古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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洗濯の歴史

世界各国の天然洗剤
(サイカチの実、キキョウ、シヤボン草、シクラメン、大豆のゆで汁、米のとぎ汁、牛の胆汁、糞、尿、ウグイスの糞、etc)が長い 間使われて居た。

工場で初めて作られ商品化された洗剤は石鹸である。
伝染病 の予防手段として特にフランスでは熱心に研究され、ニコラス・ルブランに依り苛性ソーダの製造法が開発され量産が可能になった。

日本の石鹸のあゆみ
1543年 ポルトガルより渡来
1889年(明治22年)小間物商長瀬富郎商店が日本初の銘柄入リ石鹸を製造


以下は http://jsda.org/w/01_katud/a_seminar04a.html
を参考に書きます。

日本の洗濯の歴史
◆古代
踏み洗い・モミ洗い・手洗い
ようするに、水洗い?
◆奈良時代(700年代)から
サイカチのさや,ムクロジの果皮を天然の洗剤として使用していました。これらには泡立ち成分としてサポニンが含まれていました。
また,1000年頃からたらいや砧(きぬた)の使用が始まりました

◆1500~1700年頃
 そのころ日本では、灰汁・ムクロジ・サイカチ・石灰などを洗浄用に使用していました。シャボン(石けん)の洗浄力は知られていましたが、貴重品のため洗浄に使用することは稀でした。
浮世絵には、灰汁槽・たらいが洗濯の様子として描かれています。
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以下は http://www.geocities.jp/inage3868/wash.htm
より
洋の東西を問わず、古代から洗濯は川や泉のほとりで行われてきました。
日本古来の洗濯法は 「踏み洗い」が原型で、今でも青森から沖縄まで日本各地の幾つかのところで行われています。
踏み洗いをしている洗濯絵が平安末期のものとして残されています。また同時期に「たらい洗い」 をする女性が描かれた絵もあります。
外国の洗濯絵には棒でたたく「たたき洗い」があり、 韓国ではたたき洗いが洗濯の基本となっています。
江戸時代には、長屋の路地につるべ井戸が掘られ、共同の洗い場ができ、これが女性の社交の場と なっていて井戸端会議が行われるようになりました。洗濯剤としては、日本では昔から木灰のあく (灰汁)が主体で、江戸時代には灰汁桶が各戸に置かれていました。灰汁桶とは、その中に水を満たし て灰を入れ、底の栓口から灰汁がしたたるようになっています

平安時代の洗たく
洗たく場が川や泉のほとりから井戸端など住居の周辺に移るにつれて、洗たく桶が必要となりま した。「たらい」が現れたのは平安時代になってからです。この時代の洗浄剤としては米のとぎ  汁、灰汁が使われていました。

ムクロジ(天然植物の利用)
灰汁のほかに天然植物も洗たくに利用されました。その一つにムクロジがあります。ムクロジ(無患子)は落葉樹で、関東以西の山中に生え、昔は庭に植えたりもしました。この実の黒い種はあの「羽根つきの玉」です。果皮はサポニンという物質を含み、水に混ぜてふると泡立ちます。インドなどでは現在も使われているようです。
むくろじの木
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むくろじの花
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むくろじの実と種
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むくろじ泡実験
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明治元年・1868年

日本では,安政開港により1859年に洗浄用石けんの輸入が開始され,明治維新後に輸入量は急増しました。1872年には国内で石けん製造を開始(官営),翌1873年には堤磯右衛門石鹸製造所が民問として製造するなど.石けんはその後急速に普及していきました。ただし、当時.洗濯機はありましたが,ほとんどの家庭はまだ手洗いでした。
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by jumgon | 2011-01-28 14:50 | ★言語、歴史

「橡」とは

前回の 日本の技術・和裁と手入れ、
で引用した文について追加改稿


『萬葉集』(巻第七)には次のような歌が収められています。
「橡の 解き洗ひ衣の 怪しくも ことに着欲しき この夕かも」です。
この中の「解き洗ひ衣」は、まさに着物の洗い張りを示しているといわれています。橡で染められた着物を身に着けていたのは庶民ですから、洗い張りはすでに奈良時代から庶民の生活に溶け込んでいたようです。


前回引用した歌はこれでしたね。
私はここにでてくる「橡」の読みがわからなかったのでふりがなを入れませんでした。

調べているうち、二通りの答が出てきた。
①とち(栃)の木
②くぬぎ
どちらも「橡」とも書くそうだ。

万葉時代ではどちらのことを指していたのだろう?
調べているうち、決定打が見つかった。

    「紅(くれない)は 移ろふものそ
    橡(つるばみ)の
    馴れにし衣に
    なほ及(し)かめやも」
             大伴家持 万葉集


◎紅は色が変わりやすいが、橡染めは変化しにくいからこちらのほうが、まさっている。
 (これは私の解釈です。間違っているかも知れません。
 一般的に草木染は化学染料に比べ色の安定性に欠ける。

もうひとつ

    「橡(つるばみ)の 衣(きぬ)は
     人皆(ひとみな) 事無しと
    いひし時より
     着欲しく念(おも)ほゆ」
                万葉集


橡(つるばみ)= くぬぎ

クヌギはブナ科コナラ属の落葉樹のひとつ。新緑・紅葉がきれい。クヌギの語源は国木(くにき)または食之木(くのき)からという説がある。
古名はつるばみ。漢字では櫟、椚、橡などと表記する
くぬぎの葉
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くぬぎの花
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くぬぎのドングリ
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このもじゃもじゃしたのが付いてるドングリ、よく見かける。
これがクヌギのドングリだったのか~

実は爪楊枝を刺して独楽にするなど子供の玩具として利用される。
また、縄文時代の遺跡からクヌギの実が土器などともに発掘されたことから、灰汁抜きをして食べたと考えられている。
樹皮やドングリの殻は、つるばみ染めの染料として用いられる
つるばみ染めは媒染剤として鉄を加え、染め上がりは黒から紺色になる。


前稿は追加加筆しておきます。
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by jumgon | 2011-01-28 13:56 | ★言語、歴史
和裁の、縫い方のバリエーションの多さに感嘆した私だが、
それほど深く知ってるわけでもないが、簡単に紹介する。


縫い方には色々ある。

なみ縫い・合せ縫い(普通、「縫う」と言えばこの方法のこと)
布を中表や外表にして二枚以上重ねて縫い合わせる。
要するに普通の縫い方。

返し縫い
なみ縫いよりも丈夫な縫い方「本返し縫い」と「半返し縫いがあります。

二度縫い
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一度決まった縫いしろを縫い、さらにもう一度耳はしより0.3cm位入ったところを縫って
(空縫い)、縫いしろが開かないようにするこ
とをいいます。背縫いなどに使います。

あと私が最も感心したのは、くけ縫いというものだ。

きものの表面にでている縫い目からは、どこに糸が通ってるのか分かりにくい、縫い方
出来るだけ、表面には縫い目が少なく布の間を、糸が通って、時々、表、裏に縫い目が出るという、技法だ。
一本の糸だけで縫い合わせるから、
糸が引っかかったり擦れたり、ダメージを受けないようにうまく隠してあるのでしょう。

くけ方にはいろいろ種類があるようです。
「折りぐけ」「耳ぐけ」など~。
繁雑になるので詳細はさけますが折りぐけのイラストが見つかったのでお借りしてきました。。

まず、布を折りかぶせる。
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生地の裏から針を出しかぶせた布の中に針をくぐらせる。
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下の生地を掬う
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またかぶせた布の中に針をくぐらせ、下の生地」をすくう[
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◎これだと布表面には糸目が出ません。
 下の生地にも小さな糸目がつくだけです。


次に和服の合理性について書きます。

私の姑は、明治末年生まれ。
彼女が育った京都亀岡の農村地帯では、一家の主婦は家族全員の衣服をワンシーズンごとに作り直す。
そもそも和服は丸洗いはしない。ワンシーズン着たら全部ほどいてから洗い、そして縫いなおす。
◎明治期には石鹸はあったと思うけどそれ以前はどうしていたのだろう?
 なんらかの洗剤として使えるものはあったのだろうか。


http://homepage1.nifty.com/zpe60314/mukashi16.htmより
和服の手入れ法について

洗張り(あらいはり) 
古くからおこなわれてきた和服独特の洗濯方法。着物などの縫糸を仕立てのときと逆の順序でといて、
反物を裁断したときの状態にして洗濯をすることから、「解洗(ときあら)い」ともいう。和服の直線断ち、直線縫いという特徴をもっとも生かした洗濯方法である。

