古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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<   2010年 08月 ( 17 )   > この月の画像一覧

唐古・鍵ミュージアム

昨日古・鍵遺跡へ行った。
遺跡には、楼閣の絵画土器をもとに復元した楼閣を唐古池上に復元している。
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この遺跡があるのは奈良県磯城郡田原本町で、その一帯にはたくさんの遺跡や出土品があって、全国でも出土例が少ない「蛇行状鉄器」が団栗山古墳という小さな古墳から出ている。(現物は国立博物館で展示されている)
唐古・鍵遺跡は、弥生時代の大環濠集落である。(この前行ったメタ神社のある稗田環濠集落は鎌倉末期から室町期にかけての中世の戦乱時に多く築造されている。)

現在の水田下約50cmに2千年前の生活に関する様々な遺物が眠っている。
発掘調査では、集落を囲む環濠や竪穴住居、井戸、青銅器の工房跡、木棺墓などが検出されている。
また、多量の土器や石器のほか、楼閣などの絵画土器、岡山県東部や静岡県西部からの搬入土器、青銅器の鋳造に伴う鋳型など弥生時代でも貴重な遺物が多い。特に絵画土器は、唐古・鍵遺跡とその分村である清水風遺跡の2遺跡で、全国の絵画土器出土総数の約半分を占める。
出土遺物は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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盾持人埴輪(顔に刺青があるのがわかりますね。)
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こんなきれいなアクセサリーのパーツもある。
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わたしがここで一番気に入ったのは褐鉄鉱の宝石箱だ。
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1褐鉄鉱容器80次縦14.5㎝横13.2㎝中期ゲート展示ケース
2ヒスイ勾玉80次長さ4.6㎝中期
3ヒスイ勾玉80次長さ3.6㎝中期
4土器片(甕)80次横8.2㎝中期

☆奈良市から平群町にかけて分布する200万年前の大阪層群中で形成される褐鉄鉱は、良質な粘土の周辺に鉄分が凝縮して生成された自然の好物です。
褐鉄鉱の内部の粘土は乾燥収縮し、それが内壁にあたって音をたてる為、江戸時代の好事家の間では「鳴石」や「鈴石」として珍重されていたという。
実際に手にとることができ、振ると鈴みたいな音がした。
ミュージアムには、褐鉄鉱に2個のヒスイ勾玉をいれ、土器片で蓋をしたと推定されるものが展示されていた。
まさにヒスイ勾玉をいれた宝石箱といえます。

こんな子持ち勾玉というのもあった。(長さ、約6,5cm)
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by jumgon | 2010-08-30 20:34 |  ○唐古・鍵ミュージアム

藤井寺シュラホール

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遠くからでもよく目に付く建物です。古墳の濠から出てきた修羅をイメージしてたてられました。ご存知かと思いますが修羅の説明。
修羅とは重い石材などを運搬する為に用いられた木製の大型そりで、機械のなかった時代に重い物を運ぶ重要な手段でした。実物は保存処理されて、藤井寺市立図書館と近つ飛鳥博物館にあります。
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次に津堂城山古墳で発掘されたものを紹介します。
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水鳥と衣蓋形埴輪。水鳥の埴輪は高さ1mを超えるもの二体と、やや小型のもの1体の計3体あります。
現在知られている水鳥埴輪の中では最古最大のものです。
空から見た津堂城山古墳
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又、墳丘は消滅していますが岡古墳から出土した船型はにわ、円筒形はにわ、朝顔形はにわも展示されています。
船形埴輪は出土数が少なく全国で20数例が知られていますが、(1993,4月現在)その大半は近畿、しかも大阪府と奈良県に集中しています。さらに出土した古墳は、円墳や方墳といった小型の古墳に限られるという特色をもっています。
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次ぎは土師ノ里8号墳(古墳時代の中期)の発掘当時の様子と円筒棺
(墳丘は消失しています)
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さて修羅と土師の里遺跡の関係に目を向けてみましょう。修羅が出土した場所は、土師の里遺跡のど真ん中にある三ツ塚古墳の濠からでした。土師の里遺跡は古墳造りに活躍した豪族土師氏の本拠地として知られています。修羅の使われた年代には5世紀説と7世紀説があってどちらとも決めがたい状況にありますが、いずれにしても土師の里遺跡に本拠をおく土師氏が古墳造りに勤しんでいた時代であります。ということは、修羅は土師氏が古墳造りの工程の中で使っていた可能性がすこぶる高いのです。
現在も「土師ノ里」という駅名があります。
野中古墳出土の甲冑
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by jumgon | 2010-08-28 11:05 | ★資料館・博物館
石器時代というとあまりに話が古くそんなこと調べてたら、頭が混乱する!

