古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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<   2010年 11月 ( 19 )   > この月の画像一覧

河内に陵墓がある天皇

「河内王朝」
日本古代史に「河内王朝」という言葉がある。

こんな言葉を聞くと河内に都があったように誤解してしまう。
記紀にもそんな記載はない。

一説には「天皇の皇后の実家近くに陵墓は造られる」というのがある。

私の考え
陵墓を造るには膨大な土地がいる。
(陵墓築造に必要な様々な人員、住居、食料、資材の倉庫などの確保)
だから、都の近くに古墳は造れない。


以下、河内に陵墓のある天皇の都の所在地を記す。

代数   漢名    和風諡号      都所在地      陵墓名      現在の住所14 仲哀天皇・タラシナカツヒコ・穴戸豊浦宮・筑紫橿日宮・恵我長野西陵・藤井寺市

15 応神天皇"・ホムダワケノミコト、オホトモワケノミコト"・"軽島豊明宮(現在の奈良県橿原市大軽町か)大隅宮(難波?)"・川内の恵賀(えが)の裳伏(もふし)岡・羽曳野市

16 仁徳天皇・”オホサザキノミコト”・難波高津宮・百舌鳥耳原中陵・堺区

17 履中天皇・”イザホワケ"・伊波礼若桜宮(記)、磐余稚桜宮(紀・いわれのわかざくらのみや)・百舌鳥耳原南陵・堺区

18 反正天皇・”タジヒノミズハワケ”・丹比柴籬宮(たじひのしばかきのみや)・百舌鳥耳原北陵・堺区

19 允恭天皇・”オアサヅマワクゴノスクネ”・遠飛鳥宮(高市郡明日香村)・恵我長野北陵・藤井寺市

20 安康天皇・”アナホノミコ”・石上穴穂宮(いそのかみのあなほのみや)・菅原伏見西陵・奈良市

21 雄略天皇・”オオハツセワカタケルノミコト"・磐余宮(紀)、泊瀬朝倉宮(記紀・はつせのあさくらのみや)、斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる・丹比高鷲原陵・羽曳野市

22 清寧天皇・”シラガタケヒロクニオシワカヤマトネコ"・伊波礼之甕栗宮(記)、磐余甕栗宮(紀・いわれのみかくりのみや、奈良県橿原市が伝承地) ・河内坂門原陵・羽曳野市

23 顕宗天皇・”ヲケノスメラミコト"・近飛鳥八釣宮(ちかつあすかのやつりのみや)、明日香村八鈎、羽曳野市飛鳥の2説あり・傍丘磐坏丘南陵・奈良県香芝市

24 仁顕天皇・”オケノスメラミコト”・石上広高宮・埴生坂本陵・藤井寺市

25 武烈天皇・”オハツセワカサザキノミコト"・泊瀬列城宮(紀・はつせのなみきのみや、
奈良県桜井市出雲か・
傍丘磐坏丘北陵・奈良県香芝市
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by jumgon | 2010-11-30 19:36 | ★言語、歴史
吉野山は
大海人皇子(天武天皇)が近江から吉野に入り、持統天皇が何度も訪れた吉野山。
私のイメージの中ではまさに「深山幽邃の地」だ。

以前一度だけ訪れたことがある。
だがその時は桜には少し早過ぎたらしく、下界では桜は八分咲きだったのに、肝心の吉野山ではちらほら。おまけに土産物屋と人がイッパイで、こんな俗っぽいところかと、ハッキリ言ってガッカリだった。

金峯山寺の秘仏・金剛蔵王権現のご開帳が12月9日までという情報に気付き、行ってきた。
吉野は期待以上の紅葉で「来てよかった!」と嬉しくなった。

まず、後醍醐天皇を祀る吉野神社に着いたが、ここは今日の目的ではない。
車を金峯山寺の駐車場にいれる。混んではいたが、駐車待ちしなくてすんなり停められた。
多分奈良公園だったら、駐車できずにウロウロするはめになっていただろう。やはり吉野は遠い。

しばらく歩くと黒門があった。金峯山寺の総門。木造の門で、黒く塗られていることからこの名が。
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次ぎは銅の鳥居(重文)
 黒門からの急坂を登りつめたところにあります。高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、すべて銅製。1348(正平3)年に高師直の兵火で焼失したあと、室町時代に再建されたものです。正しくは発心門。

次ぎは仁王門(国宝)
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そしてやっと蔵王堂
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吉野全体のイラストマップ
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先ず
金峯山寺のHPの説明から(一部改変)
大和の国 、吉野山から大峯山山上ケ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山上ケ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。
これが金峯山寺の開創と伝えられています。  

◎修験道ってそんなに古くはないのですね。飛鳥時代以前には遡らない。

明治7年(1874年)、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年(1886年)に天台宗末の仏寺として復興。昭和23年(1948年)には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山という意味を号しています。


蔵王堂は、金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。
  重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートル。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、たいへん勝れた建築という高い評価を得ています。
  金峯山寺内では古くから、白鳳年間に、役行者(えんのぎょうじゃ)が創建されたと伝えており、また、奈良時代に、行基菩薩が改修されたとも、伝えています。
その後、蔵王堂は過去6回の焼失記録があり、現在の建物は天正20年(1592年)頃の再建。重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ34メートル、四方36メートルという巨大な木造の建物であり、檜皮葺の建物としては世界一の大きさを誇る第一級の国宝建造物に指定されています。

大正5年から13年にかけて、解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、屋根の桧皮の葺き替えを主として大修理を行ないました。


金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)
堂内は撮影禁止。
さすが秘仏ですね。ポスターの写真をのせます。
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    左尊(弥勒菩薩) 中尊(釈迦如来)右尊(千手観音菩薩)
スゴイ迫力です。不思議な力強さがあります。
◎現在の蔵王権現の作者はどこにも書いてないけど、いつ造られたかはパンフレットに書いてありました。

パンフより
秘仏・金剛蔵王権現は、天正20年(1592)の蔵王堂再建以来、蔵王堂(国宝)のご本尊として四百数十年にわたり鎮座されている日本最大の秘仏です。


金剛蔵王権現の説明
これまで、4年1回の密教儀式「伝法潅頂会(でんぽうかんじょうえ)」以外に、私たちの目に触れることはほとんどありません。
造立開眼以来大地を高く蹴り上げ、逆立ち乱れる頭髪。口の両端から刃のように突き出す牙。3尊の全身は、ことごとく悪魔を払う忿怒の形相を現されていますが、それは、釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩を本来のお姿とする変化身です。
三尊は、それぞれ過去、現在、未来を表し、三世にわたって私たちを守ってくださる守護仏でもあります。役行者が汚濁に満ちた世の中に救済を求める苦行の中で、強い祈念によって祈り出された権現様を心静に拝めば、すべてを認め、一切をゆるす「恕(じょ)の心」を感じ取ることができます。
 金剛蔵王権現の右手にある三鈷は天魔を砕く相で、左手の刀印は一切の情欲や煩悩を断ち切る剣。左足で地下の悪魔を押さえ、右足で天地間の悪魔を払うお姿を現されています。
さらに、背後の火炎は偉大なる智慧、御身の青黒色は深い慈悲を現しています。
まさに、大自然の霊威そのものの発現とも思われる金剛蔵王権現は、神であり、仏として、神仏混淆を旨とする修験道のご本尊として祀られています。3体の総高は、釈迦如来(中央)7.3メートル、弥勒菩薩(向かって左)5.9メートル、千手観音(右)6.1メートル。重要文化財に指定されている日本最大秘仏です。