第2次世界大戦前までは、ほとんどの家庭でおこなわれていた。現在では、呉服屋をとおしたり、染物屋に依頼する場合が多い。
関西では、こうした取次商を「悉皆(しっかい)屋」とよんでいる。

利点と特徴
縫糸をといてからあらうため、丸洗いよりも汚れがよくおち、しみなどもとれやすい。とくに紬や絣などの織りの着物は、表と裏の色や柄が同じため、洗張りをおこなった後、
布面の傷みの少ない裏を表にしてぬいなおし、リフレッシュすることができる。
着物の寸法をあらためる場合も、洗張りしてからぬいなおす。
これらの方法によって、着物は母から子へ、子から孫へとうけつがれ、長い歳月にわたって着用されて
きた。
仕上げの方法
洗張りには、素材に応じて、さまざまな仕上げ方法がある。

板張り
一般の家庭でもっとも多くおこなわれていた方法で、下洗いの後、布を平板の上に広げて石鹸水によるブラシ洗いをする。
張板(栃の木製の一枚板)に布海苔(ふのり:海藻でつくった糊(のり))を刷毛(はけ)でひきながら、布裏を板にはる。はりおえたら板を
たてかけて、自然乾燥させる。おもに木綿や化繊など、ぬれてもあまりちぢまない布に適している。
◎海藻から糊が作れるのだ!

伸子(しんし)張り
ときはなした布を、あらかじめ端縫(はぬい:裁断前の反物の形になるようぬいあわせること)してから洗濯をおこなう。
その後、布の両端をひっぱり、伸子(竹の細棒の両端に針のついたもの)を4~5cm間隔で布の両耳にうっていく。布裏全体に布海苔を刷毛でひいて、自然乾燥させる。
縮緬や御召、大島紬など、ぬれるとちぢみやすいものに適している。

◎私は母の伸子(しんし)張りの手伝いをした覚えがある。棒の両端にぶら下がった、布は風にはためいて鯉のぼりみたいだった。
母のよほど気に入った、きものだったのだろう。
母が伸子(しんし)張りをしていたのは一回きりだったと記憶している。


伸子(しんし)張り、に使うしんし棒について、わかりやすい説明がありました。
図と説明を
三重県立博物館のページより、おかりしました。

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/176harimonoki-shinshibou.htm
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「しんし棒」は、竹ヒゴの両端に2ミリほどの針をつけたものです。これを反物の両耳(側面)に張り渡すことで布を強く張ることができます。竹の弾力を利用した方法です。また、しんし棒1箱は、300本入りが一般的だったようです。反物をおよそ12メートルと考えると、しんし棒は、4センチごとに張られていたことになります。反物の耳から耳へと張り渡されたしんし棒は、その間隔が狭ければ狭いほど布地に均質な張りを与え、縮みを少なくしてくれました。

 
『萬葉集』(巻第七)には次のような歌が収められています。
「橡(つるばみ)の 解き洗ひ衣の 怪しくも ことに着欲しき この夕かも」です。
この中の「解き洗ひ衣」は、まさに着物の洗い張りを示しているといわれています。橡で染められた着物を身に着けていたのは庶民ですから、洗い張りはすでに奈良時代から庶民の生活に溶け込んでいたようです。


◎そんなに古くから~、、、そんなのを実地に知ってる私って、いったい~? 

古くなった着物は、「洗い張り」を経て子どもの着物に作り変えられたり、また最後は“当て布”になったりと使い続けられました。何度も着物を解き、洗い、そしてまた仕立て直すという文化は、古くから代々受け継がれてきた、物を大切にする「エコ」なのです。

◎きものはそもそも
とき洗いして縫いなおすものであるから、ほどくことを前提に縫っている。
それが独特のぬいかたになっていると思う。
絹糸なんかは、特に高価なものだから弱りがなければ再利用された。
和服というのはエコで合理的な衣服なのである。
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by jumgon | 2011-01-26 13:46 | ★言語、歴史

日本の技術・縫製

前回日本の船大工・船匠の技術力に感心した。
以前から思っていたことであるが、人類の蓄積した、テクノロジーはすごいと思う。
最先端の科学技術はもちろん、三内丸山遺跡から出土している縄文ポシェット。これも古代からの人間の工夫、アイデアの結晶だとおもう。
工夫を凝らして樹木の繊維から編んだのだろう。(織ったのかもしれない)
編み物に関して言えば世界各地にはその国独特の編み方模様があり、それらも色々な人の工夫、アイデアの蓄積で素晴らしいものだと思う。

たかが女性の手芸、と思っている男性も多いだろう。

一本の糸から布を編み、立体的なものまでつくりだす。おもえば本当にすごいことである。
編み物なんかは、現在でもまだすそ野も広く、多くの人が伝承している。
だが縫製に関しては技術が継承されなくなるのではないかと思う。自分で縫うより買う方が安く、きれいにできる。需要がなくなったのだ。
しかし、縫製の基礎知識があれば修理は簡単だ。だけど技術習得の費用や時間を考えれば
修繕するより買い換えた方が早いということになる。
まだ、洋裁のほうは自己流でもなんとかこなしている人も多い。

だが和裁となるとどうだろうか?かく言うわたしも和裁ができるわけではない。

現在既製品の浴衣などは全部海発注品である。オーダーの着物ですら、海外委託品が多くなっていると聞く。
海外縫製も初めのころは日本人が指導に出かけたという。今では日本人のほとんどが和裁を知らず海外でしか技術は残らないのかもしれない。しかし和服の需要が極端に少ない以上、技術はすたれていくものかも知れない。
和裁士として生活していけないのではないか。たまにある注文では生活を支えていけない。

ところで、私は姑に二度ほどウールの単衣着物と浴衣の縫い方を教えてもらった事がある。、その時、二つの事を感じた。
一つは和服というのは何という合理的な衣服だろうということ。、
もうひとつは、和裁の縫い方のバリエーションの豊富さだ。

専門的に和裁を習う根気もないが、普段着ぐらい誰でも一度くらい縫う経験をすることで日本文化の一端を知る事が出来ると思った。

さまざまな縫い方も、時代とともに発達してきたものと思う。

縫製の歴史としては、日本書紀に記録がある。
応神(おうじん)天皇のころに、呉の国(今の中国)から兄媛(えひめ)、弟媛(おとひめ)、呉織(くれはとり)、穴織(あなはとり)の4人の媛が織物、縫物の進んだ技術を日本に伝えるために招かれました。この中の兄媛は宗像神の求めでこの地に残り、中国の高度な染色、機織り、裁縫の技術を広めたと言われています


  
 「日本書紀」   
雄略14年 1月 
   身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。
   雄略14年 3月 
   臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を桧隈野に住まわせた。それで呉原と名づけた。
   衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の先祖である。


◎上記の応神天皇の記事と雄略天皇14年の記事は同じことを述べているのだろうか?
 兄媛は宗像神の求めでこの地に残ったので、三輪神社に奉ったのだろうか。
 だけど、三輪神社でその祭神を祀ったところは、あったかな?
 確認しよう。


奈良県高市郡明日香村栗原
 檜隈よりもやや東南に栗原と呼ばれる集落があります。
 もとは、「呉原」。呉の人々が移住定住した地という意味だったようです。


 この時、呉原に移り住んだのは、織物など衣服関係の技術を持った人々だと考えられます。雄略紀の呉に関する記事は、この他にも見られ他国の先進技術を取り入れるのにかなり前向きだった、と言う事になるのかもしれませんね。
 今はなき栗原寺(呉原寺)は、その地名から呉原氏の氏寺であったと言われています。


さて私は和裁の縫い方のバリエーションに感動した。(おおげさ?)
それを今回は紹介したいと思ったがちょっと時間切れ。
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by jumgon | 2011-01-24 15:34 | ★言語、歴史

日本の船の歴史

日本の船の歴史

遣唐使船を調べるうち、日本の造船の歴史に興味が出てきた。
遣唐使船の構造で参照した
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm

を参考にかいていきます。


船舶史を調べてみたかぎりでは、我が国ではじめて竜骨をもつ船が造られたのは幕末期の頃のようである。
意外なことだが、千石船などをふくめて、それまでの和船は大型のものでも竜骨を備えもっていなかったのだ。(当然遣唐使船も)

