古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ:○旧石器時代・国府遺跡( 2 )

国府遺跡 ②

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さて今回は「国府遺跡はどれくらいの人口だったか」と「出土した石器」
について勉強しましょう。
*縄紋前期の国府ムラの人口
日本の縄紋時代の始まりは、今から1万3000年前にさかのぼるという結果がえられ、縄紋前期は6000年前から4600年前、1400年間続いたといいます。(別の意見もあります)
国府ムラの人口は、けつ状耳飾りをヒントにすると、13人、ムラの継続年代から割り出すと、8人あるいは26人という数字がえられます。
縄紋前期の国府ムラの人口は、8人から26人という数字が得られました。かなりの幅がありますが、いずれにしても小規模なムラだったことには変わりがないようです。
う~ん、そんなにすくなかったの?
下の写真は「6000年前の秋の国府村」とパネルに書いてありました。
このイラストを描かれた人は「この当時の村の人口を推定しながら描いた」そうです。
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*この竪穴式住居はいくつぐらいあって、一家族何人ぐらいだったのか?
*平均寿命は?
*結婚はどこか近くの集落の人としてたんだろうか?
こんなコト考えるときりがない。これは学者さんにお任せしないと仕方ないね。
でも近くにも遺跡があるから心配しないで!!

*上の地図で赤いアイコンの所拡大して見たら、どこも川がちかくにあのがわかる。
私たちが想像してるより、遠くの人達とも、水路でつながれば、行き来しやすかったかも、、、、
近在の縄紋前期の遺跡をあたっていくと、国府遺跡から、ほぼ10キロメートル圏内にいくつかの遺跡が見つかります。富田林市の錦織遺跡、八尾市の恩智遺跡、香芝市の狐井遺跡、鶴峯荘第2遺跡などがそれです。
これらの遺跡については二つの考え方があります。
① それぞれ別の集団が残したもので、一時点をとってみれば、遺跡の数だけムラがあった。
② 集団は一つで、ムラが時期的あるいは季節的に移動を繰り返した結果、複数の遺跡が残された。   

・・・・・・・・あんまり詳しくなるとややこしくなるね・・・・・・

こんなのを読むと非常に寂しい情景が目に浮かんできますが、誤解がないようにいっておきます。彼らは決して孤立した存在ではありませんでした。彼らの使った土器や石器は瀬戸内沿岸や山陰と共通の紋様や形をもっています。けつ状耳飾りにいたっては、中国大陸にまでその淵源が求められる装飾品なのです。
つまり、彼らの交流の範囲は、ムラの規模からは想像できないくらい広く、それは彼らのゆとりの証でもあるのです。

下の写真は羽曳野市市、藤井寺市を中心にした石器出土地図です。
薄い水色の部分は現在陸地、
*濃い青色の大和川は現在の大和川で当時は河内潟の中

*赤っぽい部分はサヌカイト産出地、

*●は旧石器時代の遺跡
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随分あちこちから石器が出ているのですね。
下の写真は国府型ナイフ形石器です。
ナイフ形石器には3タイプあるそうですが、どれを見ても違いがよく分からない。
未消化ながら写真を載せます。
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特徴的な翼のような形をした破片(翼状剥片)から作られた石器を国府型ナイフ形石器、その一連の工程を瀬戸内技法と名付けられています。瀬戸内技法はサヌカイトという石材の性質を知り抜いた人々が考え出した、極めてシステマティックな石器作りの方法です。
*実は石器の作り方の図を見ても完全に納得理解していません。
別の機会に勉強する予定です。
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by jumgon | 2010-09-30 20:29 | ○旧石器時代・国府遺跡

国府遺跡 ①

   石器時代の国府遺跡へ

先日藤井寺修羅ホールで玦状耳飾を見ました。
それが出土したのが国府遺跡なんです。
しかもそこは大和川と石川の交差地点の近くなんです。(エガの市があったかもしれない、近辺なんです!)


大和川と石川の合流地点近くに国府遺跡があるのが分かるでしょ。
大和川は古代と今では変わってますが、この合流地点までは古代もほぼそのままです。

現在の国府遺跡はただの原っぱ、もちろん石器時代人も、出てこない。
「なぜ、こんなところ選んで住んだのだろう?」・・・これについては又別の機会に考察します。
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*さて国府遺跡について勉強しましょう
国府遺跡は旧石器時代から続く複合遺跡です。
特に縄文時代には墓地が造られ、100体近くの人骨が見つかっています。
飛鳥時代にはわが国最古の寺院が建立されています。
寺院名は残っていないのですが、字名から衣縫廃寺と呼んでいます。
また、奈良時代には河内国府が設置されますが、所在地は不明です。
     (まだ発掘で見つかってないってこと?)

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*発掘された人骨について
特筆すべきことの一つに叉状研歯(さじょうけんし)人骨の発見があります。叉状研歯とは、聞きなれない言葉ですが、上あごの前歯四本をフォークのように加工することです。縄紋時代には、人生の節目を迎えると、健康な歯を引き抜く抜歯(ばっし)の儀式が盛んに行われました。
たとえば、成人式には、上あごの両側の犬歯を抜き、その痛みに耐えることが一人前の社会人として認められる条件だったようです。

東京大学コレクションⅡ哺乳類・人類よりお借りしてきた写真(これは国府遺跡のものです)
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叉状研歯のある縄文時代頭蓋骨は全国で合計28例。
叉状研歯は縄文晩期に限られ、抜歯風習の最隆盛期にはじめて出現。
東海地方西部から近畿地方に分布したと考えられている。
性別による片寄りはなく、ほぼ1対1の男女比。
年齢分布は広く、若年から熟年に渡る。形成途上のものもけっこう見つかっている。
叉状研歯の遺跡内の出現頻度は決して高くない。発掘人骨全数の割合では数パーセント。

☆爪掻き綴れ織り(織物の種類)の職人さんは爪を糸の細さに合わせてギザギザに削ってるけど、これってまさか「叉状研歯」と関係ないよね!

さて、石器時代の人のアクセサリーを紹介します。いずれも縄文時代晩期
上左のものは鹿角製首飾り(7,5cm)上右(鹿角製腰飾り、7cm)下段の物(イノシシの牙製、足輪、8,9~10,9cm)
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さて、わたしのお気に入りの玦状耳飾り国府遺跡の発掘調査で人骨の頭がい両脇から1対になって見つかったのです。それまで玦状耳飾りは、用途や時代のはっきりしない遺物だったのですが、石器時代の耳飾りだったことが分かったのです。国府遺跡から出土する人骨には、時期の異なるものが混じっていることが分かっています。玦状耳飾りをもつ人骨には抜歯がないことから、抜歯を伴う古い一群がまず墓地をつくり、後にけつ状耳飾りをもつ新しい一群が同じ場所を墓地としたと考える人もいます。
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*穴があいて紐でつないでるのは、薄くて割れやすいために当時の人が補修したものだと考えられている。
だから、耳は相当大きく穴を開けないと耳飾を通すことはできないと思う!!痛くなかったのかしら?

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次回は縄文時代の国府の人口と他の地域とのつながりについて勉強していきたいと思います。
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by jumgon | 2010-09-30 18:01 | ○旧石器時代・国府遺跡