でも、藤井寺・羽曳野には石器時代の遺跡が残ってるのだ!
(国府遺跡)旧石器時代から、縄紋・弥生時代の人骨の出土など古くから学会に注目されている。現在までに100体近くの人骨が確認された。
縄紋時代の人骨は、手足を折り曲げて埋葬された状態(屈葬)で確認され、当時の新聞は、世界的にも稀な例として国府遺跡人骨出土の報を伝えました。
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出土した玦((ケツ)状耳飾り(シュラホール展示)
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これは人骨にくっついた状態で出土したそうです。こんなイヤリング見てるとかなりオシャレで、原始的なぼろ服まとった縄文人のイメージが覆される。

羽曳野市にも、、、、(翠鳥園遺跡)がある。

羽曳野丘陵の一帯には旧石器人の生活の跡が数多く残っています。向こうに見える二上山のふもとからサヌカイトが運ばれ、石器が作られていました。
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(●が翠鳥園遺跡) 翠鳥園遺跡では石器類は遺跡のあちこちに散らばっているのではなく、1mmから2mほどの限られた範囲にまとまっています。石器類が集中する場所の中には、打ち割られた石片や石くずが飛び散ったようすがそのままに保たれているものもあり、そこが石を割った場所、すなわち石器作りの場所(アトリエ)であったことがわかります
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by jumgon | 2010-08-27 19:35 | ★資料館・博物館

蛇行状鉄器

蛇行状鉄器
(ひもろぎ逍遥)というブログで蛇行状鉄器というもの存在を知った。出土数の少ない珍しいものです。
奈良近辺に出土したものがないか、、、、と思い調べて見た。
法隆寺のそばにある藤の木古墳はどうだろう?
確か聖徳太子が馬に乗っていた絵を見たことがある。
藤の木古墳からは華麗な馬具が出ているし~
でも残念!(蛇行状鉄器)は出ていない~。

だが、飛鳥寺の塔心礎の埋蔵物に蛇行状鉄器があったのだ!!だけど、あまり腐食が進み完全な形ではない。
ところが、奈良近辺に、、、
あっ、あった!!
有名な唐古鍵遺跡の近くの奈良県磯城郡田原本町大字矢部にある(団栗山古墳)からでてきたのだそうだ。かなり、よい状態で出土している。
ところが現物は東京の国立博物館にあるとのことだ。残念!!
せっかく近くだから見に行こうと思ったのに、、、、、。
仕方がない。国立博物館の情報を見てみよう。
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埼玉県で、旗を立てた馬形(うまがた)埴輪が日本でただ一点のみ見つかっている。旗を立てた馬形(うまがた)埴輪(はにわ)(酒巻14号墳)
とというのだ。だいたい上のイラストみたいな感じのはにわだ。

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この旗を立てた馬は、従来、用途が明確でなかった「蛇行状鉄器」を表現したもので、「蛇行状鉄器」の機能を示すものとして重要であり、国内では)(酒巻14号墳)のほか、出土例はない。出土した埴輪は、全体的に復元率が高く、残存状態が良好である。酒巻14号墳出土の埴輪は平成20年(2008)6月に一括して国の重要文化財に指定された。

