古代史を中心にした漂流記録&覚えておきたい記事、書籍、ニュースなどの備忘録として、あるいは自分の考えの足跡、生活の記録をしています。


by jumgon
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笑う人物はにわ?

かわいい笑ってる人物埴輪!

朝日新聞 2011年2月24日23時40分

奈良県桜井市の茅原大墓(ちはらおおはか)古墳(国史跡、全長86メートル)で、古墳時代中期初め(4世紀末)に作られたとみられる武人の埴輪(はにわ)1体が見つかった。市教委が24日発表した。
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人を表現した人物埴輪の出土例は、これまで5世紀初め~前半が最古とされてきた。市教委は「人を埴輪で表現するようになった契機がわかる重要な発見」と話している。

見つかった埴輪片をつなぎ合わせたところ、高さ67センチ、幅50センチの武人と判明した。盾を構え、頭にはかぶとをかぶっている。
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目と口は穴が開いた形で表現され、目やほおの周りに赤い顔料が残っていた。あごには入れ墨を示す線刻模様があった。
◎これが武人?あまりにかわいすぎる!
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埴輪は、古墳時代に円筒や水鳥、家などの形で現れたといわれる。しばらく人の形は作られず、大和王権の中枢があった畿内に現れたあと、全国へ広まったと考えられている。

人物の最古の出土例は、5世紀初め~前半の拝塚(はいづか)古墳(福岡市)や墓山(はかやま)古墳(大阪府羽曳野市)だった。

古来、神の山とあがめられた三輪山の西のふもとにあることから、石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)は「三輪山の信仰と強い関わりのある一族が古墳を守護する意味で作ったのだろう」とみる。


現地説明会は26日午前10時~午後3時。埴輪も見ることができる。JR三輪駅の北約1キロ。問い合わせは市立埋蔵文化財センター(0744・42・6005)へ
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by jumgon | 2011-02-25 10:59 | ★新聞きりぬき

楠の木について

クスノキってどんな木?

前回のブログで壷井八幡宮の楠の写真をアップしました。

「九州が自生地の南限だと思っていた」というコメントがあり、この機会に楠について調べました。

私はきれいな目立つ花の咲く木の名前は知っていても花の目立たない木はちゃんと区別できてません。葉だけで判別など出来ません。

さすがに「松」「「竹」「槇」」(これはお墓に持っていくので知ってました)くらいは知っています。自分の無知をブログでさらけ出すようですが、さっそく調べた事を書いていきましょう。

http://www.toshiba.co.jp/elekitel/nature/2002/nt_01_kusunoki.htm
を参照しました。

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クスノキは常緑の高木で、しばしば鬱蒼とした大木になり、横広がりで、丸みがあり、」しかも凹凸のある巨大な樹冠をつくる。
◎確かにある病院で見た楠は丸みがあり、しかも凹凸のある巨大な樹冠だった。

樹皮は、縦方向に短冊状に裂け、黄色味のある灰褐色であるが、老木では黒味が強くなる。
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クスノキかどうか、当たりをつけたら、葉をもんでにおいを嗅ぐとよい。樟脳を採取するのがクスノキである。葉をはじめ全体に樟脳の香りがある。もっともクスノキが属するクスノキ科の植物は多かれ少なかれ色々な精油成分を含むためクロモジのように芳香があるので、早合点をしてはいけない。
(写真1)  
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 クスノキらしいと思われたら、その長卵形の葉を探して、そのかたちと側脈が主脈から分かれる部分を見る。ここには小さな昆虫が寄生するため、少し膨らみがある(写真1)。
(写真2)
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 葉は革質で、冬も落葉せず越冬し、晩春に新葉が展開すると、それと入れ替わりに落葉する。若葉は黄緑色をしているが、紅色をおびることもあり(写真2)、
(写真3)
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枝に互生してつき、2センチ前後の柄をもち、葉身は先も基部も尖り、表面は油を塗ったように艶々している。葉の表面には、主脈と基部から左右に出る2つの側脈がはっきりとみえる(写真3)。
(写真4)
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花は雄しべと雌しべの両方をもち、放射相称で、5・6月に咲くが、梢の新葉の腋から伸びた枝に円錐状につき地上からは見難いうえ、直径は6ミリくらいと小さいために、開花に気づかないことが多い(写真4)。
(写真5)
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雌しべは1つ。果実は球形で秋に熟し黒色になり、内には1つの種子がある(写真5)。