確かに「大自然の霊威」を感じさせる姿だ。
蔵王権現の彫刻的価値はどうかわたしにはわかりませんが、写真でみるより、はるかに迫力があります。

映画をテレビで見るより、映画館の大画面で見る方が迫力があるのとおなじかな?
こんなこと言ったらお叱りを受けるかもしれないですね。

この蔵王権現で私が一番気になったこと。
それは、権現様の胸飾りに鈴が使われていたことです。

瓔珞というものでしょうか。今まで見た仏像では透かし彫りの平たい金具のアクセサリーだった。
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古代鉄のスズ鉄を表現したものではないかと思ってしまう!
戦国時代の末期、真田昌幸や幸村が徳川軍を迎え撃って2度も戦った信州上田城。、この上田の銘菓に【みすず飴】がある。
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この飴の名前は、信濃の枕詞『みすずかる信濃』から命名されている。
ここでいう『みすず』とは何かであるが、
すずとは褐鉄鉱が葦や茅の根元に付着している様子を示しているのです。
吉野は中央構造線上にある。
多分鉱物がよく採れるところだと思う。

蔵王堂内の柱がとても特徴がある。
きれいに削った柱でなく、伐採した木を樹肌そのまま、ゆがみそのまま使っているのだ。
勿論枝は払ってある。径40~50センチの大きな柱。ゆがんだり、でこぼこそのままの柱は森の中の原始的な生命を感じさせる。
つつじの木で出来た柱もあったが、つつじって、こんなに大きくなるんだろうか?
大抵は庭園で見るから、柱に出来るほどの大木に育つとは思わなかった。
梨の木の柱もあった。

蔵王堂を出て如意輪寺までミニハイキング。
途中の道では植物より、石を観察しながら歩く。でも鉱石の知識などゼロだから、大して意味はない。
だけど、石とか磐とかにも色々な表情があるのが分かった。

それにしても吉野山の紅葉はすばらしい。
携帯の写真なのでぼんやりしています。スミマセン。
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向こうに見えるのは、金輪王寺・吉野朝皇居跡
後醍醐天皇が蔵王堂の西にあった実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改めた。後醍醐天皇は悲運の生涯をここで閉じられましたが、その後、南朝3代の歴史が続きます。

吉野の歴史
興味のあるとこだけWIKIより抜粋
先史 吉野地方における先史を述べる。
吉野川流域からは、縄文時代から弥生時代にかけての土器や遺跡が発掘されており、この時代から人々が居住していた。現在のところ一番上流で発見されている遺跡は川上村の宮の平遺跡である。
五條市:南阿田大塚山古墳
下市町:岡峰古墳

古代
吉野という地名が、最初に史書に現れるのは、「古事記」「日本書紀」の神武東征の記事で、熊野国から大和国に入る通過地として記載されている。元より半神話の世界なので、正確な比定は困難であるが、少なくとも吉野川流域が想定される。 古事記では「吉野河の河尻」「吉野の首等(おびとら)の祖(おや)」「吉野の国巣(くづ)の祖(おや)」が登場する。

また日本書紀などの史書によれば、歴代の天皇や貴族が吉野を訪れており、この当時の吉野は、遊興の地となっていた。
以下に吉野を訪れた天皇・貴族を列記する。

応神天皇 -
吉野の宮へ行幸。この時、国巣の人々が酒を天皇に贈り、歌舞を見せた。また応神天皇の行幸は日本書紀における「吉野の宮」の初見になる。(日本書紀巻第十〇 応神天皇一九年冬十月)
雄略天皇
吉野の宮へ行幸し狩りを楽しんだ。(日本書紀巻第十四 雄略天皇二年冬十月)
斉明天皇
斉明天皇2年(656年)に離宮として吉野の宮を作った。
古人大兄皇子
大化の改新後に吉野へ隠棲するが、吉備笠垂の密告により殺害された。
大海人皇子(後の天武天皇)
吉野の宮へ隠棲する。天智天皇が崩御ののちに、この地から挙兵する(壬申の乱)。(日本書紀巻第廿八)
また天武天皇となったあとの天武天皇8年(679年)にも吉野へ行幸し、皇后の鸕野讚良皇女との間にもうけた草壁皇子が次期天皇であると宣言し後継者で争わないことを誓わせた(吉野の盟約)。(日本書紀巻第廿九)
持統天皇(鸕野讚良皇女)
頻繁に吉野の宮へ行幸している。その数は禅位後の1回を含めて32回に及ぶ。(日本書紀巻第卅〇)
文武天皇 -
吉野へ行幸した時の歌を詠んでいる。
「み吉野の 山の嵐の 寒けくに はたや今夜も 我が独り寝む」(万葉集1-74)

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by jumgon | 2010-11-29 18:08 | ★寺院・神社
この頃、「鉄」が気になってしかたがない。
今回は
日立金属のページから
http://www.hitachi-metals.co.jp/tatara/nnp020101.htm
引用ばかりですが、先ずひととおり、お勉強しよう。

稲作と鉄の伝来
●鉄の使用の始まり
現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前3~4世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧(鍛造品)の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものではないでしょうか。

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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弥生時代前期(紀元前2~3世紀)から次第に水田開発が活発となり、前期後半には平野部は飽和状態に達して高地に集落が形成されるようになります。
さらに土地を巡る闘争が激しくなり、周りに濠を回らした環濠集落が高台に築かれます。京都府の丹後半島にある扇谷遺跡では幅最大6m、深さ4.2m、長さ850mに及ぶ二重V字溝が作られていますが、そこから鉄斧や鍛冶滓が見つかっています。弥生時代前期後半の綾羅木遺跡(下関市)では、板状鉄斧、ノミ、やりがんな、加工前の素材などが発見されています。しかし、この頃はまだ武器、農具とも石器が主体です。
◎水田開発で人口が増え、おまけに海のかなたからやってくる人々で満員になっちゃったんだね。だから新しい土地を求めて日本各地に散らばっていったのか。神武もその中の一派だったんでしょうね。東北あたりは又別のルートで日本列島に来たみたいだけど、、、。
朝鮮半島との交流
弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器は急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
後漢の班固(ad32~92)の撰になる『前漢書』に「それ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時を以て来り献じ見ゆと云う」との記事がありますが、当時倭人が半島の楽浪郡(前漢の植民地)を通じて中国との交流もやっていたことが分かります。実際、弥生中期の九州北部の墓から楽浪系の遺物(鏡、銭貨、鉄剣、鉄刀、刀子、銅製品など)が多数出土しています。
この中に有樋式鉄戈(てっか)がありますが、調査の結果によると鋳造品で、しかも炭素量が低いので鋳鉄脱炭鋼でないかと推定されています。

