古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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カテゴリ: ○道照・行基・役小角( 4 )

天平の僧 行基

以前から気になっていた行基について書きとめておこう

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gyouki.html
千田 稔著 「天平の僧 行基」
などを参照しました。

行基 ぎょうき
生没年 668(天智7)~749(天平21)
系譜 父は高志氏。高志氏は王仁(わに)の後裔とされる西文(かわちのあや)氏の一族で、即ち百済系渡来氏族。母は河内国大鳥郡の蜂田首の出。
[略伝] 
668年 河内国大鳥郡(現堺市)に生まれる。
683年 15歳で出家。
(出家得度したお寺は、飛鳥寺、大官大寺など諸説ある。飛鳥寺にはこの時道照がいた筈だが~)
692年 24歳の年、受戒。
 (持統5年・行基菩薩伝によれば戒師は高宮寺徳光禅師であると記している。)
◎高宮寺というのは、奈良県御所市(ごせし)にある「高鴨神社」の南西、標高550メートルの所に金堂跡と搭跡の礎石と基壇が残り瓦も出土しています。)

高宮という地名がでてくる、日本書紀・神功皇后摂政5年の記述
新羅の王は使いを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。
皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者が、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。
騙された事が分かった襲津彦は、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

http://jumgon.exblog.jp/i42/に書いています。

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◎この高宮という土地は、高宮寺や高鴨神社のある辺りである。襲津彦の娘・仁徳天皇の皇后、磐之媛の実家があったところです。
◎この地図に蘇我氏勢力圏がのってますね。
呉からやってきた、兄媛・弟媛、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり) の記事に
•雄略14年1月、身狭村主青檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国
身狭・檜隈はこの辺ののことだったのです。 ⇔http://jumgon.exblog.jp/page/2/

ちょっと脱線しました。行基に戻りましょう。

•初め法興寺に住し、のち薬師寺に移る。やがて山林修行に入り、この間に優れた呪力・神通力を身につけた。(このあたりが役小角と共通点を感じる。)
705年頃、(37歳頃)山を出て民間布教を始めたという。

710(和銅3)年の平城遷都の頃には、過酷な労働から役民たちの逃亡・流浪が頻発し、これら逃亡民のうち多くが行基のもとに集まり私度僧になった。

717(霊亀3)年(49才)、朝廷より「小僧行基」と名指しでその布教活動を禁圧される。
この時の詔には「妄に罪福を説き(輪廻説に基づく因果応報の説)、朋党を合せ構へて、指臂を焚き剥ぎ (焼身自殺・皮膚を剥いでの写経)、門を歴て仮説して強ひて余の物(食物以外の物)を乞ひ、詐りて聖道と称して、百姓を妖惑す」とある。
また僧尼が許可なく巫術(舞を以て神を降す)により病者の治療をすることも禁止している。
こうした弾圧にもかかわらず行基集団は拡大を続けた。

722年(養老6)年(54才)には平城京右京三条に菅原寺を建て、以後、京住の官人層(衛士・帳内・資人・仕丁・采女など)や商工業者などにまで信者を広げていった。

723(養老7)年三世一身法は自発的な開墾を奨励し、これを機に池溝開発を始めとする行基の活動は急速に発展、その声望は各地に高まった。行基の影響力を無視し得なくなった。

三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは
●奈良時代前期の養老7年4月17日(723年5月25日)に発布された格(律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため、開墾者から三世代(又は本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。
●法の主な内容
灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。
◇思うように効果があがらなかったようで,20年後には墾田永年私財法が出された。

年代暗記:三世一身の法(ほう)…なにさ(723)3代ばっかしで

731(天平3)年 朝廷は、、高齢の優婆塞・優婆夷の得度を許した。

740(天平12年(行基72才)頃までには行基を薬師寺の師位僧(五位以上の官人と同等の上級官僧)として認める方針をとった。
同年の恭仁京遷都を境に、新京造営・大仏建立といった政府の事業に行基とその弟子の参加が見られるようになる。
•聖武天皇は行基への傾倒を深め、紫香楽遷都直後の745(天平17・行基77才)年正月には、異例の大僧正に任じている。
また平城還都後の747(天平19)年には、光明皇后が天皇の眼病平癒を祈り、行基らに命じて新薬師寺を建立したという(東大寺要録など)。

749(天平21・行基82?才)年1月、聖武天皇に戒を授け、その翌月、菅原寺東南院に遷化し(82歳。続紀によれば80歳)、遺言により火葬に付された。「和尚、霊異神験、類に触れて多し。時の人号(なづ)けて行基菩薩と曰ふ」(続紀没伝)。

