古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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<   2010年 09月 ( 16 )   > この月の画像一覧

国府遺跡 ②

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さて今回は「国府遺跡はどれくらいの人口だったか」と「出土した石器」
について勉強しましょう。
*縄紋前期の国府ムラの人口
日本の縄紋時代の始まりは、今から1万3000年前にさかのぼるという結果がえられ、縄紋前期は6000年前から4600年前、1400年間続いたといいます。(別の意見もあります)
国府ムラの人口は、けつ状耳飾りをヒントにすると、13人、ムラの継続年代から割り出すと、8人あるいは26人という数字がえられます。
縄紋前期の国府ムラの人口は、8人から26人という数字が得られました。かなりの幅がありますが、いずれにしても小規模なムラだったことには変わりがないようです。
う~ん、そんなにすくなかったの?
下の写真は「6000年前の秋の国府村」とパネルに書いてありました。
このイラストを描かれた人は「この当時の村の人口を推定しながら描いた」そうです。
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*この竪穴式住居はいくつぐらいあって、一家族何人ぐらいだったのか?
*平均寿命は?
*結婚はどこか近くの集落の人としてたんだろうか?
こんなコト考えるときりがない。これは学者さんにお任せしないと仕方ないね。
でも近くにも遺跡があるから心配しないで!!

*上の地図で赤いアイコンの所拡大して見たら、どこも川がちかくにあのがわかる。
私たちが想像してるより、遠くの人達とも、水路でつながれば、行き来しやすかったかも、、、、
近在の縄紋前期の遺跡をあたっていくと、国府遺跡から、ほぼ10キロメートル圏内にいくつかの遺跡が見つかります。富田林市の錦織遺跡、八尾市の恩智遺跡、香芝市の狐井遺跡、鶴峯荘第2遺跡などがそれです。
これらの遺跡については二つの考え方があります。
① それぞれ別の集団が残したもので、一時点をとってみれば、遺跡の数だけムラがあった。
② 集団は一つで、ムラが時期的あるいは季節的に移動を繰り返した結果、複数の遺跡が残された。   

・・・・・・・・あんまり詳しくなるとややこしくなるね・・・・・・

こんなのを読むと非常に寂しい情景が目に浮かんできますが、誤解がないようにいっておきます。彼らは決して孤立した存在ではありませんでした。彼らの使った土器や石器は瀬戸内沿岸や山陰と共通の紋様や形をもっています。けつ状耳飾りにいたっては、中国大陸にまでその淵源が求められる装飾品なのです。
つまり、彼らの交流の範囲は、ムラの規模からは想像できないくらい広く、それは彼らのゆとりの証でもあるのです。

下の写真は羽曳野市市、藤井寺市を中心にした石器出土地図です。
薄い水色の部分は現在陸地、
*濃い青色の大和川は現在の大和川で当時は河内潟の中

*赤っぽい部分はサヌカイト産出地、

*●は旧石器時代の遺跡
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随分あちこちから石器が出ているのですね。
下の写真は国府型ナイフ形石器です。
ナイフ形石器には3タイプあるそうですが、どれを見ても違いがよく分からない。
未消化ながら写真を載せます。
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特徴的な翼のような形をした破片(翼状剥片)から作られた石器を国府型ナイフ形石器、その一連の工程を瀬戸内技法と名付けられています。瀬戸内技法はサヌカイトという石材の性質を知り抜いた人々が考え出した、極めてシステマティックな石器作りの方法です。
*実は石器の作り方の図を見ても完全に納得理解していません。
別の機会に勉強する予定です。
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by jumgon | 2010-09-30 20:29 | ○旧石器時代・国府遺跡

国府遺跡 ①

   石器時代の国府遺跡へ

先日藤井寺修羅ホールで玦状耳飾を見ました。
それが出土したのが国府遺跡なんです。
しかもそこは大和川と石川の交差地点の近くなんです。(エガの市があったかもしれない、近辺なんです!)


大和川と石川の合流地点近くに国府遺跡があるのが分かるでしょ。
大和川は古代と今では変わってますが、この合流地点までは古代もほぼそのままです。

現在の国府遺跡はただの原っぱ、もちろん石器時代人も、出てこない。
「なぜ、こんなところ選んで住んだのだろう?」・・・これについては又別の機会に考察します。
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*さて国府遺跡について勉強しましょう
国府遺跡は旧石器時代から続く複合遺跡です。
特に縄文時代には墓地が造られ、100体近くの人骨が見つかっています。
飛鳥時代にはわが国最古の寺院が建立されています。
寺院名は残っていないのですが、字名から衣縫廃寺と呼んでいます。
また、奈良時代には河内国府が設置されますが、所在地は不明です。
     (まだ発掘で見つかってないってこと?)

