が実現しました。二人は向かいあって立ち、双方足を上げて攻撃しあいました。野見宿禰は當麻蹶速の肋骨を蹴り折り、ついに腰を踏み曲げて殺してしまいました。野見宿禰は當麻蹶速の領地を賜り、その地にとどまり仕えることになりました。 
これが相撲の起源とされています。
*ふたりが対戦した場所は、奈良県桜井市穴師に建つ穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の参道脇にある広場(カタヤケシ、現在、土俵と小さな石の祠の相撲神社が在る)です。
互いに蹴り合った後に、腰を踏み折られて死んだといい、蹴速の土地は没収されて、勝者の野見宿禰の土地となったという。

 この記事では二つの点に注目しておきたいと思います。
一つは野見宿禰が強力無双の名声を得たこと、もう一つは當麻蹶速の領地をさずかり、天皇に仕えることになったことです。
後者について少し詳しくみていきたいと思います。蹶速の領地當麻は、今の当麻町のあたりだったと考えられています。
領地内には石棺(せっかん)材になる二上山凝灰岩(ぎょうかいがん)の産地が含まれていることに注意する必要があるでしょう。それはのちに天皇の葬儀を仕切ることになる土師氏の祖先、野見宿禰が石棺材の産地を確保したことは見逃せないからです。また、野見宿禰の「のみ」は石工の使う「鑿」に通じることもあながち付会ではないかもしれません。 
ただ、出雲出身の野見宿禰が天皇に仕えることになったとする点は問題をはらんでいます。これは宿禰個人のことだけではなく、出雲国の大和政権への服属を表現していると読み取られるからです。
京都府立大学名誉教授の門脇禎二さんによれば、出雲の大和への服属時期は、6世紀末をさかのぼることはないといいます。6世紀末といえば、古墳時代も終わり、聖徳太子が活躍したころです。
 古墳造りの専門技術者集団として活躍する土師氏の祖先が、出雲出身者だとする点は歴史的な事実とは食い違いがみられるのです。

◎ウーム、さすが市の文化財課の記事だけある。ただ日本書紀の記事を提示するだけでなく問題提起がある。
結局どういうことなのか、また学者の先生方が研究してくださることでしょう。


●大和のあちこちにある「水吐龍」
當麻駅から当麻寺への道で、玄関の軒下に旧式の手押し式の消防ポンプ「水吐龍」が吊り下げられています。前回の「当麻寺 ①」で書きわすれていました。(書き加えておきます。)
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 また、この辺りの旧家の軒下には、注連縄が張られていると、書きましたが、これは悪病がみだりに家内に入らない様にするための呪だそうです。
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by jumgon | 2011-05-12 10:54 | ○当麻寺(奈良県)
当麻寺は2、3度訪れたことがある。
最初の訪問は30年ほど前。


その時は最寄駅から当麻寺まで歩いた。お寺までの道がとても印象的だった。

當麻駅から当麻寺への道で、玄関の軒下に旧式の手押し式の消防ポンプ「水吐龍」が吊り下げらた家がありました。
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道の両側のおうちの幾つかには玄関に手形を写した半紙が貼られていた。
「どういう意味があるのだろう?」
それに、しめ縄が5月というのにまだ飾ってあった。「普通お正月が終わったらはずすのではないかしら?」と思った記憶がある。
その他ハッキリと覚えてないけど、小さな杉玉みたいなのも何軒かのおうちにはぶら下がっていたように思う。

とにかく古い風習が残っていそうな雰囲気の民家が両脇に建っていた。


もう一度みてみたいと思ってたけど、なかなか機会がなかった。当麻寺を訪れても、駅からの参道は通らずに直接境内に入っていた。(駐車場の関係で)

5月はちょうど「ボタン」の季節!

今回はぜひ駅から歩くコースにしよう!!