●用途
クスノキは生長が速いうえに、樟脳という有用物質を含むため、温暖な地方でさかんに栽培されていた。
その材は虫害に強く、また硬く緻密で、光沢があり、建築材や彫刻材、家具材、器具材などに利用された。
クスノキに彫られた仏像も数多く知られている。建築材としては、大木になることが重要で、昔は大きな構造物の建築には欠かせなかった。床柱、欄間、天井板などにも用いた。
 耐水性が強いため、海中に建つ厳島神社の鳥居もクスノキを柱に用いている。
古代から船材としても利用され、丸木舟が遺跡から出土している。クスノキはもともとは日本に自生せず、中国の江南地方を原産とする、という説もある。 <2002.01>

●日本巨樹ランキング
自然環境保全基礎調査(緑の国勢調査) 「巨樹・巨木林調査」の結果から幹周のトップ10をまとめたものです 。この11本のうち、7本はクスノキです。
ナンバーワンの鹿児島県蒲生町の「蒲生の大楠」は、推定樹齢1500年、幹周が24mもあり、国の特別天然記念物に指定されています。

順位樹種名単木名称幹周cm県市郡町村
1 クスノキ蒲生の大楠2422鹿児島県姶良郡蒲生町
2 クスノキ阿豆佐和気神社の大クス2390㎝静岡県熱海市
3 ガジュマル世名城のガジュマル2350㎝沖縄県島尻郡東風平町
4 イチョウ 北金ヶ沢のイチョウ2200㎝青森県西津軽郡深浦町
5 クスノキ 本庄の大クス2100㎝福岡県築上郡築城町
5 クスノキ 川古の大楠2100㎝ 佐賀県武雄市
10 カツラ 権現山の大カツラ2000㎝山形県最上郡最上町
10 クスノキ 衣掛の森  2000㎝福岡県糟屋郡宇美町
10 クスノキ 武雄の大楠  2000㎝  佐賀県武雄市
10 クスノキ 藤崎台のクスノキ群2000㎝熊本県熊本市
10 ガジュマル 中間ガジュマル2000㎝鹿児島県熊毛郡屋久町

◎あれ~、屋久島の縄文杉はどうなってんの?
楠木の大木は福岡県が多いようですね!

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by jumgon | 2011-02-22 09:47 | ★散歩、自然観察
源氏三代の墓と壷井八幡宮

下の写真は「上ノ太子」という普通電車しか止まらない小さな駅の看板です。
スゴイでしょう。こんな田舎の(失礼!)小さな駅の近くに色々な歴史遺産が眠っているのです。
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前々回紹介した飛鳥戸神社や飛鳥千塚もこの駅を下車してまわりました。
「ふるさと歴史ウオーク」について行ったので、迷わずまわれたようですが、かなり歩いた覚えがあります。
壷井八幡宮の大楠
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この「歴史ウオーク」があったのは丁度大河ドラマ「炎立つ」を放送していた頃でした。
壷井八幡宮からは見晴らしがよく小高い丘の上に位置しているのが分かります。
壷井八幡宮の宮司さんはとても歴史好きのお話上手な方で、「炎立つ」関係のある壷井八幡宮の歴史をドラマの話を引きながら楽しくお話ししてくださいました。

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壷井八幡宮って何?という方のために羽曳野市のHPを見てみましょう。
http://www.city.habikino.osaka.jp/es/takam-s/04_6nen/genjisandaino-haka/yoritomo.htm
より

