古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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日本語の数詞について

ひぃ、ふう、みぃ、よ、or いち、に、さん、し

日本の神社で、あきれるほど多いのは「恵比寿神社」「八幡神社」「稲荷神社」の系統である。
いったい何の神様か良くわからないので調べていたら、
偶然、八幡信仰についての記事を読み「ハチマンではなくヤワタ・ヤハタ」と読む、と書かれていた。

以前から気になっていた「日本の数詞」について調べた。

◎ほとんど、引用なので恐縮ですが、誰でも先達の知識があってこそ、進歩すると思っているので分かったことを書きます。

ウィキペディアより

先ず数字についての知識から

◆基数詞(きすうし)
  数詞(きすうし)とは、基数、すなわち分けて数えられるものの個数を表す数詞である。
  日本語の「いち」、「に」、「さん」は基数詞である。

◆序数詞(じょすうし)
  序数詞あるいは順序数詞(じゅんじょすうし)とは、順序数、すなわち分けて数えられるものの
  順番を表す数詞である。なお同音の助数詞と混同しないこと。
  日本語では単独で序数詞を表すものはないが、
  「第-」を漢数詞(助数詞が付く場合は、算用数字で表すこともある)の前に付けるか、
  「-目」「-位」を助数詞の後に付けて表現される。
•第二、第二回
•二番目、二回目、二個目、二人目、二日目、二位

◆反復数詞(はんぷくすうし)
  反復数詞(はんぷくすうし)とは、回数を表す数詞である。
  英語の once, twice, thrice は反復数詞である。
  日本語では基数詞と、「回」あるいは「度」を使うので、
  基数詞と区別される反復数詞はない。

◆集合数詞(しゅうごうすうし)
  集合数詞(しゅうごうすうし)とは、複数のものからなる組を表す数詞である
  日本語では基数詞と「組」とを用いて「三人組」などとするので、
  独自の集合数詞はない。
 
◆倍数詞(ばいすうし)
  倍数詞(ばいすうし)とは、何倍であるかを表す数詞である。
  英語には二系統あり、twofold, threefold などは基数詞から  
  規則的に導かれるが、double, triple などの表現は語源上はともかくとして、 
  現在の基数詞との語形の繋がりはなく独立の語である。

◆分数詞(ぶんすうし)
  分数詞(ぶんすうし)とは、分数の分母を表すのに用いる数詞である。 
  ヨーロッパの諸言語では序数詞を用いるが、補充形を用いることもある。
  英語では 1/3 は a third であり、分母は序数詞と同じであるが、
  1/2 は a half、1/4 は a quarter であり、序数詞と異なる。
  日本語、中国語などでは、基数 + 「分之(ぶんの)」 + 基数という複合語を用いるので、
  分数詞はない

◆底
  ほとんどの言語では、大きい数を表す数詞には一定の構造があり、
  数詞特有の規則に従って構成する。
  例えば日本語では、47 を表す基数詞は「よんじゅうなな」であり、
  4×10+7 を意味する。日本語の数詞は底が 10、すなわち十進法である。
  世界的には十進法が圧倒的に多いが、二十進法も世界各地で見られる。
  ニューギニア島は最も言語密度の高い地域として知られ、エスノローグには
  1071 個の言語が記されている。このため底も多様であり、
  二進法、四進法、六進法、十進法、十五進法、二十進法、二十四進法、
  六十進法が存在する。
◎10進法が当たり前だと思っていたけど、他にこんなにいっぱいあるんだ!
  9進法というのに何かの機会に触れた事はあったけど~。

*エスノローグ ( Ethnologue: Languages of the World, 民族語の意)

◆日本語の数詞
  日本語の数詞には、原日本語に由来すると考えられている固有の和語の数詞
  (ひとつ、ふたつ、みっつ、…)と、漢字とともに中国から持ち込まれ日本語化した
  漢語の数詞(いち、に、さん、…)の二つの系列の数詞が併用されている。

  本来、和語の数詞で数そのものの概念を表しているのは「ひと、ふた、み、よ、…」
  の部分であると考えられる。しかし、実際にはこの部分が単独で用いられることはなく、
  数または個数を表す場合には「-つ」などの接尾辞を伴って、
  「ひとつ、ふたつ、みつ (みっつ)、よつ (よっつ)、…」という形で用いられるか、
  具体的な接尾辞または助数詞を伴って、「ひとり、ふたり、みたり (みったり)、
  よたり (よったり)、…」、「ひともと (1 本)」、「ふたまた (2 又)」、「みとせ (3 年)」、
  「よっか (4 日)」、「やくさ (8 種)」などという形をとる。

  さらに 10 を超える数については、「とおか・あまり・みっか」 (13 日)、
  「みそとせ・あまり・ななとせ」 (37 年)、「よそじ・あまり・みっつ」 (43 個) などのように、
  桁ごとに接尾辞または助数詞を繰り返して言う方法しかなく、非常に冗長だった。
 
 
  なお「みそひともじ(三十一文字)」などの語は、このような和語系数詞本来の体系が
  崩れた後に、漢語系  数詞の体系に合わせて生じたものとされる。
  

  これに対して漢語の数詞は、「十・三」 (13)、「三十・七」 (37)、
  「二千・七百・六十・八」 (2768) などと言うように単純かつ体系的であり、
  「日」、「年」、「個」などの助数詞は末尾に1度付ければよいという合理性を持ち、
  また極小から極大まで、あるいは分数表現や割合表現、倍数表現などについても
  整然とした体系を持っている。
  このことが、現代日本語での和語系の数詞の使用が
  1~10 に限られ、11 以上はもっぱら漢語系の数詞が使用されるようになった原因と
  考えられている。

  現代日本語においては 10 以下であっても、「みたり」 (3 人) などのような表現は
  ほぼ消滅し、「ひとよ」 (1 夜) という表現も非常に古風な物言いと感じられる。
  時間あるいは期間としての 1 日を和語系数詞で「ひとひ」と呼ぶことは
  現代日本語ではほとんどなく、漢語系の「いちにち」という言い方しか行われない
  (月の第1日を「ついたち」と呼ぶのは「月立ち」の音便形である)。
  なお、4, 7 については漢語の「し」、「しち」より、和語の「よん」、「なな」を使うことが多い。

  年月日の読み上げでは、「四月」(しがつ)を除いて「四」を「よん」と発音する以外
  全ての数詞を漢数詞の読み方で発音するのが慣習であるが、
  無線などの雑音の多い環境での会話では「いち」「に」「し」「しち」などの
  発音の似ている数の混同を防ぐために、
  例えば「四月二十七日」を「よんがつふたじゅうななにち」と読み上げることもある
  (「一月」は「正月」(しょうがつ)と読む)。


◎以下は「生き物たちのエレガントな数学」の著者、上村文隆氏のHPより引用しました。
重複もありますが引用します。


日本の数学

『数詞の研究』

日本では数の読み方が二つある。[ひ、ふ、み、よ、いつ、む、なな、や、ここの、とお]と、
[いち、に、さん、し、ご、ろく、しち、はち、く、じゅう]の読み方である。
では、何故2つあるのだろうか。