◎専門的になりすぎて分かりにくいのでこのままながします。

福岡県春日市の門田遺跡から出土した有樋式鉄戈(てっか)
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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●鉄の加工の始まり

鍛冶工房
ここでいう鉄の加工とは、後世まで引き継がれる鉄の鍛冶加工のことです。鉄器の製作を示す弥生時代の鍛冶工房はかなりの数(十数カ所)発見されています。中には縄文時代晩期の遺物を含む炉のような遺構で鉄滓が発見された例(長崎県小原下遺跡)もあります。 弥生時代中期中頃の福岡県春日市の赤井手遺跡は鉄器未製品を伴う鍛冶工房で、これらの鉄片の中に加熱により一部熔融した形跡の認められるものもあり、かなりの高温が得られていたことが分かります。
赤井手遺跡で見つかった鉄素材片
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)
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発掘例を見ると、鉄の加工は弥生時代中期(紀元前後)に始まったと見てまず間違いないでしょう。しかし、本当にしっかりした鍛冶遺跡はないのです。例えば、炉のほかに吹子、鉄片、鉄滓、鍛冶道具のそろった遺跡はありません。また、鉄滓の調査結果によれば、ほとんどが鉄鉱石を原料とする鍛冶滓と判断されています。鉄製鍛冶工具が現れるのは古墳時代中期(5世紀)になってからです。

鉄器の普及この弥生時代中期中葉から後半(1世紀)にかけては、北部九州では鉄器が普及し、石器が消滅する時期です。ただし、鉄器の普及については地域差が大きく、全国的に見れば、弥生時代後期後半(3世紀)に鉄器への転換がほぼ完了することになります。

さて、このような多量の鉄器を作るには多量の鉄素材が必要です。製鉄がまだ行われていないとすれば、大陸から輸入しなければなりません。『魏志』東夷伝弁辰条に「国、鉄を出す。韓、ワイ(さんずいに歳)、倭みな従ってこれを取る。諸市買うにみな鉄を用い、中国の銭を用いるが如し」とありますから、鉄を朝鮮半島から輸入していたことは確かでしょう。
では、どんな形で輸入していたのでしょうか?
鉄鉱石、ケラのような還元鉄の塊、銑鉄魂、鍛造鉄片、鉄テイ(かねへんに廷、長方形の鉄板状のもので加工素材や貨幣として用いられた)などが考えられますが、まだよく分かっていません。
日本では弥生時代中期ないし後期には鍛冶は行っていますので、その鉄原料としては、恐らくケラ(素鉄塊)か、鉄テイの形で輸入したものでしょう。銑鉄の脱炭技術(ズク卸)は後世になると思われます。

●製鉄の始まり
日本で製鉄(鉄を製錬すること)が始まったのはいつからでしょうか?

弥生時代に製鉄はなかった?
弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。
今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(京都府丹後半島)では多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。
古代製鉄所跡の発掘現場(6世紀後半の遠所遺跡群)
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弥生時代に製鉄はあった?
一方で、弥生時代に製鉄はあったとする根強い意見もあります。それは、製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。
1)弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
2)ドイツ、イギリスなど外国では鉄器の使用と製鉄は同時期である。
3)弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
4)弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術をもっていた。


最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかとマスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかし、これらの遺跡の発見により、いよいよ新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。
島根県今佐屋山遺跡の製鉄炉近くで見つかった鉄滓(和鋼博物館)
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*鉄滓は鉄を製錬した時の不純物。


◎「ひもろぎ逍遥」に葦の根に鉄バクテリアが集まってできる「スズ鉄・古代鉄」について書いてあります。
http://lunabura.exblog.jp/i30

とてもエクサイティングな内容です。本当に古い昔から、鉄をみつけていたのですね。
「スズ鉄」は日本各地にその痕跡があります。でもやっぱり、採れるのは少量だったようです。

●6世紀頃に画期を迎えた製鉄技術
いずれにしても、我が国における製鉄技術は、6世紀頃に画期を迎えたことは確かでしょう。それ以前に弥生製鉄法があったとしても、恐らく小型の炉を用い、少量の還元鉄を得て、主に鍛冶で錬鉄に鍛えるというような、原始的で、非常に小規模なものだったと思われます。この6世紀の画期は朝鮮半島からの渡来工人の技術によってもたらされたものでしょう。

古事記によれば応神天皇の御代に百済(くだら)より韓鍛冶(からかぬち)卓素が来朝したとあり、また、敏達天皇12年(583年)、新羅(しらぎ)より優れた鍛冶工を招聘し、刃金の鍛冶技術の伝授を受けたと記されています。

その技術内容は不明ですが、恐らく鉄鉱石を原料とする箱型炉による製鉄法ではなかったでしょうか。この中には新しい吹子技術や銑鉄を脱炭し、鍛冶する大鍛冶的技術も含まれていたかもしれません。
この官制の製鉄法は、大和朝廷の中枢を形成する大和、吉備に伝えられ、鉄鉱石による製鉄を古代の一時期盛行させたのではないでしょうか。
一方、出雲を中心とする砂鉄製錬の系譜があります。
これがいつ、どこから伝えられたか分かりませんが、恐らく6世紀の技術革新の時代以前からあったのでしょう。やがて、伝来した技術のうち箱型炉製鉄法を取り入れて、古来の砂鉄製鉄と折衷した古代たたら製鉄法が生まれたのではないでしょうか。
古代製鉄の謎は、我が国古代史の謎と同じようにまだ深い霧に包まれています。

●古代のたたら
砂鉄か、鉄鉱石か
近世たたら製鉄では鉄原料として、もっぱら砂鉄を用いていますが、古代では鉄鉱石を用いている例が多いようです。
次の図は中国地方における古代から中世にかけての製鉄遺跡の分布とその使用鉄原料を示したものですが、鉄鉱石を使っているのは古代の山陽側(とくに備前、備中、備後)と、ここには示していませんが、琵琶湖周辺に限られているようです。山陰側その他は、ほとんど砂鉄を用いています。このことは製鉄技術の伝来ルートに違いがあることを暗示しているのかもしれません。
古代~中世の製鉄遺跡における使用鉄原料
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炉の形状
炉の形状は古墳時代の段階では円形、楕円形、方形、長方形と多様です。古代(8~9世紀)になると長方形箱型炉に次第に統一されていきます。
一方、東国では8世紀初頭より半地下式竪型炉が現れ、9世紀には日本海沿岸地域にも広まって、東日本を代表する製鉄炉となっていき、10世紀には九州にも拡散が認められます。この竪型炉は各地での自給的生産を担っていましたが、中世には衰微します。このような西日本と東日本の炉形の違いはなぜ生じたのでしょうか?東と西で製鉄のルーツが違うのでしょうか?まだまだ分からないことが多いのです。