江戸時代末期の思わぬ事件が契機となって竜骨をもつ欧米風の大型船建造技術が国内に伝承されるまで、和船の基本構造は遣唐使船の時代とほとんど変わっていなかったことになる。

1854年(安政元年)11月4日、伊豆下田一帯は、紀伊半島南端沖を震源とする大地震によって起こった大津波に襲われる。下田の町家のほぼ全戸が一瞬にして倒壊流失してしまうほどに凄まじい津波だったらしい。米国のペリーなどと同様に、幕府との開港交渉のためロシアから派遣されていたプチャーチン提督は、下田湾に停泊する軍艦ディアーナ号上にあって、たまたまこの津波に遭遇した。

◎黒船さわぎで日本が沸騰し始めるころですね。
 
津波に翻弄されて遭難、大破したディアーナ号は、プチャーチンとの交渉のために幕府の代表として下田に逗留していた幕閣、川路聖謨の気転と配慮で、修理のために西伊豆の戸田(へだ)港へと回航されることになる。
◎腐り始めた幕府にも、有能な官吏がいたのですね。
60門もの大砲を備えた2千トン級のこの大型木造帆船には約500人のロシア人が乗り組んでいたという。ディアーナ号はなんとか戸田湾沖まで回航したが、海が荒れているうえに方向舵の破損とひどい浸水のために航行がままならず、田子の浦に近い宮島村沖(現在の富士市新浜沖あたり)に流され、そこで動きがとれなくなってしまった。
  必死の救船作業もむなしく、さしものディアーナ号も沈没の危機にさらされる事態になったため、ロシア人乗組員と宮島村周辺の地元民とは、激しい風浪をついて決死の共同作業を行ない、辛うじて船と浜辺との間に救助用ロープを張ることに成功した。
そして、カッターボートやランチに分乗したプチャーチン以下約五百名の船員は、そのロープを命綱に激浪を乗り切り宮島村に無事上陸することができた。そのときに船内の貴重品や資材の一部も陸揚げされたようである。

  それから2,3日後のこと、沈没寸前のディアーナ号をなんとか戸田村まで曳航しようということになり、駿河湾周辺の漁船100隻ほどが宮村沖に集結した。蟻のように群がるそれら手漕ぎの小漁船に曳かれて、ディアーナ号は戸田港のほうへと八キロほどジリジリと移動したのだが、そこでまた突然海上に巻き起こった疾風に襲われ、ついに沈没してしまう。
それからほどなく、宮島村に上陸したロシア人たちは幕命によって戸田村へと移され、全員の帰国が実現する六ヶ月ほのどの間、彼らは村人と実りある交流を続けながら戸田の集落に滞在することになったのだった。
◎ロシアって、この事を記憶している?
 第二次世界大戦終了後も満州に侵攻して、日本人をシベリアに抑留したりして~!
 和歌山沖で遭難したトルコ船を助けたことをトルコの人はしっかり記憶して
 その後も感謝の意を表しています。

幸いなことに、遭難したディアーナ号の乗組員の中には、のちに飛行機の設計製作でもその名を知られるようになるモジャイスキーという優秀な技術将校が含まれていた。
プチャーチンをはじめとするロシア人一行の帰国にはどうしても専用船が必要であったから、必然の成り行きとして、このモジャイスキーの設計と指導のもと、戸田の入江の一隅で八十トンほどのスクナー型帆船が建造されることになった。もちろん、そのための資材や船大工、人夫などは幕府側が提供することになったのだが、すこしも労を厭わずロシア人たちのために十分な便宜をはかり、造船作業の遂行に大きく貢献したのは、有能かつ開明的な人物として名高い、前述の幕閣、川路聖謨であった。
  新船建造にあたっては、西伊豆各地の船大工が多数召集された。船匠だけでも四十名ほど、これに幕府の諸役人や村の関係者、人夫を合わせると三百名、さらにロシア人たち五百名が加わったから、総計八百人ほどの人間がこの一大事業に従事したことになる。

プチャーチンによって「戸田号」と命名された、三本マスト、全長二十二メートルの本格的なこの洋式帆船は、三ヶ月たらずという当時としては驚異的なスピードで完成された。
この一連の作業を通して、日本の船匠たちは竜骨をもつ外洋帆船の建造技術をはじめて実地で学びとったのだった
攘夷派の中心的人物で「ロシア人を皆殺しにせよ」とまで唱えた水戸斉昭までが、最後には家臣やのちに石川島播磨重工の基礎を築いた自藩の船匠らを戸田に送り込み戸田号の建造現場を見学させたというから、相当にセンセーショナルな出来事だったのだろう。
 
単にそれが造られたというだけの話なら、戸田号が誕生する数ヶ月前に国内で二隻の大型洋式帆船の建造が行われている。大型船の必要を感じて幕府みずからが浦賀で建造した鳳凰丸と、薩摩藩が鹿児島で独自に造船した昇平丸がそれである。だが、両船ともに外国文献を頼りに見よう見真似で建造されたために両船ともに技術的欠陥が多く、昇平丸のほうなどはとくに浸水がひどくて、まったくの失敗作となってしまったという。
したがって、戸田号こそは、我が国で初の本格的な竜骨構造をもつ洋式帆船だったと言ってよい。実作業の監督にあたった七人の船大工の棟梁たちは、細大漏らさず船の製作過程の記録をとり、のちのちの洋式帆船建造に備えようと努めたらしい。

◎当時の日本人船匠は向上心があった。エライ!!現在も技術者には立派な人たちが多いようだ。
 
もっとも、戸田号の建造に臨んだ日本の船匠たちが、けっして受身いっぽうであったわけではない。全体的な船の骨格造りの段階ではロシア人技師たちの指導が大きな力となったのだが、細部の作業や表面仕上げの段階になると、手先の器用な日本の船匠たちの技術とアイディアが活かされ、その素晴らしさにロシア人たちは皆舌を巻いたという。
  面白いことに、戸田号には、日本人船匠らの意見を入れて日本式のオール、すなわち、艪が六丁ほど備えつけられていた。
プチャーチンらの乗った戸田号がカムチャッカのぺトロパブロフスク港に近づいたとき、それらの艪が思わぬ威力を発揮する。当時はクリミヤ戦争のさなかだったため、同港一帯はイギリスとフランスの艦隊によって包囲されていた。ところが、たまたまその日は稀にみるようなべた凪であったため、ロシア人たちは備えつけの艪を使い敵艦隊に発見されることなくアバチンスクの入江に逃げ込むことができたのだという。
 
わずか三ヶ月間の戸田号建造を通じてスクーナー型帆船の製作技術を習得した日本人船匠らは、ロシア人らが帰国したあとも、六隻の同型船を次々に造りだし幕府に納入する。やがて彼らやその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸をはじめとする国内各地の造船所に散り、今日に至る我が国の造船業界発展の礎を築いたのであった。
◎与えることは与えられることという見本みたいな話ですね。
  気密甲板や竜骨を備えもっていなかったことも大きな欠陥であったが、遣唐使船をはじめとする古式和船の最大の弱点はその推進力の要になる帆の構造そのものにあった。一口に言うと、ヨーロッパやアラビアの帆船が、逆風や横風でも進むことのできる揚力利用の帆の原理をすでにとりいれていたのに対し、和船の帆は順風あるはそれに近い風しか利用できない原始的な帆に過ぎなかった。いわゆる「ヨット」と「帆掛け舟」の違いである。
 
飛行機の翼の断面みたいに表側の面がふくらみ、それに比べて裏面が平らな物体の両面に沿って大気が流れると、相対的に気流の流れが遅い裏面側から気流の流れの速い表面側に向かって揚力という特別な力が働く。飛行機や羽根を広げて大空を滑空する鳥などは、この揚力のおかげで空中に浮んでいるわけだ。ヨットの三角帆(原理的には三角帆でなくてもよい)の断面はやはりいっぽう側(帆の表側)がふくらんでいるため、たとえば帆の真横から風が吹いてきた場合、同じ原理で帆裏から帆表の方向に向かって揚力が働く。この力がヨットを推し進めるわけである。
理論上は船の真横方向から風が吹いてくる場合に揚力は最大となり、状況次第では船速が風速を上回ることも可能である。
  逆風の場合でも、たとえば船の舳先を風上に対してほぼ右四十五度の方角に向け、帆の角度を風向ラインとなるべく平行になるように調整すれば、揚力が生じる。舵を巧みに調整すれば、その分力を利用して右斜め前方に進むことができる。しばらく進んだら、今度は船の向きが風上に対して左四十五度になるように舵を切り、やはり帆の角度を風向ラインと平行になるようにしてやれば、こんどは左斜め前方に進むことができる。タックと呼ばれるこの操作を繰り返せば、船はジグザグ運動をしながら風上方向へと進んでいけるのだ。