ヒント、日本語の中に漢字が入ってきているのは知っているだろう。
・・あっ、そうか。漢字を読む時 に音読みと訓読みがあるというのと同じでしょう。

では、どっちが訓読み?
・・ひ、ふ、み の方。

ピンポン。こちらの方が、旧日本式読み方。
・・ということは、いち、に、さんは音読みか。
・・ところで、ひとつ、ふたつ、みっつ、と呼ぶ方が正しいのじゃない。
「つ」は年齢を数える時に付ける調子のようなものさ。ひと、ふた、み、よ、と呼ぶのが正式かな。
10までは読めるとして、20は旧日本式読み方ではどうなるの。
・・?
ヒントだよ。20歳のことを古い言い方では?
・・はたち。

だから、20のことを「はた」という。30は「みそ」、「おおみそか」って言うだろう。
40は「よそ」、50は「いそ」、60は「むそ」、70は「ななそ」、80は「やそ」、90は「ここのそ」、
100は「もも」
・・山口百恵の「もも」か。

◎最近はミソジ(アラサー)とかヨソジ(アラフォー)とかいう言葉がはやってますね。
古語を使って、表現を和らげてるように思える。


500は「いほ」、千は「ち」、八千は「やち」、万は「よろづ」でこれ以上はない。八百万と書いて「やほよろづ」、とてもたくさんという意味だ。・・億はないの。こりゃ楽でいいや。
◎神話によく出てくる語彙ですね!

11はどう読む。
・・とおひと。
残念でした。「とを」と「ひと」余るから「とをあまりひと」つと読む。「とをまりひと」と略されていた。
百三十七は「ももちまりみそなな」。
・・へー。知らなかった。

◎たしか紀貫之の「土佐日記」のはじめにこんな文がありました。「それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時他、」

そうだね。みんなが知らないのは、この読み方が段々すたれてきたからだが、なぜ「じゅういち」という読み方の方になったのかわかるかい。
・・読み方が簡単だからじゃない。
・・十の位もそれぞれ呼び方が違うなんて、めんどくさいよ。「じゅう」さえ知っていれば「にじゅう」、「さんじゅう」、「しじゅう」と読んでいけるもんね。

12は「とをまりふた」「じゅうに」
25は「はたちまりいつ」「にじゅうご」
36は「みそあまりむつ」「さんじゅうろく」


◎「数学ウラ話」吉岡修一郎著、学生社も参考にされたそうです。

あぁ~、図書館にリクエストする本がふえた!
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by jumgon | 2010-12-29 15:07 | ★言語、歴史
遣唐使についての勉強をかねながら「天平の甍」の舞台となった
第9次遣唐使発遣について調べてみた。


以下の文は
●東野 治之著 「遣唐使船」
●http://kondoh-k.at.webry.info/200512/article_7.html
●http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-19?comment_success=2010-12-19T13:56:27&time=1292734587 

を参照しました。

◆天平4年・(732年)朝廷で第9次遣唐使発遣が議せられる。

大使  :従4位上・多治比広成
副使  :従5位下・中臣名代
判官  :4名
録事  :4名

四等官より下の構成員については『 延喜式(大蔵省式) 』に次のような人々が記されています。
*以下は正確には第9次遣唐使の内容かどうかは分かりません。

(1) 史生(ししょう、書記官)、雑使(ぞうし)、傔人(けんじん、使節の従者)
(2) 訳語(やくご、通訳)
   新羅・奄美等訳語(◎奄美の訳語も必要だったの?奄美などに漂着した場合に必要) 
   主神(神主)
   医師
   陰陽師(易占、天文観測)
   卜部(うらべ、占い師)
   射手(いて)
   音声長(おんじょうちょう、楽長)
(3) 知乗船事(ちじょうせんじ、船団管理者)
    船師(船長)
    船匠(船大工)
    柁師(かじし、操舵長)
    挟抄(かじとり、操舵手)
    水手長(かこおさ)
(4) 留学生(るがくしょう、長期留学生)
    学問僧(長期留学僧)
    請益生(しょうやくしょう、短期留学生)
    還学僧(げんがくそう、短期留学僧)
(5) 音声生(おんじょうしょう、楽師)
    玉生(ぎょくしょう、ガラス工人)
    鍛生(たんしょう、鍛冶鍛金工)
    鋳生(ちゅうしょう、鋳物師)
    細工生(さいくしょう、木工工人)
 ●これらの随行員は出発に際して、朝廷から賜物(餞別)が下賜されました。賜物は旅費等に使用され、また、唐での交易を行う時にも役立てたようです。

(注)唐政府から正式な遣唐使であることが確認されると、遣唐使一行の唐での滞在費や移動に要する旅費等の諸経費は、朝貢使待遇の一環として全て唐側で負担しました。
そのあたりの事情もあったと思われますが、遣唐使のうちで都の長安へ出向できたのは、全体の10%程度(後期遣唐使の場合で40~50名)の人数でした。
他の者は定められた別の地で、それぞれの専門分野の知識を学ぶため、それらの地で種々の研鑽に勤めたようです。


第9次遣唐使の場合(天平の甍の舞台)
   留学僧(長期留学僧)
    大安寺の僧・普照ふしょう(栄叡より2歳下)
    興福寺の僧・栄叡ようえい(30歳すぎ)

その他に「水手」「射手」の下級船員まで、総勢580余名

延喜五年(905年)に編纂された『延喜式』の賜蕃客例条(大蔵省・賜蕃客例・大唐皇)によると、

近江、丹波、播磨、安芸の四カ国に使節が派せられそれぞれ一艘ずつの大船の建造が命じられた。
4艘で出航


◆遣唐使が持参した朝貢品

延喜五年(905年)に編纂された『延喜式』の賜蕃客例条(大蔵省・賜蕃客例・大唐皇)によると

◇国信(定例の朝貢品・輸出品)
①銀・大五百両
②水織絁(みずおりあしぎぬ)・二百疋
  美濃絁(みのあしぎぬ)・二百疋
  細絁・黄絁、各三百疋
*絁(あしぎぬ)・真綿などの絹製品。
③黄糸(きのいと)・五百絇
*「黄絁」(きあしぎぬ)「黄糸」(きのいと)は、皇帝への朝貢品であることを明示する工夫。
    (中国では、皇帝の色は、黄色とされる)

④細屯綿(ほそつみのわた)

◇別貢(別送)
①綵帛(さいはく)
*綵--べつのよみかたはあしぎぬ  帛--べつの読み方は、きぬ
②畳綿二百帖、
③屯綿二百屯、、
④紵布(ちょふ)・三十端、 
  望陀布(まぐだのぬの・上総国望陀郡産の麻布)・一百端
*望陀布(もうだのぬの)は、古代において上総国望陀郡(現在の千葉県袖ヶ浦市・木更津市・君津市付近)で産出されて調として徴された麻織物(麻布)のこと。律令制においては最高級品と規定され、大嘗祭などの宮中祭祀や遣唐使の贈答品としても採用された。