各種古代製鉄炉の分布
出典:古代の製鉄遺跡(製鉄と鍛冶シンポジウム、於広島大学)土佐雅彦、1995、12月
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中世のたたら
中国山地への集中と炉の大型化
中世になると鉄の生産は、主に中国地方、特に近世たたら製鉄の発達した中国山地に集中するようになります。鉄原料はほとんど砂鉄です。

11世紀から13世紀にかけて広島県大矢遺跡など見られるように炉の大型化、地下構造の発達などの画期を迎えます。長方形箱型炉の炉床は舟底形となり、炉体も長さ2m、幅1m程度と近世たたらの規模に近づいてきます。14世紀後半から15世紀に入ると、広島県の石神遺跡や島根県の下稲迫遺跡(しもいなさこいせき)のように本床、小舟状遺構を持ち、近世たたらに極めて近い炉形、地下構造となります。
時代が下るにつれて大型化する傾向が分かります。

以後室町期以降については省略する。
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by jumgon | 2010-11-26 16:47 | ★日本の鉄の歴史
近つ飛鳥歴史資料館 ③ 武具・鉄製品・その他

展示品の中には、近畿だけでなく、各地の武具の出土品もあった。
中でもマロ塚古墳出土の物はほとんど腐食が感じられないものでビックリした。

古墳時代(熊本県マロ塚古墳出土 短甲、鋲留式)
鋲の突起が見えますね。脇の部分に2箇所 蝶番がついてるのがよく分かります。
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鋲止式眉庇付冑(熊本県マロ塚古墳出土)
天辺のお椀みたいなのは受鉢といいます。庇のスカシ彫りがおしゃれですね!
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甲冑(かっちゅう)の歴史 
古墳時代には、鉄板を組み合わせて作った、短甲(たんこう)が古墳に副葬される。鉄製の甲の出現は武器の発達をうながし、戦いの方法も大き(変化させた。
初めの頃、短甲は縦長の鉄板を組み合わせ、これを革ひもでとじ合わせたものであったが、次に方形の鉄板に変わり、さらに三角形の鉄板を多く組み合わせる形に変わった。そして、5世紀には鉄板のつなぎかたも革ひもから鉄の鋲(びょう)でとめる方法に変わっていった。
また、この頃には、騎馬に通した挂甲(けいこう)も出現した。
他方、冑(かぶと)には、先端が尖った衝角付冑(しょうかくつきかぶと)と、前部に庇(ひさし)が付いた眉庇付冑(まびさしつきかぶと)があった。
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衝角付冑には羽がついてるのですね! 
『挂甲』とは        
 甲の一種。鉄製小札(こざね)を革や紐で綴り合わせて胴部・腰部を中心として肩・脛・足部を防御するための中国から伝来した武具。

◎短甲と違って長いものですね!小札なので、馬に乗って腰や足を曲げてもOKと言うことですね。
藤井寺市・長持山古墳出土の挂甲と横矧板鋲留式衝角付冑
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挂甲の武人はにわ・時代 群馬県太田市飯塚町出土・6世紀末
◎この写真の「はにわ」は資料館に展示されていたものではありません。
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古墳時代鉄製甲冑の移り変わり(近つ飛鳥 解説シートより)
前期・・甲冑ともに革綴じ(三角形の鉄板を革紐で綴じあわせています)
中期・・甲冑ともに鋲留(鉄鋲で留めることでしっかりした防御具となります。小札鋲留、横矧板鋲留)
後期・・竪矧広板鋲留

以前「だれも埋葬されてない古墳」で紹介した「西墓山古墳」
も鉄製品の膨大な量の埋納例として出土品が紹介されていました。

「西墓山古墳」とよく似た埋納施設を持つ「長岡京市の恵解山古墳」も紹介されていました。
西墓山古墳と同じように、各たばに分けて埋納されていました。

下の写真は「西墓山古墳」の出土状況が保存されたもの(藤井寺市シュラホールにあります。)
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「西墓山古墳」埋納施設の様相(近つ飛鳥 解説シートより)
東施設(推定200点を越す刀剣など武具類を6つ以上のまとまりに分けて並べる。)
西施設(農工具を中心に推定2000点以上を納める。)
滑石製模造品(滑石でつくったミニチュア 鑿・斧・鎌・刀子)は西施設に収められていた。


野中古墳(藤井寺市)
野中古墳から甲冑群が出土していました。これはシュラホールでお話しました。(⇒シュラホール)
それについて初耳の情報!
野中古墳には計5個の箱が埋納されており、あの甲冑列(10組)はそっくりひとつの箱の中に入っていたのです。
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甲冑がひとつだけ入っている箱があり、その他の箱には、武具類、農工具類・滑石製模造品(剣・勾玉・革の鞘に入った小刀を模したもの・紡錘車あるいは鏡をもしたもの?・糸をつむぐ道具(おもり)・臼玉4万点
◎糸をつむぐ錘があったんですね。糸をつむぎ布を織っていたのでしょう。
人骨は出ていませんが、腐食したのでしょうか。
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滑石製臼玉4万点
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◎これらは、以前シュラホールへ行ったとき見ているのですが、あの時はどこの古墳からでたのか、はっきり区別出来てませんでした。(^^ゞ
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by jumgon | 2010-11-25 21:25 |  ○近つ飛鳥歴史資料館
辰砂について、新しい情報(私にとって)見つけましたので、追加します。
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/cc/51.htm
(徳島博物館)より

辰砂(しんしゃ)の精製
高島 芳弘
 

神聖な色「赤」 

赤い色は神聖な色として、旧石器時代、縄文(じょうもん)時代から土器や木製品の表面に塗られたり、人を墓に埋葬するときに上から振りかけたりして使われてきました。これらの赤色顔料にはベンガラと辰砂(水銀朱)の二種類があり、鉛丹(えんたん)は奈良時代になるまで使われませんでした。

 西日本では弥生時代のおわり頃から赤色の顔料として辰砂が多く使われるようになり、古墳時代はじめには辰砂が古墳の石室に多く振りまかれるようになります。
◎そうか、辰砂の粉末は振りかけられただけなのか、、、、。私は何か接着剤があったのかどうか疑問だった。遺体や石棺が動き出すわけないから、振りかけるだけで十分だったんだ。土器なんかには粘土に混ぜたのかな?
奈良県の大和天神山古墳の竪穴式石室の中には41kgの辰砂が使われていました。(⇒誰も埋葬されていない古墳)

古墳の石室には人骨が残ることが少ないので、赤く染まった人骨は甕棺(かめかん)などから出土した弥生時代のものが多く知られていますが、出土しています。(図1)
徳島県鶴島山二号墳出土 
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辰砂の採掘・精製と石臼・石杵 

辰砂の採掘は縄文時代から行われており、なかでも伊勢水銀として古くから知られている三重県勢和(せいわ)村丹生(にう)付近では、縄文時代後期の度会(わたらい)町森添(もりぞえ)、嬉野(うれしの)町天白(てんぱく)の両遺跡から、辰砂の付着した石皿、磨石や朱容器と考えられる土器が数多く出土しており、このころから辰砂の精製が行われていたことがわかります。徳島市国府町の矢野遺跡においても縄文時代後期から辰砂の精製が行われていたようです