 朝鮮半島では、高句麗(こうくり)の古墳の壁画の中に、この馬と同じ状態の絵が残されています。
 

しかし日本では、これまでその使用状態を表現したものは何もありませんでした。
 そこに出土したのがこの馬の埴輪で、日本でもこの鉄器を旗竿として使用していたことを証明する唯一のものです。  行田郷土博物館所蔵・行田市本丸17-23
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by jumgon | 2010-08-26 21:38 | ★言語、歴史
「蝶々はなぜ菜の葉にとまるのか」稲垣栄洋 著 日本人の暮らしと身近な植物

わたしは植物が好き!そしてその不思議な営みや由来を調べたいと思って読んだ。軽い本なので疲れないし、知っていてたのしいエピソードがイッパイ書かれてる。
例えば、、、、
今の時代はお正月に門松をたてる。(昔みたいに立派な門松を立てる家もほとんどなくなったが、、、、)もともとは来訪する年神さまを向かえるために榊や樒などの常緑樹が家の入り口に飾られていた。松が主役になったのは平安時代後期、(中国でめでたいとされている松が正月の主役としてかざられるようになった。)、、、、
その他、お寿司を守るさまざまな植物とか~
興味ある人は読んで見て、、、。別にコマーシャル頼まれた訳じゃないけど
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by jumgon | 2010-08-26 10:54 | ★読書・放送・講演会

古代人は海流にのって

先日、市の講座「古事記を読む」で講師の先生が述べておられた。
韓国から対馬海流にのれば自然と博多あたりに流れ着く。そこで降りずにもたもたしてると出雲まで行ってしまうし、また降りそこなったら、福井県敦賀あたりまで行ってしまう。
ウーム!なるほど!!縄文や弥生時代の人々が移動するのは現在よりかなり難しいと思い込んでいたけど、現在の我々が想像してる以上に行動範囲は広かったのだ!!

小学校で習った海流の復習をしよう。
●日本近海の海流
日本近海には大きく分けて4つの海流が流れています。
フィリピンあたりから流れてくる暖かい海流「黒潮(日本海流)」、沖縄あたりで黒潮から北へ分かれて対馬海峡、日本海へ向かう「対馬海流」、北太平洋やオホーツク海から流れてくる冷たい「親潮(千島海流)」、間宮海峡付近から南下してくる「リマン海流」があります。
●「黒潮」は流れが速く比較的プランクトンの量も少ないため透明度が高く、深い紺色をしているので黒潮と呼ばれています。南の暖かい海で育った魚が潮にのってやってきます。
●「対馬海流」は対馬海峡を経て日本海沿岸を流れていきます。そのため古代から朝鮮や大陸との交易に利用されてきました。太古の神話の国「出雲」が繁栄したのは対馬海流のおかげだと言われています
黒潮は世界でも最大級の強い流れの海流として知られ、北大西洋の湾流とともに世界2大潮流のひとつです。海水表面の速さは毎秒2mをこえるほどで、時速になおせば7.2km、小走りするぐらいの速さになります。
 もうひとつの暖流に、対馬海流があります。対馬海流は沖縄の近くで黒潮からわかれ、対馬海峡をとおって日本海へ入ります。山陰沖、能登沖で大きくうねりながら、一部は津軽海峡をぬけて太平洋へ出ていきます。
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この図を見れば、かなり納得!
そう言えば縄文時代から「翡翠(ヒスイ)の道」もあったんだもの~ね
糸魚川市のパンフレットより
縄文時代 「翡翠(ヒスイ)の道」
 平成6年の青森県三内丸山遺跡の発掘にて信州「和田峠」産出の黒曜石、ヒスイが出土した。ヒスイは糸魚川が日本唯一の産出地である。これらは陸路姫川沿いを日本海へ運ばれ 舟にて対馬海流にのり津軽に到着できたといわれる。日本各地からもヒスイが出土する、これらもまた姫川沿いを往来したのではないか

 
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by jumgon | 2010-08-23 18:14 | ★歴史散歩、講演会