車をおいて両側の民家を見ながら進んでいく。でもなんだか昔の雰囲気とは違う。
それはそうだろう。30年前のまま、という訳にはいかない。

大抵のおうちは玄関を花できれいに飾っている。

ピンクと水色のわすれなぐさの二色植え・とてもオシャレ
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このおうちも玄関に、手入れの行き届いた鉢植えを置いて當麻への訪問者を歓迎しているようだ。
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これは當麻町の下水の蓋・お寺の塔とボタンが自慢の町だ。
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あれ、これは鯛釣り草。親切に名前を書いた紙まで貼ってある。
名前を尋ねる人が多いのだろうか?
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やっと、しめ縄をかかげたおうちがあった。このしめ縄は比較的新しそうだ。
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このしめ縄も新しい。写真は失敗したが「5,6年前のもの?」と思えるようなのを掲げてるおうちもある。
上にはミニ払え串三つ、下には垂れが三つ下がってる。
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時の流れは仕方がない。昔の印象とはかなり変わっていた。
でも現在のおうちも住んでる人の雰囲気を感じさせる。
思い出の中の家々は思い出の中にしずまっているのもいいかもしれない。

やっと仁王門

その手前は和風お食事どころとなっている。
昔はこんなお店はなかったなぁ~。

仁王門は三間一戸の楼門です。が行った日には改修中だったのかシートがかけられていた。

境内へ入ってみよう。
おみせが4,5軒でている。屋台の奥に見えるのは「鐘楼」
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当麻寺の境内は散歩自由。
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当麻寺は大阪と奈良県の県境にある二上山の東の麓に位置する。
南阪奈道路で「葛城IC」からはすぐだ、大阪からは近い。
白鳳時代に創建された当麻寺は国宝や重要文化財が大変多い。
参道から石段を上り仁王門をくぐるとゆったりとした広場があり左右に僧坊が連なる。
平安時代には40ほどの僧坊があったとされている。
僧坊はそれぞれ独立した寺でもありそれぞれに牡丹園を持っている。
それだけに、各牡丹園ごとに料金を払うことになる。
双塔園」「中の坊」「奥の院」「西南院」などがある。

◎ボタンを鑑賞するだけなら一箇所入るだけでいいね!

以前行ったときには確か「水琴窟」というものを初めて知った覚えがある。その後あちこちの日本庭園にあると知った。
ネットで調べたら、それは「西南院」」の中にあるらしい。
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水琴窟とは手水鉢やつくばい(茶庭の手水鉢)近くにつりがね状のかめを伏せて地中に埋め、小さな穴から水を落とすと水滴の音が反響して妙音を出す仕掛けになっています。
江戸中期の排水技術として考案されました。名称の定説はなく、音色が琴と似ているためと考えられてます。

各僧坊ではボタン園の入り口で呼び込み?をしている。「ここではハンカチの木が咲いてますよ!」「石楠花も見ごろです!」

今日は町並みウオッチングとボタンがめあてだ。

水琴窟のある西南院へは前に入った事があるから、今回は浄土庭園がある「奥の院」へはいることにした。
◎じつはあまり覚えていないけど~
奥の院の入り口あたりの壁の色がレンガ色で珍しいように思った。
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「浄土庭園」の看板の絵につられて入ったけど、よかった!
大きな石や池の組み合わせで、デザインされた広い庭だ。
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赤いボタンの奥には白い藤も咲いている。
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奥の院からは東西二つの塔も遠望できる。
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先日新沢千塚へいった帰りに橿原神宮を通りかかったら、「あれ、陶器市の看板が、、、」
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ちょっと目の保養に寄ってみたが、ゆっくり見れなかった。
今日は当麻寺でお花を楽しんだ帰りに橿原神宮の陶器市へ寄ることにした。

こんな可愛いお茶碗とマグカップ買ってしまいました。
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                    次回は当麻寺の文化財を紹介しましょう。
                                                     つづく
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by jumgon | 2011-05-10 00:55 | ○当麻寺(奈良県)