壷井八幡宮
羽曳野市壷井605番地2 


壷井八幡宮 と  源氏三代の墓
壷井八幡宮康平七年(1064)源頼義が、石清水八幡宮の神を祭った
ことが始まり。
義家が愛用したと伝わる「黒韋縅胴丸」「天光丸の太刀」がある。

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源氏三代の墓
通法寺跡河内源氏の祖源頼信が、子の頼義と共に氏寺として建立し、
頼義により浄土宗の寺として整備された。
しかし、南北朝の争乱と戦国の兵火とで消失、その後何度か
再建されたが、明治に廃寺となる。

   
壷井八幡宮             
●壷井」の地名の起源。
平安時代、前九年の役の時、源頼義の軍が飲料水に苦しんだ折、
弓の矢で崖をつき崩して得た冷泉により将士の意気があがったといわれている。
平定完了して凱旋する際、冷泉の水を壷に入れて持ち帰り、香城峯の南麓に
井戸を掘り、そこに冷泉の水を底に入れ苦戦の記念とした。

●前九年の役
平安後期、奥州の安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)親子が
起こした反乱。{永承六(1051)~康平五年(1062)の12年間}
源頼義(よりよし)・義家が平定。
後三年の役とともに源氏が東国に勢力を張る契機となった。

源氏三代の墓は、源頼信、子の頼義、孫の義家の墓である。
源頼信は、1020年河内国司に命じられ、羽曳野市壺井に住んだ。源頼義・義家親子は、東北の前九年の役、後三年の役で活躍した人達だ。
 今、頼義の墓は通法寺跡にひっそりと残っており、ほかの二人の墓は、頼義の墓よりもう少し山のほうに入った所にある。

●清和源氏
清和天皇―貞純親王―経基―満仲―頼信―頼義―義家 ―為義―義朝―頼朝・義経

◎それにしても、この系図。よく似た名前が続きますよね!
 本当にゴッチャニなって分かりにくい。

鎌倉幕府を開いた頼朝につながる清和源氏が羽曳野市壺井に住んだ所なのです。
源氏三代の墓の案内板
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●源 頼信968~1048
河内国石川地方に勢力を蓄え、河内源氏の祖。
●源 頼義988~1075
前九年の役
●源 義家1039~1106
京都の石清水八幡宮で元服したので八幡太郎といわれた。
前九年の役・後三年の役
源義家は頼義の長男、長暦3年(1039)~嘉承元年(1106)

 八幡太郎と号し
 前九年の役では父とともに安陪貞任を討ち、出羽守に任ぜられた
 後に陸奥守兼鎮守府将軍となり、後三年の役を平定

◎実は私、この歴史ウオークに参加するまでここが「河内源氏」発祥の地だであるとか源氏三代のお墓があることすらなんて知りませんでした!
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by jumgon | 2011-02-17 15:07 | ★歴史散歩、講演会
一須賀古墳群の被葬者は百済昆支王一族の奥津城か?

一須賀古墳群(傍に近つ飛鳥歴史資料館がある)について、次のような記述がある。

この古墳群は周囲の古墳と異なり、渡来系のものと考えられる副葬品が発見される。
特にミニチュア炊飯具と呼ばれるものが出てくることで知られる。
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現在ここからは20例近く発見されているが、これは、滋賀県湖西地方などごく限られた範囲でしか発見されていない。また、古墳の近くから発見される須恵器、須恵器窯は朝鮮半島から技術が入ってきたごく初期の頃のものであることが分かっている。