◎ 道昭と行基は師弟関係については、師弟関係はなかったとする意見もある。
師弟関係ではなかったとしても、行基が出家してまもなく飛鳥寺にとどまり、そこに唐より帰った道昭がいて「天下行業の徒、和尚に従ひて禅を学べり」(續日本記)とあることから察して、行基が道照の影響を受けたと見るべきだろう。
行基の後年の社会事業、つまり利他業は、道照のもとで学んだことによる見たほうが自然だろう。

道照と行基の関連
629年  道照(0才)
668年  行基(0才)、道照(40才)
669年  道照(41才)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679年  道照(51歳)10月の勅により、京にもどる。
683年  行基(15才)出家    道照(54才)
692年  行基(24才)受戒・道照(64才)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。
693年  行基(25才)薬師寺   道照(64才)
698年  道照(70歳)大僧都に任命される。 (疑問とする説も多い)
700年  道照(72歳)3月10日没
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by jumgon | 2011-06-21 14:08 | ○道照・行基・役小角

道照の父・船恵尺

道昭の父・船恵尺で書き忘れたことがあるので追加します。

道昭の父・船恵尺【ふねのえさか】
 
朝日日本歴史人物事典の解説.
生年: 生没年不詳
7世紀中ごろ,大和王権に仕えた人物。僧道昭の父。
百済 からの渡来人で船氏の祖王辰爾の子か孫という。姓は史,名は恵釈とも書く。
『日本書紀』によれば,
乙巳の変(645)で中臣鎌足,中大兄皇子(のちの天智天皇)らに襲われた蘇我蝦夷が自害したとき,その邸宅にあった「国記」が焼失しようとしたのを火中から取り出して中大兄に献上したと伝える。
このエピソードから元来,文筆に長けた家柄の出である船恵尺が当時,蘇我氏の下で「国記」など歴史書の編纂に当たっていたと考えられる。また西文氏の祖王仁の伝承も,このころ恵尺によって作られたという説がある。<参考文献>井上光貞『日本古代思想史の研究』,山尾幸久『日本古代王権形成史論』
(鈴木靖民)

◎道昭の父・船恵尺と「乙巳の変」、教科書で読んだ歴史が少しずつ具体的に見えてきたように思えます。
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by jumgon | 2011-06-16 22:16 | ○道照・行基・役小角

道照・続日本紀より

道照について「続日本紀」に記述があるので、ここに保存しておきたい。

続日本紀の記述 
和尚は河内国丹比「たじひ」郡の人である。俗姓は船連。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。
 ある時、弟子がその人なりを試そうと思い、密かに和尚の便器に穴を空けておいた。そのため穴から漏れて寝具を汚した。和尚は微笑んで「いたずら小僧が、ひとの寝床を汚したな」と言っただけで一言の文句も言わなかった。
◎えっ、寝床に便器をおいて寝ていたの?
 はじめ孝徳天皇四年に遣唐使に随行して入唐した際に、玄奘三蔵に会い、師と仰いで業を授けられた。三蔵は道照を特に可愛がって同じ部屋に住まわせた。ある時、次のように言った。
◎白雉4年(653年)出発の遣唐使船で入唐したとあちこちの書で書いてあるが、孝徳天皇四年は649年になるので矛盾する。
 「私が昔、西域に旅した時、道中飢えに苦しんだが、食を乞うところもなかった。突然一人の僧が現れ、手に持っていた梨の実を私に与えて食わせてくれた。私はその梨を食べてから、気力が日々健やかになった。今お前こそはあの時、梨を与えてくれた法師と同様である」
と。また次のようにも言った。
 「経論は奥深く微妙で、究めつくすことは難しい。それよりもお前は禅を学んで、東の国の日本に広めるのがよかろう」と。
道照和尚は教えられたことを守って、初めて禅定(座禅)を学び、悟ることが次第に広くなった。その後、遣唐使に随って帰朝するとき、別れ際に三蔵は所持した舎利と経論を悉く和尚に授けて言った。
 「論語に-人間こそよく道を広めることができる-という言葉がある。今この言葉を私はお前に付け足して贈りたい」と。
 また一つの鍋を和尚に授けて言った。
 「これは私が西域から持って帰ったものである。物を煎じて病の治療に用いると、いつも霊験があった」と。
 そこで和尚は謹んで礼を述べ、涙を流して別れた。
 帰国の一行が登州(山東省北部の港)についた頃、使いの人々の多くが病気になった。和尚が鍋を取り出して、水をあたためて粥を煮て、遍く病人たちに食べさせた。するとその日すぐに、病気が治った。そこで纜[ともづな]を解いて海に乗り出した。
          