⑤木綿(ゆう)一百帖、(木綿(楮や麻の繊維)
⑥出火水精、(しゅっかすいしょう)十顆
⑦瑪瑙(めのう)十顆 
⑧出火鉄 十具
⑨海石榴油(つばきあぶら)六斗 
⑩甘葛汁(あまずらのしる、植物性甘味料)・六斗 
⑪金漆(こしあぶら、防錆用樹脂液)・四斗
鉱物製品について
 出火水精 十顆
 瑪瑙   十顆
 出火鉄  十具
「出火」という語が付くのは、火打ち道具として使うから  出火鉄は、火打ち金(火打ち鎌)。
  火打ち金で、火を起こすには、よい火打ち石が要る。
  その石は、石英質のものが適している。純度の高い石英である水晶や、成分に石英を含むメノウが最適。
  火打ち金十具に対し、火打ち石として最適の出火水晶 10個、出火メノウ10個用意されている。

唐の官人は、腰の革帯に手巾(ハンカチ)や刀子、算木(さんぎ)などとともに、
火打ち道具一式を入れた袋を下げていて、それらは一種の装身具でもあった。(吉村苣子)

唐に運ばれた火打ち道具も、そのように使われたらしい。
三ツ塚古墳群(奈良県葛城市当麻町)に副葬されていた革袋は、それを偲ぶ手がかりになる。
この古墳群には、9世紀の中下級官人が葬られているが、
彼らもこうした唐風の装身具を着けていたのだろう。
火打ち金や水晶の原石も見つかっている。

*延喜式(えんぎしき)とは
平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つです。
905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たり、927年(延長5年)に一応完成したとされています。

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by jumgon | 2010-12-27 21:24 | ★言語、歴史

鑑真和上

鑑真和上についての私の知識は教科書レベルのもので、唐からやってきて唐招提寺をたてた僧、という位のものだった。
鑑真上陸の地(鹿児島県・秋目浦)
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以前、永井路子氏の「氷輪」を読んで、鑑真を取り巻く人々や社会状況について少しは理解、想像することができた。
しかしこれは永井路子氏の目を通しての理解になるので、井上靖氏の「天平の甍」も読んでみた。

「氷輪」の方は主に鑑真和上が来日してからのことを書いている。現在の唐招提寺みたいな立派なお寺が、最初から日本朝廷によって用意されていたわけではない。
日本朝廷が戒律の師を求めてから、鑑真来日まで12年の歳月が経っている。その間に日本の社会事情も変わってしまっている。
来日当初こそ朝廷あげての大歓迎だったが、その後は5年間の東大寺での仕事の後、西京の地に土地を賜ったが、寺院を建立する十分な資金もなく苦労されたように書いてあった。
苦難の末やってきた日本での自分達の運命について、鑑真以下弟子たちはどんな思いだったろう。
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「天平の甍」は日本からの遣唐僧、普照を中心に話が進んでいく。
主に日本からの遣唐僧や留学生の唐に渡ってからの運命を描きだしている。

長い留学の間に病を得、なくなった者。
いつの間にか日本へ帰る意思をなくして、みずから留学僧としての保護をすてて托鉢僧となって大陸のいたるところを歩く僧。
また唐土に着くやいなや「日本へ帰りたい。日本でしか本当に生きるといった生き方はできない」といっていた僧が皮肉にも還俗して唐の女性と結婚し、子供を得、唐土に落ち着くという結果になるもの、といった様々な運命を描いている。

中国中央テレビで放映された連続ドラマ「鑑真東渡」より
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私にとって特に印象的なのは、数十年の唐留学生活、いわば人生の大半をひたすら日本へ持ち帰る経文を写すことに費やし、帰路経文と共に海に消えた僧業行だ。
あまりの虚しさに心をえぐられる。
当時の遣唐使船は難破がよくあり、無事唐に行きつく保障もなければ、日本に帰れる保障もない。
そして唐での生活の全てといえる膨大な経典の写経と「業行」本人は、何十年ぶりに復路の遣唐使船に乗船したが、その船は難破したのか行方知れず。
難破する鑑真の絵
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その消息が日本で分かるのも数年後になる。
小説ではハッキリと亡くなったとは書いてないが、同じ船に乗り合わせたほとんどが、漂着した土地の土人に殺害され、無事保護されて、唐にたどり着いたのは数名だったという。

全ての人間は生まれたときから死に向かって歩いている。
だからそれも又運命とはとはいえ、その虚しさはあまりに悲しい。

吉備真備のように二度も渡唐して無事帰国して、日本でそれなりの地位を築いた者もいるというのに、、、。

唐招提寺の概略を唐招提寺のHPより
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。

現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。

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by jumgon | 2010-12-27 19:34 | ★読書・放送・講演会
★科学記事⇒最近気になる科学記事
で一度触れたデニソワ人について新しい発表がありました。

デニソワ人、パプアニューギニア人の祖先と交雑 研究【12月24日 AFP】
3万~5万年前にアジアに住んでいた、ネアンデルタール人から枝分かれした別の人類が、パプアニューギニア人の祖先と交雑していたことが分かった。独マックス・プランク進化人類学研究所(Max-Planck Institute for Evolutionary Anthropology)の国際研究チームが23日の英科学誌ネイチャー(Nature)に発表した。

 研究チームは、2008年にロシア・シベリア(Siberia)地方のデニソワ洞穴(Denisova Cave)で発見されたデニソワ人の女性の指の骨と親知らずからゲノム(全遺伝情報)を抽出し、解析した。
 その結果、ネアンデルタール人と違い、デニソワ人は現代のユーラシア人と遺伝的共通点はないが、DNAの最大12分の1がパプアニューギニアをはじめとするオーストラリア北東に位置する島々に住むメラネシア人と共通していることが分かった。

 これはデニソワ人とメラネシア人の祖先が交雑していたことを意味する。

 研究チームはネアンデルタール人とデニソワ人は約50万年前にアフリカから移動したと考えている。ネアンデルタール人は西に移動して中東や欧州に定住。一方のデニソワ人は東に移動し、更新世の約40万~5万年前にシベリアからアジア南部の海岸に到着して別の人類と交雑したという。

 3月に行われたミトコンドリアゲノムの塩基配列解析では、太古に現生人類やネアンデルタール人から枝分かれしたことを除いては、ほとんど何も明らかにならなかった。(c)AFP
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by jumgon | 2010-12-24 21:16 | ★科学記事

生姜貯蔵庫

少し前の「越塚御門古墳見学会」のなかでこんな文を書きました。

以前牽午子塚古墳へ行った時、不審な、洞窟のようなものがあった。

「もしかして古墳の入り口?」とか「火葬令が出る以前の遺体置場?」とか想像してワクワク半分恐さ半分でした。
●そんなことを思いついたのは谷川健一氏のこんな文を読んだ頃だったからなんです。
沖縄では遺体を洞窟に安置する。死者は暗闇の冷たいところで孤独にいるのではなく外界からほのかにはいる黄色い光の中で安らぐ、、、。そういう墓を青という。沖縄では「青・緑・黄色」を青という。

その文の通り、その壕には入り口の扉はありませんでした。(写真を撮ってないので残念です。)
「まさにこれは谷川健一氏のいう、青・墓場だ!」と思ったって仕方ないでしょ!