平城旧跡 ①

昨日、平城遷都1300年祭「光と灯りノフェア」へ行ってきた。
7~10年位前だと記憶するが一度行ったことがある。その当時は朱雀門だけがポツンとたっており、だだっ広い広場だった。その時にはすでに(遺構展示館)はあり、掘った土地のうえに建物を覆いかぶせたように建っていた。
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初めて奈良の観光に来た人が近鉄電車に乗ると、西大寺から新大宮駅までのすっぽりと空いたこの空間に驚かされることでしょう。ここが1300年前に都の中心があった場所です。
 平城京は唐の長安にならって作られた都で10万人の人が住んでいました。朱雀門より北側の区画は天皇の住まいとして儀式や政治行事が行われていた平城宮でいわゆる御所です。

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 そう考えるとよくこんな場所に電車が走っているなと思うのですが、近鉄電車の前身である大阪電気軌道が1914年(大正3年)に開通時はまだ史跡として保護されていませんでした。
平城宮跡の保護に尽力を注いだのは、「棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)」です。奈良公園の植木職人であった嘉十郎は場所がわからなくなるほど荒れ果てた平城宮跡を保存する為、上京し多くの著名人の署名を集め地元の有志に援助を求めます。 
その努力が実り1910年(明治43年)には平城遷都1200年祭を成功させ、(遷都1200年祭もあったんだ!!)
1913年(大正2年)には「奈良大極殿趾保存会」が設立され念願がかないます。
その後1921年(大正10年)に私財を使い果たし心労で嘉十郎は自害してしまうのですが、翌年には支持者の努力により国の史跡として保護されることになります。銅像の右手には平城宮跡から出土した瓦、左手は大極殿跡を指差しています。
 国の史跡となってから実際に発掘作業が開始されるのはずいぶん時間が経って昭和の戦後から開始されました。
 今まで復元された建物に、平成10年に完成した朱雀門があります。朱雀とは鳳凰(ほうおう)の事です。高さ22m、間口約25m、奥行き10mありなかなか立派です。
朱雀門とお月様
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 この朱雀門から南に伸びる道が平城京のメインストリートの朱雀大路です。幅74mあり大和郡山市にある羅城門跡まで約4kmまっすぐ伸びていました。先日訪問した大和郡山市のメタ神社からは近い。) 大和郡山市観音寺町が羅城門のあった辺りです。少し南の方にさがるとメタ神社があります。

現在はすぐ南の国道までしかないのですが、全体を公園として復元する計画があるようです。

平城京の入口であり羅城門をくぐると、75mもの幅をもつ朱雀大路がまっすぐ北に向かってのびていました。そして、その4km先には平城宮の正門である朱雀門が建っていました。
朱雀門の前では外国使節の送迎を行ったり、時には大勢の人達が集まって歌垣なども行われました。正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ6mの築地がめぐり、130haの広さの宮城をとりかこんでいました。朱雀門は衛士によって守られ、常時開いていたわけではありませんが、宮の正門としての権威とともにその雄姿を内外に誇示していたと思われます。ライトアップの時間帯には、すべて施設は入場できないけれど、この猛暑に、昼間は外出する気にならない。
雰囲気を味わいに行った。すごい人で簡単に周っただけだ。又涼しくなったら、再訪しなければ、、、、、、。
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この不思議なバルーン、私は撮影失敗したので公式サイトから
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ライトアップされた大極殿
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by jumgon | 2010-08-22 17:29 | ★歴史散歩、講演会
杉本 苑子 「二条院の讃岐」
「二条院の讃岐」という女性について、四人の女性が語るという構成になっている。
院政時代が背景なのでなかなかややこしい。
白河天皇(白河上皇)、鳥羽天皇(鳥羽上皇)、後白河天皇(後白河上皇)、崇徳天皇(崇徳院)、二条天皇(二条院)、源頼政、信西、源義朝、平清盛、以仁王、まで登場する時代の流れが語られる。
よく似た名前が多いので、ごっちゃになってしまう。歴史の流れはそのままで、登場人物は、作者が肉付けしたものだと思うが、そのおかげで、百人一首の作者と人物像が重なって、「ああ、そういうわけで、二条院の讃岐」って名前がついたんだ、とか分かって面白い。