 海のただ中に及んだ頃、船が漂いだしてどうしても進まず、七日七夜にもなった。皆が怪しんで「風の勢いは快調である。出発以来の日を数えると、本国日本に着ける筈だ。それなのに船が敢えて進まないのは、思うに、何かの訳があるのだろう」と言った。
占い師(陰陽師が同船することになっていた)が、「海神竜王が鍋を欲しがっているのだ」と言った。これを聞いた和尚は「この鍋こそは三蔵法師が、私に施して下さったものです。どうして竜王が無理に求めようとするのでしょうか」と言った。しかし皆の者は「今、鍋を惜しんで与えなかったら、恐らく船が覆って全員魚の餌食になるだろう」と言った。そのため和尚は鍋を取って海中に投げ入れた。すると忽ち船は進みはじめ、一行は日本に帰りついた。

 道照和尚は元興寺(飛鳥寺)の東南の隅に禅院を建てて住んだ。この時、国中の仏道修行を志す者たちは、和尚に従って禅を学んだ。
後に和尚は天下を周遊して、路の傍らに井戸を堀り、各地の渡し場の船を造ったり、橋を架けたりした。 
山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。
◎「山背国の宇治橋は、和尚が初めて造ったものである。」
これには異説があります。

和尚の周遊はおよそ十余年に及んだが、寺に還って欲しいという勅があり、禅院に戻って住むようになった。
 座禅は旧の如く熱心に重ねた。
そしてある時は三日に一度起ったり、七日に一度起ったりする状態であったが、ある時、俄かに香気が和尚の居間から流れ出した。弟子たちが驚き怪しんで居間に入り、和尚を見ると、縄床(縄を張って作った腰掛)に端座したまま、息が絶えていた。時に七十二歳であった。

 弟子たちは遺言の教えに従って、栗原(高市郡明日香村栗原)で火葬にした。
天下の火葬はこれから始まった。
世の伝えでは、火葬が終わったあと、親族と弟子が争って、和尚の骨を取り集めようとすると、俄かにつむじ風が起こって灰や骨を吹き上げて、何処に行ったか分からなくなった。
当時の人は不思議がった。
のち、都を奈良に移すとき、和尚の弟と弟子たちとが、天皇に上奏して、禅院を新京(平城京)に移築した。今の平城京右京の禅院がこれである。
◎現在の元興寺のことです。
この禅院には経論が沢山あり、それらは筆跡が整って良く、その上誤りが無い。すべて和尚が唐から持ち帰ったものである。


○栗原(高市郡明日香村栗原)
檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 もとは、「呉原」。呉の人々が移住定住した地という意味だったようです。
 「日本書紀」   
雄略14年 1月 
   身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。
   雄略14年 3月 
   臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
   衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。


http://lunabura.exblog.jp/「ひもろぎ逍遙」にこれに関する記事があります。

応神天皇の頃に、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の四名の姫が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝える為に招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています。

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by jumgon | 2011-06-13 10:42 | ○道照・行基・役小角

道照と役小角

役小角や行基に興味をもちだした私が今注目しているのは道照という僧です。

道照は役小角や行基と接点のある僧なのです。

今回は「道照と役小角」の関係を探っていきましょう。

道照(道昭)  629年生れ~700年没
役小角     634年生れ~701年没
ほぼ同時代の人物です。

●まず道照の履歴を見ていきましょう。
629舒明1年( 1歳)河内国丹比郡に生まれる。若くして飛鳥寺(元興寺)に住む。
653白雉4年(25歳)5月、遣唐使、貞慧もこのとき参加。玄奘三蔵に師事。

◎貞慧(貞慧・定恵とも書かれる)は藤原鎌足の長男、不比等の兄です。満10歳?

661斉明7年(33歳)この頃帰国。元興寺の東南隅に禅院を建立。弟子に行基など。

669天智8年(41歳)この頃より10年位「外遊」。船を造り、橋を造り、井戸を掘ったとある。
679天武8年(51歳)10月の勅により、京にもどる。
680天武9年(52歳)天武天皇の勅願により、往生院(大阪府泉南市牧野)を開基。
692持統6年(64歳)薬師寺に招かれ、繍仏の開眼講師を務める。

698文武2年(70歳)大僧都に任命される。(疑問とする説も多い)
700文武4年(72歳)3月10日没。座禅のまま没した。「記録上火葬された最初の人物」

◎653白雉4年(25歳)5月、遣唐使として、中臣鎌足の長男貞慧らとともに参加します。中国ではあの孫悟空で有名な玄奘三蔵に師事したとあります。玄奘三蔵について気になる記事があるので引用いたします。
http://www.sportsclick.jp/combat/01/index10.htmlより
●玄奘三蔵について
インドへ取経の大旅行を敢行したあの玄奘三蔵は少林寺で修行したことがあると思われる。。