◎よく読まないとちと難しい。
  もちろん、順風の場合は風に任せて進めばよいわけであるが、この場合は揚力を利用していることにはならないから、風の速度以上には船速は上がらない。真横や前方寄りの風なら微風でも揚力のおかげでそれ相応には前進できるが、順風でも微風の場合にはヨットといえども思うようには前進できない。
  いっぽう、帆の構造上の関係で揚力を利用できない帆掛け舟の場合には、順風ないしはそれに近い後方よりの風でしか前に進めないうえに、風速以上の船速を出すことはできないから、きわめて走行能力が低くなってしまう。しかも、逆風などの場合には帆をたたむしかないわけだし、また、たとえそうしたとしても風下に流されるのを避けることはできない。
  遣唐使船は言うに及ばず、江戸時代の千石船や北前船にいたるまで、我が国の船はほとんどが船央付近に帆柱をもつ「帆掛け舟」であったから、行く先々の港で風待ちをしながら順風だけを頼りに進まざるをえなかった。したがって、このような船に乗って安全な沿岸地帯を離れ、風向きの一定しない外洋に出てしまった場合には、風浪に翻弄され、目的地に着く前に難破したり漂流したりしてしまうのがむしろ自然なことであった。
  遣唐使船の復原模型をみたかぎりでは、その帆は二枚ともに相当大きな長方形の麻布製で、帆裏には竹材や葦のようなしなやかで強靭な補強材が密に編みそえられてあったようである。
迅速に上げ下げするのが難しいこのような重たい帆だと、それでなくても高い船の重心がさらに高くなり、順風であっても強風の時などには帆柱全体に強い力が加わり不安定になってしまったに違いない。しかも、上部になるほど受ける力が小さく風向きに合わせて帆の角度を自由に変えられる三角帆や、上げ下しが容易でマストの先端に近いほど小さくなる洋式帆船の複層帆と違って、下部よりもむしろ上部のほうの幅が広い和船の帆は、力学的にみても相当に無理があった。
  たとえ同じ大きさの力であっても、帆柱の先端よりにその力が加わると、テコの原理によって支点にあたるマストの根元付近や船の本体にかかる力は大きくなる。だから、突風や強風に煽られるとマストが折れたり、船が不安定になって傾いたりすることは頻繁に起こったことだろう。
 悪名高い倭寇について述べた明時代の文献には、「倭寇の使う船は船底が平で波を切り裂いて進むことができない。その帆布は中心線が帆柱と重なるように張られており、中国船のごとく帆の端線が帆柱と重なるようには張られていないから、順風を使うことしかできない。逆風や無風の状態になると帆柱を倒して艪を使うのだが、思うようには航行できないから、倭寇の乗る船は東シナ海を渡り切るのに一ヶ月余もかかってしまう」といった意味のことが述べられている。
  ちなみに述べておくと、四角い帆の左右どちらかの端線が帆柱に重なるように張り止められ、帆のもう一端が帆柱を軸にして風向きに合わせ自由に動かせるようになっていれば、ヨットの三角帆と同じ原理で横風や逆風を利用し進むことができるわけだ。「一ヶ月余もかかってしまう」という記述は、いくらなんでもちょっと大袈裟過ぎるような気もするが、東シナ海の横断にずいぶんと時間がかかったことだけは確かだろう。
  ただ、和船にもまったく例外がなかったわけではない。華厳縁起絵巻に見る十二世紀後半頃の大陸渡航船の帆は中国風に端線が帆柱と重なるように張られているし、1604年から1635年頃まで続いた御朱印船(荒木船)は三本マストで、中国船と洋式船の折衷型の帆を備えていたようで、舳先にも小さな帆が張れるようになっていた。それらの船のの帆を巧みに使えば、進行方向の調整や逆風の利用も可能だったことだろう。
そのあと鎖国の時代に入り、外洋の航海に耐える大型船の建造が禁止されたこともあって、その種の帆は使われなくなってしまったのかもしれない。結局、和船はもとの帆掛け舟状態ににもどってしまいそれ以上発達することがなくなってしまったのだ。海洋国であるにもかかわらず外洋船が発達しなかったのは、原初的な構造の和船でもなんとか間に合う沿岸地域や中国、朝鮮との交流が主で、太平洋の彼方へとの目を向ける必要のなかった我が国の歴史的背景と地理的事情によるものだったのかもしれない。
  遣唐使船が東シナ海を渡るのに、大陸方向に向かって南東の季節風の吹き荒れる夏期を選んだのは、すでに述べたように、帆の構造上、順風に頼るしかなかったからである。南東の季節風が吹く時期は、中国大陸に近づくにつれて海が荒れてくる。当時の遣唐使船にとっては季節風のひきおこす荒波を乗り切るだけでも容易なことではなかったのに、この季節は南海で発生した台風が中国大陸よりの海上コースをとって北上する時期にも重なっていた。台風情報などしるよしもなかった当時の状況のもとでは遭難が続出するのも当然だった。
  往路も大変だったが、復路はさらに厳しかった。順風を帆にはらんで日本へと戻るには、晩秋から厳冬期にかけて大陸から吹き出す北西の季節風に乗るしかなかったが、まだ季節風が弱い晩秋の頃は台風シーズンと重なって、大荒れになることが多かった。
また日本付近が強い冬型の気圧配置に覆われる厳冬期になると、激しい北西の風に煽られ、東シナ海海は四六時中荒れに荒れた。しかも、揚子江下流域や杭州から船出して北西の風に乗った場合、順風とはいっても船は南東方向に流されることになるから、直接九州本土に着岸することは難しかった。だから、たいていの場合には、いったん奄美諸島や沖縄諸島のどこかに辿り着き、そこから天候待ちをしながら黒潮本流や対馬海流に乗って島伝いに北上、太平洋側に流されないように細心の注意を払いながら坊津あたりに着岸するという方法がとられていた。
◎鑑真来日
鑑真一行の乗った第二船は沖縄到着後黒潮に乗って無事屋久島まで北上した。だが、屋久島から坊津に向かう九十キロほどの航海中に激しい嵐に遭遇、一時は方向を失い太平洋側に流されかけたが、辛うじて遭難を免れ坊津秋目浦に着岸したのだった


南東の季節風に乗って中国に向かう往路の場合は、大陸のどこかに着くことができればなんとかなったが、復路にあっては、船体そのものが無傷であっても、太平洋のただなかへと流されてしまう前にどこかの島に到着しなければならなかった。
したがって復路の航海はいっそう困難をきわめたわけである。いったん太平洋に流れ出てしまったら、よほどの幸運にでも恵まれないかぎり生還は絶望的だった。「南島路」という言葉にはなにやらロマンの響きさえ感じられるが、実際にはその言葉は「地獄の一丁目」と同義語だったと言ってよかったろう。
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by jumgon | 2011-01-20 12:44 | ★言語、歴史

遣唐使船の構造

後期遣唐使船の構造

遣唐使がたびたび遭難にあったのはどういう理由からか?