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「我が袖は汐干に見えぬ沖の石の人こそ知らね乾くまもなし」  二条院の讃岐
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「長からむ心も知らず黒髪の乱れて今朝は物をこそ思へ」   待賢門院の堀川

「梁塵秘抄」を編んだのは、後白河天皇であるとか、、、

登場人物のイメージが正しいとも思わないが、時代を人物と一緒につかむ事でこのややこしい時代が少しは頭に入ったようだ。
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by jumgon | 2010-08-18 12:35 | ★読書・放送・講演会

石上神宮

石上神宮を訪れる。こんな暑い日は、神社の木漏れ日涼しい神さびた道が懐かしい。
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この神社には鶏がたくさん放し飼いされている。
<鳥居→鳥居>の連想から、神の使いめいた雰囲気が漂う。
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でもちょっと待って!
私の娘の友人が小学生の頃、近所のお祭りでゲットした(ひよこ)、大きくなって面倒見切れなくなって「石上神宮に放しにいった。」と聞いた事がある!!
この鳥たちいったい何時から居るのやら~、、、
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さて、石上神宮の歴史を、ウィキペディア>、その他から
古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓に鎮座する。非常に歴史の古い神社で、『古事記』・『日本書紀』に既に、石上神宮・石上振神宮との記述がある。古代軍事氏族である物部氏が祭祀し、ヤマト政権の武器庫としての役割も果たしてきたと考えられている。
古くは斎宮が居たという。その中で、本当に斎宮であったかどうか議論が多いが、布都姫という名が知られている。また、神宮号を記録上では伊勢神宮と同じく一番古く称しており、伊勢神宮の古名とされる「磯宮(いそのみや)」と「いそのかみ」とに何らかの関係があるのかが興味深い。

社伝によれば、布都御魂剣は武甕槌・経津主二神による葦原中国平定の際に使われた剣で、神武東征で熊野において神武天皇が危機に陥った時に、高倉下(夢に天照大神、高木神、建御雷神が現れ手に入れた)を通して天皇の元に渡った。
その後物部氏の祖宇摩志麻治命により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったのが当社の創建である。
天武天皇3年(674年)には忍壁親王を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したはずだが、
日本後紀 巻十二 桓武天皇 延暦二十三年(804年)二月庚戌 条に
代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国 葛野郡に移動したとき、人員延べ十五万七千余人を要し、移動後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こった。
使者を石上神宮に派遣して、女巫に命じて、何故か布都御魂ではなく、布留御魂を鎮魂するために呼び出したところ、女巫が一晩中怒り狂ったため、天皇の歳と同じ数の69人の僧侶を集めて読経させ、神宝を元に戻したとある。

当時それほどまで多量の神宝があったと推測される。
この神社には本来、本殿は存在せず、拝殿の奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」などと称して祀り、またそこには2つの神宝が埋斎されていると伝えられていた。1874年の発掘を期に、出土した剣(布都御魂剣)や曲玉などの神宝を奉斎するため本殿を建造。1913年には、本殿が完成した。禁足地は今もなお、布留社と刻まれた剣先状石瑞垣で囲まれている。
国宝
•拝殿-入母屋造、檜皮葺き。鎌倉時代。
o白河天皇が新嘗祭を行う皇居の神嘉殿を拝殿として寄贈したとの伝承がある。
•摂社出雲建雄神社拝殿(せっしゃいずもたけおじんじゃはいでん)-内山永久寺(天理市杣之内町にあった廃寺)から1914年に移築したもの。正安2年(1300年)頃の建立。建物の中央部分を土間の通路とした「割拝殿」と呼ばれる形式。
七支刀(しちしとう、ななつさやのたち)-銘文の中に369年に当たると推定される「泰和四年」の年紀が刻まれ、刀はその頃に百済で製作されたと考えられている。
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重要文化財
•楼門-文保2年(1318年)建立
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石上神宮の鎮魂祭についての記述から引用、
この中の儀式で、まことに奇妙な神事があります。
布瑠の言 布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。
「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。
饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている
十種神宝とは
『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。
分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