近くのおじ様が「生姜の貯蔵庫」と教えてくれて、安心と同時に肩すかしを食った感じでした。
疑い深い私はネットで調べて見ました。

確かにあれは生姜の貯蔵庫に間違いないようです。
この写真は高知県のものです。ここでは扉があります。
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収穫した生姜を貯蔵しておくために掘られた洞窟。
「壕(ごう)」と呼ばれていたそうです。
奥深く掘られ、小部屋も数箇所。
生姜の貯蔵は、温度14℃前後、湿度も高いほうが良いのですが、この「壕」の中は
まさにその条件を自然に作り出しています。
今では温度調節のきいた倉庫で貯蔵されているとのこと。(大生産地では)

ハイ、納得しました。

◎ついでに生姜について調べました。

生姜の効能
  しょうがは、ショウガ科の多年草植物で、熱帯アジア・インドから
     マレーシアにかけての原産といわれています。
     
  日本へは、中国の呉の国(222~280)から渡来したといわれています。
『魏志倭人伝』に、倭の山にあるものとして、「薑(キョウ:ショウガ)・橘(キツ:タチバナ)
・椒(ショウ:サンショウ)・茗荷(ジョウカ:ミョウガ)あるも、以て滋味と為すを知らず」
と記されています。また、ショウガは
当時、「波志加美:ハジカミ」とも呼ばれていたことが、古事記にも書かれています。
   

 しょうがは、漢方薬の原料として、古くからその薬効が利用されてきました。
 生姜(しょうきょう:しょうがの生の根茎)は、健胃・解毒・解熱・鼻づまり・ 鎮咳・
 吐き気止めなどに有効とされています。
 また、乾姜(かんきょう:しょうがの根を蒸してから乾燥させた物)は、
 体の新陳代謝を活発にし、保温効果もよく、風邪・腹痛・下痢をはじめ、
    冷え性や夜尿症にまでその効きめを発揮します。

  しょうがの辛味の成分は、結晶性のジンゲロン・油状のショウガオール
     芳香のジンゲベレン等、いずれも精油によるものです。

 これらには、胃液の分泌を促して、消化促進・食欲増進など、健胃に役立つ成分です。
 また、発汗解熱・咳きり・腫れをひかせる消炎・補温等にも用いられます。
 特に、ジンゲロンは、腸チフス菌やコレラ菌等に対して強い殺菌力があります。
 アニサキスの幼虫を死滅させる効果もあります。

生姜の種類
一般に、生姜と言うと土生姜(囲い生姜・ひねショウガ)を指しますが、田圃の様な重い土のところで水をひかえて栽培し、秋に収穫して冷蔵庫などで貯蔵し、順次出荷する土生姜と比べ、新生姜は、砂壌土の潅水設備の整った畑で栽培しますから、繊維が柔らかい,辛み味が少なく香りが上品,根茎の乳白色と紅色のコントラストが鮮やか・..などの特徴があります。

新生姜と根生姜(囲い生姜)について。
春に親生姜を植えると、その上に新しい地下茎が分裂して成長します。新生姜と根生姜は収穫の時期が違います。新生姜は夏の間に収穫した若い生姜です。根生姜は10月末から11月にかけて収穫し、さらに2ヶ月から1年かけて貯蔵したものです。

保存に適した温度は、15度~20度で乾燥させないようにすれば1~2年は保存できます。
冷蔵庫で保存している家庭もあるかと思いますが、家庭の冷蔵庫ではひからびて乾燥してしまいます。0~12度が生姜にとって1番だめな温度です。
◎すぐ冷蔵庫から出さなくては、、、、
ご家庭で保存される場合は夏場では冷暗所、冬場は暖かい場所で、湿気を保つためにしめらせた新聞紙にくるんでビニールに入れておきます(呼吸ができるように口の部分を少しあけておく)

20度を超えると芽が出て親生姜になります。
根生姜と新生姜は成分的にはほとんど変わらないが、根生姜の方が少しショウガオールが多い。ショウガオールは体を温める作用があります。

酢生姜の作り方
材料  新生姜500g 砂糖200g 黒酢1、5l
① ビンの中に生姜を入れ、砂糖をまぶしなじませる
② 黒酢を生姜が十分つかるくらい加え、3日以上おく

日をおけばおくほどマイルドになる。1~2年はもつ。
酢との組合わせが合理的で酢に浸けることで生姜の繊維質が柔らかくなります。

酢生姜の食べ方
★豆腐の上に刻んだ生姜をのせ、酢生姜をかけて食べる。醤油を使わないため塩分カットになる。
★ 酢生姜にトン足と卵を加え、じっくり煮る。
★ 生姜をスライスしてパンにのせ、黒酢をかけて食べる。(お粥と食べるのがお勧め)
★ サラダのドレッシングに

【生姜の砂糖漬けの作り方】
①新生姜200グラムは皮をむいて繊維に沿ってうす切りする。
②流水で洗って、時々水を加えながら三四時間水に晒す。
③生姜とたっぷりの水を鍋に入れて、中火にかけ、煮立ったらゆで汁を捨てて、再びたっぷりの水をいれてゆでる。
④煮立ったらゆで汁をきって、水2分の1カップ、砂糖180グラムをいれ、弱火で煮汁がほとんどなくなるまで煮る。
⑤完全にさめるのを待って、一枚ずつグラニュー糖をまぶしてバットなどに広げ、風通しのよいところにおいて、少し乾かす。
⑥乾いてからカラッとなったら、ポリ袋に入れて冷凍保存する。このままお茶うけ菓子として出してもよいし、微塵きりにして、
ケーキやクッキーに混ぜたりする。
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by jumgon | 2010-12-24 19:34 | ★その他
墳丘が消失した古墳

先日藤井寺市文化財課の2010年発掘企画展が市役所であるというので出かけた。
2010年度のものに限定はしてなかったが、文化財課の方の説明がきけてよかった!