これについては
倭と古代朝鮮との往来でルートの面から述べた。

もう一度引用します。
海事博物館ボランティアより
前期遣唐使船は地乗り航法を主用する「北路」に依ったので、海難は比較的少なかったと思われます。
第6次までの前期遣唐使船は原則として昼間のみ航行するいわゆる地乗り航法の「北路」により、そのほとんどは沿岸沿いに進むため多大の日数を要したでしょうが、その航海は比較的容易であったと思われます。登州から先は陸路により長安へ向かいました。


しかし、8世紀になってから対新羅関係が悪化して北路が使えなくなるという、厳しい現実が出来した事も一因となり、やむなく東シナ海横断の「南路」を利用せざるを得なくなりました。この航路は遭難船が続出する悲惨な結果を招来しました。


 前期遣唐使(~669)
後期遣唐使(702~)


海難が頻発した遣唐使の派遣を巡って問題になるのは、ルートだけでなく遣唐使船の構造や航海術がどうであったのかということも考えなければならない。

調べて見ると色々な意見がある。

後期の遣唐使船の多くが風雨に見舞われ、遭難する船も少なくはない命懸けの航海であった。
この原因を航海技術が未熟であったためとする見方が主流であるが、佐伯有清は遣唐使船の大型化東野治之は遣唐使の外交的条件を挙げている。
東野によれば、遣唐使船はそれなりに高度な航海技術をもっていたという。
しかし、遣唐使は朝貢の使いであるという性格上、気象条件の悪い6月から7月ごろに日本を出航(元日朝賀に出席するには12月までに唐の都へ入京する必要がある)し、気象条件のよくない季節に帰国せざるを得なかった。そのため、渡海中の水没、遭難が頻発したと推定している。

私の知識ではとても判断できないので、色々な説を紹介する。

今回は後期遣唐使船の船型構造の一端をご紹介します。先にご案内した主として「南路」で渡唐した遣唐使船を、後期遣唐使船と呼ぶことにします。

後期遣唐使船の構造概要 
遣唐使についての文献史料はかなり残されているのですが、船の船型や構造となると皆無に近いのが実情です。
しかし、船型についてこれまで多くの模型が造られ、また、推定図が描かれているので、特に後期遣唐使船については、ある程度共通イメージが出来上がっていると考えられます。同時代の絵画資料は全く無いので、復元に使われているのは時代は遥かに下がりますが、平安時代後期以降の絵画に出てくる外洋航行船です。

史料としては『 聖徳太子絵伝(1069年) 』、『 吉備大臣入唐絵詞(12世紀末) 』、『 鑑真和上東征絵伝(1298年) 』などが挙げられます。
これらに描かれているのは何れも想像図には違いないのですが、それらによると中国の伝統的帆船、いわゆるジャンク船で外航用の大型構造船であったと考えられます。
後期遣唐使船は多数の乗員、食料や飲料水、並びに朝貢品を乗せて外洋を航行するため、使用船の条件としては積載量が大きく、耐航性のある航洋船ということが第一だったと考えられます。この条件を満たすためには北路で使ったと推定される大型準構造船では間に合わず、恐らくいわゆる唐船(中国式ジャンク船)のような、本格的大型構造船であったと思われます。

鑑真和上東征絵伝
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ジャンク (船)とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ジャンク(戎克、英: Junk)は、中国における船舶の様式の1つ。古くから用いられきた木造帆船だが、物資・貨客の輸送業務においては、19世紀以降蒸気船が普及したことにより衰退した。独特のスタイルは絵画や写真の題材として好まれており、今日では観光用として用いられている。

船体中央を支える構造材である竜骨(キール)が無く、船体が多数の水密隔壁で区切られている。また、横方向に多数の割り竹が挿入された帆によって、風上への切り上り性に優れ、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって突風が近づいた時などに素早く帆を下ろすことを可能にしている。この二つが大きな特徴である。河川や沿岸を航行する小型のものから、400総トン程度で耐波性に優れた大型の外洋航行用のものもある

遣唐使船の構造的欠陥/b>
について
http://www.kougakutosho.co.jp/mathematics/mathematics_73.htm
では次のように述べられている。

遣唐使船をはじめとする古式和船の
第一の欠陥は、海水を完全に遮断できる気密甲板を備えもっていなかったことである。甲板に完全な防水処理を施すだけの技術がなかったうえに、積荷の揚げ降ろしを効率よくおこなうことが優先されたから、現代の船のように船倉を気密度の高い甲板で覆うことなどはあまり考慮されていなかった


古式和船の第二の欠陥は、船底部が竜骨をもたない平底の構造になっていたことである。

竜骨とは船底部の基本骨格のことで、その構造が、太い背骨を中心に左右対称に湾曲してのびる恐竜の胸骨の造りに似ているのでその名がある。紀元前の昔から竜骨をそなえていたヨーロッパやアラビア地方の船は、船底部の断面が大きく開いたV字形をしていて浮かんだ時の重心が低く、起き上がり小法師と同じ原理で左右に傾いても復原する力が強かった。また、支柱となる太い竜骨があるために船底部の強度が大きく、激浪に対する耐久性も高かった。嵐の海で船体が激しく海面に叩きつけられたり、高波の直撃を受けたりすると瞬間的に船底や船側、甲板などが歪む。竜骨があると衝撃による歪みは少なくてすみ、その応力(外力を受けたとき物体に生じる抵抗力)によって歪みは修正復原される。


◎遭難の原因は様々考えられているのですね。

ちなみに遣唐使以前、倭寇?とか民間交流で(国なんてものがはっきりとはなかった時代)
弥代・古墳時代の朝鮮や中国への航海ルートの想像図をあげておきます。
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by jumgon | 2011-01-16 18:33 | ★言語、歴史

永井路子「王朝序曲」

杉元苑子の「檀林皇后私譜」を以前読んだ。
奈良時代から平安時代への移り変わりの時代を描いている。

一つの見方だけでは偏ると思ったので、ほぼ同じ時代を扱っている
永井路子「王朝序曲」
を読んだ。

「檀林皇后私譜」の方は主に桓武天皇・安殿親王・嵯峨天皇の時代を、主に嵯峨天皇と皇后橘嘉智子を中心にすすめいる。
永井路子「王朝序曲」の方は、安殿親王(平城天皇)と桓武天皇との葛藤を中心にそれを取り巻く藤原氏の動きをかいている。

桓武天皇は帝王の座を狙って、義弟・他戸とその母井上皇后を死に追いやった。
さらには、長岡遷都に反対して謀反を謀ったという理由で、皇太弟早良を淡路に流し途中で死ぬにまかせた。
そうしておきながら彼らの怨霊に悩まされて後半生を苦しみ続けた。

その父の行為を批判し続けた平城(安殿)もまた謀反のうわさに怯えて、弟の伊予とその母吉子を死に追いやってしまった。そして父と同様、怨霊の恐怖に悩まされて皇位を降りてしまった。
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そのあと皇位を継いだ嵯峨天皇は、平城天皇の側近を厳しく処罰しないように、死刑はしないようにいう。
「死刑を行って怨霊を背負い込むのはご免だ」という。

古代天皇の資質・・・の一つである、酷薄な独裁志向を嵯峨天皇はもっていない。
◎これは筆者の言

桓武時代は長岡京から平安京への遷都造営、蝦夷地への出兵のために国庫の負担はあまりに大きかった。強力な指導力で国を引っ張ってきたかに見えるが実は国の財政は傾きかけていた。

桓武の国家は幻想の王国、そして桓武は幻想の巨人。
と筆者は書いている。

桓武と違って自分が政治を行う能力や意欲がないのを自覚していた嵯峨天皇。

嵯峨の時代になり、政治は臣下に任せ自分は漢籍・歌・書・女性に耽溺した。

それにもお金を使うが、都の造営や出兵ほどの巨額ではない。
そして、多くの后から生まれた子供は臣籍降下するよう臣下がオススメすることで国の財政負担を減らした。

律令国家が公地公民制を敷いていたのは初めの頃だけで、奈良時代にすでに荘園ができ。その所有者たちが富を蓄えはじめていた。
班田収受は公地公民が原則だがこれはとっくに崩壊し、私有地がどんどん増えていく。

そして桓武朝廷は徐々に現実的な妥協策で律令国家を変質させていく。
これを「王朝国家」「王朝社会」と呼ぶが藤原冬嗣がその序曲を奏でた。
こうして平安時代が始まっていったという。
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by jumgon | 2011-01-15 19:18 | ★読書・放送・講演会

遣唐使が持ち帰ったもの

前回、遣唐使が持っていったもの
について述べた。
今回は、
遣唐使と共に東から来た物について
書きたいと思う。

Wikiと東野治之「遣唐使」をおもに参考にして書いています。

東野氏は、遣唐使全体を通して中国の文化受容に関して、次のように述べられています。

初期の頃は仏教の受容に重きが置かれ、次に文化全体、次第に貿易の手段として、中国側から見れば朝貢、日本側の意識としては物々交換による交易として遣唐使を考えていた。
だが、何でも取り入れたのではなく、その受容には取捨選択があった。
仏典や注釈書などは重複するものはさけ、新しいものを探して持って帰ったとみられる。
又中国で盛んだった道教は取り入れなかった。わずかに道教関係の書もあるが、それを広めようとした形跡はないそうだ。
また宦官・科挙の制度も取り入れられなかった。