 弥生時代以降の辰砂の採掘では徳島県阿南市の若杉山遺跡が有名で、弥生時代終末期~古墳時代初頭の一大産地であったと思われます。
若杉山遺跡出土
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 古墳からの出土品には、福井県丹生郡の朝日古墳群中条4号墳から出土したものや大阪府の野中古墳の出土品のように、きれいに整形されているものが多く見受けられますが、なかには福島県の会津大塚山古墳出土例のように自然石を利用したものもあります。
 
 若杉山遺跡では、石臼は40点以上、石杵は300点以上出土しています。大部分の石臼には石杵によって叩かれてできたくぼみが何カ所かあり、石杵には両端に潰れた跡や小さく欠けた跡がみられます(図3)。これらのことから、若杉山遺跡では辰砂の採掘、おおまかな粉砕の作業が中心に行われており、微粉化はあまり行われていなかったのではないかとも考えられてきました。
 
  
 名東遺跡出土のすりつぶしに使われた面を持つ2点の石杵はこれだけであり、ここにいったん集めて畿内方面に再び運び出したと考えるには、石臼・石杵の量が少ないような気がします。
徳島市の名東(みょうどう)遺跡出土の石杵
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板野町の黒谷川郡頭遺跡、徳島市の矢野遺跡も同様だと思われます。 
 これに対して辰砂の産地とは遠く離れた兵庫県龍野(たつの)市の養久(やく)山・前地(まえじ)遺跡から朱の付着した非常に大きな石臼が発見されています。ここの住居跡で最終的な精製を行い周りの集落に配布していたと考えられています。 

辰砂の流通 
弥生時代終末~古墳時代初頭の辰砂の採掘遺跡である若杉山遺跡が確認されて以降、古墳の石室で辰砂が大量使用されること、ほかに採掘遺跡が見つかっていないことから若杉山遺跡から畿内へ向けて辰砂が運び出されたと考えられてきました。

◎あれ、ヤマト地方にはそんな遺跡は出てないのかな?まだ発掘されてないだけかな?
しかし、辰砂を産出しない龍野のような地域で、辰砂の最終的な精製が行われていたとすれば、辰砂は産地から消費地へ直接運ばれたと考えた方がよいのではないでしょうか。辰砂をすりつぶすための石臼・石杵がもっと多く出土する遺跡が出てきたときに、そこを集散地的な性格のムラと考え立地と合わせて検討する必要があります。
 古墳出土の辰砂の産地については、はっきりとはわかっていません。なかには赤い色が水銀朱なのかベンガラなのかさえわかっていない場合もあります。
 
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by jumgon | 2010-11-24 21:04 | ★辰砂・水銀
近つ飛鳥風土記の丘

日本を代表する群集墳・「一須賀古墳群」を保存し、褐貴重な文化財に触れ・学び・親しむ場として設置した史跡公園です。

ここに、「近つ飛鳥歴史資料館もあります。

*この資料館の名前の「近つ飛鳥」って、どういう意味?

資料館の学芸員さんが教えてくれました。

難波の宮から
●近い飛鳥が「近つ飛鳥」(大阪府南河内郡周辺)
●遠い飛鳥が「遠つ飛鳥」(いわゆる奈良県明日香村周辺です。)

 近つ飛鳥歴史資料館は大阪府南河内郡河南町にある、一須賀古墳群の地域に建っています。
 建築家・安藤忠雄氏の設計です。
コンクリート打ちっぱなしのユニークな建物です。
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階段のはるか先に神殿があるみたいな雰囲気ですね。
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一須賀古墳群は径15m前後の円墳内に横穴式石室を中心とする約250基からなる南河内最大の古墳時代後期群集墳です。 
1966年(昭和41年)、上野勝巳がその分布を紹介。古墳群は6世紀前葉から7世紀中頃に、基本的には丘陵先端から上方に向かって形成される。石室は羨道が短く、玄室平面プランは正方形気味で推移し、
石室内は2~3体を埋葬するケースが最も多い。遺物では金銀製品、ミニチュアの炊飯具が特徴的。


この古墳群は周囲の古墳と異なり、渡来系のものと考えられる副葬品が発見される。
特にミニチュア炊飯具と呼ばれるものが出てくることで知られる。
現在ここからは20例近く発見されているが、これは、滋賀県湖西地方などごく限られた範囲でしか発見されていない。また、古墳の近くから発見される須恵器、須恵器窯は朝鮮半島から技術が入ってきたごく初期の頃のものであることが分かっている。


ミニチュアの炊飯具
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 何という氏族がこの群集墳を形成したかは、非常に興味がある。上記のように、ミニチュアの炊飯具が多数出土することから、百済系渡来氏族の奥津城だったとの推測がなされている。その推測を補強するような史実がある。

雄略天皇の時代、百済の王族の昆支王(こんきおう)とその一族郎党が渡来して住み着いた場所は、後に「飛鳥戸郡」と呼ばれる土地であったという。
大和朝廷が百済王族に対して無人の原野を与える訳はない。昆支王が来朝した頃には、飛鳥戸郡やその周辺には、半島からの渡来人がすでに多数住んでいたはずである。百済王族とその郎党にはその中の一等地が下賜されたにちがいない。

一須賀古墳群はこうした百済系渡来人の居住地から指呼の距離にあり、彼らの奥津城、つまり共同墓地霊園だったと思われる。 


資料館の学芸員さんが横穴式石室を案内してくれた。
たくさんあるので全て見るわけにもいかない。
石室には、石棺もあるが多くは木棺だということだ。(釘らしきものがあった。)
とにかく山の中のかなり急な坂を登ったところにたくさんある。
木棺ならまだしも、大きな石棺が急な坂を上がったところにあり、どうやってこれを運んできたのだろう?と不思議だった。
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修羅なんかこんな狭い坂道で使えるだろうか?
石棺の素材は、近くの二上山のものもあるが、遠く高砂あたりの石もあるとのことである。

石室はたいていは小さな石を積み重ねて造られていたが人の背丈ぐらいの大きな石が使われた石室もあった。
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線刻などの修飾はないようだ。
下の写真は D-4号墳
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この古墳群から出土したものが資料館にある。

金製垂飾り付耳飾・銀製釵子(かんざし)
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金銅製沓復元模造品
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このきらびやかな沓、実際に履いてたものじゃないですよね。沓裏にまでジャラジャラ飾りがついている。
たしか「藤ノ木古墳」からもこんなのが出ていたと思う。
大王でもない人のお墓にこんなものが副葬されてたなんて!!