文化財課の方から聞いた私にとって新しい知識を次ぎにあげます。

① この辺の人(古市古墳群の近在の人)は古墳からハニワがでてくるのは当たり前みたいに感じているが、全国的に見たら、ハニワのない古墳はたくさんある。
これだけ大変な数量が出土している、というのは珍しいとのこと。
◎そう言えば黒塚古墳(3世紀後半~4世紀前半)からも藤の木古墳(6世紀第4四半期)からも埴輪は出ていない。 

②ハニワには野焼きのもの(初期)と窯によって焼かれたもの(後期)がある。

野焼きのものは火力が弱いので、埴輪は薄く作られている。
例 津堂城山古墳出土のはにわ、触って見みたら確かに薄い!薄く造るほうが難しいと思ったけど、、、、。

●野焼きにしろ、登り窯にしろ、これだけ大量の埴輪を焼くには膨大な木材がいる。
 それをどこから調達してきたか分からないそうだ。
●それと、これだけ多量の埴輪をやく窯の遺跡は少なすぎるそうだ。(まだ窯跡が出てくる可能性はないとは言えないが、可能性は少ないそうだ。)

藤井寺市・羽曳野市には、応人天皇陵や仲哀天皇陵・津堂城山古墳・仲姫皇后陵古墳・允恭天皇陵・日本武尊陵古墳・墓山古墳などの巨大古墳以外にも中小の古墳が存在する。
今回はその中で消失してしまった古墳の出土品を紹介しようと思う。
それら小さな古墳の出土品をジグソーパズルのようにつなぎ合わせる事で歴史がどのように繋がっているか垣間見ることができる。
天皇陵に指定されている古墳は発掘できないので、中小古墳のほうがメッセージが大きいかもしれない。

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岡古墳(墳丘消失・4世紀後半・方墳)
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一辺33mの二段築成の方墳で斜面には葺石を施し、中段のテラスには円筒埴輪列を備えていた。
形象埴輪は家・船・盾・靫・衣蓋形が出土。
墳頂の中央に割竹形木棺を内蔵した粘土槨
棺内から三面の鏡出土
岡古墳は、隣接する仲哀天皇陵よりも100年前後早く築造されたことが明らかになった。
船形埴輪は全国的に見ても出土例が少ない貴重なものだそうです。
岡古墳出土・船形埴輪
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◇狼塚古墳(5世紀前半・径28m・円墳・墳丘消失)
応神天皇陵北側の円墳です。
造りだしには円筒埴輪列、その内側に2列の鳥形埴輪列が確認されました。
又造りだし北側に導水施設?を模した形象埴輪(囲形埴輪)が見つかった。

 *囲形(かこいがた)埴輪の出土 
この埴輪は、史跡大鳥塚古墳の東隣の発掘調査で見つかった小さな円墳から出土しました。調査を始めるまで、ここに古墳が眠っているとは分かっていなかったそうです。
もっともこの辺りは、古墳の集中しているところなので、新たな古墳が見つかることも予測はしていました。
 調査の進展にしたがって、この古墳は直径28メートルの円墳で、西側に「造出し」と呼ぶ突出部をもつことが分かってきたのです。古墳の名前は小字名をとって「狼塚(おおかみづか)」としました。
 さらに注目されたのは、造出しの北西側の、やや低まったところに平坦面をつくり、そこにこれまであまり類例の知られていない囲形埴輪を据えていたことでした。
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囲形埴輪は、8つの箱形のパーツを組み合わせていました。一辺につき、2つの箱を直列させ、1.2メートルの範囲を四角く囲っていたのです。囲った内部は、小ぶりの川原石が敷き詰められていました。その上に凹みをつけた羽子板形の粘土板、明日香の酒船石をほうふつとさせる奇妙な土製品が置かれていたのです。
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 一体これは何を模した埴輪なんだろうか。資料検索が始まりました。もともと囲形埴輪自体がもう一つよく分からない謎の埴輪といわれていました。
上部にギザギザが表現されていて、四角く囲みを作っていることから、塀のような施設を現しているというところまでは分かるのですが、それが何の施設なのかはよく分からなかったのです。
*近年の調査で特徴的な埴輪として、家形埴輪と、「導水施設形埴輪」と「井戸施設形埴輪」についてわかってきました。埴輪に表現された「導水施設」や「井戸」が、奈良県南郷遺跡や群馬県三ツ寺遺跡などで発見され、埴輪に表現されたまつりが、具体的に各地で行われていたことがわかりました。
◎実際の遺跡でこの埴輪と同じような形状のものが発見された!!
  埴輪は実物を模していたのですね!!


アリ山古墳(5世紀前半・墳丘消失・現在は病院が建っています。)
一辺45m、高さ4,5m
多くの埴輪以外に農工具や武器といった多量の鉄製品が見つかりました。(大阪大学蔵)

赤子塚古墳(5世紀後半・円墳・墳丘消失)
允恭天皇陵古墳の西側にあった。1950年代までは墳丘を留めていましたが、その後宅地化され墳形や規模さえ分からなくなっていた。
1995年に発掘調査が行われ、造りだしをもつ径34メートルの円墳である事が確かめられました。周囲の濠からはたくさんの形象埴輪(家・衣蓋・盾・人物・動物形)や円筒埴輪が出土。
允恭天皇陵古墳とほぼ同じ5世紀末に造られ、その陪冢であった可能性が強くなりました。
又、この古墳が築かれる前にこの地には墳墓群があったことも分かりました。(古墳時代前期の埴輪棺も含まれていました。)

土師ノ里8号墳(築造時期?・墳丘消失)
8号墳が造られた土師の里遺跡及び南に隣接する茶山遺跡一帯では円筒棺、埴輪棺が多数見つかっている。その中で8号墳は小なりと言えど墳丘を持ち副葬品を埋納し、追葬を行っている事から被葬者は、土師氏一族の中ではリーダー的な人物だったのではないでしょうか。
◎立派な円筒棺にはヘルメットみたいな蓋がありますが、その他のものは円筒に遺体を安置し両端は小石でふさいだだけだそうです。
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*土師の里遺跡の特徴的な出土遺構に円筒棺墓があります。円筒棺墓とは、筒形をした埴輪を棺に使った墓のことです。
筒形をした埴輪には、古墳に立て並べるために作った円筒埴輪を棺に転用したものと、初めから棺用に作ったものとがあります。
前者を転用棺、後者を専用棺と呼び分けています。専用棺は大きくて丁寧な作りをしていますが、見つかる割合は圧倒的に転用棺が高いのです。
 では円筒棺墓がなぜ土師氏に結びつくのかを考えてみましょう。まず、出土した円筒棺墓をみると、一部の例外を除いて、副葬品を伴わないことです。これは円筒棺を庶民の葬法と考える証となることです。ところが、円筒棺墓がたくさん見つかる地域は限られていて、当時の一般的な庶民の葬法ではなかったことも知られるのです。
 円筒棺墓がたくさん見つかる地域は、大古墳群が造られた地域と見事に重なります。古市古墳群、百舌鳥古墳群、佐紀古墳群、馬見古墳群などです。
つまり、円筒棺墓は、これらの古墳造りに関係した人々のお墓であった可能性が濃厚なのです。古墳造りに関係した人々とは土師氏をおいて考えられないのです。
 円筒棺の調査を進めていくうちに、難しい問題に直面したのです。それはこのお墓がいつ造られたものか簡単に判別できないということです。 
し前までは、棺に使われている埴輪の作られた時期がお墓の造られた時期と見なしてきました。ところが、一緒に葬られた副葬品の年代が棺の年代よりかなり下降するものがあることが知られたのです。
ある円筒棺では、棺が5世紀後半の作なのに、副葬されていた土器は7世紀初めのものだったのです。このお墓は100年以上も前に作られた埴輪を棺に使っていたのです。
 埴輪作りがとうの昔に終わっている7世紀になっても円筒棺という葬法をとっていた人々がいたという興味深い事実が明らかになったのです。
 土師氏は陵墓の管理を重要な仕事の一つにしていたことが知られています。
大古墳が造られなくなった6世紀後半以降の円筒棺墓は、こうした陵墓の管理にたずさわった人々のお墓かもしれません。伝統的な埴輪を使った特殊な棺に葬られることで、土師氏一族との結びつきを表明したのかもしれません。
◎土師氏は武力や政治的権力を持った豪族ではありません。職能集団といえます。