遣唐使たちは書籍だけでなく、美術工芸品その他のものも持ち帰った。
それらはあちこちの寺院や正倉院に保管されている物もある。

奈良時代から平安時代にかけて、遣隋使と遣唐使が持ち帰ったものを列挙しよう。

中国原産ではなく、シルクロードから伝わったもの、
 すなわち、白菜、ピーマン、西の瓜と書くスイカなどを、 長安で種を得て日本に持ち帰り、日本に根づかせました。

楽器のルーツも、たくさんもたらされました。
横笛・宮中でも使われている笙(しょう)
正倉院にもある五弦の琵琶
螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんびわ)
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正倉院にある五絃琵琶は、聖武天皇(しょうむてんのう)の遺品(いひん)で、現在(げんざい)では世界でたったひとつしかないとても貴重(きちょう)なものです

*五弦の琵琶は、中国では滅んだ楽器で、シルクロートの天山山脈の 南の街「庫車(クチャ)」にある古代の「亀茲国(きじこく)」 の壁画からも、正倉院の琵琶と同じものが描かれていて注目されました。

サイコロ、双六、囲碁、壺の形をした陶器に
 投げる輪投げ
なども伝わりました

経典以外の書
●奈良時代には、古代中国のよい文を集めた「文選(もんぜん)」が読まれ、 仏教文化が根づいた平安時代には、中国の仏教詩人である 白楽天が愛好されました。それらも遣唐使が持ち帰ったものです。

貨幣
野菜発酵(はっこう)技術〈蘇(そ)・味噌(みそ)・しょうゆ
野菜をくさらせて、長持ちする食べ物を作る技術も、唐から日本に伝わりました。蘇はそのひとつです。
●蘇というのは、平城京(へいじょうきょう)の時代のチーズのことです。
●また、現在(げんざい)私たちが、毎日のように食べている味噌やしょうゆも、同じ時代に、唐から伝わりました。味噌もしょうゆも、大豆(だいず)をくさらせた食べ物です。
これは遣唐使(けんとうし)ではなく、唐から日本に移住(いじゅう)してきたり、日本の貴族(きぞく)に政治(せいじ)のアドバイスをするためにやってきた人が、故郷(こきょう)の味をなつかしんで作ったものではないかと考えられています。

スパイス・薬草(やくそう)〈胡椒(こしょう)・シナモンなど〉
占(うらな)い・天文学(てんもんがく)・暦法(れきほう)
また変わったところでは

小国鶏(しょうこくどり)があります。(京都検定に出題されたそうです。)
遣唐使が中国寧波府の昌国(しょうこく)より持ち帰ったとされています。
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平安時代に鳥羽僧正が描いた『鳥獣人物戯画』(高山寺)にも
小国鶏が描かれています。
天然記念物の小国鶏(しょうこく)です。
この写真は「白藤」という羽色のもので、天然記念物に指定されている貴重な日本鶏などを飼育保存している「日本鶏飼育場」からお借りしました。

小国鶏は平安時代(?)に中国から持ち込まれた鶏で、
姿が美しいことから、観賞用品種を作出するため
の交配に多く用いられた鶏種です。
◎縄文時代から鶏はいますが、小国鶏という品種はなかったのですね。

さて、うららさんの「質店オザサのブログ」⇒参考リンク<古代史ミステリー>
ではじめて読み、教えられたのが「武術と遣唐使」についてだ。

これについてはアカデミックな書物では読んだことはない。(わたしの勉強不足?)

その記事はうららさんが
http://www.sportsclick.jp/combat/01/index10.html
を参考にされて書かれたという。

初耳のことばかりで、ビックリ、ここまで気がつかなかったなあ、と感心しました。

鑑真とともに来日した僧侶は21人にのぼるが鑑真とともに最初から行動し最も信頼されていたのが弟子の思託(722~809)である。
思託鑑禎は743年台州・開元寺に入り鑑真の弟子となる。741年天台山修禅寺に留学、天台学、禅学、拳法などを修業。
 澄水流の始祖・大伴古麻呂は古代の名族としてもちろん家伝の武術をもっており、武人の家系であるから、日本へ向かう航海中も鑑真や思託らと武術談義をし、若い思託らと拳法を教えあったことであろう。


日本の歴史を格闘技から書いている。

上記の格闘技のサイトには、行基の師、道昭についても言及している。

 法相宗と諸賞流-留学僧の伝えた武術 
●遣唐使とともに中国へ行き、仏教修行をして日本に帰国した僧侶で、武術を伝えたと思われる僧に道昭がいる。
653年唐に渡り、西域から帰った玄奘三蔵について学び、660年帰朝。奈良・元興寺に住み禅を講じ、法相宗を広げた。この法相宗第一伝の道昭師、各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。拳法と杖術が強かったという伝説がある。
●その後、唐で学び法相宗を伝えた僧には、智通、智達が第二伝
●興福寺を中心に普及した智鳳が第三伝、
●玄ボウが第四伝だが、みな玄奘かその高弟の窺基、智周に学んでおり、その法系は達磨禅、拳法の崇山少林寺に連なっている。 
●法相宗第三伝の智鳳の高弟に岡寺の開基者である義淵(~728)がいる。
中世、槍で有名になる宝蔵院は興福寺の義淵の私坊がその始まりである。
◎「宮本武蔵とのたちあいで有名な宝蔵院です

●僧兵で名を知られるのは奈良の興福寺、比叡山延暦寺だが、僧兵とは寺院が自衛のためにおいた武器をもつ僧。平安時代中期、寺院がその荘園を貴族や武士の侵入から守るためにおいたのが始まり。
特に興福寺、延暦寺の僧兵は強力で、しばしば朝廷に押し掛けて強訴(ごうそ)を行い,寺院の要求を認めさせようとした。これらを見ても法相宗の僧侶と武術は強い関連があったことが知られる。

●さて奈良・興福寺は藤原氏の氏寺として知られるが、日本最古の拳法流派・平心流は藤原鎌足を流祖としている。
◎初耳ですけど、平心流ではそのように伝えられているのでしょうか?というより、平心流なるものの存在も知らなかった。

●奈良の岡寺には、暴れ龍を退治した義淵の伝説があるし、他には義淵が、強い法力の持ち主であったこと、人々の危機を救い、盗賊を捕らえた話なども伝えられている。

●同じ法相宗の京都・清水寺は征夷大将軍・坂上田村麿(758~811)と深い関係があると伝える。
◎杉本苑子「檀林皇后私譜」と言う小説では、当初清水は「坂上田村麿の私寺」だと書いてある。
田村麿は人生の多くを蝦夷地平定のため武人として働いてきた人である。古伝柔術の流派・観世流は流祖を坂上田村麿としている。
◎これもホントですかって、気持ちがある。私が知らないだけかな~

わたしにとって、遣唐使の留学僧が武術もならっていた、というのは、はじめて知った事柄でこれが信憑性のあるものかどうかはわからない。

文献がなく、武道流派の家伝書のたぐいから記事を書いているようだ。だがまったく可能性がないと思えないのは、興福寺や比叡山の僧兵の存在があるからだ。
僧というからには、ただの無頼の徒ではないだろう。
お経や書物、美術工芸品、医薬、音楽、物産、娯楽と幅広い東の文化を吸収、伝来したのだから武術があってもおかしくないと思うので記しておいた。

行基について
◎道昭の弟子に行基がいる。
当時の仏教は国家安泰を祈念するもので、個人の救済や魂の救いを目指したものではない。唐でも同じである。
これを考えると、道昭や行基が
「各地を行脚し、井戸堀り、橋掛け、舟着き場作りの社会事業を指導した。」
というのは革命的な行動だと思う
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by jumgon | 2011-01-13 18:33 | ★言語、歴史

遣唐使・回数

今回は遣唐使の回数についてです。

回数については中止、送唐客使などの数え方により諸説ある。
•12回説:藤家禮之助
•20回説:東野治之、王勇
他に14回、15回、16回、18回説がある。

遣唐使派遣一覧
次数出発帰国使節その他の派遣者船数備考などについて書く。
備考には中国文献に見られる記事をいれた。

 舒明2年(630年)出発
    舒明4年(632年)帰国
犬上御田鍬(大使)・薬師恵日

備考:唐使高表仁来日、僧旻帰国
備考:貞観五年(631年)、遣使が方物を献じた。太宗は、その道中の遠きを不憫に思い、勅旨で所司に歳貢を無用とさせ、また新州刺史の高表仁を遣わして、節を持して行かせこれを慰撫させた。表仁は慎みと遠慮の才覚がなく、王子と礼を争い、朝命を宣しないで還った。
 貞観二十二年(648年)、また新羅に付いて表を奉し、以て日常の音信を通じた。(旧唐書)