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*発掘された人骨について
特筆すべきことの一つに叉状研歯(さじょうけんし)人骨の発見があります。叉状研歯とは、聞きなれない言葉ですが、上あごの前歯四本をフォークのように加工することです。縄紋時代には、人生の節目を迎えると、健康な歯を引き抜く抜歯(ばっし)の儀式が盛んに行われました。
たとえば、成人式には、上あごの両側の犬歯を抜き、その痛みに耐えることが一人前の社会人として認められる条件だったようです。

東京大学コレクションⅡ哺乳類・人類よりお借りしてきた写真(これは国府遺跡のものです)
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叉状研歯のある縄文時代頭蓋骨は全国で合計28例。
叉状研歯は縄文晩期に限られ、抜歯風習の最隆盛期にはじめて出現。
東海地方西部から近畿地方に分布したと考えられている。
性別による片寄りはなく、ほぼ1対1の男女比。
年齢分布は広く、若年から熟年に渡る。形成途上のものもけっこう見つかっている。
叉状研歯の遺跡内の出現頻度は決して高くない。発掘人骨全数の割合では数パーセント。

☆爪掻き綴れ織り(織物の種類)の職人さんは爪を糸の細さに合わせてギザギザに削ってるけど、これってまさか「叉状研歯」と関係ないよね!

さて、石器時代の人のアクセサリーを紹介します。いずれも縄文時代晩期
上左のものは鹿角製首飾り(7,5cm)上右(鹿角製腰飾り、7cm)下段の物(イノシシの牙製、足輪、8,9~10,9cm)
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さて、わたしのお気に入りの玦状耳飾り国府遺跡の発掘調査で人骨の頭がい両脇から1対になって見つかったのです。それまで玦状耳飾りは、用途や時代のはっきりしない遺物だったのですが、石器時代の耳飾りだったことが分かったのです。国府遺跡から出土する人骨には、時期の異なるものが混じっていることが分かっています。玦状耳飾りをもつ人骨には抜歯がないことから、抜歯を伴う古い一群がまず墓地をつくり、後にけつ状耳飾りをもつ新しい一群が同じ場所を墓地としたと考える人もいます。
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*穴があいて紐でつないでるのは、薄くて割れやすいために当時の人が補修したものだと考えられている。
だから、耳は相当大きく穴を開けないと耳飾を通すことはできないと思う!!痛くなかったのかしら?

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次回は縄文時代の国府の人口と他の地域とのつながりについて勉強していきたいと思います。
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by jumgon | 2010-09-30 18:01 | ○旧石器時代・国府遺跡

恵我という地名 ①

     先日から「ひもろぎ逍遥」(サイドバーにリンクしています)の管理人のるなさんと
      牽牛子塚(けんごしづか)古墳がある場所の昔の地名探しをしているうちに
         近所の天皇陵の地名のことが気になってきた



仲哀天皇チュウアイ恵我長野西陵・大阪府藤井寺市藤井寺・岡ミサンザイ古墳

応神天皇オウジン恵我藻伏崗陵・大阪府羽曳野市誉田・誉田御廟山古墳

允恭天皇インギョウ恵我長野北陵・・大阪府藤井寺市国府・国府市ノ山古墳

*古墳名のあとの青い文字列は現在の住所表記
古墳の陵名にえか(恵我)がでてくるのはこの三つだ。
*古代は濁音はないそうだ

エカと言う地名はいつからあったのか?  
  現在羽曳野市恵我之荘(えがのしょう)という地名があり駅名もある。
  駅の周辺は恵我之荘1丁目、二丁目、、、、、と続く。
  えが(ゑか?)の地名は確か日本書紀で出てきた記憶があるが
  どこでだかハッキリ覚えていない。
  その文を読んだとき、ああこの恵我之荘辺りに飛鳥時代にエカの市があり、
  その後平安時代に誰かの荘園に なったのかな?と勝手に解釈していた。