下田池(しものたいけ)古墳(6世紀前半・円墳・墳丘消失)
 径25mの円墳。周囲に5m前後の濠がめぐります。
ここからは馬の埴輪の脚部?が出土している。
◎展示してありましたよ。確かに馬のひづめっぽい。
「どうしてこの破片が馬のひづめ部分だって分かるのですか?」と聞くと同時に馬の頭と思われるものがでています、とのこと。

西墓山古墳
この古墳についてはこちらをお読みください。(カテゴリー★古墳⇒だれも埋葬されていない古墳 ②)
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by jumgon | 2010-12-23 16:08 | ★古墳
明日香村埋蔵文化財資料室

越塚御門古墳の見学会へ行く前に明日香村埋蔵文化財資料室を訪れた。
牽午子塚出土の装飾品(ガラス玉など)があると聞いていたから、気になっていた。
⇒ひもろぎ逍遥 http://lunabura.exblog.jp/i45/  参照してください

そこは他の発掘説明会(どの遺跡だか忘れた)があった折、出土品を展示していたので行ったことがあった。
水落遺跡のすぐ近くだ。
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明日香村が発掘した文化財を展示している。旧飛鳥小学校の建物を利用しているから、
ちょっとレトロな雰囲気。
すぐ隣に明日香の農産物を売ってる店もできた。
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残念ながら牽午子塚出土の装飾品(ガラス玉など)はもうなかった。
ボランティアの説明の人にきいたら、「飛鳥資料館あたりに持って行ったのかな?」
と言うことでした。

<明日香村埋蔵文化財展示室>
利用案内
◆利用時間: 平日の午前9時から午後5時まで
◆休日: 土、日、祝日、年末年始
◆入場料 : 無料
※特別展示等の場合は上記の限りではありません。

平成22年4月1日から平成23年3月31日までの期間、明日香村埋蔵文化財展示室の開館日を、下記のとおり拡大します。
◆休日 : 年末年始のみ
◆利用時間 : 午前9時から午後5時まで
※なお、土・日・祝日については、解説員を配置します。
◎ずっと、土日も開いて欲しいよ。私なんて日曜くらいしか行けないのだから~

主な展示内容
1)明日香村内出土遺物展示
2)キトラ古墳石室模型展示
 その他、村の文化財課で発掘している最新情報のスペースも...

◎今回資料室で見たもので興味のあるものを紹介しましょう。
①牽午子塚の石室の内扉・・・貴重なものですが見て面白いものではない。
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◎穴が2つ見えます。多分横に引っ張って開閉したのだろうと、いうことです。
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②★小治田宮(おはりだのみや)の井戸。
◎これはすごい!レプリカではありません。飛鳥時代の本物が残っていたのです。
  檜でつくられてるそうです。

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井戸枠内からは土師器や須恵器、墨書土器が出土しています。
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③キトラ古墳レプリカ
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キトラ古墳星宿図と干支図(復元)
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その他いろいろ展示されていました。
◎小治田宮(おはりだのみや)とキトラ古墳はもっと詳しく調べたいが
あまりに長くなりそうなので、そのうちにまた書きましょう。

◎3年半位前、キトラの壁画「玄武」公開の時は一時間以上並んで待った覚えがあります。
  キトラ古墳の資料は飛鳥資料館で展示されています。

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by jumgon | 2010-12-21 14:06 | ★資料館・博物館

越塚御門古墳見学会

大田皇女の墓か?石室を新たに発見 
  牽牛子塚古墳のすぐ近く


先日、牽牛子塚古墳のすぐ近くで発見された古墳の見学会に行ってきた。
9月に行ったばかりなので、場所はだいたい分かっている。
あの時ほど混まないとは思っていたが、警備員さんが「9月の半分位の人出」と言っていた。

◎9月に行ったとき、牽牛子塚古墳へ行く途中の山?畑?に穴が4、5箇所ほどあった。
「まるで古墳の入り口みたい!」
何の洞穴かな?と気になってた。その前にはごみや袋がおいてある。農家の人が物置に使ってるみたい。
「もしかしたら、この辺の人が遺体を葬ってるのかな、それとも未発見の古墳か?」なんてドキドキしてしまった。
そのことについて見学会の整理をしている人に尋ねたら「あれは生姜の保存場所です。」
えっ、そんなとこに保存しとくの?多分穴の中が保存に適してるらしい、とその整理マンが教えてくれた。


ぎりぎりの3時半に現地に着くように行ったけど、それでもまだ行列は続いていた。
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先ず産経新聞の記事から
産経新聞 12月9日(木)20時17分配信
 天皇クラスの墓に限定される八角形墳であることが今年9月にわかり、被葬者が斉明天皇(在位655~661年)であるとほぼ確定した奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳のすぐ前から、存在が知られていなかった7世紀後半の石室が新たに発見され、同村教育委員会が9日、発表した。
667年、斉明天皇陵の前に孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を埋葬したと記している日本書紀の内容と一致し、被葬者を決定づける超一級の資料となった。


 大田皇女は天智天皇の娘で、大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武天皇)の后(きさき)となったが、20代で亡くなったとされている。
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見つかった石室は「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」という構造で、牽牛子塚古墳の約20メートル南東で出土。地名から越塚御門(こしつかごもん)古墳と名付けられた。
◎本当に近くなので驚いた。12~13人位の人が手をつなげば越塚の入り口になる。
 石室は、石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)をくり抜いた4メートル大の上石(うわいし)を床石にかぶせる構造で、総重量は推定約80トン。上石は後世の盗掘で4分の3程度失われたが、内部は長さ2・4メートル、幅90センチ、高さ60センチ分がくり抜かれ、木棺が納められていたという。
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◎盗掘坑という説明札が見えますね!
 石室付近からは、土に付着した漆や木質が残る鉄釘が見つかり、棺は外側が黒、内側が赤の漆塗り木棺と推測されるという。
副葬品は見つからなかった。
◎残念!