白雉4年(653年)出発
    白雉5年(654年)帰国
吉士長丹(大使)・高田根麻呂(大使)・吉士駒(副使)・掃守小麻呂(副使)・留学僧・道昭・定恵
◎定恵とは  
  
定恵(じょうえ、(643年~666年2月2日))は、飛鳥時代の学僧。定慧、貞恵とも書かれる。
  父は中臣鎌足(藤原鎌足)。母は車持国子の娘・与志古娘。
  出家前の俗名は「中臣真人(なかとみのまひと)」、弟に藤原不比等がいる。
  653年(白雉4年)5月遣唐使とともに唐へ渡る。(10歳?11歳)
  長安懐徳坊にある慧日道場に住し、
  神泰法師に師事した。遊学して内経外典に通じたという。
  665年(天暦年)9月、(22,23歳頃)朝鮮半島の百済を経て日本に帰国したが、
  同年12月大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で亡くなった。
  (帰国後わずか3ヶ月)
  高句麗の僧道賢が誄(しのびごと)をつくっている。


備考:
永徽初(650年)、その王の孝德が即位、改元して白雉という。一斗升(ます)のような大きさの琥珀(こはく)、五升升のような瑪瑙(めのう)を献上した。
時に新羅は高麗と百済の暴虐の為す所となり、高宗は璽書を賜い、出兵を出して新羅を援けさせた。幾ばくもせず孝德が死に、その子の天豊財が立った。死に、子の天智が立った。(新唐書)

翌年(651)、使者が蝦夷人とともに来朝。蝦夷もまた島の中で暮らしており、その使者は鬚の長さ四尺ばかり、箭を首の耳輪の辺りに構え、人に瓠を載せて数十歩先に立たせ、射って的中せざるはない。天智が死に、子の天武が立った。死に、子の総持が立った。(新唐書)

第2船が往途で遭難

白雉5年(654年)出発
    斉明元年(655年)帰国
高向玄理(押使)・河辺麻呂(大使)・薬師恵日(副使) 高向玄理は帰国せず唐で没

斉明5年(659年)出発
    斉明7年(661年)帰国
坂合部石布(大使)・津守吉祥(副使)
伊吉博徳
第1船が往途で南海の島に漂着し、坂合部石布が殺される。

天智4年(665年)出発
    天智6年(667年)帰国
(送唐客使)守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間 
唐使劉徳高を送る。唐使法聡来日

天智6年(667年)出発
    天智7年(668年)帰国
(送唐客使)伊吉博徳
 唐使法聡を送る。唐には行かず?

天智8年(669年)出発
不明河内鯨(大使)  *第5次から第7次は、百済駐留中の唐軍との交渉のためか
備考:
咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。
使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、日本は小国で、倭に併合された故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。
(新唐書)

大宝2年出発(702年)
    慶雲元年(704年)帰国
粟田真人(執節使)・高橋笠間(大使)・坂合部大分(副使)山上憶良・道慈

備考: 
長安元年(701年)、その王の文武が立ち、改元して太宝という。朝臣の真人粟田を遣わし、方物を貢献した。朝臣の真人は唐の尚書のようである。進德冠を冠り、頂に華蘤四披があり、紫の袍に白絹の帯
備考:長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。
朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進德冠、その頂は花となし、分けて四方に散らす。身は紫の袍を服とし、白絹を以て腰帯としていた。
真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だった。則天武后は、これを麟德殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させた。(旧唐書)

養老元年(717年)出発
    養老2年帰国(718年)
多治比県守(押使)・大伴山守(大使)・藤原馬養(副使)
留学生:阿倍仲麻呂・吉備真備・玄昉・井真成
井真成については藤井寺市出身の藤井氏だという説があり、藤井寺市のシュラホールには墓誌のレプリカがおいてある。
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井真成の墓誌本文の日本語訳です。

【日本語訳】
尚衣奉御を追贈された井公の墓誌の文 <序と并せる>

公は姓は井、通称は真成。国は日本といい、才は生まれながらに優れていた。それで命を受けて遠国へ派遣され、中国に馬を走らせ訪れた。

中国の礼儀教養を身につけ、中国の風俗に同化した。正装して朝廷に立ったなら、並ぶものはなかったに違いない。だから誰が予想しただろう、よく勉学し、まだそれを成し遂げないのに、思いもかけず突然に死ぬとは。

開元二十二年(七三四)正月■日に官舎で亡くなった。年齢は三十六歳だった。
皇帝(玄宗)はこれを傷み、しきたりに則って栄誉を称え、詔勅によって尚衣奉御の官職を贈り、葬儀は官でとり行わせた。

その年二月四日に万年県の河の東の原に葬った。礼に基づいてである。
ああ、夜明けに柩をのせた素木の車を引いてゆき、葬列は赤いのぼりを立てて哀悼の意を表した。
真成は、遠い国にいることをなげきながら、夕暮れに倒れ、荒れはてた郊外におもむいて、墓で悲しんでいる。
その言葉にいうには、「死ぬことは天の常道だが、哀しいのは遠方であることだ。身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」と。

備考:
開元初(713年)、粟田が再び来朝、諸儒に沿った経典を拝受したいと請うた。
詔を以て四門学の助教「趙玄默」を鴻臚寺での師と為した。大きな幅広の布を謝恩の礼として献じ、あらゆる賞・物・貿・書を持って帰る。
その副の朝臣仲満は中華を慕い、帰らず、姓名を変えて朝衡という、左補闕、儀王友などを歴任して多くの知識を備え、久しく経って帰還した。聖武が死に、娘の孝明が立ち、天平勝宝と改元した。(新唐書) 
備考:
開元初(713年)、また遣使が来朝し、儒士に授経を請うた。詔を以て四門学の助教の趙玄默が鴻臚寺に就いて、これを教授した。
玄默に修学の謝礼として大きな幅布を贈り、題して「白亀元年の調布」という。人はまたその真偽を疑った。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。その偏使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)、中国の風を慕い、因って留まって去らず、姓名を朝衡と改め、左補闕、儀王友を歴任。朝衡は京師に留まること五十年、書籍を好くし、帰郷させたが、逗留して去らなかった。

天平5年(733年)出発
    天平7年(735年)帰国
多治比広成(大使)・中臣名代(副使)
その他派遣者:平群広成・大伴古麻呂

帰路、第3船の平群広成は難破して崑崙国(チャンパ王国)に漂流。天平11年(739年)10月27日に帰国。第4船、難破して帰らず

   天平18年746年)
span style="color:rgb(0,0,255);">◆石上乙麻呂(大使)
 -備考:停止

天平勝宝4年(752年)出発
    天平勝宝6年(754年)帰国
藤原清河(大使)・吉備真備(副使)・大伴古麻呂(副使) 
◎この時の遣唐使の帰国船に乗って、鑑真一行は来日を果たした。
備考:
天宝十二年(753年)、また遣使が貢献。(旧唐書)
備考:
鑑真来日。第1船の藤原清河と阿倍仲麻呂は帰途で難破し帰らず
備考:
上元中(760-761年)、朝衡を抜擢して左散騎常侍、鎮南(安南)都護とした。(旧唐書)

 天平宝字3年(759年)出発
    天平宝字5年(761年)帰国
(迎入唐大使使)高元度・(判官)内蔵全成
*渤海路より入唐も安史の乱のため目的果たせず。内蔵全成は渤海路より帰国

天平宝字5年(761年)
仲石伴(大使)・石上宅嗣(副使)・藤原田麻呂(副使)  
*船破損のため停止

天平宝字6年(762年)出発
-(送唐客使)中臣鷹主・(副使)高麗広山 
*唐使沈惟岳を送らんとするも渡海できず停止

宝亀8年(777年)出発
    宝亀9年(778年)帰国
小野石根(持節副使)・大神末足(副使)
/佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使) 
大使佐伯今毛人、病と称し行かず。大伴・藤原両副使は更迭。
 *第1船、帰途で遭難し副使小野石根、唐使趙宝英死亡

宝亀10年(779年)天応元年出発
    (781年)帰国
(送唐客使)布施清直・多治比広成
備考:
建中元年(780年)、使者の真人興能が方物を献じた。真人とは、官に因って氏とする者である。興能は書を善くするが、その紙は繭に似て光沢があり、人には知られていない。(新唐書)
唐使孫興進を送る