ちゃんと調べてみよう!
     調べてみるとでてきた。

  えかのいちとして『日本書紀』にも出てくる古くからの名称で、飛鳥時代から奈良時代にかけて栄えた。
市とは市場の市(いち)。
所在地は確定できないが、現在の大阪府藤井寺市国府の大和川と石川(餌香川)の合流点付近にあったとされる/span>
 ☆川の合流点付近一帯というのは説得力がありますね。
百科事典マイペディアの解説.
餌香の市
河内(かわち)を流れる餌香川(現在の石川)左岸にあった古代の市。所在地は確定できないが,現大阪府藤井寺市の国府(こう)とする説が有力。国府は石川の舟運のほか東西に大津道(のちの長尾街道),南北に東高野(こうや)街道が通る要所で,河内国府(国衙(こくが))が置かれていた。
*藤井寺市国府は、石器時代の遺跡で
「シュラホール」に展示してある、<けつじょうピアス>が出土した所です
   
デジタル大辞泉の解説えか‐の‐いち 〔ゑか‐〕 【×餌香の市】 より           
古代、河内(かわち)国に置かれたという市。 
現在の大阪府藤井寺市国府付近、もしくは羽曳野市古市付近が考えられる。 
          以上の記事によると、今の恵我之荘駅の至近地ではなさそうだ。
      駅名なんて鉄道敷設のときに、近辺の地名を参考にしてつけたものだと
      思われるから ちょっと離れてるけど「えが」を借りてきたのかもしれない。 
         ちなみに、恵という字をくずすと「ゑ」という変体仮名になる。
          だから、「ゑか」と発音されたと思われる。
            ゑ(ィエ)に近い発音だと、母が言ってた


結論としては
   今の「恵我之荘」と昔の「ゑか」は比較的近いとは言え、少しはなれた位置にある。
     それとも「ゑか」という地名が広範囲をさしていたのか?
  
       まだ分かりません。
     この件に関して、調べ次第また追加して行きます。

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by jumgon | 2010-09-28 13:19 | ★言語、歴史

牽牛子塚(けんごしづか)古墳の現在地の地名について気になることがあって 
      調べているうちに思いがけない記事に出会った。



古代大和王権は、古墳や宮殿、寺院そして道路や灌漑用の溜池づくり等に、地方から使役の民を大和に召しださせました
召しだされる時は、国造(くにのみやつこ)の役人に付き添われ、宿泊や食事も与えられました。労働につくと、夜を日についで、工事は強行され、疲労して逃亡するというのもあり、そのような過酷な労働に耐えてやっと任務を終えて帰郷する時には政府の援助もなく、裸同然で放り出されました。
国名がつく集落は、帰郷できず、その地にそれぞれの国ごとに来た人々が住みついたものと思われます。
   <ナルホド!これが正しいとすれば、色々な地名が離れた所にあるのもうなずける>

奈良県にみる「国名集落」

高 取 町・・・土  佐、薩  摩、吉  備

明日 香村・・・越

橿 原 市・・・大  隈、飛  騨

桜 井 市・・豊前(ぶぜん)、出  雲、吉  備、長  門

天 理 市・・・上総(かずさ)、備  前、因幡(いなば)、武  蔵

三 宅 町・・石見(いわみ)、但馬(たじま)

                 これを見ると

         随分とおくから労役に連れだされてきた事になる。

      牽牛子塚(けんごしづか)古墳のある高市郡明日香村越に
        「越」の国」から人々が駆りだされたのは
           古墳築造の為だったとおもわざるを得ません
  

           国名集落を見ていけば、
       近くに古代の大規模土木事業のあとが見つかるかもしれない!

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by jumgon | 2010-09-27 22:00 |  ○牽午子塚

奈良公園・東大寺 ①

たびたび奈良公園は来てるけど、現在「平城遷都1300年祭」のせいかいつもの奈良公園とすこし様子ちがった。
先ず、猿沢の池の近くの駐車場から歩いていくと「猿沢の池」に平安時代に舟遊び使われたような(私がそう思ってるだけかも?)龍頭の船浮かんでいる。、(乗舟もできる)
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          つぎは東大寺南大門。
      わたしが今回特に気をつけて、見たいとおもってたのは南大門の仁王像だ。
          仁王像のことが気になりだしたのは、野中寺の仁王像を見てからだ。