 何という氏族がこの群集墳を形成したかは、非常に興味がある。上記のように、ミニチュアの炊飯具が多数出土することから、百済系渡来氏族の奥津城だったとの推測がなされている。その推測を補強するような史実がある。
雄略天皇の時代、百済の王族の昆支王(こんきおう)とその一族郎党が渡来して住み着いた場所は、後に「飛鳥戸郡」と呼ばれる土地であったという。
大和朝廷が百済王族に対して無人の原野を与える訳はない。昆支王が来朝した頃には、飛鳥戸郡やその周辺には、半島からの渡来人がすでに多数住んでいたはずである。百済王族とその郎党にはその中の一等地が下賜されたにちがいない。


確か飛鳥には、飛鳥戸神社があった!【前回のブログで紹介】

羽曳野市のHPより
飛鳥戸神社の周辺は、「飛鳥千塚(あすかせんづか)」と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられています。
発掘調査で出土した副葬品(ふくそうひん)などから、当時の飛鳥戸氏の地位、文化の高さを知ることができます。また 大宝律令(たいほうりつりょう)が施行された後には、安宿郡(あすかべぐん)という地名が付けられており、飛鳥戸氏と深い地域であったことがわかります。

と書いてあります。

ここから先は私の想像だけど~
●一須賀古墳群には大小様々のお墓がある。
●大きな石棺もある。どうやってこんな急坂の山の中に運んだのだろう?
 しかも高砂の石だという。族長級のお墓だとしか考えられない。
 たいていは木棺に入れられ、オジイサン、お父さん、子ども、孫と同じ横穴にほうむられれている場合が多いと言う、解説員の話しです。)

◎兄弟ガ多い場合は分家して新しい横穴を掘ったのかな? 

●あと王族のと思われるのは豪華な副葬品、特に金銅製沓がある。復元模造品が近つ飛鳥歴史資料館にある。このレプリカの煌びやかさには目を瞠るものがある。同じような沓が藤の木古墳の副葬品にもある。
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そして、子孫の飛鳥戸氏は、居住地近くの飛鳥千塚のほうに群集墓を築いたのではないか?

わたしの想像が正しいかどうか、そのうち学者さんが研究して結論を出してくれることでしょう。


  
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by jumgon | 2011-02-09 15:29

飛鳥戸神社・飛鳥千塚

飛鳥戸神社(大阪府羽曳野市飛鳥1023)
百済系飛鳥戸造一族の祖神「昆岐王」を祀る神社

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Wikiを見てみよう
祭神現在は素盞嗚命が祭神となっている。これは、江戸時代に牛頭天王が祭神となっていたため、神仏分離の際に素盞嗚命に改めたものである。
当地は5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地であり、本来は飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたものと考えられている。『三国史記』百済本紀には昆伎王は熊津時代の始めに百済で没したとあり、昆伎自身は帰国したとしても、その子孫が日本に残留したものと考えられる。なお、付近にある新宮古墳群(横穴式石室)は飛鳥造氏族の墓域とされる。
『河内国式神私考』では「安宿王」、『河内国式内社目録稿本』では「百濟氏祖神 俗称少名彦命」、『神社要録』では「百済氏祖神 名詳ならず」と記している。

◎もともとは、飛鳥戸造の祖神として昆伎王が祀られていたようですね。
 時代とともに、祭神が変化したのですね。

歴史
創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。
国史の初見は『日本三代実録』貞観元年(859年)8月13日条、正四位下の神階を授けるという記述である。
延喜式神名帳では「河内国安宿郡 飛鳥戸神社」と記載され、名神大社に列している。江戸時代までは神宮寺として行基が開基した常林寺があり、聖武天皇の勅願所とされた。
明治初年に村社に列格したが、明治41年(1908年)に近隣の八幡神社(現 壺井八幡宮)に合祀された。昭和27年(1952年)に分祀され、旧社地の近くに再建された。

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雄略天皇(479年4月)、百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させ、東城王として即位させた。兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
という記録がある。
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この地域は丘陵地でブドウの栽培が盛んである。 ワインの会社もある。この神社のあるふきんはぶどう畑だらけだから、とうぜんか~。
ちなみに
仲村ワイン工房、㈱河内ワインなど数社あるようである。
写真は仲村ワイン工房の自社農場