延暦23年(804年)出発
    大同元年(806年)10月帰国
藤原葛野麿(大使)・石川道益(副使)
その他派遣者:最澄・空海・橘逸勢・霊仙
備考:
貞元二十年(804年)、遣使が来朝、留学生には橘逸勢、学問僧には空海(旧唐書)
*石川道益、唐で没。往途、第3船、肥前松浦郡で遭難
備考:
元和元年(806年)、日本国使の判官「高階」真人が上奏「前件の学生、芸業がやや成り、願わくは本国に帰らせ、すなわち臣と同じに帰ることを請う」。これに従った。(旧唐書)
備考:
貞元末(805年)、その王は桓武といい、遣使が来朝。その学子の橘免勢、仏教の空海は留学を願い、二十余年を経て、使者の高階真人が来朝し、免勢らを伴って帰還することを請う、詔を以て勅許す。次に諾楽が立ち、次は嵯峨、次は浮和、次は仁明。次は文德、次は清和、次は陽成。次は光孝、光啟元年にあたる。(新唐書)

承和5年(838年)出発
    承和6年(839年)帰国
藤原常嗣(大使)/小野篁(副使)円仁

*承和3年・承和4年とも渡航失敗。その後小野篁、病と称し行かず流罪。帰途、新羅船9隻を雇い帰る。第2船、南海の地に漂着。知乗船事菅原梶成、大隅に帰着
備考:
開成四年(839年)、また遣使が朝貢した(旧唐書)
備考:
仁明は開成四年(839年)にあたり、再び入朝して貢献。(新唐書)

寛平6年(894年)
菅原道真(大使)・紀長谷雄(副使)停止。ただし大使の任は解かれず。

•次数は20回説を採用。
•送使・迎使など正式な朝貢の使いでない役職は人名の前に付した。
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by jumgon | 2011-01-08 19:49 | ★言語、歴史

白浜②三段壁と熊野水軍

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崎の湯から千畳敷まで歩いた。10分?とか書いてあったが結構疲れた。

千畳敷の駐車場には観光バスが3台ほど止まっていた。中国人観光客らしき人達もいる。
磐の段が高いところもあるので滑ったり、こけたりしないよう気をつけないと~。
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波で模様が描かれた岩
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岩場を登ったり下りたり。
寒さと足の疲れで、展望休憩所で海をみながらいっぷく。

今回は海を満喫できたなぁ~
さてそろそろ、出発しようかな。

道に出ると「三段壁まで950m」と書いてある。

歩いていけるね、ということで散策を続ける。

途中、○○公社保養施設、とか△△公団?保養施設とかが売却中の看板が出ている。
ハコ物いっぱい作ってもう使われなくなったようだ。
昔の無駄遣いの痕跡!!
別荘なのかペンションなのかもう使ってない空き家みたいなのがある。ここも夏以外は経営が苦しいのかな、、、。

やがて、アロエの花がいっぱい咲いているところに着く。
「アロエ公園」の看板。
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公園というほどではないけど、、、。もう少し暖かいと花の色ももっと冴えていただろうな~。

そしてすぐに三段壁につく。
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三段壁は屏風のように海に直立する高さ30~60メートルの絶壁である。かっては熊野水軍の船隠し場であった海蝕洞窟がその岩層深くに眠るところである。

そのように聞いていたので是非訪れたいと思っていた。

三段壁洞窟館内では荷物を預かってくれてたすかった。
エレベーターで地下36メートルまでおりる。8秒ぐらい。早いね!
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そこから順路にしたがって巡る。
洞窟内には歩道があり、神秘的な雰囲気である。足元が濡れているので滑らないように気をつけないといけない。
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ところどころに明かりがついている。

牟婁大辯財天(むろだいべんざいてん)
いつから祀られているのかわからないけど、洞窟内ということで神秘的な雰囲気がある。
お顔は飛鳥佛的である。
水の神様ともいわれ、また神社仏閣の守護神としても知られる。
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やがて熊野水軍の説明版がある。
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熊野水軍と源平
熊野水軍の統率者であり、熊野別当(熊野三山の統括者)の湛増(たんぞう)は、源頼朝と外戚関係にあたり、武蔵坊弁慶の父であると伝えられている。
おりしも、源平の戦いは屋島檀ノ浦での海上決戦へと展開し、湛増率いる熊野水軍の動向が勝敗の決め手を担うこととなり、源平両軍ともに因縁浅からぬ湛増は、双方から助力を乞われた。
湛増は年来、平家安穏の祈祷をしていたが、国中悉く源氏に傾いており、義経より命を受けた息子弁慶の説得もあって、悩んだ末に “所詮神力に及ぶべきにあらず。神明の冥鑑に任すべし”として、 田辺の宮(現在の闘鶏(とうけい)神社)において“赤きは平家、白きは源氏”と告げ、白い鶏七羽、赤い鶏七羽を戦わせて神意を伺うことにした。
すると、赤い鶏は一羽も勝つことなく、“この上は神慮に任せ奉らん”と、ついに湛増は源氏方につくことを決意した。
かくして、湛増は熊野三山吉野十津川、死生不知(ししょうしらず)の兵を集め、総勢二千余人、兵船二百余艘をととのえて、紀伊国田辺の湊より出陣し、湛増の指揮する熊野水軍は、若王子の御正体を捧げ持ち、金剛童子の旗を靡かせて、堂々、檀ノ浦に姿を現し、源氏を勝利へと導いた。これらの経緯は『源平盛衰記』、ならび『平家物語』に詳しい。
なお、弁慶が湛増の子であるとすることは『御伽草紙』の「橋弁慶」でも同様に伝えられているが、『熊野別当代々記』に弁慶の名は見られない。ちなみに、『義経記』巻第三では、弁慶を「熊野別当弁せうが嫡子」とし、『弁慶物語』では「弁しん」の子としている。


◎本当に運命の分かれ道で迷って自分で決することができない時は神意に頼るほか無いのですね。
  この決断で一族郎党のその後の運命が変わるのですから、、、。


洞窟内には熊野水軍番所小屋がある。資料によって、再現されたそうだ。

囲炉裏があって休憩できるようになっている。
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◎ここで出陣までの間、交代要員の海族が仮眠したり、武者震いしたりしてたのだろうか~。
進むうちに「瀬戸鉛山鉱山の跡」というのがある。
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瀬戸鉛山鉱山
この洞窟には、瀬戸鉛山鉱山の跡が残っています。
この鉱山は正親町天皇の頃と言いますから、織田信長が桶狭間で戦った頃(1560年)に鉛鉱山として開発されたようです。時は鉄砲の時代を迎えようとしていましたので、鉛の需要は急増したのでかなり活況を呈し、数10もの竪抗が掘られたといわれています。
ただ、慶長年間といいますから、1600年のはじめ頃(大阪冬の陣の頃)には、坑道が海中に達するようになり急激に衰退したと言われています。

鉱(まぶ)  穴(あな) 
当時の採掘は人力のみの時代ゆえ井戸堀式の竪穴で縄梯子を投げ込み採掘に降りて行っては葛篭(つづら)に入れて背負って登ってくるという方法であったようである。
 こうした竪穴坑が三段から平草原を経て湯崎にかけての山中に300箇所以上あったらしい。現在に至っても200数箇所は残っており土地の人々は一般に鉱穴(まぶあな)と呼んでいる。
 尚当時の古文書によると、その時々の為政者たちは採掘を督励するために鉱山関係者に種々の恩典を与えたと言う。

                      免 税 書 
一、公用の鉛一人頭250目であるが山の目方として200目に定めてつかわす。
一、田辺から山へ入る者が分を過ぎた高値を言っても一割高に申し付けることを許す。
一、この外仕事の上でことごとく相許すから堀り子達を集めて怠りなきよう精を出すこと。

                                 元和5年8月27日


16世紀末から17世紀前半にかけて浅野氏や南紀徳川氏が鉛山に注目ししばしば租税を免じて躍起となって採鉱を奨励していた。
町には租税書が今も残り温泉神社の秋の祭礼(11月2日)には(御書祭り)と云って租税書を先頭に羽織袴の長老に続き稚児行列が賑やかに進むのは、当時を偲ばれます。


洞窟内は荒々しく露出した岩肌に熊野灘から押し寄せた怒涛がぶつかり、四方に砕け散る。その音と光景は荒々しく、ダイナミックである。
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わたしはなぜか洞窟が好きなんです。
笛の音色と洞窟というのが、私にとって原始信仰の雰囲気なのです。
でもここも良い!
もうそろそろ、外の光がさして来ました。
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by jumgon | 2011-01-07 14:02 | ★言語、歴史