      藤井寺の文化財である野中寺についてこんな風にかいては怒る人もいるかもしれないが、
          東大寺や法隆寺の仁王像を何度か見ている私にはまるで、
            おもちゃみたい」に稚拙でプリミティブに感じた。
      そのおかげで、「東大寺や法隆寺の仁王像」の素晴らしさを感じたといえる。 
           そのくせに仁王像をしっかり観察したことがなかった!
            きょうはじっくり見せてもらおう、と心して来たのだ。
           私の意気込みに反してその像はほこりが積もっていて、
           金網で保護されているため、写真はきれいにとれない!
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        よくわからないとおもうのでライトアップされたに王像の写真を見てもらおう。
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資料から引用した仁王像の説明
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
南大門の「仁王像」はわが国最大の木彫像で、像高は8.4メートルですが阿吽(あうん)
の位置が逆となっております。左側(向かって右側・東側)には阿形像、右側(向かって左側・西側)には吽形像が安置されています。
「仁王像」は雨風にさらされる中門、南大門、仁王門(二王門)、山門などの門内安置が多いため国宝指定の仁王像はたった3件のみです。
その内訳は「東大寺三月堂像」、「東大寺南大門像」と「興福寺」国宝館像」の3件です。
これら国宝指定の仁王像3件の内2件は堂内安置像で門内安置像はたったの1件「東大寺南大門像」だけです。
どうしても、門内安置像の場合原則として常に風雨にさらされるため
東大寺南大門像でも風雨の被害がこうむるのを避けるため仁王同士が対面しあうよう安置され、
南側は閉鎖して保護されております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
次に作者について
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
吽形像は運慶作で、阿形像は快慶作というのが常識でしたが近年の解体修理でその説が覆されました。
吽形像は大仏師定覚、湛慶で、阿形像は大仏師運慶、快慶がかかわったとのことであります。ただ、どうしてこのような組み合わせになったのか疑問に思われます。
運慶は総括責任者としての役目を果たすため吽形像を長男の湛慶にまかせ、快慶は自分の手許に置いてコントロールしたと考えられますがしかし実際は、阿形像の作風を見て快慶作と昔から伝えられておりますことから運慶は快慶が個性が発揮出来るよう制作をまかせたようであります。
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南大門を過ぎると、大仏殿がみえます。
大仏殿の正面よこにはいつもはなかった塔の相輪状の籏飾りみたいなのが、左右に立っている。これも「平城遷都1300年祭」ということで設えられたのだろう。(テレビかなんかで大仏開眼供養会の時にこんなのが写っていたような気がする。)
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多分「塔のてっぺんについている相輪(九輪)を模したものだと思うのだけど、、、自信がない。
*お願い、、、、これの正確な名前をご存知の方は教えてください。
大仏殿に続く回廊の屋根のカーブが美しいですね!

東大寺は広く見るべきものも多い。
今日はこれぐらいにして公園の中をゆったり散策しよう。
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奈良公園は大きな古い木が多い。大きな樹木には「木の霊が宿ってる」と感じる。
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森の中に小さな流れがあり、そこでやすんでる鹿たち
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by jumgon | 2010-09-23 19:45 | ○東大寺
   奈良県桜井市の纒向遺跡(2世紀末~4世紀初め)から2千個を超す桃の種が出土。

桃の種!
この間行った唐古・鍵遺跡からも桃の種が見つかっている。

モモは、イザナギ・イザナミ神話に登場するように、伝来時期は早く、縄文時代の遺跡から、モモの種が出土する。
又、薬として桃の種はつかわれた。藤原京に運上された薬草は、
  五茄(うこぎ)・人参・桔梗・西辛(さいしん)・車前子(おおばこ)・久参(くらら)・葛根・
  桃子(もものたね)
  非子(ひし)・知苺(やまところ)・牛膝(いのこずち)・杜仲・
  桃人(もものさね)・独活(うど)。
*桃の種(桃仁)は漢方薬に使われます。血液の流れを良くすると言われています。

桃太郎の桃が気になって昔の桃が”稲田桃”らしいことが分かった。
纒向遺跡の桃の種は写真でみたらかなり土にまみれてかなり黒っぽくみえた。
もしかして、、、、この種から発芽しないだろうか?発芽させることは出来ないだろうか?
   桃の種は硬く中の種を保護している。

大賀ハスの例もある。
<大賀ハス>とは?
大賀ハス(オオガハス、)は、1951年(昭和26年)、千葉県千葉市検見川(現・千葉市花見川区朝日ケ丘町)にある東京大学検見川厚生農場(現・東京大学検見川総合運動場)の落合遺跡で発掘された、今から2000年以上前の古代のハスの実から発芽・開花したハス(古代ハス)のこと。