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梅酒で有名な「チョーヤ」はこのあたりが発祥で今も本社はこの地域にある。
また、このあたりの人の名字は、金銅や真銅がおおい。「チョーヤ」の社長・㈱河内ワインの代表取締役専務の名字も金銅である。。
武士や貴族以外は名字がなくて、明治になって自分で自由に付けたらしいが、なんとなく金属関係の技術者の末裔の様な気がする。
 
◎この地図を南にずらしてください。聖徳太子陵・用明天皇陵などがあり、王陵の谷と呼ばれていますす。さらに南へ行くと、近つ飛鳥資料館のある、一須賀古墳群があります。
神社はフドウ畑の一角に鎮座、狭い社域であるが、鳥居は南300m程の場所にあり、かっての規模を思わせる。
25年くらい前に(ふるさと歴史散)で一度行ったきりだが、結構分かりにくい場所にある。
駅から、坂をのぼっていく。一人だとみつけられたかどうか~。

この丘陵地帯には、古墳時代の後期に小型の円墳が群集して築かれた。その数が多いことから「飛鳥千塚」と呼ばれている。ブドウ畑の奧の斜面には、新池西古墳群やオーコー古墳群、蛍の谷古墳群などの群集墳もある。

羽曳野市のHPより
神社の周辺は、「飛鳥千塚(あすかせんづか)」と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられています。
発掘調査で出土した副葬品(ふくそうひん)などから、当時の飛鳥戸氏の地位、文化の高さを知ることができます。また 大宝律令(たいほうりつりょう)が施行された後には、安宿郡(あすかべぐん)という地名が付けられており、飛鳥戸氏と深い地域であったことがわかります。


◎副葬品がどんなものだったか記されていないが、どんなものだったのだろう?

飛鳥千塚 
古墳時代の後期(6世紀)に造られたこのあたりの古墳は、「横穴式石室」と呼ばれる埋葬施設を持つ。
すなわち古墳の埋葬部分が、自然石を加工して積み上げた玄室(げんしつ)と呼ばれる死者を安置する大きな部屋と、その玄室への通路となる羨道(せんどう)で構成されている。

ところが7世紀になると、横穴式石室とは違ったタイプが出現する。「横口式石槨(よこぐちしきせっかく)」と呼ばれるもので、石室より狭い石槨に、横から木棺を納めるようになっている。
それが観音塚古墳である。

観音塚古墳かんのんづか:大阪府南河内郡太子町

鉢伏山から派生する尾根に築かれた直径12m、高さ3mの円墳です。埋葬施設は前室と羨道を有す切石造りの全長7mの横口式石槨で南に開口しています。
前室の奥に横口式石棺を取り付けた珍しい形式です。石槨内法は長さ1.93m・幅0.92m・高さ0.78mで床面の4周には溝が巡ります。
前室は長さ2.45m・幅1.44m・高さ1.66mで両壁とも切石で垂直に築かれており、天井部の前面には切石が斜めに渡してあります。
また前室入口には切り込みがあり扉の存在が予想されています。
石材の隙間には漆喰が塗られています。羨道部は長さ2.28m、幅1.44mで、西側壁の方が少し長く、幅はほぼ前室と同じ大きさです。
古墳の被葬者として飛鳥戸造一族の中で7世紀前半に死去した族長と考えられています。築造年代は7世紀前期。
(日本古墳大辞典:東京堂出版)

 古墳の案内板によれば、この古墳は新しい埋葬施設である横口式石槨を代表する古墳とされている。石槨(193×92cm、高さ78cm)は、付近で採れる安山岩を丁寧に加工して切石とし、これを精巧に組み合わせて造られている。さらに石槨の前には前室(245×144cm、高さ112cm)と羨道(長さ227cm)が付くという特異な埋葬構造になっている。案内板には、前室で死者と別れをする様子が描かれている。