 墳丘は上部が大きく削られて規模や形状は不明だが、牽牛子塚古墳と近接していた。牽牛子塚古墳造営に伴う整地層を掘り込んで新たに墳丘を築いており、越塚御門古墳の方が後の造営と判明した。また石室南側に、人頭大の石を両脇に並べ、路面に小石を敷いた墓道(長さ4メートル以上、幅1メートル)も検出された。

 
斉明天皇陵と大田皇女の墓について宮内庁は、それぞれ南西約2・5キロにある別の2つの古墳(奈良県高取町)に治定している。

天智天皇、3女性の埋葬済ませ遷都
毎日新聞 12月9日(木)21時36分配信
 斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)が葬られたとみられる奈良県明日香村の牽牛子塚古墳の前に造られた古墳が新たに見つかった。孫の大田皇女の墓とみられる越塚御門古墳。中大兄皇子(天智天皇)が埋葬してから1300年余りの時を経て、日本書紀に記された肉親3女性をめぐる古代史のドラマがよみがえる。

 斉明は中大兄皇子、大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)の母。
661年、朝鮮半島の百済を救援するために遠征していた朝倉宮(福岡県)で亡くなった。中大兄が指揮する日本軍は663年の白村江(はくそんこう)の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗。
665年には妹の間人が亡くなった。大田は中大兄の長女で、大海人の妻。2人の子を残して若くして亡くなり、667年2月に斉明、間人を合葬した陵の前の墓に葬られたと日本書紀が伝える。
日本書紀は天智天皇の六年春二月二十七日条に、
「天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬り。是の日、皇孫大田皇女を陵の前の墓に葬す」

 わずか6年で最も親しい3女性を相次いで失った中大兄が、都を飛鳥から近江大津宮(大津市)に移したのは、3人を埋葬した翌月だった。
牽牛子塚、越塚御門の堅固な構造に、前園実知雄・奈良芸術短大教授(考古学)は「飛鳥を去る前に、親しかった女性たちの墓をしっかり造りたかったのだろう」と心境を思いやる。

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by jumgon | 2010-12-19 23:30 |  ○牽午子塚

三輪山信仰の変遷

三輪山信仰はどのように変化してきたか?

私は古い遺跡や古墳をめぐったり、出土品をみても「古い時代の物」くらいの認識しかなかった!
農具や武器などもいっぱひとからげに、「大昔のもの」でおわっていた。

やっとこのごろ、遺跡や出土品は、出土状況、時代をキッチリ意識したら、歴史の意味がすこしずつ見えてくることが分かってきた。

さて、以前から、大神神社について書いてきたが、それぞれの遺物、鳥居や摂社、末社等がどういう意味があるのかもうひとつハッキリしなかった。
いつから、どの摂社が追加されたのか、記紀に描かれた記述だけを信用していいものか分からなかった。

そんな時、つぎのHPで三輪山信仰の変遷を知ることができたので紹介する。
ただしこれも、筆者のただ今の見解で考えが変わることもあり得る、ということです。(歴史の見解はみなそうですが、、、、)

三輪山周辺の祭祀遺跡変遷http://f1.aaa.livedoor.jp/~megalith/miwahensen.htmlより

三輪山周辺地域の分類・・・纏向・三輪・初瀬・三輪山の4地域に細分されます(寺沢1988)。
下の地図をご覧下さい。
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・纏向地域: 狭井川より北方で、桜井市と天理市の境界辺りまでの地域。
・三輪地域:東は三輪山がそびえ、西は狭井川と初瀬川(大和川)に挟まれた三角形の区域。古代歌謡では「水垣」といわれ、清浄な場所とされました。(田中八郎氏もここが「ミワ神の勢力地と書いている。」
・初瀬地域:三輪地域より以東の、初瀬川流域の一帯を呼称。広義の初瀬地域は、現在の長谷寺や天神山(与喜山)のそびえる辺りまでを呼びますが、本稿においては、現在の朝倉・忍坂地区周辺をもって狭義の初瀬地域とみなしたいと思います。
・三輪山地域:三輪山そのものを指します。

 この地域区分に沿って、三輪山周辺地域の祭祀遺跡変遷を見ていきたいと思います。

<前段階>(~3c初)
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○三輪地域が勢力集団の本拠地だった時期(~3c初)
○三輪地域に、芝遺跡・三輪遺跡・金屋遺跡などの集落遺跡が集在。
○三輪山信仰は始まっていたが、三輪地域を「不入の聖域」と見る考え方には至っていなかったと見る。
○書記:崇仁天皇三年の秋九月。(紀元前94年?)屋敷を磯城(しき)に移した。
瑞籬宮(みづかきのみや)という。(三輪山(みわやま)の西南麓、桜井市金谷付近の地とされる。
これから三代に渡り、纒向(まきく)遺跡周辺に宮が置かれることになる。) 

*以前から「水垣」地域に住んでいた人達のところへ、崇仁天皇が瑞籬宮をおいたのか、、、
 まだ対立は起きてなかった、とおもわれる。

<第1段階>(3c初~4c)
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○纏向遺跡が三輪全域を神聖視していた時期(3c初~4c)
○祭祀場は、纏向遺跡の集落内祭祀。
三輪地域は聖地化され、集落も墳墓も築造されず。blockquote>
*纏向地域が発展してきたのだろうか?
 集落は「水垣」から纏向地域に移ったようだ。 


<第2段階前半>(4c後~5c前)
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○三輪地域に祭祀場が設けられた時期(4c後~6c初)
山ノ神祭祀遺跡(前半)を中心に、三輪地域の祭祀場化。

<第2段階後半>(5c後~6c初)
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○山ノ神祭祀遺跡(後半)
奥垣内祭祀遺跡。三輪地域における子持勾玉祭祀の始まり。
○三輪地域北部に茅原大墓古墳の築造。


<第3段階>(6c前~7c初)
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禁足地における勾玉祭祀期(6c前~7c初)
三輪地域→禁足地へ祭祀領域がせばまった。
禁足地磐座群(中津磐座)を志向した祭祀の可能性。
○三輪地域北部で後期古墳が築造されていく。

<第4段階>(7c前~14c?)
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○禁足地内「長方形土壇(御主殿)」祭祀期(7c前~14c?)
○「屋代」としての祭祀場。禁足地磐座群の見える位置での祭祀。


<第5段階>(1317~)
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○拝殿祭祀期(1317~)
山岳登拝の慣習も普及し、「奥津磐座」「中津磐座」「辺津磐座」概念が生まれた。
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三輪山の辺津磐座の一つであり、出土品は素文鏡・曲玉・滑石製模造品・土製模造品・須恵器・鉄片など祭祀に関わるものばかりであり、磐座祭祀の場と考えられています。
坩(つぼ)・匏(ひさご)・堅杵(きね)・堅臼(うす)・案(あん)・柄杓(ひしゃく)
これらは古代において、大三輪神に神酒を供え、また造酒の神徳にちなんで、それらの道具を土製模造品でつくり、献げられたものとされています。