      纒向遺跡のことは膨大になりすぎるのでまた時間をみてまとめたいと思う。
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by jumgon | 2010-09-19 14:43 | ★古代の桃の話
これは、橘 嘉智子を軸に周りを取り囲む人々を描いた小説である。
杉本苑子「二条院の讃岐」 の前の時代、<平安前期>を題材にしている。
          
     
49光仁帝・・・・・・・・・・・・・・・(井上皇后、他戸太子が獄死)

 50桓武天皇(山部親王)・・・・・・・・       

 51平城帝(安殿太子、母は乙牟漏皇后)・・・・薬子の乱(薬子は自縊)
   
 52嵯峨帝(神野王子、母は乙牟漏皇后)
             
 53淳和帝(大伴親王、父は桓武天皇、母は藤原旅子)         
           
 54仁明帝(正良親王、父は嵯峨帝、母は橘嘉智子) 
              
 55文徳帝(道康親王、父は仁明帝、母は藤原順子) 
 
小説だから、登場人物の性格、容貌、逸話などは、作者の想像、創作を交えていると思うが
          色々な書物を参照しながら作り上げたものと思う。

       面白いのは歴史上の有名人がイッパイ登場することだ。
            征夷大将軍         
             坂上田村麻呂                             
            三筆と言われた
            嵯峨天皇、空海、橘逸勢(橘嘉智子のいとこ)            
             同じ遣唐使船で唐へ渡ったメンバー
              空海、橘逸勢、最澄
                       等など、、、、
         下の書は左から橘逸勢、嵯峨天皇、空海の順です。
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      同じ文字でも、書から人物の違いを空想できそうですね!!

        そして、死因が怪しい色んな登場人物の死
             怨霊の出現におびえる心理
     一番恐いのは、、、祟りでなく権謀術数をつかって怨霊を創る人間だ、と感じた。

    小説が進むにつれ、それぞれ人物の心理がじょじょに変化していく、、、、。
     嵯峨帝の皇后になった橘嘉智子といとこの橘逸勢の関係が
     変化し、ついには逸勢の死を黙認(画策)するまでになっていく。
      明治期の大久保利通と西郷隆盛の関係を思い起こさせた。

     杉本氏の小説はいつもそうだが、血肉の通った歴史を想像することが出来た。
    
            折から民主党の代表戦選挙があった。
      何時の時代も似たようなことが行われているんだなぁ~と思った。
            (毒殺はないと思うけれど~)

 最後に印象的な言葉を記して置く
   
<四大元空>
 
  地、水、火、風の四元素から成り立つ人身は、死ねば元の空にー無に還る。
  死後の世界にまで延長して自己を認識する霊魂などというものは、実際には存在しない。     

  地獄を現出するのも浄土を形成するのも、すべて生き身の内の働きであり、だからこそ、
  今日ただ今のこの”生”をいかに生かすか、生きるかが、重大な問題となるのだ、
  との明快な把握であった。

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by jumgon | 2010-09-18 15:59 | ★読書・放送・講演会

飛鳥寺

久しぶりに飛鳥寺を訪れた。
万葉歴史文化館に車を置いて(何と、今年の9月2日から駐車料無料になった!)のどかな路を少し歩くともう飛鳥寺。
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境内といっても今は狭いが、塔のあった位置を確認する。

さすがにこの暑さで少し不安になったが大仏の住んでるお堂に行くと
「冷房してます」という入り口の張り紙で、ひと安心。
中で、説明をしてくれる人(僧?)が居た。
「飛鳥寺の伽藍配置は、高句麗式で、中央の塔の周りに中金堂、東金堂、西金堂を配した一塔三金堂式と呼ばれる特異な配置の伽藍だった。」
「ここにいらっしゃるのは釈迦如来で、1400年間ここから一度も動かれたことはありません。」>「当初は法隆寺釈迦三尊像と同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ、釈迦像も鎌倉時代の建久7年(1196年)の落雷のための火災で甚大な損害を受けており当初の部分は顔の上半分、左耳、右手の第2・3・4指に残るのみになっています。」
「どこでそれが分かりますか?」と尋ねたら「横下の方に臍穴があるでしょう。」
ウンウン、確かにある。この穴だけで両脇時があったことが分かるのですね!
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色々説明をしてくれたけど、私にとって嬉しい発見を書こう。
まず、これをみて欲しい。
「仏の32相」という説明の為の札みたいなのを見せてもらった。
32相」、なのに四つしか書いてない。
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驚いたことに「眼}が紺青色だというのだ!
もちろん出来上がった当時は金箔が全身に貼られていた。
     金色の顔に青い眼
かなりの迫力だ。
後で調べて分かったことだが、仏像、仏画は32相に従って造られているという。
でも、仏像はたいてい下むいてるし、古いのは色がもう残ってないし、、、。
   知らなかったわ~
「眉間白毫相」「頂上肉髻相(ちょうじょうにっけいそう)」、、、これは分かる。
「手足縵網相」???
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親指と人差し指との間が鳥の水かきみたいに膜がある、ということなんだそうだ。