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by jumgon | 2010-11-22 23:22 | ○一須賀古墳群
近つ飛鳥博物館 ① 鉄鋌
秋季特別展「鉄とヤマト王権」
邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ


市の催しで、
大阪府南河内郡の大阪府立近つ飛鳥博物館で開催中の秋季特別展「鉄とヤマト王権」
邪馬台国から百舌鳥・古市古墳群の時代へ連れていってもらった。
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 今回の展示では、弥生時代後期から古墳時代にかけての鉄素材と鉄製武器・武具・農工具など、さまざまな鉄にかかわる資料を展示している。
タイミングよく、気になっていた鉄に関する展示と学芸員さんの説明があり、期待以上に私にとっては収穫があった。

館内では写真は撮れないので、パンフレット、ネットで探してきて載せました。

今回分かった情報を簡単に書きます。(現在のところの考え方で、また変化する可能性はある。)
①弥生時代の鉄製品出土は九州が多い
②古墳時代に入り奈良、大阪が圧倒的に多くなる。
③製鉄は日本ではまだ出来ず、鉄製品そのものを手に入れるか、鉄を加工して鉄製品を作っていた。
④日本での製鉄は古墳時代後半期・中世になってからである。


「鉄とヤマト王権 邪馬台国から百舌鳥(もず)・古市古墳群の時代へ」展は
鉄を基盤としたヤマト王権の成長過程と東アジアとの関係をさぐる特別展である。
同博物館の森本徹・総括学芸員による解説があった。

 5世紀代、日本列島最大規模の古墳が集中する百舌鳥・古市古墳群からは、これまでに数千点に及ぶ鉄器が出土している。それらは刀や剣、槍といった武器類や甲冑などの武具類、また斧やヤリガンナ、鋤・鍬先や鎌などの農工具類など、ほぼすべての種類を網羅し、時に数百点もの鉄器をひとつの埋納施設に納める例もある。
 

下の写真は大阪府藤井寺市長持山古墳
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いまだ実態の把握できていない古墳も多く残されていることから、百舌鳥・古市古墳群に本来納められていた鉄器の総量は、想像もおよばない膨大な量であったと推測される。これほどの「鉄」を古墳への副葬という形で消費していることからみて、百舌鳥・古市古墳群の被葬者達―それは言うまでも無くヤマト王権の大王たちであるが―、鉄を重んじ、潤沢な消費を可能とするだけの鉄を保有していたことを疑うことはできない。まさに彼らは日本列島における鉄を支配した大王たちであったのである。(⇒西墓山古墳
下の写真は大阪府藤井寺市の西墓山古墳の大量の鉄剣と農工具類
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 しかし、古墳時代の鉄を考える上で忘れてはならない視点がある。それは当時の日本列島では鉄の生産がいまだ行なわれていない可能性が高いということである。

 日本列島における鉄生産の開始期については古墳時代でも早い段階に想定する意見もあるが、現実に製鉄遺跡が確認されるのは古墳時代でも後半期をさかのぼらない。
すなわち弥生時代以来、古墳時代でも中ごろまでは、鉄器を作る原料は列島内で生産されていないとみなければならない。
では大量の鉄器やそれを作る原料はどこからもたらされたのか。その最大の候補地は朝鮮半島東南部地域である。
五世紀の古墳から出土する副葬品に「鉄鋌(てってい)」と呼ばれる分銅形をした薄い鉄板がある。奈良県大和6号墳からは、大小の鉄鋌が合計872枚、古市古墳群の大型前方後円墳、墓山古墳の陪冢(ばいちょう、家臣の墓)である野中古墳からは、多量の武器、武具と共に130点を越える鉄鋌が出土している。

鉄鋌の分布
奈良県・・・・大和6号墳(872枚)
大阪府藤井寺市・・・・野中古墳(130枚以上)
行者塚古墳(40枚)
私部南遺跡(大阪府交野市)
高宮遺跡(大阪府寝屋川市)
亀川遺跡(大阪府阪南市)
木戸原遺跡(南淡路市)
その他、福岡県・大分県・愛媛県・香川県・広島県・岡山県・兵庫県・京都府・和歌山県・滋賀県・愛知県・群馬県・千葉県・東京都
圧倒的に近畿、中でも奈良、大阪から出土している。


 その形状とまとまった出土状況から、このような鉄の板は鉄の道具を作るための地金であり、『日本書紀』にも記載のみられる「鉄鋌(ねりがね)」と目されてきた。

同じ形状を持つ鉄鋌は朝鮮半島当南部地域、すなわち加耶や新羅の地域でも多く出土していて、新羅最大の王陵である皇南大塚南墳からは大小あわせて1300枚以上の鉄鋌が出土している。
その出土地が朝鮮半島南部地域と、奈良、大阪といった近畿地方中央部の二箇所に集中していることから、鉄鋌は朝鮮半島東南部で生産され、加耶、新羅地域はもとより列島にまでもたらされた鉄の素材と考えられる。
実際に鉄器に加工されないまま古墳に納められる鉄鋌に、実用の素材ではなく威信財としての性格をみいだす意見もある。
 
効率のよい利器として列島に伝わった鉄の道具も、弥生時代における出土資料は九州島北部から山陰、丹後半島を中心とし、朝鮮半島との地理的な関係を反映した分布しか示さない。
しかし古墳時代にはいると、鉄製の武器や武具においても、その素材と目される鉄鋌においても、その分布の中心は近畿地方中央部、まさにヤマト王権の本拠地というべき地域に移動する。
 ヤマト王権の成立に、朝鮮半島の鉄が与えた作用は極めておおきく、その独占的な入手と消費こそが王権形成過程の一側面であった。そしてそれは百舌鳥・古市古墳群の時代にピークを迎え、膨大な量の「鉄」が古墳に副葬されるようになる。

◎独占的に鉄鋌を手にいれたヤマト王権はそれを各地の首長に与えたということになる。服従への恩賞だろうか~

なかでも奈良県大和6号墳から出土した鉄の地金である鉄鋌は、複製品と組み合わせて出土状況を再現しており、鉄鋌埋納の様子を実感することができる。
こんなにきちんと並べて埋められていたのですね!
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◎本当にこれを見た時は目を疑った。確かこれは、宮内庁書陵部所蔵品だ。
大鉄鋌の長さは約26センチ、小鉄鋌の長さは約7cm(目測なので、大体の目安と思ってください。)

これらの鉄鋌は,昭和20年に奈良県宇和奈辺(うわなべ)陵墓参考地の旧陪冢(ばいちょう)から出土したものである。この陪冢からは大鉄鋌282点,小鉄鋌590点が出土しており,出土した鉄鋌の総重量は約140㎏に及ぶと推定されている。
ウワナベとは、前妻という言葉が訛ったものだそうだ。


近つ飛鳥資料館とは関係ないが、鉄にかんする記事を書きとめておく。
鳥取県
平安時代の伯耆国鉄生産は9世紀に調として鉄鋌(てつてい)・鍬を出し、庸として鍬を中央に差し出した記録が延喜式にある。また1073年から20年間に東大寺封物として4340鋌 もの鉄を全国の中で伯耆国のみ差し出していることが平安遺文にあることは、平安時代伯耆国は一大製鉄地であったことが窺われる。
◎平安時代にはわが国でも鉄が生産されていたのですね!
11月19日朝日新聞
兵庫県淡路市黒谷 五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡
弥生後期(1世紀半ば~3世紀初め)の建物遺跡が見つかりうち12棟の竪穴建物では床面に赤く焼けた炉跡があった。鉄製品や鉄器作りに使ったと思われる石製工具も数多く出土したことから、鍛治工房と推定された。
鉄製品の原料をどこから入手し、製品がどこへ流通したのか、鉄が畿内で普及するという段階で、なぜ畿内中心部でなく淡路島に工房があったのか、等の謎がある。