横口式石槨とは
古墳時代の最後に登場した埋葬施設です。横穴式石室では羨道の奥に「部屋」があるのに対し横口式石槨では、お棺を納める「石槨」が取り付けてあります。おそらく前者が多葬を目的としたのに対し、後者は基本的に特定個人の単葬を目的とした物であったのでしょう。

この横口式石槨は7世紀後期、横穴式石室の小型化に合わせる様に出現し、主に近畿の支配者層の古墳に採用された埋葬施設です。
その構造は、石棺様施設の短辺側の一方に横口を設け、さらにその前に羨道などを取り付けたものになっています。九州や山陰地方の石棺式石室と共通の要素を持ちますが、石棺様の施設の中にさらに木棺や乾漆棺を納めるもので、内部には棺を納めるとほとんど余分な空間がなくなるものが多いところから、石棺式石室とは明らかに系譜を異なる物として区別されています。
 
こうした前室や羨道をもつ古いタイプの横口式石槨の分布中心が百済系渡来人の多い大阪府の河内南部、旧安宿郡内にあること、百済末期の古墳のなかに石槨様の玄室の前面に玄門を設け、羨道をつけた石室がみられることなどから、百済古墳の影響を受けて成立したものとの考えが有力です。しかし一方では高句麗古墳にも同様の形態を持つ古墳も確認されていますので、朝鮮半島の墓制の影響下で成立したにせよ、その起源については未だ明らかではないようです。

他に横口式石槨の例

手光波切不動堂古墳
福岡県・ 築造時期は7世紀中期。(続日本古墳大辞典:東京堂出版)
この古墳について「ひもろぎ逍遥」さんの詳しいレポートがあります。
http://lunabura.exblog.jp/14574444

牽牛子塚古墳
奈良県明日香村 築造年代は7世紀中期から後期。(日本古代史大辞典:大和書房)

越塚御門(こしつかごもん)古墳
  明日香村越で新たに見つかった越塚御門(こしつかごもん)古墳の構造は、6世紀末~7世紀末に造られた終末期古墳の形式の一つで「刳り貫(くりぬき)き式横口式石槨(せっかく)」と呼ばれるタイプ。
◎横口式石槨って、あっちこっちにあるのですね!
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by jumgon | 2011-02-07 15:34
万葉集
      春過ぎて 夏来たるらし
         白妙(しろたえ)の 衣干したり
           天(あめ)の香具山(かぐやま)         
                      持統天皇


◆意味: 春が過ぎて、夏が来たらしい。白妙(しろたえ)の衣が香久山(かぐやま)の方に見えます。

たいていの訳文には上記のように書いてあり、私はもうひとつはっきりイメージできなかった。

洗濯ものを干しているのが見えるなんて、よほど近くでないと見えないではないか。
せいぜい、100メートルくらい先までだ。
飛鳥の宮殿から遠望できるとなると余程大きなものでないと~。

香久山あたりを、散歩したときに見かけたものなのか、、、、。

ここには、「衣」とかいてあるだけだ。
これでは、丸洗いしたものを干しているようなイメージを持ってしまう。

◎前回{日本の技術・縫製と手入れ}を勉強してから、
「解き洗い」をしてから干している様子を表している、のではないかと思い付いた。

さてそれが、
「板張り」か「伸子張り」かなのだが私が抱くイメージからいえば、「伸子張り」だと思う。
初夏のさわやかな風にたなびいている、衣
いかにも、衣替えの季節の風物詩ではないだろうか?
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そこで板張りと「伸子張り」の歴史を調べてみた。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihyakuyondai

板張り
板張りは江戸時代末期以降に急速に広まった方法で、
着物や布団などを解いて洗った後に張板に張るものである。
伸子張りに比べて端縫いをしなくてもいいし、場所も取らず手間もかからないので、はるかに簡便なやり方である。
おそらく庶民に木綿の衣服が豊富になってきたという事情により、仕上がりよりも使い易さや簡便さが求められたのであろう。

張板(栃の木製の一枚板)に布海苔(ふのり:海藻でつくった糊(のり))を刷毛(はけ)でひきながら、布裏を板にはる。はりおえたら板を
たてかけて、自然乾燥させる。おもに木綿や化繊など、ぬれてもあまりちぢまない布に適している。

◎海藻から糊が作れるのだ!