さて、仏像の前のひな壇に「仏舎利容器」が置いてある。
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「レプリカなんでしょうね。」と尋ねたら、「いいえ、発掘当初のものです。」とおっしゃる。
「えっ、飛鳥時代のものにしては綺麗すぎるんじゃない?」と思ったけど、お寺の人がおっしゃるのを信用するしかない。
後で調べたら
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

『書紀』の推古天皇元年正月15日(593年2月21日)の条には「法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置く」との記事があり、翌日の16日(2月22日)に「刹柱を建てた」とある。

なお昭和32年(1957年)の発掘調査の結果、塔跡の地下に埋まっていた心礎(塔の心柱の礎石)に舎利容器が埋納されていたことが確認されている。
飛鳥寺の塔は1196年(建久7)に焼失し、合利は、翌年いったん掘り出された。そして新しく作った舎利容器を、木箱にいれて、心礎の上方2mのところに埋めた。
木箱の側面には、建久7年に塔が焼けたことが記してある。b>
ということだ。
1196年に新しく造った「舎利容器」
なんだ!

そして、後の発掘調査のときに出てきたものなんだ。
(発掘当初のもの、というのは嘘ではなかった!)/b>
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

593年(推古天皇元牛)、蘇我馬子は飛鳥寺の塔心礎(中心の礎石)に仏舎利を納め、塔の心柱を立てた。
その時いっしょに埋められた宝物は、同時期の古墳に埋められた宝物とほとんど同じであるのが注目される。

玉類や、蛇状鉄器が埋められていたらしい。実物は飛鳥資料館に展示されてるようだ

堂をでて少しのところに
「入鹿の首塚」がある。
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ここが昔、古代日本の首都だったことがあるなんて信じられないのどかさだ。
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by jumgon | 2010-09-14 18:59 | ★寺院・神社
巨石の墓 女帝の面影


          斉明天皇の墓、ほぼ確実 
     牽牛子塚古墳は八角形墳
 


   墳丘の周囲に敷かれた切り石の並んだ形状から、八角形墳とわかった牽牛子塚古墳
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    次ぎは朝日新聞の記事
   、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
    大化改新で知られる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=天智天皇)の母
   、斉明(さいめい)天皇(594~661)の墓との説がある奈良県明日香村の
    牽牛子塚(けんごしづか)古墳(国史跡)が、当時の天皇家に特有の
    八角形墳であることが確認された。

    墳丘全面が白い切り石で飾られ、内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた
    例のない構造だったことも判明。
    斉明天皇は巨石による土木工事を好んだとされ、被葬者が同天皇であることがほぼ    
    確実になった。

  
    八角形の墳丘は
<道教の宇宙観>を示すとされ、斉明天皇の夫・ 舒明天皇や息子の天智天皇らの陵にもみられる天皇専用の形。
    又、こんな説もある。
    <仏教思想を反映して法隆寺夢殿のような八角円堂を模したとする説>と、
    <天皇の支配が、四方八方に及ぶことを表現する>との説がある。
    ☆天皇の即位式で用いる高御座(たかみくら)も八角形だ。    
    墳丘の形に加え専門家を驚かせたのが、大規模で高度な土木技術が駆使された
    墓の構造だ。
  巨石をくりぬいて造った石室は推定重量約70トンで(具体的な重さがピンとこないよ!)
   材質は加工しやすい凝灰岩でここから約12キロ北西の二上山から運ばれたらしい。

   二上山の凝灰岩石切り場
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    石室が二つの空間に仕切られている。
    斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された
    日本書紀の記述と合致するほか、漆と布を交互に塗り固めて作る最高級の棺
    「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが
    出土していた。