○この頃になると、三輪山を中心として様々な磐座が設けられ、信仰された。


*ナルホド!!
 こんな風に整理されたら本当によく分かる。


子持勾玉の型式変遷略図
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[三輪山出土の子持勾玉] 
子持勾玉とは、大きい勾玉(親)に小さい勾玉(子)が突起の如く付属している祭具です。
三輪山周辺地域は、全国的に最も子持勾玉が出土している所で、その型式変遷から、大きく古式と新式の2期に分けることができます。
そして、その古式と新式の出土した場所に偏りがあることから、これも三輪山祭祀遺跡の分布変遷の傍証となりえます。
 
○三輪地域(芝遺跡・山ノ神遺跡・茅原源水遺跡)出土 → 古式の特徴。5c末ころ。
 ○禁足地出土 → 新式の特徴。6c代

古式の特徴は、断面が丸く、全体的に作りが曲線的であるという点です。子勾玉も忠実に再現されています。対して、新式の特徴は断面が平面的で、全体的な作りが直線的で、先端部が尖っているといった点です。子勾玉は、単なる突起に形骸化していきました。
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by jumgon | 2010-12-15 20:22 |  ○三輪神社・大神神社
真弓常忠「古代の鉄と神々」より

わたしはこの本を読んで、今までの自分のわずかな知識をつなぐ大きなヒントを得た。
それで要点をまとめて、書きとめておきたいと思う。
まとめ方は自分流に取捨選択しているし、氏の意図した事とは違うように解釈しているかもしれない。
だから、このペーは真弓常忠氏の「古代の鉄と神々」の正確な要約では無いことを断っておく。

稲つくりと鉄
■縄文時代晩期に稲種がもたらされて、水稲耕作はわずか100年ほどの間に日本列島のほぼ全域にいきわたった・
■水稲耕作を推し進めたのはなにか?
 それは鉄製農具か鉄製利器によって加工された木製のスキ・クワである。
■弥生時代の初期に鉄器が用いられたのは、いろいろな遺跡から鉄斧が発見されることによって 証明されている。
 * しかしそれが製鉄のはじめからわが国で作られたものか、大陸から輸入されたものかは証明できない。
考古学者の山本博氏(「古代の製鉄」の作者、故人)によると
銅よりも鉄の方が溶融点は高いが、銅は溶解しなければ製品とすることが出来ないのに対して、鉄は溶解しなくても、7~800度の熱度で可鍛鉄を得さえすれば、これを熱してはたたき、熱してはたたいて鍛造できるという

このことは1912年にW・ゴーランドが指摘している。
それによると
*鉄鉱石から鉄を抽出する方法は、銅鉱から銅を抽出するより簡単である。
*鉄鉱石は溶解しなくとも、7~800度の熱度で可鍛鉄を得ることが出来る。
*鉄の抽出には、特定の送風装置を必要としない。
弥生式土器を焼成する程度の熱でよく、タタラ炉を築いて特殊な送風装置を設けなくても、野辺にて製錬することができたということであった。

露天タタラ
わが国は地下資源に乏しいが、火山が多いだけに砂鉄には恵まれていて、いたるところに砂鉄は存在する。

窪田蔵郎氏によると
弥生時代には河原や海岸近くの台地、あるいは山あいの沢のような場所で、自然通風に依存して天候のよい日を選び、燃料の薪の上に砂鉄を集積し、その上にさらに薪を積み上げて何日も燃やし続け、海面状を呈したごく粗雑な還元鉄の塊を半焼けの金糞の中から拾い出し、よさそうなものだけを再び火中に入れて加熱し、再三打ったりたたいたりして、小さな鉄製品を作るという、きわめて原始的な方法で製鉄は おこなわれたであろう。
弥生時代中期より古墳中期まで、このような原始的な方法による製鉄の行われていた事が推測される。

わたしが理解した範囲でわが国の製鉄のながれを整理しよう。

褐鉄鉱を採取して製鉄を行う。(弥生時代)・・・鉄鐸、銅鐸神事と関連あり
*褐鉄鉱の団塊(スズ)はそのまま或は粉砕して、露天で製鉄することができた。
  ただし、砂鉄の磁鉄鉱 に比べ品位は低く生産量も少ない。
砂鉄(磁鉄鉱)を採取して鉄器の生産
■金穴流し
 *砂鉄による製錬は、まず鉄砂を含む山を選ぶことから始まった。この鉄砂を含む山を「鉄穴山・神山」とい い、砂鉄をとる作業を「鉄穴流し」といい、そこで働く人々を「鉄穴師・かなじ」と呼ぶ。
鉄穴師は砂鉄分の多い削りやすい崖を選んで山から水をひき、崖を切り崩して土砂を水流によって押し流し、砂鉄を含んだ濁水は流し去り、重い鉄砂は沈むからこれを採ってタタラ炉に入れて製錬する。
*水田が「金穴流し」によって荒らされ、製鉄の民と農耕民の利害が衝突するのは、職業の分化が生じ、完成した水田に土砂が流れ込むことによるもので、当初農耕の民が自ら製鉄を行った段階では、「金穴流し」  はそのまま国づくりとなった。=オオナムチ
 オオナムチの神を「天の造らしし大神」とするゆえんである。→倭鍛治
③4世紀後半より5世紀にかけて、帰化系技術者(韓鍛治)の渡来による技術革新と職業の分化によって、製鉄に専従する部民と、それを管掌する氏族をも生じる。
* 古墳時代にはヤマトが大陸より多量の「鉄」を手に入れた。(⇒近つ飛鳥資料館①参照)
*わが国の露天タタラでできる鉄の量(質)では多くの鉄製品を作ることができないが、半島から鉄素材を手に入れることにより、鉄製品の製造(農工具、・武具)が飛躍的に発達し、大和王権が成立することになった。
オオナムチとアメノヒボコの争い古いヤマトの勢力 対 外来文化を担った新しい進歩的勢力
④やがて律令制の施行とともに特定氏族の管掌した製鉄の部民は収公される事になり、それととも に製鉄一般の神として、金山彦が構想され、「鉄穴」から発想されたオオナムチの神の製鉄に関与したかっての性格は忘れ去られた。

田中八郎氏の「大和誕生と水銀」では
スジン天皇以前の三輪地方の発展を「辰砂・水銀」を中心にとらえている。
そして、鉄に関してはあまり触れられていない。というか鉄生産はなかったように書かれている。
「オオタタネコ」に自分を祀らせたという記紀の意味を考えよう。
古事記には大田田根子(オホタタネコ)を大物主(オホモノヌシ)大神の祭主とした、とあります。
「オオタタネコ」はオオクニヌシ(オオモノヌシ)が指名しました。

◎須恵器を作る技術をもった「オオタタネコ」は、スズ鉄か「鉄穴流し」による砂鉄かによって鉄を作る技術を持っていたとおもわれる。
そして、原始的な砂鉄生産で「スジン」に対決したのではないだろうか?
だが半島からの鉄素材の輸入により結局は「スジン」に押されてしまう事になった。
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by jumgon | 2010-12-13 13:43 | ★日本の鉄の歴史