●嵩山少林寺
拳法の寺として知られる嵩山少林寺の開基者・仏陀禅師はインドの人で諸国をへめぐった後、北魏の孝文帝の庇護により嵩山少林寺を開創(496年)する。
仏陀禅師の高弟・慧光、僧稠も武術をよくしたといわれ、その法系には仏陀禅師が没し、その10年あまり後にダルマさんの愛称で親しまれているインド僧・達磨が中国にやって来た。

◎この記事を見ると、道照や貞慧も玄奘三蔵から拳法(武術)の修業を受けたと思われる。

さて道照は660斉明6年(32歳)頃帰国したようです。もといた元興寺の東南隅に禅院を建立し、ここを基点に修行したようです。

そこでこの役小角と道照の接点です。
日本霊異記に紹介された役小角を「聖」すぐれた能力者であると認めた人物に道照がいます。
道照について、続日本紀はまれにみる長文をもって彼の小史を載せています。

日本霊異記22にも載せられた讃辞より長いのです。朝廷からの信頼の大きさがわかる一文です。

その道照が若い頃から修行に励む役小角を褒め称えたようです。山に籠り厳しい修行を自分に課す仙人、役小角行者を知るものだからこその讃辞です。

黒岩重吾氏は「役小角仙道剣」で役小角にこうした舶来の学問を授けたのは、道照あたりではなかったと卓越した視点で書いておられます。

伝承でも650白雉1年 役小角17歳のとき、飛鳥寺(元興寺)で、孔雀明王の呪法を学ぶとあります。このとき、道照も飛鳥寺にいたはずです。唐に留学する前ですね。少なくとも、この頃から道照と役小角は知り合いであるわけです。


○孔雀明王とは
元々は梵名は孔雀を意味するマカマユリ。
孔雀は毒蛇を食すので一切の害毒を除き浄化する功徳を神格化した女性の明王。仏母大孔雀明王菩薩ともいいます。
 インドではコブラなどの毒蛇を食べる孔雀を益鳥として大切にしていました。
毒蛇は人の世の煩悩や汚れにたとえられるので、毒蛇を退治する孔雀は神格化されました。また、雨期の到来をいち早く告げてくれるので慈雨をもたらす有り難い鳥としてインドの国鳥にもなっています。

経典と信仰
「仏母大孔雀明王経・不空訳」。「「孔雀王呪経」に孔雀明王が前生で僧であったとき毒蛇にかまれ死んだので蛇毒を除く誓願を立てたとされる。
修験道の開祖、役小角(えんのおづぬ)はこの孔雀明王を信仰して超人的仙術を得、飛行自在になったという。
◎飛行自在だなんて、ちょっと信じられない!!
 高度な肉体能力があったので、誇大に神秘化されたのだと思う。
 でも役小角は道照や行基とは違ってその力を社会事業には発揮しなかったのですね。
 ただの超能力者におわったみたい。(これはわたしの単なる印象です。)


また、天台密教の伝教大師最澄、真言密教の弘法大師空海など密教でもこの仏を重要視し雨乞いや息災を祈願する孔雀明王法が修された。平安後期から鎌倉時代にかけ信仰を集めた。


もう少し、道照を追います。

続日本紀 700文武4年

「3月10日 道照和尚が物化(死去)した。天皇はそれを大変惜しんで、使いを遣わして弔い、物を賜った。和尚は河内国丹比郡の人である。俗姓(出家前の姓)は船連、父は少錦下(従五位下相当)の恵釈である。和尚は持戒・修行に欠けることがなく、忍辱(忍耐)の行を尚んだ。~」宇治谷孟 訳

日本で記録上、火葬すなわち荼毘に付された最初の人物と言われています。

そして、2年後、702大宝2年12月22日、持統太上天皇も火葬されました。

皇室でも初めてのことと言われます。明らかに、道照を見習ったものです。道照の教えに大きな影響をうけ仏教に帰依したものです。

これはとんでもないことだったはずです。一般の古い風習に従わず、愛し尊敬し続けた夫、天武天皇の持つ死後の道教の概念を踏襲することなく、自分の肉体を1年後の12月17日とはいえ火葬させたのです。
この一年におよぶ殯(もがり)の儀式は行われ、復活への思いは残したようです。

◎持統天皇が自分を火葬させたなんて知らなかった。
私の持統天皇へのイメージはこれで変わりました。

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by jumgon | 2011-06-08 00:25 | ○道照・行基・役小角