◎鉄そのものの生産でなく、鍛治工房があったのですね。
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by jumgon | 2010-11-21 21:01 |  ○近つ飛鳥歴史資料館
大和川と石川が合流する地点を少し奈良の方に進むと、弥生時代の史跡高井田横穴群がある。
30年位前からその存在は知っていたが、当時は写真でみると、山の中の木や笹などの間から穴があちこち見える、といった感じで、一人で行くのはちょっと恐い感じであった。
現在は、「史跡高井田横穴公園」となってそばには「柏原市立歴史資料館」が出来ていて、柏原市の歴史がわかるようになっている。
前回アップした、「大和川付け替え」についての資料も展示されている。


奈良方面から亀瀬峡谷を通り抜けてようやく河内平野へ流れ出た大和川は、石川と合流する手前で大きく北へ蛇行する。
その蛇行地点に近い北岸は、生駒山系の南端にあたる。鬱蒼と樹木が生い茂った丘陵が河岸近くまで張り出してきている。樹木を育てている土の表層を一枚まくれば、その下には凝灰岩(ぎょうかいがん)が横たわっている。
今から1000万年以上も前に、二上山の噴火で降り注いだ火山灰が固まってできた岩盤だ。
凝灰岩は柔らかい。掘るのが簡単で、加工もしやすい。そうした性質を利用して、この地域に盤踞した古代氏族は、丘陵の斜面に多くの横穴を穿ち集団墓地を築いた。6世紀の中頃から7世紀の初めころのことで、ちょうど聖徳太子が生きた時代にあたる。

横穴をめぐる遊歩道
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史跡高井田横穴は、総数200基以上と推定される大規模な横穴群です。
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横穴は、6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたお墓で、二上山の火山灰が積もってできた凝灰岩と呼ばれる岩盤に洞窟のような穴を掘り、 死者をほうむったものです。横穴からは、土器や武器、装身具などが発見されています。 また、人物、鳥、馬など様々な線刻壁画が描かれた横穴もあり、貴重な文化財です。


現在までに確認されている横穴墓の数は162基、実際には200基以上はあると推測されているという。
この史跡を有名にしているのは、横穴墓が密集していることもさることながら、線刻壁画が描かれた古墳が27基も存在することだ。

壁画に描かれているのは、人物、馬、船、家、鳥、蓮の花、木、葉、意味不明の記号とさまざまである。何を描いたのか理解できない線刻も多数あるという。
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27基の横穴墓の中でもっとも有名なのは、第3支群5号墳だろう。玄室(げんしつ)から入口を見た場合の羡道(せんどう)の右側にあたる壁に、よく知られた複数の人物が描かれている。
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一番上には、両端が反り上がったゴンドラ型の「船に乗る人物」が描かれている。この人物は、左手に槍あるいは旗と思える棒状のものをもって船の上に立ち、丈の長い上衣を幅広の帯でしめ、幅の広いズボンも膝の部分で縛っている。
船の両端には二人の小さな人物が描かれていて、右側の人物は碇(いかり)を引き上げ、左側の人物はオールを漕いでいるようだ。

その左には「正装の人物」が描かれている。船に乗る男と同じ服装をしているが、先のとがった靴を履き、耳の横で頭髪を束ねた美豆良(みずら)という髪型をしている。
その下の人物は「袖を振る女性」で裳(も)と呼ばれるひだのあるスカートをはいている。船に乗る男を出迎えるように、あるいは見送るように、盛んに両手を振っている。

高井田山古墳
高井田横穴公園整備事業の作業中に高井田山の頂上で見つかった古墳で、5世紀後半から5世紀末にかけて築造された直径22mの円墳である。
埋葬の主体部は内部に薄い板石を積み上げた初期横穴式石室だった。近畿地方では最も古い横穴式石室とのことだ。副葬品の中に、古代のアイロンと言われる青銅製の火熨斗(ひのし)があった。火皿に炭火を入れて使われたと見られており、日本で2例目の出土品である。

ここを調査した柏原市立歴史資料館の桑野一幸さんの話によれば、「ここで見つかった横穴式石室は、出土した須恵器から判断すると、5世紀末のもの。しかも、百済の影響を直接受けている。つまり、最古級の畿内型横穴式石室なんです。」と言う。
桑野さんによれば、畿内の横穴式石室には2種類あって、朝鮮半島からいったん九州を経て伝わったもの(5世紀半ばころから)と、直接畿内へ来たもの(6世紀頃から)とに分けられると言う。
百済との関係を裏付けるのは、石室の形態と副葬品である。
石室を上から見た形は九州のものと違って「韓国のソウルに、可楽洞、芳夷洞という百済の古墳がありますが、ここの横穴式石室と似ています。」という事になる。(よく判別できないけれど、、、)
また、資料館に行けば見れる古代のアイロン、火熨斗(ひのし)の出土は、国内では2例目であるが、中国・朝鮮では多く出土している。
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百済の武寧王陵では、王妃(526年没)の副葬品として出土している。高井田山古墳でも、玄室には副葬品から見て二人埋葬されていた可能性が高く、火熨斗が出た方の棺からは中国産の鏡も見つかっている事から、こちらも女性の可能性が高い。
その他に、純金製やガラス玉製の耳飾り、剣、槍、矛などの武器類や甲冑(かっちゅう)、および神人龍虎画像鏡と呼ばれる銅鏡などが出土した。
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by jumgon | 2010-11-18 21:45 | ★高井田甌穴群(柏原市)

大阪湾と大和川

古代大阪の姿・大和川
3枚の写真をみると、大阪湾がだんだん陸地になっていく様子が分かりますね。
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かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、
大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。

縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行く.

古代河内は今は陸地のところが海で、小さな川が、何本もながれ河内地方は、じきに洪水に襲われ、ジュクジュクの湿地だった。(水耕稲作には湿地帯は洪水さえなければ良いのだが、、)

仁徳天皇による堀江掘削
『日本書紀』巻十一の仁徳天皇十一年十月の条に、『宮(高津宮)北の郊原を掘りて、南の水(大和川)引きて西の海(大阪湾)に入る。困りて其の水を号けて堀江という。
大阪湾内が泥水で腐り困って、海へ繋がる道を開削したそうです。
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又、将に北の河のこみを防がんとして、以て茨田堤を築く』とあり、上町台地の北端、現在の大阪城の北側の大川から中之島方面へ通じる水路を掘ったとされ、大和川の排水を促す工事としては最初のものであり、淀川左岸の築堤とともに日本で初めての大規模治水工事と考えられている。