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by jumgon | 2010-08-16 19:14 |  ○石上神宮

売太神社

8月15日、稗田阿礼を祀る売太神社を訪問。
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「阿礼祭」の前日に訪れたのは正解だった。駐車場が2,3台分しかないから16日に来てたら車を止められないところだった。

勿論ご存知ですよね!
「稗田阿礼」って!

稗田阿礼の暗誦したものを、太安万侶が筆録したのが「古事記」なんです。

でも、よく知らない人も結構いるみたいだから紹介します。古事記の序文に書かれています。

古事記の上巻には序文が付加されており、標題として「古事記上巻并序」と記されている。「并序」の読み方は「序(じょ)を并(なら)ぶ」「并(なら)びに序(じょ)」「序(じょ)を并(あは)せたり」等様々であるが、意味はどれも同じである。
 序文は編者の太安萬侶(おほのやすまろ)から第43代元明(げんめい)天皇への上奏文(じょうそうぶん)という体裁(ていさい)をとっており、本文とは異なりすべて漢文体で書かれている。そのため古代中国の典籍(てんせき)(文献)に拠(よ)る難しい語句等が多用されているが、解説すると餘計に難しくなるため、ここでは現代語訳においてなるべく簡単に読めるように配慮(はいりょ)した。
 この序文には、古事記本文の大まかな流れや古事記編纂の経緯(けいい)が記されているが、それによると、
第40代天武(てんむ)天皇が古事記編纂を企画し、舎人(とねり)(雑用係)であった稗田阿禮(ひえだのあれ)が『帝紀(ていき)』『旧辞(きゅうじ)』といった古伝承を暗誦(あんしょう)し、それを太安萬侶(おほのやすまろ)が筆録して、元明(げんめい)天皇の御世(みよ)(712年)に完成・献上されたものであるという。

稗田の地は太古より天宇受売命を太祖とする猿女君(さるめのきみ)(稗田氏)が居住していた。この稗田は環濠集落として有名であり、古の大族であった稗田の猿女の君の邸宅の跡と言われる。売太神社はその祖先の廟祠とおもわれる。

社名も「三社明神」→「十三社明神」(明治7)→「売田神社」(明治24)→「売大神社」(昭和17=田を売るを嫌ったため)と変遷しており、中世は祭神不詳であった。
阿礼祭(8月16日)は、昭和5年8月16日に、奈良県童話連盟が発起し、巌谷小波・久留島武彦・岸邊福雄をはじめ全国の董話家が参集し、お話の神としておまつりをしたのに始まる。

わたしはあちこち歴史の道を散歩して「環濠集落」と記されたところをいくつか行ったが、「環濠ってなあに?」と言いたくなるほど、、、堀なんて残ってなかった。(私が気づかなかっただけ?)
稗田は環濠がしっかり残っていて、貴重な歴史遺産だと思った。

稗田環濠及び集落

大和郡山市指定史跡 稗田環濠及び集落
稗田環濠は、環濠集落の代表的なものとして貴重な存在であり、且つ原型に最も近い姿で現存している点、全国的にもその例を見ないものである。築造された年代等については、判然としないが、大和平野に散在する200近い環濠が鎌倉末期から室町期にかけての中世の戦乱時に多く築造されていることから、同環濠もこの時代に外的からの防御や、農業用水の確保を目的に築造されたものと考えられている。
周囲2414.5m 幅最長ヶ所14m 最短ヶ所4m
昭和51年3月 大和郡山市教育委員会
社頭掲示板
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by jumgon | 2010-08-16 11:21 | ★寺院・神社