伸子(しんし)張り
ときはなした布を、あらかじめ端縫(はぬい:裁断前の反物の形になるようぬいあわせること)してから洗濯をおこなう。
その後、布の両端をひっぱり、伸子(竹の細棒の両端に針のついたもの)を4~5cm間隔で布の両耳にうっていく。布裏全体に布海苔を刷毛でひいて、自然乾燥させる。

伸子張りは平安時代の資料ですでに確認できるもので、非常に古くからある方法である。それは着物を解いて洗い、縫合して反物の形にした後、柱や木の幹に引っ掛けた二本の棒を使ってこの反物を引っ張り、その両耳に竹串を等間隔で弓状に差し渡していくものである。この竹串を「伸子(しんし)」といい、反物を引っ張る時に使用する二本の棒を「絹張(きぬはり)」あるいは「桁(けた)」2)という。また絹張を柱等に引っ掛ける紐のことを「引手(ひきて)」という
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伸子張りの最古の資料は『年中行事絵巻』(図1)にある。時期は12世紀後半とされる。反物にして洗った着物を輪状に縫って絹張を入れ、庭にある二本の木の幹に紐で引っ掛けて張り、下女と思われる二人の女性が伸子を差し渡している様子が描かれている。反物を上下二段にして伸子張りを施しており、Aタイプである。もう一人の女性は鮮明ではないが、糊を刷毛塗りしているものと思われる。

さてここに出てくる、ふのりはどんな海藻なんだろう?

フノリ(布海苔)とは、紅藻類フノリ科フノリ属の海藻。「布海苔」と漢字で書くこともあるが、ひらがなやカタカナで表記されることのほうが多い。また、布苔、布糊、海羅と書かれることもある

2月から4月にかけてが採取期で、寒い時のものほど風味が良いといわれる。採取したフノリの多くは天日乾燥され市場に出回るが、少量は生のまま、または塩蔵品として出回ることもある。

乾燥フノリは数分間水に浸して戻し、刺身のつまや味噌汁の具、蕎麦のつなぎ(へぎそば)などに用いられる。お湯に長時間つけると溶けて粘性が出るので注意が必要である。
乾燥フノリ
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岩に自生するフノリ
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近年、フノリはダイエット食品として注目されている。また、フノリの粘性の元となる多糖質に抗がん作用があるとか血中コレステロールを下げる作用があるなどという見解を持つものもおり、フノリの成分を使った健康食品なども開発されている。

フノリは古くには食用よりも糊としての用途のほうが主であった。
フノリをよく煮て溶かすと、細胞壁を構成する多糖類がゾル化してドロドロの糊状になる。これは、漆喰の材料の一つとして用いられ、強い壁を作るのに役立てられていた。
ただし、フノリ液の接着力はあまり強くはない。このため、接着剤としての糊ではなく、織物の仕上げの糊付けに用いられる用途が多かった。「布糊」という名称はこれに由来するものと思われる。また、相撲力士の廻しの下につける下がりを糊付けするのに用いられたりもする。

その他、フノリの粘液は洗髪に用いられたり、化粧品の付着剤としての用途もある。また、和紙に絵具や雲母などの装飾をつける時に用いられることもある。
◎なるほど、日本人は海藻をとことん利用しているのですね。
 自分が海辺に住んでないものだから、海洋民族なんて言われてもピンとこなかった。

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by jumgon | 2011-02-01 15:34 | ★言語、歴史