   、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 

    したの写真はは「明日香村教育委員会」のパンフレット
    上の写真は墳丘全体、したの写真は二つの空間にしきられた石室    
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    見学会当日の石室写真
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    これまでの発掘成果と合わせ、「一般の豪族を超越した、天皇家の権威を確立するという
    意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない」(白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長)
    など、専門家らの意見はほぼ一致している。

*宮内庁は奈良県高取町にある別の古墳を斉明陵として管理しているが、
    多くの研究者は「根拠に乏しい」とみている。

宮内庁書陵部の話
    八角形墳は最近関東でも見つかっており、必ずしも陵墓特有の形とは言えなくなっている。
     牽牛子塚古墳が斉明陵とする説があるのは承知しているが、現在の斉明陵を否定する
     だけの材料がない。

   この古墳はかなり高いところにあり、発掘現場付近からは、飛鳥の村を俯瞰できた。

   築造年代については石槨構造などから7世紀後半ごろと考えられる。「明日香村教育委員会」

   斉明天皇のエピソード
   日本書紀より「斉明の土木好み」
   蘇我馬子の孫の赤兄(あかえ)が斉明の「失政」と批判した記述
   ① 大倉庫を建てて財物を集めた。
   ② 長い水路を築いて公金をを浪費した。
   ③ 船に石を積んで運び丘を築いた
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by jumgon | 2010-09-12 21:55 |  ○牽午子塚
「応神天皇陵」

恵我藻伏崗陵
現在の地名・・・・・大阪府羽曳野市誉田

とにかく大きい。遠くからでもかなり長い間目につく大きさだ。
まわりを一周りしよう。すぐ傍を通れる場所もあるが、高速道路のガード下ちかくを通ったり古墳を背に民家がたってたりして、必ずしもよい散歩道とはいえない。もう少し整備して遊歩道を作ってくれたら、、、、何て思うけれどしかたがない。だが最近では古墳にホタルが出てくるという。
人が入れない大きな森だから自然が守られているんだろう。

近くには小室山古墳、大鳥山古墳、仲津媛命陵(応神天皇の后)がある。

空から見た応神天皇陵

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応神天皇陵の掲示板
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「ここより中にはいれませんとある。だから天皇陵ってイヤなんだ。看板だけ見に来たんじゃないよ。横の道を回ると宮内庁の管理事務がある。まだちょっと先まではいれそうだ。
あった!やっと正面へでた
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誉田御廟山古墳(応神陵)は墳丘長425mで、堺市の大仙古墳(仁徳陵)に次ぐ全国第2位の墳丘長を測ります。また、古墳の表面積や体積では大仙古墳を上回り全国一の巨大古墳です。 
前方部を北北西に向け、墳丘は三段築成で、くびれ部両側に方壇状の造出しを備え、濠と堤を二重にめぐらせています。墳丘や内・外堤の斜面には葺石が施され、円筒埴輪が確認されています。
 埴輪はすべて窖窯で焼成された製品です。円筒埴輪は基部の径が40cm前後の大型品が多く、形象埴輪には家・蓋・靱・水鳥・馬形等があり、蓋形木製品や各種魚形土製品も出土しています。
 築造年代は、埴輪の特徴から5世紀前半代に比定されます。なお、後円部南側に現存する誉田八幡宮の境内には長持形石棺や石槨の一部と推測される石材が残されており、本墳から出土したものと考えられ、内部の様子をうかがうことができる重要な資料です。

近くにある小室山
前方後円墳。内部構造や副葬品について詳細は不明です。
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これも近くにある大鳥塚古墳
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仲津山(仲津媛陵

皇后:仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命) - 品陀真若王女 、とウィキペディアにあるが、古事記のどこにそんな記事あったかな?日本書紀に書いてあるのかな?またじっくり読まなければ、、、

国府台地の最高所に築造された墳丘長290mの前方後円墳で、古市古墳群内では誉田御廟山古墳(応神陵)に次ぐ墳丘長を測り、全国でも8、9番目の大きさを誇ります。
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すこし離れますが蕃所山(径、22M)という小さな円墳があります。
蕃所山古墳は、応神天皇陵を作るときモッコを置いたところと言われモッコ塚とも呼ばれています。

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by jumgon | 2010-09-09 21:30 |  ○誉田八幡宮と応神天皇陵