■和気清麻呂の工事
律令制制定以降もたびたび大和川流域一帯で護岸工事が行われ、『続日本書紀』の記述によると、弓削道鏡による西京建設と前後して河内国志紀郡・渋川郡付近の護岸工事がのべ3万人余りの労力で行われたとある。
その後、延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂により河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更が試みられた。のべ23万人の労力で現在の四天王寺の南付近を掘削する工事が行われたが、上町台地の高さの前に挫折した。現在の天王寺区・阿倍野区の地名である「堀越」「北河掘町」「南河堀町」「堀越神社」などの名はこの工事が由来していると言われている。

◎和気清麻呂って、宇佐神宮に神托の確認にいった人よね。
  神託と土木工事というのがどうも結びつかない。


■平安時代以降も大和川流域の洪水被害は頻発していた。堤防補修費用捻出のために弘仁3年(812年)には「出挙」とよばれる利子付貸し付けを行い、その利子を工事費に充てるとことも行われた。さらに、『日本三代実録』の記述によると、貞観12年(870年)には河内国の水害や堤を調査する役人や築堤を担当する役人が任命されるなど、国家事業として大和川治水が行われていた。

■江戸時代初期
豊臣秀吉が日本全土を平定し、大坂に城下町を整備するのに合わせて淀川・大和川水系の治水工事も大がかりに行われ、断続的だった堤防はこの頃には連続のものになっていく。江戸時代には「国役堤」として江戸幕府直轄の管理下におかれ、堤防の管理・保全が行われた。
このころには大和川の流路は人為的に固定されてしまったため、上流からの土砂は逃げ場を失い、川底に堆積し、天井川となっていった。堤防決壊による洪水被害も起こりやすくなり、被害の復旧、堤防のかさ上げや川浚えなどに多額の費用と労力が費やされた。


■江戸時代の川違え(付け替え)工事
度重なる被害の大きさに、河内の大和川流域の村々から付け替えの機運が起こり、現在の東大阪市にあった今米村の庄屋、中甚兵衛らが河内の農村をとりまとめ何度も幕府に請願し続けた。
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安堂駅近くに「大和川治水公園」があり、中甚兵衛の銅像がたっている。新しい川の流路となる村々からも付け替え反対の請願が起こったが、ついに付け替え工事が1704年(宝永元年)に行われ、わずか8ヶ月で大和川は現在のように堺に向け西流するようになった。
安堂付近の大和川からみる二上山(手前にプールのらせん滑り台がみえる。)
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大和川の築留

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by jumgon | 2010-11-15 21:18 | ○ナニワからヤマトへの交通路
大神神社や宇陀水銀の話でよく出てきた「亀の瀬」についてお話しする前に、先ずナニワから大和までの大和川の流れをみていこう。

古代河内平野、大和川の地図を見てみよう。
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縄文・弥生時代から飛鳥・奈良時代からずっと難波から大和へのルートを握ってきたのが、大和川である。
現在の大和川は江戸時代に付け替えられたもので、いまとは違う。

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大和川でナニワからヤマトへすんなり入れたら問題はなかったのだが、途中で亀の瀬という、難所があり、それが、逆にヤマトの防衛機能を果たせたという見解もある。
大和川でナニワからヤマトへ荷物や人を運ぶには「二つのルート」が考えられる。

1) ナニワ→亀の瀬→竜田越え→奈良盆地
2) ナニワ→亀の瀬でいったん陸揚げされ上流へ向かう川船に積み替え→奈良盆地

古代の奈良盆地における水陸交通網の謎を追う より
亀の瀬は古代でも大和川水運の難所だったが、どのようにこの難所を通り抜けたか

■亀の瀬は、宿命的な地すべり地帯だといわれてきた。北側の山麓で地滑りが起きると、崩れ落ちた土砂で大和川がせき止められたり、川底が浅くなって川が滝のように流れた。当然、川船による運行はできない。

1) 竜田越え南路」を利用して難波から奈良へ向かうには、青谷~堅上(かたがみ)~雁見尾畑(かりんどうばた)~竜田山古道里山公園~峠八幡神社(とうげはちまん)~立野というルートもあったようだ。
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2) ナニワ→亀の瀬でいったん陸揚げされ上流へ向かう川船に積み替え→奈良盆地

飛鳥時代以前、どちらの道が使われたにせよ、荷物を運んだり道案内を頼んだりするために、人足衆が必要で、それを采配する指導者が広瀬神社に祀られている「広瀬の神」である。(田中八郎氏)

亀の瀬・・・・・緑と川が美しい
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『日本書紀』に記載された外国使節の往来に関する記事による。
推古天皇16年(608)6月、遣隋使節として隋に赴いた小野妹子は隋使・裴世清(はいせいせい)の一行を伴って帰国した。このとき、難波津に到着した隋使たちは8月に海柘榴市(つばいち)から小墾田宮へ迎えられている。
すなわち、一行は船で大和川をさかのぼり、三輪山の近くの港湾都市・海柘榴市で上陸している。

■このとき、一行はどのように亀の瀬の難所を越えたのであろうか。亀の瀬の手前で船を下りて「竜田越え南路」を通って大和に入り、ふたたび川船で大和川を遡航したと考えるのが一般的であろう。
だが、雁見尾畑(かりんどうばた)を越えていく峠道は、筆者(和田)も徒歩で踏破した経験があるが、かなり厳しい坂道である。もっと簡便な方法があったのでないか、と考えていたときヒントになったのが、江戸時代に開拓された大和川水運の例である。
◎雁多尾畑(雁見尾畑)って、変わった地名ですね。
まるで横溝正史のミステリィに出てきそう。昔仕事でいったことあるけど、ちょっと隠里という雰囲気の村です。


■大和川の水運は、慶長6年(1601)に小泉藩の領主だった片桐且元(かたぎりかつもと)が、年貢米を大坂に運搬するために亀ノ瀬の岩壁を開削して水運を開発したとされている。この水運では、王寺町の亀の瀬がターミナルだった。
その亀の瀬を境に、上流と下流とで二つの水運区域をなしていた。亀の瀬から上流の大和川はあまり水深がなかったため、船底は平らで浅い魚梁船(やなぶね)が用いられた。魚梁船は長さ約15m、幅約1.5m、約1トンの荷物を積むことができた。

■一方、亀の瀬から下流は、剣先船(けんさきぶね)が用いられた。
剣先船は大坂から亀の瀬まで積み荷を運んだ。だが、亀の瀬には銚子口という滝があったためにそれより上流に遡ることができない。
そこで、剣先船を係留する浜で荷物を小揚げし魚梁船に積み替えて上流の大和まで運んだとされている。

■そうであれば、古代においても亀の瀬は大和川水運の中継地点であったはずで、上流から運ばれてきた荷物は亀の瀬の岸でいったん小揚げされ、荷物を扱う仲仕などによって下流に運ばれ、再び川船に積み替えられて難波へ運ばれたであろう。下流から運ばれてきた荷物も同じように、亀の瀬でいったん陸揚げされ、上流へ向かう川船に積み替えられたであろう。
亀の瀬の滝と成って流れる急流はそれほど長くない。

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by jumgon | 2010-11-14 22:40 | ○ナニワからヤマトへの交通路